3 手当てと駆け引き

 ベンツの後部座席に男が乗り込み、続いて女が腰を下ろした。

 バックミラー越しに運転席の夏目と目が合う。普段は男に引けを取らないポーカーフェイスの彼が、いまだかつてない状況にフレームの細い眼鏡の奥で驚愕の表情を浮かべていた。


 夏目に指示してトランクから救急箱を持って来させる。小さな箱を受け取ろうとした女の横からそれを奪う。そんな男の姿をまた「信じられない」という目で見ていた彼に女が声を掛けた。


「すみませんが」

「あ、え?」

「エンジンキーを見せてもらえませんか?」


 男と夏目の動きが止まる。女の意図が読めず二人して困惑したが、彼女はまだ後部座席のドアを閉めてはいない。

 運転席に視線だけで促す。夏目は軽く混乱しながらもエンジンキーを鍵穴から抜いて彼女に手渡した。


(どうする気だ?)

 受け取ったモノをじっと見つめる姿を不可解な面持ちで眺めていた。

 次の瞬間、女は三つ離れた駐車スペースに出来た水たまりに向かってキーを投げた。


「!」

「あ!?」


 軽い金属音とポチャッという水音が閉じられたドアの向こうに響いた。男は言葉を失い、夏目はダサい悲鳴を上げた。


「テメッ!何す――」

「夏目」


 慌ててシートベルトを外そうとする夏目を制止する。女は無表情のまま背もたれを使わずに静かに座っている。

 その肝の据わった横顔に心の中で笑みが零れた。


「参った。大したタマだな」

「……」

「わかったよ。そう警戒すんな。手当てがしたいだけだ」


 だから、と消毒液を染み込ませた綿球を摘まんで見せる。

 女は自分で貼った皺だらけの絆創膏をピッと剥がして、前を見つめたままその手を男に向けて差し出した。

 

 細い手首を掴んで引き寄せる。

 よく見れば手の甲に出来た傷の下には見覚えのあるタコが広がっていた。

 そういえば、さっき咄嗟に掴んだ肩も見かけよりしっかりしていた。地面から立ち上がる時も、車に乗る時も、物音一つ立てなかった。

 傷口にそっと綿球を当てながら声を掛ける。


「女の護身用にしちゃ本格的だな」

「……」

「なんか鍛えてんのか。格闘技か?」

 しかし女は答えない。

 

 綿球を傷口から浮かせて暫く黙っていてやると諦めたように息をついた。


「いえ」

「ちがうのか。そうか」


 それからいくつか質問を投げた。答えが返ってこなければ作業を中断し、無理やり言葉を引き出す。

 女は終始必要最低限の返答しかしなかったが、次第に返ってくる時間が早くなっていくことが何故だか嬉しかった。


 仕上げにガーゼテープを取り出したところで、彼は一番聞きたかった質問を口にした。


「なぁ」

「……はい」

「お前、名前なんていうんだ」


 テープを伸ばしながら、女が二度三度瞬きするのを見ていた。

 これまで以上に長い沈黙。名乗る気がないのだろう。男は丁度いい長さを通り越してどんどんテープを伸ばし続ける。


 車内が静寂に包まれたまま何分立ったのかわからない。

 とうとう一巻全部伸ばし切ってしまって、二人の足元にベタベタしたテープが散らかった。

 女はどことなくスッキリした顔をしたが、男の骨ばった大きな手が救急箱から未開封の箱を取り出したのに気づいて流石にぎょっとした。


「そうか。そうだな。順番が違うよな」


 新しい封を開け、また白いテープを伸ばし始める。何か胸騒ぎがしたのか、夏目が僅かに眉根を寄せた。


「俺はな、鏑木廉司かぶらぎれんじ。廉司っていうんだ」

「若。そろそろ――」

「……かぶらぎ?わか?」


 女が何かを思い出すような顔をしている。どうやら廉司の名前を知っているらしい。

 しかし青くなるでもなく、焦るでもなく、何度か彼の名前をブツブツと口の中で繰り返した後、じっと考え込んでしまった。

 自分達に負けず劣らず表情の乏しい女だと思っていたが、僅かながらその変化が読み取れるようになっていた。それもまた廉司には嬉しかった。


「お前は?」

「え……」


 適当な長さで千切ったテープを女の甲に置いていたガーゼにいきなり貼り付けた。一箇所しか止めてないからガーゼはまだヒラヒラしている。その頼りなさが、幾分警戒心の解けた女の姿と重なった。


