35 彼女の答え
管理人に偽の名刺を渡して遠い親戚だと名乗り、スペアキーを借りた。
玄関で靴を脱ぎ、水回りが続く短い廊下を抜けてロープカーテンをくぐる。
この部屋を訪れるのは二度目だ。
あの時はここまで入ってこなかったから、どんな部屋で生活しているのか分からなかった。
小さな六帖ほどのワンルーム。
胸の高さを越えない、白を基調とした家具が整然と並んでいる。
カラーボックスの中に整列した本の背表紙を眺める。
本にあまり親しみの無い者でも知っている作者名や、聞いたことも無い外国人著者。タイトルだけで彼女がどんな趣味だったのか知るのは難しい。
シンプルなデスクライトと丸い卓上時計の置かれたデスクの天板を指で撫でる。
天板の下についている小さな引き出しを見つめながら、端から端までゆっくりと何度も指を往復させる。
水彩絵具を滲ませたような、ぼやけた水玉がプリントされたカーテンの向こうから子供の声が聞こえる。
バイバイ。バイバイ。
角を曲がったはずの友達が、また言葉を返してきたのが面白いのか明るい声で笑い合う。
しつこいほど繰り返される遊びが止んだ頃、引き出しの取っ手に手を掛けた。
鍵は掛かっていない。思ったよりずっと簡単に全てを曝け出してくれる。
小さなステンレスのペンケースに大学ノート。その下に問題集。
パラパラと捲ってみる。どうやら仕事に関するものらしい。
夜中、デスクライトの下で黙々と勉強する彼女の姿を想像し、微笑ましくなる。自分が抱いていたイメージ通りの真面目な女性だったのだろう。
時折、間違えた解答の上に大きく赤でバツをつけ、同じ色で「もう一回!」と書き込んである。その文字にすら、愛しさが込み上げてくる。
しばらく、彼女がつけたインクの染みを目で辿っていた。
知ることのなかった私生活に思いを巡らせながら問題集を閉じた。元通りにしておこうと引き出しの中へ戻した時、底から小さな反動を感じた。
「?」
掌を底板に当てて、左右に動かしてみる。
カタカタと両端が交互に浮き沈みする。二重底になっていることに気づいた。
人差し指の爪を上底に引っかけてみる。自分の指では太すぎるのか上手くいかない。
机上に置いたペンケースの中からシャープペンを取り出し、ペン先を角に入れてみる。引き出しを開けるまで持っていた自制心などどこかへ吹き飛んでいた。
角度を色々変えながらペン先を突っ込む。
軽く舌打ちした時、カタンと音を立てて上底が大きく傾いた。
薄い化粧板をそっと取り出す。
下からブックバンドで閉じられたA5サイズの小さなアルバムが出てきた。
ほんの一瞬迷ってから、ブックバンドを外して表紙を開いた。
透明なフィルムの中にいろいろな表情の空が広がっていた。
暁、黄昏、宵の空。
四角い街並みが写るものもあれば、空の一部分だけが切り取られたものもある。
忙しい彼女の数少ない楽しみの一つだったのかもしれない。
感慨に耽りながらフィルムページをめくっていた時、背表紙のチリから一枚の写真が床に落ちた。
「……!」
慌てて手を伸ばす。
フローリングに伏せた写真の角を折らないように注意しながら拾い上げる。
プリントされた表面を見て、思考が停止した。
見覚えのある風景。記憶にある夕焼け。
それだけではない。
空の表情しかなかったアルバムの中に一人だけ人物が写っていたからだ。
オレンジ色に染まる街を見下ろす、ダークグレーのチェスターコートを羽織った広い背中。
いつもよりラフにセットした黒髪が風になびいて。
遠くの山を見つめる整った横顔。
自分でさえ見たことが無いような穏やかな瞳。
偶然写り込んだとは考えられない。
彼を中心に狙って、彼女はシャッターを切ったのだ。間違いない。
真実を前に、夏目は絶句した。
夕陽が角度を変え、小さな部屋に赤い光が差し込む。
