Aパート1


 男が目覚めたとき、窓から差し込む光を見た。

 五十年近く前に建てられた古いビルの一室で、高くなった太陽から差し込む光が、寝ていた男の顔を打っていた。

 寝起きの鈍い感覚の中で、体の節々の痛みを感じながら首を右手にかけた腕時計を見る。

 短針は十時過ぎを指していた。


 男は、腕を伸ばしながら上半身を起こす。

 ベリベリと安物のソファーの合成革が音を立てる中、背筋を伸ばすように上半身を反らした後、汗ばむ手で自身の顔を揉んだ。

 しばらくの間、手と足をだらんと投げ出し、無言でじっと目をつぶったまま、だらりと寝床として使用していたソファーに座っていた。


 おぼつかない手を伸ばし、近くに投げ出してあったコートの上着を取る。

 コートの内ポケットを漁り、中からタバコの箱を取り出した。


「……ちっ」


 タバコの箱は空で、中身には何も入っていなかった。

 男は舌打ちしながら、空箱を再びコートのポケットの中に戻した。

 拾ったコートを再度投げるようにソファーの背もたれにかけ、男はソファーから立ち上がった。

 しわだらけで汗ばんでいた上着をその場で脱ぐと、そっと自身の腹を手で触った。


「……」


 しばらくの間、何かを確かめるように腹部を撫で回す。

 ちょうど右腹にあった微かな傷痕を丁寧になぞり、触れることで痛みを感じないことを確認すると、男は再び上着を着た。


 そのまま事務所を出て、共同の洗面所で顔を洗う。

 顔についたぬるい水を拭いながら、鏡を見る。

 鏡には疲れた表情の中年の男が映っていた。

 目元には隈ができており、顎には整えられていないヒゲが伸びている。

 服には皺が寄っており、姿勢も目つきもよくない。

 男が、ここ数年間ずっと鏡を見て覚えた感想以上のものはなかった。


 トイレを出て、再び事務所のドアの前に立つ。

 ドアの曇りガラスには、ところどころぼやけた字で「瓶価塔私立探偵事務所」と書かれていた。


「……っ」


 そしてその曇りガラスの向こう側で何かが動くものが見えた。

 男はすっと身構え、腰を低くしたまま、そっとドアを押した。

 微かに開いたドアの隙間から、自身の事務所の中を覗き込む。

 そして中を確認すると、ほうとため息を一つついて、ドアを開けた。


「おう、トメローちゃん! 勝手にくつろがせてもらってるぜい」


 中には、一人の男がいた。

 長身痩躯の中年の男で、ぼさぼさの髪をした身だしなみのない男だった。

 事務所のソファーにあぐらをかいて座り込み、応接用デスクにはビール缶とツマミが乱雑に置かれている。


 男……瓶価塔 留郎(びんかとう とめろう)はため息を付いて、事務所の中に入り、奥の事務机の椅子に座った。


「今日はなんのようだ、屋良」

「あん、何の用、って酷い言い草。

 まるで用がなけりゃ来ちゃいけないみたいじゃないのん。

 トメローちゃんと俺の仲っしょ? いいじゃん、なーんもなくても遊びに来てもさあ」


 ニヤニヤと笑いながら、ビール缶のタブを引いた。

 炭酸が抜ける音を聞きながら、瓶価塔は目を閉じた。

 実に美味そうにビールを飲み、意味もなくカラカラと笑う軽薄な印象を与えるこの男の名前は、屋良 直斗(やら なおと)

