第七話 絶滅パンケーキ

 地球史上、最も繁栄した事実上の地球の支配者はどんな生物だと思う?


 あるキャンプ日和の午後、コンロの上でフライパンを温めながら父さんが言った。あたしはソロストーブでコーヒー用のお湯を沸かしながら首を傾げて答える。


「人間、って答えさせたいんだろうけど、違うんだろうね。たぶん、ゴキブリ?」


 どうしてそう思う?


 今日のキャンプの食事当番は父さんだ。特製のパンケーキを焼いてくれるらしい。手をかざしてフライパンの温まり具合を確認しつつ、口元でにやりと笑った。


「だって、あいつらどこにでもいるもん」


 我が家にはいないぞ。断じて。


 父さんはゴキブリの姿をリアルに思い浮かべたせいか不機嫌そうに、でもあたしの解答が想定通りだったせいかご機嫌な声で言った。


「いるよ、たぶん。あいつらずっと昔から姿形変わってないんでしょ? て事は、進化もとうの昔に完成したって事でしょ」


 あたしはあいつらとフォルムがよく似たコーヒー豆をステンレスの手挽きコーヒーミルに投入しながらさらに答えた。今日の豆は母さんが好きな深煎りのモカ。


 ゴキブリに関する考察はなかなか良い所を突いてるが、それはまた別の機会に。地球を支配した生物は……。


 父さんはもったいぶってひと呼吸置いた。卵、牛乳、砂糖、小麦粉がもったりと混ざった奴をおたまで掬う。あたしはコーヒーミルをがりがりとやりながらそれを待つ。


 小麦だ。


「……小麦って、小麦粉とかの小麦?」


 他にどんな小麦があるか。小麦が地球を支配した生物だ。


 父さんはまるで自分の偉業のように言った。世界を征服した悪の組織ムギムギ団の一員であるかのごとく、胸を張って、堂々として言ってのけた。


「生物って言うから動物的なアレだと思ったよ。植物じゃん。小麦って草じゃん。何かずるい」


 正義の味方NPO法人コーヒーガリガリ隊のあたしはコーヒーミルで一際大きながりがり音を立てて講義した。


 植物だって立派な生物だぞ。火星で最初に発見される生物も、おそらく苔類とかの植物になるだろうな。それもちゃんとした地球外生物だ。ほら、植物も生物だろ?


 悪の組織ムギムギ団はいきなり火星にまで支店を出店させた。もう付き合ってあげない。コーヒーミルのハンドルに感じる手応えがかなり細かくなった。ステンレスの容器をぱかっと開けて粉の状態を確認しつつ、父さんの発言をスルーする。


「お母さーん、コーヒー挽けたよ。マグカップ持ってきてー」


 そんなオリジナルな理屈を披露する父さんも面倒くさがりでインスタント派な母さんも、もういない。地球の支配者たる資格と風格を持ったゴキブリすらいなくなってしまっただろう。動物、魚類、昆虫類も絶滅してしまった。たぶん。もう九ヶ月も、正確には九ヶ月と三週間と四日、彼らの姿は見ていない。地球上にいるのは植物達と、あたしだけだ。




 人類絶滅後のショッピングモールはとにかく静かだ。テナントを繋ぐメインストリートが吹き抜け構造になっていて、ことっことっ、すうすうっ、あたしのトレッキングシューズの硬い靴音も、うんと高い天井に渦巻く暗闇が飲み込んで消してしまう。


 靴音を追うように少し早歩きにメインストリートを抜けると、ここから先はスーパーマーケット店舗となる。賞味期限は切れてるけど保存が効く食料品だけじゃなく、季節物の衣料品とか日用雑貨品とか、キャンプに役立ついろんな物を売ってたはずだ。


 スーパーマーケット店舗部分からはモールの建物の構造が変わるようで、吹き抜け天井もここで終わり、窓がなくて真っ暗なエリアがあたしを待ち構えていた。完全に暗闇に沈んでいて、どのくらい奥まで続いているのかまったく見えない。