呆然と立ち尽くす彼の背後で玄関のドアが開いた。
「……お前は」
無言のまま振り返ると、一人の男がロープカーテンを手で上げながらこちらを見つめている。
どこかで見たかもしれない。どこだっただろう。
ぼんやりと霧がかった頭の中から記憶を引き出そうとするが上手くいかない。
思い出すことを諦めた時、くたびれた空気を纏う男が口を開いた。
「お前、鏑木の……そうだな?」
「あぁ」
「そうか。やっぱりな。あの時、現場にいたよな。覚えてる」
男は静かに夏目の脇を通り抜け、水玉のカーテンの隙間からベランダに続く窓を開けた。ひんやりとした風が夏目の前髪を揺らす。
寮の前を一台のトラックが通り過ぎていく。
エンジン音がいつまでもクリアに聞こえる。春の訪れはまだ遠い。
男はトラックの曲がった交差点を眺め続けていた。
「アイツ、死んだそうだな」
「……アンタ、誰だった?」
「渓の後を追ったのか?」
男の口から彼女の名前が出てきた事で、少しだけ霞がかっていた視界がはっきりした。
「この部屋も、さっさと片付けろと上から言われてたが……今まで置いといて良かったかもな。アイツ、独りじゃなかったわけだ」
安堵したような息をついて、男が振り返る。
夕陽が逆光になってよく見えないが、その顔は微笑んでいるようにも泣いているようにも見えた。
男は静かにジャケットの懐から白い封筒を取り出した。
「花は送れないが」
差し出されたそれを空いていた手で受け取る。
「まだ間に合うなら、鏑木の棺桶に入れてやれ」
よくよく見覚えのある、女性らしい丁寧な文字で書かれた「辞表」の二文字が薄暗い影の中に浮かんだ。
「立てこもりの二日ほど前だったと思う。アメリカへの転勤を刑事部長から勧められてしばらくしてからだ。規則を破ったことなど一度も無かった渓が、寮に朝帰りした」
夏目の脳裏にある光景がよみがえる。
柔らかな朝の陽射し。穏やかな廉司の寝息。愛おしむような彼女の眼差し。
「クソがつくほど真面目な渓の事だ。何か事情があったんだろうと思った。だが、規則は規則。俺にも上司として言わなきゃならない立場がある」
「……たった一回門限を破ったくらいで?」
「俺もそう思った。『こんなことぐらいで』と。でも違った。アイツはもうとっくに決めてたんだ。アイツも……女だった」
必死で築き上げたキャリアも、輝かしい未来も、無理して繕ってきた体裁も。
全て捨てて。
「若、を……?」
冷たい風にかき消されそうな呟きに男は頷いた。
言葉を失った夏目を置いて、男は部屋を後にする。
ふと、廊下へ進む足を止めた。
「二週間経った今でも考える」
男の節くれだった指がロープカーテンを揺らす。
「アイツの為に俺がしてやれたことは何だったんだろうって」
男が立ち去った部屋の中はもうすぐ闇に飲み込まれる。
手の中で重ねた写真と封筒にぽたりと水滴が落ちた。
いけない、と思った。
これは大事なものだ。汚さず持ち帰らなければ。
この「想い」を、一かけらも零さず彼に届けなければ。
そう分かっているのに、込み上げてくるものを止めることが出来ない。
抑えようと飲み込んだ息と、吐きだそうと漏れ出す嗚咽がぶつかり合って呼吸が出来ない。
「な、んで……」
腹と頭が鉛を埋め込んだように重くなり、過呼吸のようになった体が痙攣する。
立っていることも儘ならず、とうとうその場に膝をついた。
自由の利かない体で、それでもこれだけは守ろうと、写真と封筒を胸の中に抱え込んだ。
廉司があれほどまで強く求め続けた、一花の「答え」がここにある。
「なんで、もっと、早く……っ」
蹲って泣き崩れる夏目の体に、冷たい闇が染み渡る。
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