第3章 貴方が初めて
9 奇跡、再び
それから暫くの間、やけに忙しい日が続いた。
一年の終わりが近づくにつれて、様々な集まりが増えるのはヤクザの社会も一緒だ。
廉司は飛廉会の会長であり、鏑木組の次期組長でもある。必然的に顔を出さなければならない場が多くなる。
年末にもなると治めている縄張りで発生するトラブルの数も増えてくる。下の者だけで処理できる件には関与しないが、場数を踏んでいないと判断を見誤るケースもある。自然と廉司に相談を持ち掛けてくる人間が列をなす。
白スーツの男に関する調査もそれなりに進んでいた。
だが、未だ決定的となる証拠は押さえられていない。
朴の無事を案じながら、廉司は慎重に動くタイミングを計っていた。
問題など無いように装いながら、必ず自分達に利益が生まれるよう頭を働かせ続ける日々。
普段なら平然としている廉司にも流石に疲れが溜まりつつあった。
時折吹く風が肌を刺し始めた寒い朝。
廉司を乗せたベンツは屋敷へ帰るべく、オフィス街の大通りを北上していた。
ぼんやりと流れる景色を映していた廉司の目に真っ黒な影が飛び込んできたのは突然だった。
「、停めろ!」
急に背後から大声を出され、吃驚した夏目がベンツを急停車させる。
何事かと問う彼を中に残して車を降りる。
後続車がクラクションを鳴らすのも無視して通りを横切り、元来た道を逆戻りした。
ちょうど通勤時間に当たるオフィス街はサラリーマンで溢れている。職場へ向かう人の波に逆らうように廉司は進む。
冬の装いに衣替えした人々は誰も彼もがモノトーンのアウターで身を包んでいたが、廉司には確信があった。
(見間違うわけない)
コートの首に引っ掛けた長いカシミアのストールをはためかせながらスピードを上げる。いつまでも絶えることなく向かってくる人の流れと、吹き付けるビル風に眉を顰めた時、一本の標識の横に先程の影を捉えた。
駐停車禁止。そう表示されている路肩に黒いバイクが停まっている。カワサキのニンジャだ。
自然と鼓動が早くなり、思わずそのボディーに手を伸ばす。温かい。まだ近くにいるはずだ。
キョロキョロと辺りを見回す。
気持ちばかりが焦り、後ろへ撫でつけていた髪を掻き毟ろうとしたその瞬間、人混みの向こう、並んで建つオフィスビルの間に細い通り道を見つけた。
ニンジャの傍を離れ、再び人の流れを搔き分けていく。
数人と肩がぶつかったが気にも留めず、吸い寄せられるようにその道に入った。
そこは道というより隙間と呼ぶに相応しかった。
左右にそびえるビルからエアコンの室外機が飛び出ている狭い空間。暗がりの中、聞こえるのはフル稼働するモーター音と自身の乱れた呼吸だけだ。
抱いていたはずの確信が不安の色を帯び始め、足を止める。
そんなはずはないのに。
所々苔の生えたコンクリートの地面に苦し気な息を落とした時、一際大きな機械の向こうで黒い影がゆらりと動いた。
「一花……?」
条件反射のように廉司の口から出たその名前に、影がピクリと肩を揺らして振り返った。暗がりの中で光る潤いを帯びた二つの瞳。闇に溶け込むような漆黒の髪。
あぁ、また会えた。
「一花」
乱れた呼吸に気づかれぬよう、吐く息と同時に呼びかける。
一花はしゃがんでいた場所から、やはり音を立てずにゆっくりと立ち上がった。
「鏑木……廉司、さん?」
「フルネームかよ」
覚えていてくれたことに舞い上がって、間抜けな呼ばれ方に調子を崩される。
思わず笑ってしまいそうになったが、一花の様子が少し妙なことに気がついた。
「どうした?こんな所で何してる」
「あ、あの」
初めて会った日、廉司から質問責めにされていた一花にはあった余裕が感じられない。言葉を詰まらせ、胸の前で手を擦り合わせる。
その指に血が付着しているのを見つけ、廉司の腹の底が冷えた。
「なんだ、それ」
「え……」
「お前、またケガしてんのかっ」
急に血相を変えて近づいてきた廉司に一花は戸惑う。
「どこでやったんだ。誰かにやられたのか?」
「ちが、違うんです。私じゃなくて」
何が違うんだと怒ったような目をしながら小さな体をあちこち触る。一花は狼狽えながらも、廉司の手を拒絶しなかった。