 きっと黒い夜はこの闇の中で息を潜めて、獲物を待つ獣のように耳をすませてゆらゆらと漂っている事だろう。さっきの初ドライブでの黒い夜の襲撃を思い出すと、背中にじとっと嫌な感じの汗がにじむ。足が細かく震えてしまう。でも、あたしはこの暗闇の中に飛び込んで行かなければならないんだ。何としてでも、ごはんを食べるために。


 スマホのフラッシュライトを頼りに、どっぷりと満ちている暗闇の中に足を踏み入れる。どこか空気の密度が高いと言うか、温かくも冷たくもない温度を感じない水に入った感じがした。ただの暗い空気のくせにやたら抵抗を感じる。密度が薄い水の中を歩いているような感覚がある。


 スマホのライトが届く範囲だけ真っ白い光に切り出された。ぼんやりと輪郭が滲んだコーン状の視界が、右手に掲げたスマホと連動して右へ左へ。振り返れば、黒く濃い霧の向こう側にあたしが入ってきた闇の入り口が薄っすらと見える。やっぱり相当に闇が濃い。濃過ぎる。


 買い物カートを一台借りて、スマホを落とさないよう気を付けて買い物カゴをセッティング。大事な光だ。落っことしたり、うっかり画面に触れてライトを消してしまったりしたらそれであたしは終わりだ。世界は闇に包まれてしまう。まずは明かりを手に入れよう。ハンドライトだ。それとたくさんの乾電池。


 誰もいないレジに一声かけておく。


「すいませーん。非常事態ですのでー、商品お借りしまーす」


 当然返事はない。相変わらずどっぷりとした暗闇がそこに佇んでいるだけ。ダメと言われなかったのでオーケーが出たと解釈させてもらって、早速レジ脇の商品棚から乾電池を借りよう。単三、単四、手に持てるだけ持って買い物カゴにぶちまける。


 さて、スーパーと言えば商品配列は全国共通だろう。レジから見てこっち側に日用品の雑貨類が並んでるはずだ、と当たりをつけてころころと買い物カートを押し進める。これだけ大きいショッピングモールのスーパーマーケットだ。ハンドライトの一つや二つ、きっと売っているはず。


 あたしの読みはばっちり当たり、一発目で雑貨品の商品棚の列を引き当てた。よし、LEDから電球タイプまで、小さいものから照射範囲が広い口径の大きいものまで、選り取り見取りじゃないか。


 明かりが点くならどれでもいいって思ってたのに、こうも種類があって選び放題だとちょっと迷ってしまう。思わず欲も出てしまうし。いくつか手に取って性能を見比べる。やっぱり節電タイプがいいし、真っ直ぐ前だけを照らすものよりも周囲も明るくできるランタンタイプだとなおの事使い勝手がいいし。


 うん、決めた。持てるだけ借りていこう。サイズも照射範囲もさまざまなハンドライトを五種類、商品棚から引っこ抜いて、その場にぺたんと膝をついてパッケージ剥がす。新品のパッケージをべりっと剥がす瞬間って、いつどんな状況下だろうとやっぱりちょっと楽しくなるわ。まるで誕生日プレゼントを開けてるみたいなうきうき気分になる。


 乾電池をセットして、速攻でライトオン。続け様に何個もパッケージを破いて乾電池をセット、ライトオンを繰り返す。ふとハリウッド映画でよく観るショットガンに弾を込めているシーンを思い出した。ハンドライト本体の電池ケースの蓋をスライドさせて開く。単三電池をショットガンの弾に見立てて一本ずつ親指で押し込むようにセットして、勢いを付けて電池ケースの蓋をばちっと閉める。何かあたしショットガン装備で強くなってる? ハリウッド映画ではショットガンを撃てば大抵の敵は倒せるし、あたし無敵モードに入っちゃったかも。


 五本のショットガン風ハンドライトが点灯したおかげで、売り場はぱっと昼間になったかのように明るくなった。黒い夜が暗闇ごと吹き飛んでいったかのようにあたしの周囲は光に包まれた。


