8 美青年の決意

 日に日に気温が下がってきたある夜。廉司の屋敷に一人の人間がやってきた。

暖房の効いた応接間に通されたその人物は、奥のソファに腰掛ける黒いジャージ姿の廉司に深々と頭を下げた。

 細い金糸のような髪が垂れる。


「遅い時間に呼び出したりして悪かったな、朴。まぁ座れ」


 少しばかり酒の入った廉司の声は柔らかかったが、まともに彼と向き合うのは初めてだ。朴は緊張しているのか、どこかぎくしゃくした足取りで下手の席に腰を下ろした。

 こんなに距離があっては、線の細い朴の声など聞き取れないかもしれない。

 もう少し近くに座れと言いたかったが、正面の壁を見つめたまま動かない朴の頬がやたら白い事に気づき、廉司は失笑しながら自ら朴の向かいへ移動した。


「お前も何か飲むか?」

「いえ。自分は」

「なんだ、酒はダメなのか?じゃあジュースでも」

「はい。いただきます」


 機械のような返事に思わず吹き出しそうになるのを堪えて、朴の後ろに立つ夏目を見遣る。夏目は眼鏡のブリッジを指で押し上げながら応接間から退室した。


 二人きりになった応接間に沈黙が流れる。

 朴は、自分の真正面に廉司がいるのに決して目を合わせようとはせず、一枚板でできた大きなテーブルの中心辺りを凝視している。

 ピクリとも動かない人形のような顔を、廉司は半ば楽しそうに眺めていた。


 しばらくすると夏目がオレンジジュースの入ったグラスを手に戻ってきた。

 朴は彼にも深々と頭を下げて、そのグラスを受け取る。

 夏目が朴の隣に腰を下ろしたところで、廉司が話を切り出した。


「お前も辛かっただろうに、動いてもらって悪かったな」

「いえ。とんでもありません」

「いろいろ調べてくれたんだろ?夏目から聞いてる。俺にも詳しく教えてくれるか?」

「はい。でも」

「?」

「でも、あの……一体どこからお話すれば……?」


 急に困ったように顔を歪めた朴とようやく目が合った。

 本当に優しい、女のような顔をしている。どうしてヤクザの道など選んだのだろう。

 炎が刺繍されたスカジャンの肩に夏目が手を置いた。


「大丈夫だ。俺も一緒に話す。まずは北川と戸部がやられた日の事からだ」

「あ、はい。えっと……」


 夏目に支えられてもなお、視線はあちこちへ動いて定まらない。


(一花の方が強いかもな)


 無意識に彼女の記憶を引き出して胸を詰まらせる自傷行為を叱咤し、朴のたどたどしい報告に集中した。




§




 飛廉会の数ある縄張りの一つに、年齢層の低い十代から二十代の若者が屯する深更通しんこうどおりエリアがある。

 その中でもとりわけ集客の多い店が、クラブ「MUNDUSムンドゥス」だ。


 北川と戸部が倒れていた路地から店の裏口を通り中に入る。

 人一人がやっと通れるぐらいの細い階段を降り、カビ臭いバックヤードを抜けると広いフロアに出た。

 天井に無数の照明器具が取り付けられ、店の北にあたる白い壁にはDJブースと巨大なスクリーンが設置されている。

 営業時間中は酒に酔った若者達でごった返す店の床を、店長の佐々川ささがわが一人でモップ掛けしていた。他にスタッフが居ないのは、朴が彼に夏目の来店を告げていたからだろう。

 佐々川は夏目を見るなり、モップを背後に放り出してその場に土下座した。


「本当に申し訳ありませんでしたっ!」

「……なんでお前が謝る?」

「俺が、いえ、私がちゃんと確認していれば!初めからアイツらの出入りを禁止していればあんな事には……っ」

「佐々川」

「はいっ!?」


 佐々川が伏せていた顔を上げると、しゃがみ込んだ夏目の眼鏡のフレームが彼の間近で光った。


「何言ってんのか、サッパリわかんねぇよ」


 一緒に来た朴は夏目の背後で無表情のまま佐々川を見下ろしている。


「ちゃんと一から話せ」


 地を這うような夏目の声に、佐々川はもう一度冷たいフロアに正座し直した。





 事の発端は半年ほど前に遡る。

 強めのアルコールと派手な音楽を提供するだけだった店で妙な動きをする客が、ちらほら目に付くようになった。

 比較的シフトに入ることの多いスタッフから最近客の顔ぶれが変わってきたという報告を受けていた佐々川は、明らかに本来の来店目的とは違う別のモノを求めて来ているらしい客を観察してみた。