しかし、廉司の方はそんな彼女の様子に気づけないほど取り乱していた。
「チッ、こう暗いとよく見えねぇ。とりあえず車に――」
「! ダメ!」
腕をつかみ、彼女をこの空間から連れ出そうとした廉司に一花が声を上げる。
初めて耳にする張った声に廉司は目を丸くした。
その時、一花の傍らにある室外機の影から低く呻く声がして、視線を落とした。
モーター音を響かせて小さく振動する白い箱の横、陽の射さない湿気たコンクリートの地面に毛の塊が落ちて――いや、横たわっている。
浅い呼吸に合わせて上下する毛玉についた二つの目が薄っすらと開き、鈍い光を返した。
「猫?」
「……」
「それ、コイツの血なのか?」
しゃがみ込んだ廉司が顔を近づけても逃げようとしない。逃げられないのか。
後ろで立ち尽くす一花が、悲しそうな表情で猫から目を逸らした。
ちょうどその時、廉司を捜していた夏目が二人を見つけてビルの隙間に入ってきた。彼らの足下にいる傷ついた猫に、夏目も一瞬言葉を詰まらせた。
「事故、でしょうか?」
「一花、ここで見つけたのか?」
小さくかぶりを振る。
「ここまで連れてきたんだな?」
今度は二度頷いた。
夏目がふぅっと息を吐く。どうしたものかと言わんばかりの溜息に、一花の表情が更に曇っていく。
おそらく、車道で倒れているのをバイクで通りがかった折に見つけたのだろう。まだ息があるのを確認して、安全な所まで運んだまでは良かったが、その後どうすればいいのか分からず困っていたのだ。
低く息を漏らしながら廉司が立ち上がると、一花は縋るような目を彼に向けた。
こんな顔を想い人に向けられて、どうしてそのまま立ち去ることが出来るのだ。
「助けたいのか」
「……はい。でも」
「?」
「病院に連れて行ってあげられないんです。私、仕事を休めなくて。それに」
「それに?」
「もし、もし病院で良くなっても、この子が野良猫だったら。引き取ってくれる人が見つからなかったら……っ。私、飼ってあげられないんです。そしたら、この子」
続きが言えず、一花は瞬きと共に一粒大きな涙を零した。
小さな体を抱きしめたい衝動を押し殺さねばならない辛さから、廉司は首に掛けていたストールを乱暴に引き抜いた。
「夏目、近くの獣医」
「今、探します」
スマホを取り出した夏目の横で一花は、ストールで何かをし始めた廉司の背中を戸惑いながら見つめている。
「ありました。一橋動物クリニック。ここから車で15分です」
「よし」
振り返った廉司が、ストールで巻いた猫を抱いているのを見て一花は慌てた。
「ま、待って」
「夏目、車どこだ?」
「この先のパーキングに――」
「待って下さい!」
後ろからコートを引っ張られ、大通りへ向かう足を止めた。
一花の涙混じりの訴えを背中で聞く。
「ダメです。だって……」
「……」
「そ、その子、もし良くなっても、きっと……」
きっと不幸な運命を辿るに違いない。
そんな台詞を彼女に言わせるのが嫌で、廉司の言葉が少し乱暴になった。
「俺が面倒みる。それで文句ねぇだろ」
捨てるように言葉を吐いて、立ち去ってしまった廉司の後姿を一花は呆然と見つめていた。
そんな彼女に、眼鏡を押し上げた夏目が優しく声を掛けた。
「一花さんは、メール使う人ですか?」
「え……?」
意外な夏目の問いかけに、一花は涙の光る睫毛をぱちくりさせた。
「あの猫の事が気になるようなら逐一ご連絡させていただきます。それなら安心でしょう?」
もちろん写真付きで送りますから。
目を細めて持っていたスマホを振って見せる夏目に、我に返った一花は慌てて背負っていたボディーバッグからスマホを取り出した。動物のシルエットがプリントされた淡い水色のケースだ。
「あ、あの。私用の携帯は仕事中見れないんですけど、でも必ず返しますから――」
「お仕事が大変なんですね。じゃあアドレス言いますね……」
夏目が伝える英数字を間違えぬよう復唱しながら登録する。
一花の目に、今度は薄っすらと温かい涙が滲んだ。
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