 瓶価塔の幼馴染であり、数少ない友人の一人でもある。

 自称『自由人』の住所不定無職で、しばしばこの瓶価塔私立探偵事務所にもやってきて、酒と食べ物をせびる。

 今、このとき飲んでいるビールも、ツマミのスルメも、どれも瓶価塔私立事務所の小型冷蔵庫に入っていたものだった。


「それにさあ、トメローちゃんさあ。

 ちょっと前に怪我したんでしょ? そんなら、見舞いしないとさー。親友的にはさー」


 屋良は、傍若無人な万年素寒貧で、言葉遣いも幼さを感じる中年男ではあるが、それでもある種の長所はあった。

 トラブルや事件といったことに異様に鼻が効くことだった。

 何か事件が起きたときには、どこから聞きつけたのかいつの間にか現れる。

 事件そのものに積極的に関わろうとはしないが、それでも近寄ってきて、あれやこれやと騒ぎ立てる。

 私立探偵というトラブルに巻き込まれやすい立場の瓶価塔にとっては、顔を合わせることがしばしばある。


「大したことはなかった」

「そーお? JK天国のお店のミナちゃんが言うには、お腹からドバドバ血を出してたって聞いたけど」


 瓶価塔はその答えに右腹をパンパンと叩いた。

 服を着ているので、傷は見えはしないが、それでも屋良は理解して、ぐいとビールの缶を傾けた。

 屋良は缶の中身を一気に飲み干すと、破顔して喜んだ。

 さして高くもない……どころか安価な値段で知られている銘柄のビールというのに、屋良は実に美味そうに飲む。

 どんなものでも大抵はうまく感じる貧乏舌ではあるものの、飲める酒、食べれる物であればなんでも美味そうに飲食するため、愛嬌の一つとして見られている。


「ま、無事ならいっか。それはそれとして、ビジネスの話しよっか」


 応接机の上にあるツマミのゲソを引っ張りだし、口に咥えながら言った。


「満福教団(まんぷくきょうだん)の調査の仕事はもう終わった」

「えっ? マジで?」

「そうだ。とんだ取り越し苦労だったな。ご苦労さん」

「そんなー」


 悲しむふりをしながら、ゲソを一つ二つと口に放り込む。

 屋良はトラブルに対する嗅覚の鋭さから、非常に顔が広い。

 フザけた態度と、物怖じせずに他人に何かと奢らせようとする性格であるものの、いろいろな方面に顔が効いた。

 私立探偵を営む瓶価塔とは、その点で非常に顔を合わせる機会があった。


「ま、いっか。

 俺としてはささっとお仕事終わらせて、トメローちゃんから依頼料の2%もらうだけだし」

「俺は依頼していないし、仕事はもう終わったって言っているだろ」


 瓶価塔は数日前に個人の仕事として、新興宗教の調査の依頼を受けていた。

 宗派の名前は『満福教団』

 つい昨日まで、その教団の調査をしていたが、それも昨夜の出来事ですべてご破産になっていた。


「いいじゃんいいじゃん。

 俺っち、トメローちゃんの数少ない友達だろう?

