14 好きだから

「どうしてですか」


 リモコンで遮光カーテンを閉め、部屋の四隅に置いたフロアライトを灯す。ベッドの置いてある西側の壁だけがワインレッドに塗られた廉司の寝室。主人の帰りを見越してセットされた暖房は設定温度が少し高い気がした。


 着ていたダブルコートを脱がせ、キングサイズのベッドに座らせる。

 自身のチェスターコートも一緒にシェーズロングの背もたれに掛け、一花の隣に腰を下ろした。太腿が密着する。

 廉司の骨ばった長い指が一花の顎を掬い、また唇が重なる。まだ慣れないのか、一花は唇を離されてから不器用に酸素を取り込み、先程の疑問を途切れ途切れに口にした。


「『どうして』って?」

「だって……だって私みたいな女」

「なんだそれ」

 廉司は軽く笑い飛ばした。しかし一花の口調は真剣だ。


「廉司さんなら他にももっと、いくらでも、いいひとがいるんじゃ――」

「あぁ、『イイおんな』ならいるぜ」

「……だったら」

「でも、もうそいつらを相手にすることはない。お前と出会っちまったからな。どんなに『イイ女』を見ても、気づけばお前と比べてる。『コイツの代わりに一花がいればな』なんて思うんだ。もう、どうしようもねえよ。初めて……本気で好きになったからな」

「『好き』?」

「あぁ」

「で、でも。私の事よく知らないのに」

「よく知らなかったら好きになっちゃいけないのか」

「え……」

「確かに会って話したのは今日が4度目だ。メールも毎日してたわけじゃねぇ。でも俺はずっとお前の事を考えてた。コンビニで会ったあの日から、ずっとだ。十分過ぎると思わないか?」


 はっきり言い切る廉司に一花は、返す言葉が見つけられずにまた下を向いてしまった。

 廉司は、枝毛一本無い一花の艶やかな前髪を指先で弄っている。


「一花」

「……」

「他に好きな男でもいるのか?」


 腕の中の一花が大きくかぶりを振る。

 良かった、人殺しにならずに済んで。そう言うと、一花は鼻を啜りながら笑みの混じった息を零した。

 しかし、またすぐに表情を曇らせる。

 そっと搔き分けた前髪の間から覗く丸い額に音を立てて口づけた。


「怖いのか、俺が」

「違います。そうじゃなくて……」


 眉根を寄せながら口籠る一花の頭を撫でる。

 自分が拒絶されているのではないと知り安心したが、彼女の暗い顔は見過ごせない。

 展開を急ぎ過ぎていることは薄々わかっている。しかし引き返す気はない。

 だからこそ一花の胸にある不安はすべて取り除いておきたい。

 

 他に恋人がいるわけではない。自分を恐れているわけでもない。だとすれば?


