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 その老婆は、一人だった。

 年齢よりも老いて見える身体は、一日のほとんどを古いベッドに沈めていた。

 名前はレイニーという。最後にそう呼ばれた日の事は、もう思い出せない。


 彼女はその人生で多くの恋をして、そしてちょうど同じ数だけ孤独になった。男たちの視線を奪った美しさは、長い時間がきれいさっぱり攫っていってしまった。

 彼女が最後に愛した男は、ぼんやりとした記憶の中で優しく、そして無表情だった。



 棚の上でうつぶせになっている写真立ての中には、二人の男女が笑っていた。

 写真は色あせていたが、そこに写る女は少しも老いていなかった。

 額の裏には男が残した手紙が挟んであって、結局彼女はそれを読むことができなかった。愛の無い手紙を読める程、彼女の心は強くできていなかったのだ。


 四角い世界では時間は止まったままで、そのことが彼女を悲しい気持ちにさせた。



 彼女の暮らしは、軒を伝う雨の雫が地面を打つように単調だった。彼女は明日を考えることができないでいた。そうなったのは、狭い部屋か、この街か、過去の自分のせいだと思っていた。

 日記を書くことは、彼女の生活の中で唯一、何かを生み出している瞬間だった。その日の天気や体調、昔の思い出や今の感情など、ペンは淀みなく紙の上を走ったが、日を追うごとにページの余白は大きくなった。

 この日記に記す事がなくなった時、自分は本当の意味でこの世から必要とされなくなるのだと、彼女は思っていた。



 毎日家の前を通る猫がいた。美しい黒猫だ。遠い昔にも、彼女はその黒猫に出会ったことがあるような気がしていた。

 気分が良い日には、残飯を与え、猫は嬉しそうにそれを食べた。家に荷物を届ける男と、内容のある会話をすることを辞めてからというもの、その猫だけが、部屋の外の世界を届けてくれる存在だった。



 彼女はその猫に名前を付けようと思った。長い時間をかけて多くの案を紙に並べ、理由もなくひとつひとつを消していった。



 最後には自分自身の名前と、愛した男の名前が残った。




 結局、彼女は名前をつけることができなかった。自分はもうあの猫のように、迷いなく街を歩むことはできないし、男はいつも去っていってしまうから。

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