 だからさ、お互い助けると思ってさあ」


 なおも語り続けようとする瓶価塔は一瞬渋い顔を見せたが、椅子にもたれかかって目をつぶった。

 実際のところ、本当に瓶価等の数少ない友達の一人で、なおかつ屋良の情報網は協力だった。

 追い出すこともできたが、その選択肢を捨て、言わせることにした。


「つい半年前から、まるで彗星の如く現れた新興宗教団体『満福教団』

 『腹が満ち、至福の境地に経てば、徳が積まれ、極楽浄土にいける』っていうのを婉曲的に表現したのが教義だ。

 全く、お気楽なこって……。

 教祖もまあ、ぶくぶく太ってて、まるで北斗の拳のハート様か、あるいはサムライスピリッツのアースクエイクか」


 その後も、屋良は滔々と語り続けた。

 教団の人数、教義、本拠地など、基本的にパンフレットに書かれた内容をそらで語り続けていた。


「せめて俺の知らないことをしゃべってくれ」

「へえへえ……そんじゃ興味ありそうな話からで。

 満福教団はケツ持ちがいない」

「ヤクザは絡んでないってことか、珍しいな」

「そ。

 かといって、海外マフィアとの関わり合いもない。

 でっきーとケンちゃん情報だから、まず間違いない」

「ふむ……」


 瓶価塔と屋良の共通の知人二人を思い浮かべる。

 片やこの街をシマとするヤクザの構成員と、治安を守る警察関係者からの情報であれば、よほどのことがなければハズレはないだろう、と瓶価塔は考えた。


「あ、そうだ。

 でっきーとケンちゃんがお前に会いたがってたぞ。

 どうよ、たまには一緒に……」

「悪いが遠慮しておく。お互い立場ってもんがあるだろう。

 自由人のお前と違ってな」

「たはーっ、こいつは一本取られたな」


 屋良は、ぱーん、と膝を叩いた。

 ケラケラと愉快そうな笑い声を上げ、二本目のビールの缶を開ける。

 そのままぐいと喉を鳴らすと、大きくゲップをした。


「解せないのは、ケツ持ちがいないってーのに、やたら柄の悪い連中が多いってことだな。

 スジモンじゃないのはわかっているが、それでもまっとうなタイプの人間じゃない連中が取り巻いてる。

 かといって教祖を崇めている信者でもなく、教団関係者でもない」

「……」

「おっと、トメローちゃんは知ってる?」

「信者の取り巻きだよ。信者が雇っているボディガード連中だ」

「そうそう。更に解せないのはそれだよ。

 信者にはボディガードを個人で雇える連中だけしかいない。

 つまり、貧乏人がいない。誰も彼もが金持ちばっかりだ」


 屋良はそのまま信者の名前をそらで読み上げた。

 名前を上げるにあたって、一本ずつ指を上げ、数が両手の指の数を超えるまで続いた。


「ゼニゲバの新興宗教もピンキリあるが、信者の割合があまりにも偏り過ぎてる。

 裏があることが見え見えなんだが……その裏が見えねーんだよなあ」


 屋良は瓶価塔にちらと目を向けた。

 特に瓶価塔は反応せず、屋良はつまらなそうに無精髭をなで上げた。


「どこぞの宗教から分派したわけでもなく、ケツ持ちもいない。

 どこをどうやってそんな上物の顧客を集めたのかさっぱりわからない。

 活動内容としては、食事会みたいなことしかやらないのに、その上物の顧客はたんまり金を落としてる。

 ヤクでも混ぜて食わせてるのかね?」

「……いくらバカでも、そんなわかりやすいことしないだろう」

「だよなー。そんなことしようとしたら一発でお縄だ。

 そうでなくとも、ヤクを大量に買った時点で足がついて終わり。

 だからますますもって解せない」


 瓶価塔は一つ、はあ、とため息を吐いた。

 いつもフザけた態度で茶化す屋良の語気が少し強くなったのを感じた。

 屋良のトラブルに異様に鼻が効く上、そこにちょっかいをかけたがる性格を思い出し、これ以上関わりさせたくない、という気持ちが湧いた。


「もういいだろう。これ以上、情報をもらっても金は出せない。

 俺の仕事は終わったんだ」

「そうかね?」

「満福教団の集会を覗いてきたが、糞くだらない説法のような戯言を効いて、楽しくお食事をしてただけだ。

 金持ち連中がこぞって参加してるのは、単なる権威付けだろう」

「……」


 屋良は途中で瓶価塔の目を見続けた。


「そうかい」

「そうだ」

「……そういえば、数日前、柿道食品の社長の一人娘が亡くなったそうだな」

「……」

「メガネかけたいかにもCEO! って感じのおっさんが、葬式でおうおう泣いてるシーンがテレビで映ってたな」

「……」

「亡くなった子は獣に襲われて、腹を獣に食いちぎられたんだってな。

 街のど真ん中にいて、一体、どんな獣に噛みつかれたんだって話だよな。

 まだ中学生なんて若い美空で……マルちゃんを思い出すよなあ、おい」

「もういい」


 屋良は黙りこんだ。

 瓶価塔も言葉を発することをしなかった。


 瓶価塔にはかつて妹がいた。

 瓶価塔がまだ成人する前に事故で死亡してから、瓶価塔とその幼馴染の連中にとって彼女のことは口にだすことが憚られる話題だった。