「お前の名前を知りたい」

「……どうして、ですか」

「さあな。知りたいんだ。気になる」


 女は困ったような表情を浮かべた。


 でも廉司にはこれ以上の理由が無い。

 生まれて初めて感じているこの高ぶりが何なのか。何と呼ぶものなのか。彼にもまだ、ぼんやりとしかわからないから。


「名前」


 結ばれていた小さな唇がゆっくりと開く。


「……“イチ”」

「“イチ”?」

「はい」


 待ちに待った答えは、廉司が期待していたものとは違う。

 それじゃダメだ。僅かに険しくなった顔で、再びテープを伸ばし始める。


「なんだそれ。あだ名か?」

「職場でそう呼ばれています」

「……なあ。俺の名前は鏑木廉司。それから、前に座ってるコイツ。コイツは夏目。夏目恭介なつめきょうすけっていうんだ。な?皆ちゃんと苗字と名前があるだろ?俺はお前の本名が知りてぇんだよ」

「……」

「それ以上のことは、もう何も望まねぇ」


 はっきりとした廉司の言葉に、これ以上意固地に抵抗をしても不毛な時間が長引くだけだと悟ったのか。

 女は誰も居ない助手席の背もたれを見つめたまま、先程よりも小さな声で呟いた。


「“いちか”」


 紡がれた音の連なりに、廉司は手元のガーゼテープから視線を上げた。


「“いちか”?」

「“たにいちか”です」

「どんな漢字だ?」

「“たに”は渓谷の“渓”です。さんずいへんの」

「あぁ。“いちか”は?」

「“ひとつのはな”」

「一花……」


 その瞬間、見たこともない景色が頭の中に広がった。

 真っ暗な森の中、鬱蒼と茂った木々の葉の間から一筋の月光が地面を照らしている。そこにたくさんの雑草に混じって、たった一輪、小さな白い花が月を見上げるように咲いている。

 柔らかな光を反射する花弁の輝きに「やっと見つけた」という思いが込み上げた。

 頭に浮かんだ花が次第にぼやけて目の前の一花とオーバーラップする。


 初めて味わうのに、ずっと探し求めていたような温もりが胸に広がる。この感情を何と呼ぶのか、彼女は知っているだろうか。聞けば答えてくれるだろうか。


 だが、もう時間切れだ。


「そうか、一花か。いい名前だな」

「え?……あ」


 手当ての仕上げが突如あっさりと終えられたことが意外だったのか、一花はパチパチと瞬きをして綺麗に留められたガーゼを見つめた。

 彼女が手元に気を取られている隙に、そっと短い髪に手を伸ばす。

 不意を突かれた一花は一瞬身構えたが、


「じゃあな、一花」


 小さな頭をポンポンと撫でてすぐに手を引いてやると抵抗するタイミングを失ったようにポカンとしていた。


 廉司の言葉を合図に夏目が運転席のスイッチを押して後部座席のドアを開ける。 急に解放されて唖然としていたが、一花はすぐに車を降り、廉司に軽く一礼をして駐輪場の方角へ歩き出した。

 ドアが閉められる。コンビニの建物の向こうに一花の姿が消える。


 運転席の夏目が溜息交じりに咎めた。


「良かったんですか」

「なにが」

「名前を教えたりして。なんか気づいてましたよ、あの女」

だ」

「……本気なんですか?」


 暫く二人して車内から様子を見ていると建物の奥から一台のバイクが出てきた。


「すっげ!……ニンジャかよ」


 メカ好きの夏目が思わず身を乗り出す。

 真っ黒なカワサキのニンジャは飼い主に従い、低い唸り声をあげながら駐車場の出口へゆっくり進んでいく。


 ベンツの背後まで来たとき、フルフェイスの中の大きな目がこちらを窺っているような気配がした。首だけ後ろへ回して軽く手を挙げてみる。

 スモークのかかったガラスを隔てて、廉司の仕草が見えたかどうかはわからない。だが、ニンジャに跨った一花は少し間を置いてから地面に着いていた足を離した。

 腹に響くエンジン音を残して、バイクは大通りを走り去った。


 今朝鏡の前で整えた襟足の長い髪を、もう一度前から後ろへ撫でつけてフッと息をつく。


「行くか」


 水たまりからキーを拾って戻ってきた夏目に声を掛ける。ベンツの前輪がギュッと鈍い音を立てて軋みながら方向転換し、ゆっくりと転がり始める。


 雨はいつの間にか上がって、雲の隙間から青空が見え始めていた。

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