 買い物カゴの底に五本のハンドライトを全方位照らせるように配置して、いざ、お次は食糧だ。今日は何を食べようか。


 と、その前に。足元に散乱したハンドライトのパッケージ、乾電池のラッピングを拾い集める。いくら人類はすでに絶滅してるからって、ゴミを散らかしっぱなしってのはどうにも後味が悪い。再びその場に座り込んでゴミを掻き集めていると、商品棚の一番下にひっそりと眠るある物があたしの目に飛び込んできた。


 そうか。防災用品としてハンドライトと同じカテゴリーに並べられていたのか。まさかこんなところで出会えるなんて。人類絶滅後のキャンプ生活で焚き火にも慣れ過ぎたせいで、すっかりその存在を忘れていたわ。


 それはカセットコンロだ。隣にはガス缶のパッケージが。思わず三秒ほど固まって、見間違いじゃないかしっかりと見極める。間違いない。よくよく見てやれば乾電池を必要としない圧電点火式のコンロじゃないか。さっきまで暗過ぎて下段まで目に入らなかったのか。よし、これは買いでしょ。いや、借りでしょ。非常事態ですので、お借りさせていただきます。ぐっと拳を頭上に掲げたガッツポーズが自然と出てきた。


 強力な火力を手に入れた事で、あたしの今日のごはんメニューが決まった。久しぶりにパンケーキを焼こう。それも手を抜いてホットケーキミックスを使ったりしない。父さん特製の小麦粉から仕上げるフルーツとナッツのパンケーキだ。




 強力粉と薄力粉、その違いはわかるか?


 父さんが何かを教えてくれる時、必ずと言っていいほどそれは授業形式となったものだ。すんなりと答えを教えてくれれば解決も早いのに、そう簡単には事は進まなかった。


「強いのが強力粉で、弱いのが薄力粉」


 あたしは父さんの方をちらとも見もせずに、マグカップの紙フィルターにお湯をドリップさせながら答えた。お湯のドリップはコーヒーの味を決めるために非常にきめ細かい動作が要求される。邪魔しないでもらいたい。


 それだけじゃあマルはあげられないな。もっとないか?


「じゃあ、味が強いのが強力粉で、味が薄いのが薄力粉と言う事で」


 別に花マルが欲しい訳でもないし、コーヒーにムラがないようペーパードリップに集中しなきゃなんないし、やっぱり父さんの方に顔も向けずに続けて答えた。


 お、カンで言ってる割にはいい線行ってるぞ。


 えっ。適当に答えたつもりがひょっとして正解をかすめてる? 思わずあたしはペーパーフィルターに染み込むお湯の滴から目を離して父さんの顔を見た。しまった。父さんの話術に意識を持ってかれたか。あたしが見たものは父さんのちょっとドヤ顔だった。


 やっとこっち向いたな。強力粉と薄力粉の違いはそれに含まれるタンパク質の量だ。タンパク質が多くてもたっとしてるのが強力粉で、少なくてさらっとしてるのが薄力粉。


「はいはい、そうですか。タンパク質が多くって味が強いのね」


 父さんはボウルの中でもたっとしているパンケーキ生地をおたまでひと掬い、十分に温まったフライパンへゆっくりゆっくり生地を折り重ねた。もったりしたパンケーキ生地はまるでお布団みたいにふっくらと積み上がっていた。


 そうだ。そのタンパク質こそが地球の支配者たる所以だ。


 フライパンにバターを一欠片落として、ぱたんっと蓋をして父さんは言った。さては、話に熱くなってきてバターを溶かすの忘れてたな。


 忘れられたバターはさておき、地球の支配者の帰還だ。強力粉の話が急に地球の事実上の支配者に戻ってしまった。いきなり帰ってきた支配者様に、あたしは父さんの講義の続きを促すしかなかった。


「意味わかんない。強力粉が強い支配者ってとこまでは理解できたけど、薄力粉の立場はどうなるの?」


 全然理解できてないな。もともと小麦は中東の一部の地域に自生する繁殖域の狭い生物だったんだ。


「へえ」


 講義が長くなりそうだ。コーヒードリップに集中しなきゃ。


 しかし、小麦はその栄養価の高さを買われて、人間の手によって世界中に運ばれて栽培されるようになったのだ。米よりもカロリーが高く、良質な植物性タンパク質の含有率も高い。瞬く間に、小麦は地球上どこにでも生息する生物となった。