 屋良は、自らの言葉が瓶価塔のトラウマを刺激したことを自覚していたが、態度は変えず、素知らぬ表情でツマミを口に咥えた。

 部屋には時計の秒針が動く音と、屋良ががさごそとツマミを漁る音だけが響いていた。


「話変えよっか」

「……」

「いや、やっぱ変えない」

「おい」

「まあまあ待ってよ。

 これだけはトメローちゃんに伝えとかないとまずいな、って思うことだからさ」

「……」


 屋良は軽い口調で言いつつも、姿勢を正した。

 ソファーに座りながら、顔をしっかりと瓶価塔に向けた。


「なんか、変なやつがここいら界隈でうろついてるんだよ」

「変なやつ?」

「そうそう。黒いマントに黒い帽子、黒い制服を着た変なやつ」


 瓶価塔の頭脳に、その人物の姿がよぎった。

 数日前、なんだかよくわからない黒い獣に襲われ、腹を食いちぎられ、路地裏で倒れたときにあった少女だった。

 あの後、気づいたら腹の傷は小さくなっており、痛みもなくなってそのまま帰宅した。

 夢なのか、現なのか、それすらも今となっては瓶価塔には判断しかねた。

 ひょっとしたら、黒い獣に襲われる前から、白昼夢を見ているのではないか、と半ば思いかけていたが、現実はそう簡単に思惑通りにはなってくれそうにはなかった。


「なんでそんなことを話すんだ?」

「……いやね。その変なやつはどうやら満福教団のことを探ってるみたいなんだよ。

 教団の関連施設付近を、あれやこれやとうろちょろしている、って色んな人が噂しているわけ」

「同業者じゃないか。

 胡散臭い教団だ、俺のように調査を依頼するようなやつもいるさ」

「どうなんだろうねー? 色々言われてるからね、"そいつら"は」


 そいつら、という言葉に瓶価塔は反応した。


「今回の事件だけじゃなく、昔っからいろんなところで、変な事件が起きると、その周囲に現れる連中だって聞くね。

 黒いマントに、黒い帽子、黒い制服を着たやつ。

 いつも一人で行動しているが、その格好しているやつは男だったり、女だったり、老人だったり、青年だったり。

 名前なのかなんなのか知らんけど、決まって自分のことを『秋津號』って名乗るんだと」

「あきつごう、ねえ」

「そう。「ごう」は旧字体の号の方ね。

 秋津さん家の號ちゃんって意味なのか、なんかのペンネームなのか。

 よくわかってないらしいけどね」


 瓶価塔は静かに目をつぶって、数日前に出会った謎の少女について思いを馳せた。

 時代錯誤の何者でもない服装で、走馬燈を持ち歩くという、一種の非現実的さも感じさせる人が複数人いる。

 その話を聞いて、一体何者なのか、と考えた。

 しかし、謎の集団についての情報はあまりにも少なく、あれやこれやと思い浮かぶ推測もどれもこれも確証はないことだった。

 結局のところ、何もわからずじまいに終わるのだろうと、むしろ何も知らない方が却ってよいのだろうと、結論付けたそのときだった。


「……今、なんか音した?」


 屋良がいぶかしげな表情で瓶価塔を見た。

 酒を飲み、若干顔が赤らんでいる様子であるが、その目は真剣そのものだった。

 そして、瓶価塔の耳にも、その音は届いていた。


 リーンと弱く鳴り響くような、高い金属音が確かに聞こえていた。

 その音は、少しの間隔を開け、再び、二度、三度と静かに辺りに響いていた。


「……」


 屋良と瓶価塔は事務所のドアを見た。

 音の出処はそのドアの向こう側からだった。


 「瓶価塔私立探偵事務所」と書かれた曇りガラスの向こう側に、誰かの人影が透けて見えていた。

 普段はおちゃらけて滅多なことで動揺しない屋良も、ドアに視線が釘付けになっていた。


 ドアのノブが回され、開いていく。

 その動きが、瓶価塔にはなぜか緩慢に感じられた。


 開いたドアの向こう側に立っていたのは、先日の少女だった。

 暗い裏路地で、意識も朦朧としている状態でしか姿や顔を見ただけだったが、それでも彼女は先日に出会った少女であると確信のようなものすらあった。


 日の光が差込、電灯がついた場所では、先日よりも少女のディテールが遥かによく見えた。

 足には長い革の靴、踝ほどの高さまでの丈の黒いズボンを履き、太ももまで覆うような長さのマントを羽織っていた。

 頭には軍帽をかぶっており、それらすべて黒一色で揃えられていた。

 かつて日本帝国陸軍の軍服を思い起こさせるその服装は、どこかこの世のものとは思えない感想を瓶価塔に抱かせた。


「失礼」


 静かな水面に波紋が立つような声で、少女は言った。

 そのまま一歩、二歩と前に進み、事務所の中へと進む。

 革靴が床を叩くたびに、コツコツと小気味良い音を出していた。


 少女の視線をまっすぐと瓶価塔を捉えていた。

 瓶価塔は、その場で硬直したまま、しばらくの間、全く動けなかった。

 全身から冷たい汗が吹き出していた。


 少女は白い顔の朱色の唇を動かして、静かに言った。


「仕事を依頼したい」

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