13 廉司のスイッチ

 背後からシャッター音がして思わず振り返る。

 水色のスマホを構えた一花が、ばつが悪そうな顔をしている。


「ご、ごめんなさい。私、こんなに綺麗な夕焼け見たの久しぶりで……」

「何謝ってんだ。好きなだけ撮れよ。連れてきた甲斐があるってもんだ」


 フッと一笑し、廉司は前を向き直った。

 彼の歩いた後をなぞるように、一花は草の生い茂るなだらかな斜面を下った。頭の高さを通り過ぎていく車からは見えない位置に、ちょうど二人座れるぐらいの四角い岩が転がっている。

 先に腰掛けた廉司の眼下にオレンジ色に染まる街が広がっていた。





 約束の水曜日。

 一花がメールで指定してきた場所に黒いアルファードが停車した。


「十分前は早過ぎましたかね?」

「遅れるよりよっぽどマシだ」


 運転席の夏目と言葉を交わす廉司も普段のようなスーツ姿ではない。

 革のブーツに黒のデニム。白のVネックニットにダークグレーのチェスターコート。髪をいつもよりラフにセットしても厳つさは消せなかったが、彼なりの配慮だった。


 ヤクザである自分に後ろ暗さがあるわけではないが、一花に肩身の狭い思いはさせたくない。


 また、それ以上に今日という日を楽しみたい自分がいる。

 はっきりと、どちらかがそう呼んだわけではない。けれど、これは所謂「デート」だろう。

 自分の力できっかけを作れなかったのは心底悔しいが、せっかく与えられたチャンスだ。何にも邪魔されたくない。


「いつもと車が違うから分からないのかも……ちょっと見てきます」


 そう言って、カジュアルなフード付きのモッズコートを掴み、夏目が車を後にした。

 

 一人きりになった車内がしんとする。

 廉司は何だか落ち着かず、長い足を組み替えて外の景色に目を遣った。

 快速電車の停まらない小さな駅前広場。平日の昼過ぎだからと思っていたが、意外にも人通りが多い。無意識に全身を黒くコーディネートした通行人を目で追う。


 ごめんなさい。今日は行けなくなりました。

 そんなメールが来ていたらどうしようかと、迂闊にスマホを触ることも出来ずじっとしていると、突然後部座席のドアが開いた。


「こんにちは」


 軽く息を乱しながら乗り込んできた彼女の姿に廉司は言葉を失った。


 少し踵の高い茶色のショートブーツに、紺のスキニージーンズ。

 綺麗なデコルテを際立たせる淡い水色のニット。

 襟にボリュームのあるファーが付いたレトロなベージュのダブルコート。


「先にいらっしゃってました」

「すみませんっ。私、前見た車を探して駅の反対側まで行ってしまって……」


 夏目が微笑みながらドアを閉め、車内が一瞬だけ二人きりになる。

 必死で釈明する一花の顔に薄く化粧が施されていることに気づき、思わずその滑らかな頬に手を伸ばす。


「ホントに、お前には負ける」

「? え?」

「綺麗だ。……すごく」


 廉司に真顔で見つめられ、一花は耳まで真っ赤に染めた。



 夏目を駐車場に待機させて大きなショッピングモールに入った二人は沢山の言葉を交わした。とはいえ、実際のところは廉司が一花を質問責めにしていた。


「ここはよく来るのか?」

「なんでそんなに猫に詳しい?」

「読書が好きだと言ってたな。どんな本を読むんだ?」


 一花の口からスラスラと答えが返ってくる事もあれば、


「休みが少ないんだな。忙しいのか?」

「何の仕事をしてるんだ?危ない仕事じゃないだろうな」


 こういった質問には一花は少し困ったような顔をして曖昧な返事だけで口籠ってしまった。


 だが、廉司が気まずく感じることは一時もなかった。彼の頭の中は、一花の事なら何でも知りたいという思いでいっぱいだったからだ。

 答えにくい質問をしてしまったなら話題を変えればいい。それだけのことだ。聞きたいことは枯れることなく湧いてくるのだから。


 廉司はこういったショッピングセンターという場所に来たことが無かったが、数えきれないほどの店が立ち並び、無数の人が行き交う中で、一花が自分の隣を歩き、自分の話や質問に耳を傾けているという事がこの上なく嬉しかった。