「初めてなのか?」


 廉司の問いかけに、一花の表情が豹変した。

 しかし、未知に対する緊張や恥じらいとは違う。不安と表現してもまだ弱い。

 これは――恐怖だ。

 廉司は一花の体を今一度強く抱きしめながら、その耳に静かに問いかけた。


「何か、嫌な記憶があるんだな?」


 腕の中の一花がピクリと跳ねる。

 その反応に、廉司の頭にどす黒い靄が漂い始める。理性を保ち、冷静にそれを振り払う。覚悟はできていた。


「一花。お前の事は何でも知りたいんだ」


 小さな頭を撫で、丸まった背中を優しく擦る。


「お前の小さな体に溜まってるものは全部俺が受け止める。どんな内容でも俺はお前から目を背けたりしない。お前を好きな気持ちは変わらない。絶対に」


 だから話してくれないか。


 決してボリュームは大きくないのに、鼓膜を伝って胸いっぱいに響く声。その声に後押しされて、一花の両目からずっとこらえていた想いが溢れ出す。


 廉司の肩に顔を埋め、彼の胸にしがみつきながら、一花はぽつりぽつりと語り始めた。




§




「私の両親は、私が七歳の時に父のリストラをきっかけに離婚したんです」


 彼女を引き取った母親はシングルマザーとなり、昼はスーパーでレジを打ち、夜は男に体を売って必死で生計を立てていた。

 細々と母娘二人で生きていた。

 娘は母が居てくれれば幸せだった。

 スーパーの総菜しか並ばない夕食を一人で食べる夜が続いても。

 その日起きたことを母に話すチャンスがないまま毎日が過ぎていっても。


 しかし、母は違った。

 昼夜を問わず働き続ける日々は確実に彼女の肉体を、精神を蝕んでいく。

 そんな疲れ果てた母の前に一人の男が現れた。


「初めて母が家に連れてきた時は、優しそうな人だなって思ったんです」


 頻繁に母子の家を訪れるようになった男は、次第に母親が居ない時も姿を見せるようになり、二日が経ち、一週間が経ち、やがて当たり前のように家に居ついた。

 その頃から、男は本性を見せ始める。

 仕事もせず、母が稼いだ金で酒を飲み、機嫌が悪くなると母に暴力を振るう。

 母と同じ背丈まで成長した一花が止めに入ると、彼女にも手を上げた。

 一花は母に何度も訴えた。

 あんな人とはもう別れて。ここから出ていくように言って。


「でも母は口から血を流しながら言うんです。『本当はいい人なの』って」


 ちょうどその頃、一花は中学に上がった。

 学校が決めた制服を与えられた一花は必然的にスカートを穿いていることが多くなった。

 男の一花を見る目が変わり始めた。


「殴られたり、蹴られたりしている方がずっとマシでした」


 母の留守中にそれは繰り返された。男にとって理由はなんでもよかった。

 酒が切れている。物音を立てた。返事が遅い。目つきが気に入らない。

 一花にとっては全く非の無いきっかけで、彼女は何度も地獄に突き落とされた。

 どれだけ泣き叫んでも。何度許しを乞うても。


「嫌がる私を、アイツは、何度も」


 男からの暴行に耐えかねた一花は、本当の理由を母に告げぬまま県外の高校に入学願書を出し、中学卒業と共に逃げるようにして家を出た。




§




 やっとの思いですべてを語り終えると、一花は声も出さずに涙を流した。

 小刻みに震える体が呼吸を忘れているような気がして、廉司は背中を撫で続けた。腹の底から暴れ出そうになる憎悪を必死で抑えながら。


「なぁ、一花」

「……」

「そのクソ野郎は、今でもお前の母親と一緒なのか?」

「……いえ、お酒を飲んだまま車を運転して、対向車線にはみ出して」

「そうか」

「母も……その助手席に」

「……お前は、母親の事をどう思う?」

「?」

「気の毒に思うか。それとも自業自得だと思うか?」


 酷な質問かもしれない。

 しかし、ただ吐き出させたのでは傷口を広げただけに過ぎない。

 一花が自分の言葉で過去に名前を付けなければ、次には進めないのだから。


「……わかりません。両方のような気もするし、どちらでもない気も……ただ」

「ただ?」

「……母のことは大好きでした」

「そうか」


 なら、その気持ちだけは絶対に忘れないようにしろ。

 そう言われて、一花は素直に頷いた。



 二人きりの寝室にやがて静寂が訪れた。

 一花の啜り泣きが落ち着いた頃、廉司が思わぬ言葉を口にした。


「一花。お前、そこそこ腕っぷしに自信があるんだろ?どうだ、今、俺の腕から逃げ出すなんて他愛もないだろう」

「? た、多分」

「『多分』か」


 否定しない一花に、廉司は喉の奥で笑った。


「じゃあやってみろ」

「え?」

「俺から逃げてみろって言ってるんだ」


 ほら、と撫でていた背中を軽く叩いて発破をかける。

 廉司の意図が読めない一花は少し混乱した頭で言われるがまま、その腕から逃げ出そうと試みた。が。


「?」


 廉司の両手が一花をしっかり押さえ込んで離さない。


「どうした。本気になれ。抵抗してみろよ」


 そんな言葉とは裏腹に、廉司は一花を逃そうとしない。

 自分は何を試されているのだろう。

 そんな疑問で一花の頭の中がいっぱいになった頃には、既に自身の体はベッドの上に転がされマウントを取られていた。


「れ、廉司さん?」

「ポカンとしやがって。俺の言葉の意味が分からねぇのか」


 しょうがねぇなと溜息をつきながら、着ていたセーターとシャツを脱ぎ捨てた廉司に一花は目を丸くした。


 まるでモデルのように鍛え上げられた体に、黒と朱の二色だけで仕上げられた龍と桜の刺青が背中から腕まで施されている。

 あまりの美しさに一花は思わず見惚れた。

 その隙を逃さず、廉司は上から口付ける。一花が熱の籠った息を吐いた。


「お前に選ばせてやるって言ってるんだ」

 眼前にある廉司の瞳が妖しく光る。


「これからすることが本当に嫌なら、少しでもそのクソ野郎が頭に過ぎるのなら抵抗しろ。ただし本気で。俺を殺す気で、だ。出来るだろ」


 今のお前になら。

 暗にそう言われて、一花は段々廉司の意図が見えてきた。


「そしたら本気で押さえ込んでやる。悲鳴も出させなくする。お前が味わった以上のひどいやり方で、あの頃なんか忘れるぐらい傷つけて、罪の無い被害者にしてやる」


 それでこの関係は終わるのだ。

 刹那、一花の胸に細い棘の刺すような不思議な痛みが走った。


「だが、俺を殺せないなら。殺す気がないなら――じっとして俺に預けろ。俺を信じて全部委ねるんだ。そうすれば教えてやる。お前がこれまで一度も体験したことがないものを」


 男に愛される悦びを。


 廉司の囁きに、一花は体の中に経験したことがない妙な熱が渦巻くのを感じた。

 香水と混ざる廉司の温かな香り。耳に吹き込まれる低い声が、背骨を伝って一花の腰を撫でる。自然と滲み出てきた唾液を飲み込むと、口付けたときに侵入した廉司の唾液が混ざって、喉の奥に煙草の苦みが広がった。


「残念だが、俺も腕っぷしにはかなり自信がある」


 一花の耳たぶを柔らかく噛み、唇が細い首筋を伝う。小さな体がぞくりと震える。


「何もせずに帰してやる気は、欠片もない」


 ネックレスの上から彼女の首にしゃぶりつく。いやらしい濡れた音が一花の鼓膜を振るわせる。何も考えられない。


 隙間なく吸い尽くされた首元が真っ赤になった頃、一花の体からはすっかり力が抜け、抵抗の二文字はどこにも見当たらなかった。

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