第1章 突然の幕開け
2 手負いの黒猫
「すみません、若。ここのコンビニでは取り扱ってないそうです」
「猫だ」
「は?」
「猫がいる」
運転席のドアを開けたまま弟分の
細い針のようだった雨が次第に大粒の水滴になってパラパラとフロントガラスを打ち始める。急いで車内に体を潜り込ませた夏目と入れ替わるように、後部座席のドアを開けて外へ出た。
「若、濡れます!」
慌てる夏目の声に耳も貸さず、男はまっすぐ目標に歩み寄っていく。仕立てたばかりのダンヒルの肩に雨が染みていく。それすらも気にならなかった。
今振り返ってみれば、この時すでに彼の気持ちは決まっていたのだろう。
目標から1メートル程手前で足を止め、黙ったまま観察した。
全身真っ黒で小柄だが、骨はしっかりしている。強くなってきた雨に動じる気配もない。どこかで喧嘩でもしたのだろうか、右手に怪我をしている。
(近くで見るとずいぶん小せぇな)
そう思いながらもう一歩距離を詰めた次の瞬間「猫」が俯いていた頭をゆっくり持ち上げた。
「……!」
真っ黒なライダースで全身を包み、細身だが骨はしっかりしていて肉づきもいい。急に現れた男に驚く様子もなく。右手の傷に不器用に貼った絆創膏の剥離紙を傍らに置いていたコンビニの袋に放り込んだ。
雨除けのために頭部を覆っていた黒いフードが背中に落ちる。
艶のある短い黒髪。猫のように鋭く大きな目。小さいのにぽってりと厚みのある唇をした…女だった。
その目を見た途端、男の身体に確かに電流が走った。思わず言葉を失うほどキツイやつだ。
「……煙草ですか?」
「?」
全てを見透かすような深い漆黒の瞳。
(コイツ……なんでわかったんだ?)
味わったことのない感覚の重なりに戸惑う男に、女は意外な言葉を続けた。
「灰皿使うんなら、どうぞ」
そう言って立ち上がった彼女の隣に客用の灰皿があったことなど、彼は全く認識できていなかった。
ゴミを片付けてさっさと立ち去ろうとする様子に焦り、黙ったままその進路に立ち塞がる。女の動きが止まる。
だが、この男の行動は「反射」と呼ぶ方が自然だった。
「何ですか?」
何なのだろう。彼自身よく分からない。表面上は平静を装ってはいるが、こんなに余裕が無いのは生まれて初めてだ。
そんな男を焦らせるかのように次第に雨足は強くなる。空から落ちてきた雫が女の持つビニール袋に当たってパチっと跳ねた。
「ケガしてんだろ」
「……は?」
「ちゃんと手当てしたほうがいい」
なんとも気の利かない台詞だ。彼は心の中で自身に悪態をついた。気まずさを隠すように険しくした目つきで女を見下ろす。
女は一瞬ポカンとしたが、
「……どうも」
感情の籠らない礼を残し、何事も無かったような顔で脇を通り過ぎようとした。
(やっぱりな)
そう反省しながら、尚も食らいつく。
「車」
「?」
男が左足に置いていた重心を右足に変えたせいで、また彼女は行く手を阻まれる。
「車に救急箱が積んである」
女の鋭い目が彼の肩越しに駐車された車をチラと見た。
黒光りするSクラスベンツ。カタギの人間なら誰が見てもヤクザを連想するだろう。
流石に怖がるだろうかと彼女の表情を窺ったが、意外なほどに冷静だった。
「大丈夫です。大したことありませんから」
サッと頭を下げ、今度こそ本当に立ち去ろうとする。
男はとうとう泡を食って、咄嗟に女の小さな肩を掴んでしまった。
「!?……何ですか?」
眉間にしわを寄せ、怪訝そうに見上げてくる。
こんな小さなヤツ――しかも女に呑まれたのは初めてだ。
しかし、これで引き下がるほど彼は物分かりが良い方ではない。
「乗れ」
自然と身につけた相手を威圧する低い声。脅しと受け取られても構わない。
むしろ今、追いつめられているのは彼の方だ。
「……」
女は黙ったまま、その目を見つめ返す。
「何もしねぇよ。傷を負った女を見つけて、そのまま放ったらかしには出来ねぇ。男だからな。わかるだろ」
執拗な彼の態度に、さすがに女も少しうんざりした表情を浮かべたが、
「……このゴミだけ捨てさせて下さい」
そう言って大人しく男の後を歩き出した。
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