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その猫は、美しかった。
黒く整った毛並みも、大きく澄んだ目も、ピンと尖った耳も、その他の野良猫とは比べ物にならない程に。
街に住む人のほとんどは、この猫を可愛がり、そして名前を付けた。
猫には、これまでに出会った人の数だけの名前があった。人はその猫を見かける度に名前を呼び、のどの下を撫で、去っていった。
猫は言葉を知らない。でも自分に投げかけられる音の違いを理解することはできた。人々が口にする音が、自分を指すものだと気づくまでには長い時間がかかった。
猫は自分の呼び方なんてどうでも良いと思っていた。そんなことよりも、すれ違う人が自らの身体を撫で、微笑み、今日という日が終わる事の方がずっと大切なことだと知っていたから。
ある日、一人の少女が猫の元にやってきた。その少女は猫にとって、自分の名前以外の音を話してくれる数少ない存在だった。
「聞いて。今日はすごく悲しいことがあったの。」
猫は言葉を知らない。でもその少女がいつもよりも暗い目をしていることは分かった。少女はゆっくりと、頭の中で行ったり来たりを繰り返しながら、猫に語りかけた。それはまるで父親に相談する子供のように。その間猫は、通りを行き交う人や、道を転がる枯葉を数えていた。
この街に猫の知らない道はない。実際に足を動かさなくとも、この街の全ての通りに思いを馳せることができる。
猫にとっては、四方を山で囲まれたこの街が、世界の全てだった。この街にある悲しみと喜びだけが、この世界の全てだった。
「じゃあね、サニー。話を聞いてくれてありがとう。」
猫は言葉を知らない。でもその少女が話を始める前よりも、少しだけ明るい顔をしていることは分かった。
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