「タンパク質で言うなら大豆だってすごいじゃん。油だって摂れるし、保存も効くし。大豆こそ地球の隠れた支配者じゃないの?」


 栽培しやすさと栽培面積当たりの収穫量を考えれば、人間が米や大豆ではなく小麦を選択したのも当然だ。


「でも、その説が正しくっても、やっぱり地球の支配者は人間様ってならない? 優れた生物でいらっしゃる小麦様を実効支配しちゃってる訳だし」


 ところがそうじゃないんだな。生物学的観点からすれば、小麦は人間に食べられるために栄養価の高い穀物へと進化したと考えられるんだ。それがどう言う事だと思う?


 父さんはフライパンの蓋を開けて、パンケーキの焼け具合を確かめる。溶けたバターのいい香りがこっちまで漂ってきた。あたしも負けじとコーヒーの香りを撒き散らしてやる。はたして、キャンプチェアに沈むように座って映画雑誌を読んでる母さんの気を引くのは、バターか、コーヒーか。


「それってあれでしょ。木の実とか果物なんかが鳥に食べられて種子を遠くへ運んでもらうために美味しく進化したって話。小麦もそうだって言いたいの?」


 言いたいね。小麦のタンパク質は水と混ざってグルテンと化す。グルテンはパンだけじゃなくパスタやナン、麺類へと姿を変えて世界中に広まった。その美味しさと栄養で人間様を奴隷化させて小麦の子孫を世界中に拡散させたんだ。


「人間の奴隷化、ですかー」


 米や大豆ができなかった人間の奴隷化。小麦が地球の支配者だと言うのがよくわかったかな?


 フライパンのふっくらとしたパンケーキをひっくり返して、父さんは自分の偉業だと言わんばかりのドヤ顔を見せつけてきた。


 さあ、人間を奴隷化した小麦と木の実と果物のパンケーキが焼き上がるぞ。コーヒーの準備はいいかい?




 そんな小麦こそが地球の支配者説を、叔父さんに海釣りを教わってる時に話してみたら。


 その小麦様を原型をとどめないほどに粉砕してさまざまな調理法で面影がなくなるほど料理して食べてしまう人間様の方が真の支配者だな。


 あっさりと言ってのけた。そして返す刀でさらにあっさりとハゼを釣り上げた。


「だよねー」


 叔父さんは釣り上げたハゼの頭を速攻で落とし、お腹を開いてワタを引っ張り出して、水でさくっと溶いた薄力粉をまとわせてあっという間に天ぷらにしてしまった。


 少なくとも、俺達はこのハゼや天ぷら粉に支配されてはいない訳で。


 つい今さっきまで生きていたハゼを準備していた鍋の油に投げ込んで天ぷらにしてしまう。それは生き物の命をいただく事。生きるため、とかそんな崇高なものじゃなくて釣りやキャンプを楽しむため。言わば娯楽だ。いたずらに命を奪う行為と言ってもいいだろう。確かに残酷な事かもしれないけど、残酷さを感じる間もなく、なんて美味しそうって思えてしまうのは何故だろうか。それこそ地球の支配者たる資格ではないか。なんて、そんな大層な理由はいらない。ただ、お腹が空いているだけなの。


 働かざる者食うべからず、だ。ほら、さっさと釣らないとお昼ごはん抜きになっちゃうぞ。


 さくっと小気味良い音を立てて天ぷらのハゼは叔父さんの口の中に消えた。


 やっぱり天ぷらには薄力粉だ。含まれるタンパク質の量が強力粉よりも少ないため、水を加えてグルテン化させた場合でももっちりし過ぎずにさくっと仕上がる。天ぷらとかクッキーなどには薄力粉だ。


 対して強力粉はグルテンが多くなるので、パンケーキをもっちりもちもちに焼き上げる事ができる強い粉だ。小麦を支配する人間様として、その辺はしっかり使い分けたいところだ。


