36 コーダ

 半年後、一時的に夏目を会長代理とした飛廉会は、全ての手続きを滞りなく済ませ、正式に解散を表明した。

 約70名いた構成員の半数は鏑木組という代紋への忠義から組に留まったが、廉司の死を理由にヤクザの世界から足を洗う者もいた。しかし、彼らを咎める声は少なかった。

 廉司の傍で長年彼を支え続けてきた夏目には、組長の司郎から直系組長の座が用意された。彼に対する労いと、廉司への忠誠心の強さゆえに司郎の下に名を置くことを躊躇している若衆に配慮したのである。


 しかし、夏目は頑なに拒否した。

 鏑木組の幹部、元飛廉会構成員など、廉司と夏目の事を知っている全ての者が彼を説得したが、彼が考えを変えることはなく。

 飛廉会解散から一週間後、司郎のもとへ夏目の小指が届けられたことで、事態は暗黙の裡に終息を迎えた。







「何見てるの?」


 静かな波が打ち寄せるひっそりとした港町。

 大きな窓枠に腰掛け、穏やかに光る海を見つめながら紫煙を吐き出す。

 まだ半分しか楽しんでいない煙草をマンションの外壁に擦り付けて下に落とす。

 口の中に残っている僅かな苦味も残さぬように唾を吐いてから、声の主を振り返る。

 店にいた頃に比べれば、ずいぶんと控えめな化粧をした美咲が立っていた。

 美しく微笑みながら、ふくよかな胸よりも大きく膨らんだ腹を撫でている。もうすぐ十ヶ月だ。


「触りたい?」


 優しい声に促されて、彼女の腹に手を伸ばす。

 決して誰も傷つけることのない丸み。布越しに伝わる温もり。


 ゆっくり撫でていると、ふと中から押し返すような動きが伝わってきた。

 あ、と明るい声を上げそうになったが、美咲の腹に触れている自身の小指が欠けていることに気づき、手を引いた。

 再び海に向けられた彼の目に、また悲しみが滲んでいくのを美咲は静かに見ていた。

 彼の首に腕を回し、その黒髪に何度も口付けた。


「恭介」

「……」

「愛してるわ」


 同じ方向に髪をかき上げながら、その根元に唇を押し付ける。染み付いた潮の匂いの奥から共有しているシャンプーの香りがする。

 港に停泊した漁船が波に揺られて上下する。

 それを黙って見つめていた夏目が、躊躇いがちに口を開いた。


「なぁ、美咲」

「なあに?」


 髪を撫でる手はそのままに美咲は問い返す。

 水面に反射する秋の陽のように柔らかい彼女の声に、夏目は背を押された。


「知らない方が良かった愛……って、あると思うか?」


 まるで独り言を呟くように視線は外の海へ向けられている。

 だが、彼が心の底からこの疑問に対する答えを欲していることを美咲は知っていた。

 あの町に残された後も、この海へやってきてからも、夏目はたった一人で抱え込んできた。


 その苦しみに気づいていながら、美咲は声を掛けずにいた。

 彼の隣で、ただひたすらに、この時を待っていた。

 間を置くことなく、彼の耳元に唇を寄せる。


「そんなもの無いわ」


 優しく、ゆっくりと断言する彼女の言葉に夏目の視線が微かに揺れた。


「たった一時でも、たった一瞬でも。誰かの事を大切にしたい、幸せにしたいって思えたのなら。それは愛を知らないことよりもずっと幸せな事よ」


 小指の欠けた夏目の手が、首に回された美咲の腕を掴む。彼女の肌を覆うワンピースの袖に鼻を埋め、大きく深呼吸する。

 夏目の呼気が震えているのを布越しに感じながら、美咲は頭を撫で続ける。


「大丈夫よ」


 彼女の目が窓の外の高い空を見上げる。

 大小二つの雲が同じ方向へゆっくり流れていく。

 どこまでも広がる青い空を、どこまでも寄り添うように。


「出会えて良かったわ」






 時は流れ、季節は移ろい、また冬がやってくる。

 肌を刺す風の中に、しんと鳴り響く空気の中に、残された者は彼らの面影を見る。

 ほんの一瞬、脳裏に過ぎった見つめ合う二つの横顔を追いかけようと試み、それが叶わぬことを知って足を止める。


 そうしてまた、それぞれの毎日を歩き始める。

 あの冬。二人が生きたあの日々を、部屋の片隅に置きながら。





 了

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