怪奇探偵秋津號

kyun

秋津號VS満福教団

アバン


 湿った空気の流れる汚れた繁華街の路地裏で、一人男が壁に寄りかかっていた。

 染み付いた生ゴミの据えた臭いの中に、じわりと血の臭いが広がっていく。

 男は自身の破れた腹部からの出血を止める努力をやめ、そのまま懐に手を差し入れた。

 懐から取り出したのはタバコの箱で、中にはゴミしか入っていないとわかると、そのまま力なく投げ捨てた。

 壁に寄りかかったまま、ずるずると体を下ろし、その場に座り込んだ。

 男は霞んでいく視界の中、今にも気絶しそうなほどの激痛を和らげるために、取り留めのないことをぼんやりと考え始めた。


 繁華街の汚い路地裏が自身の死に場所になることを考えたとき、ふっと苦笑いがこぼれた。

 たった一人の妹を亡くし、自棄になったころ、こんな風に死ぬのだろう、と考えていたことを思い出したからだ。

 幸いなことに、知人、友人に恵まれて、人として最低なところから、人の秘密をこそこそと嗅ぎ回る、人として二番目に最低なところに上がった。

 だが、最低だった頃の想像していた通りの死に場所にたどり着いてしまった皮肉に、却って面白さすらも感じてしまった。


 心残りがないわけではない。

 長年の悩みの種であった借金取りから逃げられることは痛快なことだが、それでは引き換えにならないこともまた残っている。

 霞んだ頭の中で、ぼんやりと眼鏡をかけたやつれた壮年の男性の顔が思い浮かんだ。

 新聞に度々写真が乗る実業家のその男は、新聞に自信満々に語る写真よりも遥かに焦燥していた。

 このやつれた男に託された依頼を完遂することができなかったことが、ただ一つの心残りだった。


 その他には肉親もない、恋人もなく、友人も数少ない。

 その少ない友人らも、自分を含めた4人、いつどこで死んでもおかしくないと互いに思っているような関係だった。

 ただ、そのはじめに死ぬのが自分だとは、まさか思ってはいなかったと、また笑った。


 腹部から漏れる血はもはやあたり一面に広がり、下半身の感覚も、上半身の感覚もなくなっていった。


 痛みすら感じづらくなり、思考の流れもぽつりぽつりと抜け始めたころ、男はかすかに音を聞いた。

 高く、共振する金属音は路地裏の更に奥から聞こえた。

 路地裏の入り口からは風俗店の扇情的なネオンの明かりが溢れるように差し込んでいるが、その明かりすらも届かない更に奥。

 いよいよもって今際の際になった男は、ほとんど肉体の反射行動として、その音のなる方へと向いた。


 当然のこと、その奥は暗闇に包まれており、何も見えなかった。

 そして、その路地裏の奥は壁しかないことを知っていた。

 男が寄りかかっている地点から五メートルもないところで、ドアも窓もない壁があるだけ。

 単なる袋小路に向かうだけの道の暗闇は、なぜか男には底のない穴に見えた。

 じっと闇を見つめていたが、もはやただ暗いだけなのか、それとももう何も見えていないだけなのか、判別がつかなくなっていた頃だった。


 黒い紙にじわりと白い染みが浮いたかのように、なにかがあった。

 その染みのような何かはゆらりゆらりと左右に揺れながら、段々と焦点が合うように輪郭が明確になっていく。


 再び、リーン、と高い金属音が鳴り響いた。

 今度は先程よりもより近く、より大きな音が男の耳に届いた。

 気づけば、見上げたところに明かりがあった。

 それは、先程気付いた染みのような何かであり、薄い紙のようなもので覆われ、それでいてその紙はくるくると回っていた。

 これが走馬灯というやつか、と男は考えた。

 死の間際に、今まで生きていた記憶が走馬灯のように頭によぎっていくと聞くが、本物の走馬灯を拝むことになった、とまとまらない意識の中で考えた。


 宙に浮かぶ走馬灯が、そっと倒れている男に近づいた。

 路地裏に差し込むネオンの明かりが、闇の中に隠れていたものを暴いた。


 それは黒い服を着た少女だった。


 学生服か、あるいは古い軍服か。

 闇に溶けるような黒い制服を着て、右手には走馬灯を載せている。

 手と顔だけが黒い服から抜け出ており、闇の中ではまるでそれだけしか存在しないもののように見えた。


 怜悧な印象を与える鋭い目鼻は、全くの無表情で男に近づいた。

 血まみれになって今にも息絶えようとしている男を見下ろし、ぱらりと絹のような髪が流れる。

 右手の上で走馬灯が止まった。

 そのまま走馬灯はその場で固定され、右手をおろしても空中に固定されたまま、動かない。


 細い華奢な少女の右手が、そっと男の懐に入り込む。

 上着の内ポケットにあったものが、一瞬のうちに引き抜かれた。

 それは表面には奇妙な文字が書かれている一枚の木の板だった。

 少女が左手で表面をなぞると、文字の塗料が一瞬だけ赤い光を放った。

 それを一瞥すると、木の板を自身の黒いズボンのポケットに差し込んだ。

 その場からすっと立ち上がる少女の目に、男のコートの内ポケットに入っている一枚の紙が見えた。


 少女は再び屈み、そっと手を伸ばした。


「……」


 もう既に冷たくなっていた男の手が、少女の手首を掴んだ。

 初めて少女はその無表情な顔にかすかな驚きを色を見せた。

 不意に掴まれた手首を引き抜こうと力を込めるが、手首を握るその手の握力は死に瀕した人間のそれとは思えないほど強かった。


「それは違う」


 男は口が微かに動き、その一言だけを言った。

 そしてそのまま糸が切れたかのように、男の手は少女の手首を離し、そのままだらりとその場に崩れ落ちた。

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