 わかったのは三つ。

 一つ目は、彼らが店に滞在する時間が極端に短い事。

 二つ目は、彼らが同じ動線を辿ってメインフロアを抜け、店内奥の身障者用トイレに姿を消すこと。

 そして三つ目は、彼らが皆、やけに虚ろな目をしていること。


 胸騒ぎがした佐々川は、その中の一人が入っていった身障者用トイレの前で耳を澄ませた。しかし、店内の音楽と喧騒、床を揺らすウーハーのせいで何も聞き取れない。

どうにかならないかとドアの前で四苦八苦していた時、突然中からさっきの客が出てきた。佐々川に気づき、逃げるように立ち去る客と肩がぶつかる。佐々川もあまりにも急なことに声を掛けることも出来ずにいた。


 しかし、それ以上に彼が驚いたのは客が去ったトイレの中の様子だった。

同じ黒のTシャツを身につけ、同じ指にタトゥーを施した男が三人、タイル張りの床にしゃがみこんでいる。その足元に十枚は超える一万円札と白い粉を密封した小さな袋が散らばっていたのだ。

 佐々川に見つかった三人は、一瞬ぎょっとしたように見えたが、すぐに薄ら笑いを浮かべてドアを背に立つ彼の元に近づいてきた。


 最悪の予感が的中し、頭が真っ白になった佐々川は必死で彼らを問い詰めた。

 自分の店で何という事をしているのか。いったい誰の指示なのか。

 佐々川が狼狽する理由は、自身の店で薬物の売買が行われていたことが公になると営業が出来なくなるから、というだけではない。

 ここは飛廉会の縄張りシマ。シャブを嫌う廉司の息がかかった店だ。

 この事がバレたら自分もただでは済まない――。


 しかし、男達は佐々川の面責にも笑い声を上げ、彼を落ち着かせようと肩に手を置いてきた。

 そして、佐々川にこう言ったのだ。安心しろ、と。


「俺達は飛廉会の許可を得て商売してるんだ」




§




 そこまで聞いた廉司は、ほぅ、と感心したように息をついた。


「『飛廉会の許可』。つまり俺の許可を得てシャブ売ってるってわけか」


 そいつは面白い。そう言う廉司の目は1ミリも笑ってはいない。

 ここまでの報告をほとんど夏目に頼っていた朴が口を開いた。


「……多分、北川と戸部は佐々川からそのことを聞いて、奴等と揉めたんだと思われます。二人が本物の鏑木組だと知った半グレは、次の手を打った……」


 夏目が補足する。


「今度は自分達がカタギだという事を盾に、北川と戸部の口を封じたんです。ご丁寧に他の兵隊も集めて」

「なるほどな」


 呆れるような大きなため息をついて、廉司はソファに仰け反った。

 どうしたものかと思考を巡らせていると、それに気づいた夏目が話を続けた。


「俺も朴も、ここまでの話だと手も足も出ないと思いました。悪知恵の働くカタギに足元を掬われたと泣き寝入りするしかないのか。下手に手を出せば、カタギに手を上げただけでなく、シャブを売ってた罪まで着せられることになる。それは不味マズい」

警察サツにしてみりゃ、飛廉会ウチがシャブを売ってたかどうかなんていう真実はどうでもいい。引っ張るネタがありゃいいんだからな」

「はい。だから畠山には目を瞑ってもらおうかと思ったんです。せめて佐々川にヤキを入れるくらいで納得させられないかと」


 畠山に半殺しにされた佐々川の姿が目に浮かぶ。

 可哀そうだが、仕方がないか。悪いな、佐々川。


 悼むように目を閉じた廉司を見て、夏目が黙っていた朴に声を掛ける。

 朴が尻ポケットから何かを取り出し、テーブルの中央にそっと置いた。薄っすらと瞼を開けた廉司がそれを見つめる。写真だ。


 被写体は二人。暗がりの中で写されたものらしく、はっきりとは分からないが黒いTシャツを着た半グレらしき男と白いスーツを着た男が人混みの中で向かい合っている。顔はボケていてはっきりしない。