 誰もいない真っ暗なスーパーでお買い物。今日のキャンプごはんは賞味期限どころか消費期限さえも気にしなくていい食材で焼くパンケーキだ。


 買い物を始めてすぐに思い出した。パンケーキを美味しく焼き上げるための牛乳と卵がないって事に。


 牛もとっくに絶滅しているから牛乳なんてもう飲む事はできないだろう。仮に絶滅したのが人間だけで、牧場には乳牛がたくさん生き残っていたとしても、いったい誰が牛の乳を絞り、殺菌加工して、パッケージに詰めて出荷して、このスーパーまで配送してくれる言うのか。


 卵もそうだ。鶏もすでに絶滅済のはず。鶏が先か、卵が先か。そんな事はもうどうでもいい。鶏がいなければ当然卵は産まれないし、人間がいなければ鶏の管理も卵の輸送もできない。もうあたしは卵かけごはんを食べる事はできないんだ。たぶん、永遠に。


 スーパーの商品棚には牛乳の紙パックも、卵のプラスチックパックもきれいに並べられていた。でも、九ヶ月以上も常温で放置されていた牛乳や卵なんて怖くて近付けやしない。さすがのあたしでもそれは無理。


 牛乳と卵の代替品はオリーブオイルで。オリーブオイルなら結晶化さえしていなければどれくらい古くたって問題ない。味は落ちているかもしれないけど、お腹痛くしたりはしないはずだ。


 粉はホットケーキミックスを使えばらくちんできるけど、甘過ぎたりするので強力粉から作る事にした。強力粉、上白糖、ベーキングパウダー。粉類はパッケージさえ開いていなければ相当の期間保存してても大丈夫。人類絶滅後、カビや微生物が生き残っているのは確認したけど、粉につくダニも絶滅してるから問題ないだろう。たぶん。


 鳥や人間に食べられる事によって遠くに種子を運んでもらえるように、たっぷり甘く美味しく進化した木の実や果物達。支配者であるあたしがちゃんと美味しく食べてあげる。種は運べないけど。ドライフルーツや乾燥ナッツ類も有能な保存食だ。無人のコンビニでもそれらは入手しやすいし、人類絶滅後、大変お世話になってます。


 さあて、父さんの特製フルーツとナッツのパンケーキを焼きますか。


 調理器具はフードコートのうどん屋さんの物をお借りする。ソロキャンプ用の小さなクッカーとかは全部まとめて車屋さんのキャンプ地に置いてきちゃったし、材料だけでなく調理器具まで現地調達だ。うどん屋さんの厨房にハンドライトを置いて、空いてる作業台の上に調理スペースを確保する。


 店舗側から眺めるフードコート全景はなかなか新鮮なものだった。大きな窓ガラスからまばらに車が停まっている駐車場が見渡せて、まだ太陽が高く眩しい光が降り注いでいるってのに、フードコート奥側のテナントエリアに近い方は真っ暗闇の底に沈んでしまって何も見えない。置き去りにされた買い物の荷物とか放置された食べ残しが乗ったトレイとか、異様な生活感がフードコート全体に漂っていた。そんな生活感に溢れた空間なのに、誰もいなくって怖いくらいに静まり返っている。


 スーパーから借りてきたカセットコンロにボンベをセット。圧電点火式コンロなので乾電池がなくてもガスに着火できる。平均的な火力のコンロだとカートリッジボンベ一本で約一時間は火を使えたはず。それでもパンケーキを焼くには十分な時間だ。焚き火として考えると頼りなさ過ぎるけど。


 まずは弱火で着火。小さめのフライパンで叩いて砕いたミックスナッツとざくざくに切り刻んだミックスドライフルーツをローストする。嫌いな奴の顔を思い浮かべて調理すると効果的だ。何の効果だか。


 香ばしく焼き上がるまでの間に粉物の準備だ。大きなボウルに強力粉をもさっとぶちまけてやり、ベーキングパウダーを全体に振りかける。ふっくら仕上げるためにふるいにかけたいところだけど、肝心のふるいが見つからなかった。しょうがない。木べらで根気強く混ぜるか。