 彼女が自分以外の何かに注意を奪われていたら、その正体が気になって仕方がない。

 だから一花の歩く速度が、女性向けのアクセサリーショップの前で遅くなったのも廉司は見逃さなかった。憧れのような視線の先にあるものを素知らぬ顔をして脳に叩き込んだ。


 二人の目的地であるペットショップは廉司が想像していた以上に広かった。ペット用品ばかりが陳列された店内をゆっくり時間をかけて見て回る。

 当然けりぐるみ一つで終わるはずもなく、一花が「これがあると便利」「こんなのがあると、とらちゃんが喜ぶかも」と目を輝かせる商品を、廉司は片っ端から買い物かごへ放り込んだ。


 ペットショップでの買い物を済ませ、大量の荷物を夏目に取りに来させた後も二人はモールの中を散歩した。

 比較的客の少ないカフェでコーヒーを飲み、大きな書店があるようだから寄ってみたいと言う一花に付き合った。


 途中、母親を追いかけて泣きじゃくる子供が一花にぶつかりそうになった。

 咄嗟に廉司が一花の手を引き、衝突を回避した。


「あ、ありがとうございます」

「おぉ」


 子供はもう行ってしまったのに、廉司は一花の手を離そうとしない。

 どうするだろうと、一花の揺れる旋毛を黙って観察していたが、暫く経っても振り解かれる気配はない。

 廉司はそれをいいことに彼女の指に自分の指をしっかり絡め直して、何も無かったような顔で歩き続けた。





 一花が廉司の隣にそっと腰掛ける。

 冷たい風の中に一花のシャンプーの香りが混ざって廉司の鼻に届く。煙草を我慢してよかった。


「良い所ですね」

「寒くなきゃもっといい所なんだけどな。春には桜も見れるんだぜ。あの辺りの木なんかそうだ」

「そうなんですか……楽しみですね」


 そう呟きながら街を低い位置から照らす四時の太陽に目を細める。

 自分の何気ない言動が、どれほど廉司の心を掻き乱しているか一花は知らない。

 このタイミングを逃す男は馬鹿だ。

 廉司はコートの懐に手を突っ込んだ。


「?」


 夕日色に染まる山の端を眺めていた一花の目の前に、己の指に絡めた細い鎖をぶら下げて見せる。

 彼女は不思議そうに瞬きを繰り返していたが、ようやくその正体に気づき目を丸くした。


「なんだ。やっと思い出したのか」

「え……どうして」

「どうでもいいだろ。オラ、後ろ向け」


 彼女が化粧室に並んでいた間に大急ぎで買ってきたことは言わない。

 混乱する一花に無理矢理背を向けさせ、細い首にネックレスを着けた。

 一花は黙ったまま首を垂れ、ダイヤの埋め込まれたリングのチャームを指で撫でている。その項で光るチェーンよりも金色に輝く産毛の方がずっと美しく見えた。


「素敵……」


 溜息を漏らすようにそう呟いた一花がどんな顔をしているのか見たかった。

 そっと肩に手を添えてこちらへ振り向かせる。

 一花は飽きもせず小さな輪っかをなぞっていた。

 喜びに蕩けるような瞳が廉司を見上げる。もう限界だった。


「廉司さん、ありが――」


 礼を言おうとした一花に、何の前置きもなく口づけた。

 一花の目が大きく見開く。

 しばらくして、そっと離す。一花は口を結び、固まっている。


「!」


 小さな後頭部と肩を押さえて逃げ場を無くし、もう一度唇を奪う。この行為が何なのか分からせるために今度はもっと深いキスをした。

 目の前にある瞼にギュッと力がこもる。

 肩を竦める一花の手は拳を握りしめていたが、それが廉司に向かって飛んでくることはなかった。


 たっぷり彼女の唾液の甘さを味わった後、ゆっくり時間をかけて解放する。

 廉司の腕の中で恐る恐る息継ぎをした一花は、顔を赤く染め、恥ずかしそうに彼の視線から目を逸らした。

 だが、もう遅い。


「行くぞ」


 廉司は一花の腕を掴んで強引に立たせると、黙ったまま斜面を上った。

 少し離れた場所に停まっていたアルファードに彼女を押し込む。

 運転席に座っていた夏目がスマホの画面を閉じた。


「おかえりなさい。では、駅までお送りしますね」

「いや、いい」

「?」


 否定の意味が分からず後部座席を振り返った夏目は、廉司の手が一花の手をしっかりと捕まえているのに気づき、全てを察した。


「このまま屋敷に戻れ」


 そう指示する廉司の隣で、一花は黙ったまま俯いていた。

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