 思わず写真を手に取り、目を凝らした。


「飛廉会の代紋カンバンを出された佐々川は一旦は引き下がったんですが、どうしても納得がいかず、その後も様子を窺ってたらしいんです。その時に店内で撮った写真だと」


 すると朴がもう一枚同じ写真を出してきた。だが先程の一枚よりも明るく、ピントのずれも若干修正されているようだ。


「……俺、趣味で写真とか弄るんです」

「へぇ。そんな特技があんのか。すげぇな」

「!……あ、ありがとうございます。俺、盗聴とか、盗撮とか好きで」

「若。ちゃんと見てください。そいつに見覚えありませんか?」

「あぁ?……見覚えって言われてもなぁ」


 折角、朴の緊張が解れかけたのに。

 廉司は渋々補正された写真に目を向け直した。


「どうですか?」

「うーん……無い。無いな。こんなツラは初めて見た。でもコイツは違うだろ。半グレには見えねぇ。コイツは――」

「ヤクザです」


 苦しそうな朴の呟きに視線を上げる。

 揃えた膝の上で拳を握り、唇を噛み締めて足元を睨みつける。

 悲しみの入り混じった怒りが朴の細い体をいっぱいに満たしている。

 夏目が彼に代わって言葉を繋いだ。


「佐々川の予想では、そいつがシャブを仕入れてるんじゃないかと。アイツはウチの人間の顔を全部覚えてるわけじゃありません。だから若に確認してもらいたいと言っていました。この白スーツが鏑木組なら自分も黙っている。でも、よそ者なら。よその組ならば、どうにかして止めさせて欲しいと」

「コイツがよその組の人間なら――」


 ソイツは敵です。潰します。


 ドスの効いた夏目の声に目を見張る。どうやら本気のようだ。

 廉司はかねがね本当にキレたら怖いのは自分よりも夏目の方ではないかと思っている。だが、これっぽっちの情報で暴走するようでは廉司の右腕は務まらない。

 二人を落ち着かせようと一つ深呼吸をし、廉司は静かに切り出した。


「朴、一つ頼みがあるんだけどな」

「……はい」

「もしお前が出来るなら、しばらく一人で動いてみてくれねぇか」

「一人……ですか」

「なにも、今すぐコイツのタマってこいって言ってるんじゃねぇ。身辺調査だ。白スーツが本当にヤクザ者なのか。だとしたら、どこの組なのか。コイツにピッタリ張り付いて調べるんだ。シャブの入手方法まで分かったら、こっちとしては力強い手札になる。……少々危険だがな」

「若っ、朴一人でやらせるのはいくらなんでも」

「お前はちょっと黙ってろ。……なぁ、朴。見ての通り、夏目はちょっと頭に血が昇ってる。それにな。いざって時にコイツが傍にいてくれないと俺も困るんだよ。頼りにしてるんだ。だからちょっとの間だけだ。ヤバいと思ったら、遠慮なく逃げていい」

「……」

「その代わり、毎日決まった時間に夏目に連絡を入れろ。メールだけじゃダメだ。電話で声も聞かせろ。夏目を安心させてやってくれ。報告することが何も無ければ『無事です』の一言でもいい」


 どうだ、出来るか?

 廉司の問いを、朴は頻りに瞬きしながら反芻する。

 隣に座る夏目が心配そうに声を掛ける。


「朴。無理ならそう言っていい。若はそんな事で怒ったりしない」

「……夏目さん」

「ん?」


 自分の拳に重ねられた夏目の手を見た後、朴は視線を上げて廉司と向き合った。

 彼の顔から女性のような柔らかさが消え、目に鋭さが宿っていた。


カシラ

「……うん」


 朴達のような末端の若衆は廉司を「頭」と呼ぶ。

 久しぶりに聞いたので、反応がやや遅れた。


「……俺は、腕っぷしが強くありません。この通り見た目もひょろいし、いつも馬鹿にされて生きてきました……家族にさえ」

「そうなのか」

「……でも、北川と戸部は俺を否定しなかった。周りは『ヤクザの口車に乗せられてるだけだ』って言いました。『いいように利用されてるんだ』って」


 廉司に向けられている朴の目が今見ているものは、一体何だろう。


「でも、俺はそれでも構わなかったんです。こんな俺に声を掛けてくれる。俺を必要としてくれる。一緒にバカやって、一緒に笑って……生きてて良かったって、本当にそう思えました。思わせてくれたんです」


 そんな二人が、本当に助けを必要とするときに、まず自分を頼ってくれた。

 途切れそうな電話の声を頼りに夜の街を捜し回っているとき。路地に倒れた二人を見つけたとき。

 朴はどんな気持ちでいたのだろう。


「俺は、必ず北川と戸部の仇を取ります。こんな俺に出来ることがあるのなら……何だってやります……っ」

「わかった」


 彼の強い決意に、廉司と夏目は顔を見合わせ、深く頷いた。


 屋敷の外には真夜中の闇が広がっている。

 同じ空の下で、きっと今夜も薬物の売買は行われているだろう。


 浮かび上がってきた、素性の知らぬ白スーツの男。


(ケジメはしっかりつけてもらわないとな)


 今後の行動について計画を立てる夏目と朴の声を聞きながら、廉司は目を閉じる。

 その胸に、冷たい色をした火が一つ、燻り始めた。

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