 強力粉が少しふっくらした感じになるまでよく空気を含ませたら、本来ならここで牛乳と卵の出番なのだが、お水とオリーブオイルが代役で登場だ。上白糖も加えて、泡立器でよーく混ぜてやる。文字通り水と油だ。彼らが仲良く混ざり合う事はない。でもメレンゲを立てるようにしっかり腕を振るってやる。オリーブオイルが細かく泡立ってお水と混じり合ったら、粉をざっくりと投入する。


 強力粉の強力たる所以であるグルテン化に注意だ。パンケーキの食感はこのタイミングで決まると言っていい。美味しいパンケーキを作るためには生地にダマができないようによく混ぜてやる必要があるが、だからと言って生地をいじり過ぎると、強力粉に多く含まれるタンパク質がグルテンとなってもっちりもちもち過ぎる強力パンケーキとなってしまう。ましてや今回は牛乳も卵も使っていない。ふわっとしたパンケーキを焼くために、なるべく生地に触らないように最低限の木べらの接触で生地を混ぜるのだ。


 たとえ満足のいく生地混ぜプレイができなくたって、ぱっと見で粉がなくなるほどに混ざり合ったら生地は完成だ。あとちょっと、もうちょっとって生地をいじくり過ぎると、もう後には戻れない生地混ぜプレイに陥ってしまう。パンケーキ作りには、はいここまで、とすっぱり諦める気持ちの切り替えの早さが重要なのだ。


 後は焼くだけ。生地にローストしたミックスナッツ、ミックスドライフルーツを混ぜて、ほら、ここでももうひと混ぜしちゃうんだし、おたまでもったりした生地をひと掬いして弱火のフライパンへこんもり盛ってやる。おたまから垂れる生地を折り重ねるようにして標高の高い小山を盛ってやるのだ。小山ができたら、素早くフライパンに蓋をして後は待つ。蓋を開けたい気持ちに蓋をして、とにかく待つ。途中で蓋を開けたら、せっかくフライパン内にこもった熱が逃げてしまう。


 フライパンの蓋を開けるのは二回だけ。一回目は生地をひっくり返す時。小山が潰れないよう優しくひっくり返してやる。そして二回目は焼き上がりの時。さて、お皿に移して、フライパンの熱が逃げないうちに、カセットコンロのガスボンベが空になる前に、次々と焼いていこう。今日はパンケーキ祭りだ。


 鳥や人に種子を遠くへ運んでもらって生息域を拡大するために、甘く美味しく進化した木の実や果実達。その進化の過程で美味しさと栄養価の高さを手に入れて、古代人を奴隷化して地球全土を征服した小麦。それらを完全コントロールして美味しく料理したあたし。真の支配者はいったい誰でしょうか。


 ふと、作業台に白く散らばり残った小麦粉を見て、あたしは思ってしまった。


 人間は何のために進化したんだろう。木の実や果実、小麦みたいに、人間の生息域を拡大させるため、何者かに利用してもらって遠くへ行くために進化したんじゃないかって。そしてあたしは、作業台に残された小麦粉の残りカス。置いてけぼりにされた残り物。


 じゃあ、その何者かって何よ。いったい誰の事よ。ここまで進化して地球全土に散らばった人間を刈り取って、収穫して、そして運び去ったのは誰なの?


 あたしは一枚のパンケーキをお皿に乗せた。こんもりと厚みがある、ナッツとフルーツがたっぷり入ったふわふわパンケーキだ。はちみつをこれでもかってかけてやる。純度の高いはちみつには水分も酸素も含まれていないから理論上は劣化しない食べ物だ。賞味期限も消費期限も気にしちゃいけない。たっぷり欲望のままかけてやる。


 さて、父さん特製のナッツとフルーツのパンケーキの完成だ。


「あんたも食べる?」


 あたしはフードコートの奥まった辺りに漂う真っ暗な空間に声をかけてみた。


「その代わり、あたしを食べないでね」


 あたしの分もパンケーキを盛り付けてはちみつをたっぷりかける。


「まだ生きていたいからさ」


 暗闇からの返事はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る