第六話 絶滅モール
残念ながら、車を運転するのが楽しいと思えたのは最初だけだった。初めての、それも見様見真似の無免許運転が、人類を絶滅させた真っ黒い夜とのカーチェイスになるだなんて。あたしはこんなところで終わってしまうだなんてこれっぽっちも思っていない。全力で、運転下手くそだけど、逃げさせてもらう。
あたしは片側二車線の道路をひたすら真っ直ぐに軽自動車を走らせた。対向車線側は前の車に追突していたり、ひっくり返ったりした車が道を塞いでいる。あたしが走っている道路は、言っちゃえば逆走しているんだけど、幸運にも見える範囲に大きな障害物はなかった。こっち側を走っていた人達は黒い夜から逃げ切る事ができたんだろう。奴らはそんなに速く移動はできないようだ。
でも、逃げ切れたとは言っても、それは絶滅をほんの少し遅らせる効果しかなかったのかもしれない。黒い夜の奴らはテレポートする。奴らはどこにでも隠れ、どんな影にも潜んでいて、薄黒い霧のようにむくむくと湧き出てきて、その影自身が意思を持った大きな塊となって車の音を追ってくる。
あたしの初ドライブは一瞬足りとも気の抜けない命懸けの運転となった。真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに走らせたいだけなのに、軽自動車は微妙に進路を曲げてグリーンベルト側に、そして歩道側にぐねぐねと蛇行してしまう。風景を楽しみながらカブで走る時速五十キロと、何かに追われながら車で走る時速五十キロとはまるで別物だ。車ってこんなに安定しない乗り物だったのか。
とにかく黒い夜から離れなければ。こうしてふらふらと頼りなく蛇行運転している間にも、バックミラーに、ルームミラーに、あるいはフロントガラスから見える位置に、黒い夜がもくもくと影から染み出てくるのが見えた。大きく育った黒い夜はあたしの車にぶわっと迫り、そして太陽の光に蹴散らされて消えるって不毛なサイクルを繰り返している。
奴らに抵抗できる唯一の手段、あたしの頼もしい武器であるLEDランタンは車屋さんのキャンプ地に置いてきてしまったし。叔父さんから勝手に借りてるジッポライターも着火剤もカブのリアボックスの中だ。ちょっとだけ運転して遊ぶつもりだったから、あたしの装備は何もかもがキャンプ地に置きっ放しだった。今はスマホしか持ってない。
そして黒い夜から何とか逃げ切れたとしても、日が暮れる前にキャンプ地に戻れなければそれでおしまいだ。結局明かりを灯す事が出来ずに夜の暗闇に飲み込まれて、人類完全絶滅でゲームオーバー。そんなバッドエンドは嫌だ。
「あっ」
思わず声が漏れた。ここまで順調に走って来れたのに、ついにあたしの行く手に障害物が現れてしまった。それは一台のバスだった。交差点で右折しようとしたところを直進車に突っ込まれたのか、右の脇腹に車が突き刺さるようにぶつかっていて、少し左に傾いて、車線を塞ぐように停まっていた。まずい。交差点から車線へ斜めになっているせいで通り抜けられる隙間はかなり狭く見える。
ルームミラーを覗けば、後ろの黒い夜との距離はだいぶあるように思える。ここは追いつかれるのも覚悟の上でスピードを落として事故ったバスの鼻先をぎりぎり通り抜けるか、道幅が狭くなるけどバスと事故車を避けて交差点を曲がって別ルートを探してとにかくこの場を離れるか。どうしよう。
情けなくも決断を下せずに迷っているうちに、バスは横腹を見せつけるようにあたしの目の前まで迫って来た。もう迷っていてもしようがない。狭い脇道にそれるよりも。太い道路の方が安全に走って逃げられるはずだ。バスとガードレールの狭い隙間を抜けよう。ぱっと見、ぎりぎり抜けられそうだ。
ブレーキペダルを強めに踏むと、シートベルトが胸を締め付けるぐらいがくっと身体が前に持ってかれた。痛っ。まだブレーキ感覚が掴めていなくて、バスに近付き過ぎてしまったか。フロントガラスの真ん前にバスの横腹に張り付いた女の人が笑ってる広告が見えた。
ちょっと、車間距離なさ過ぎ。ぎこちなくシフトレバーを押し上げてバックギアに入れてやり、そうっとアクセルペダルを踏む。すると車はエンジン音を大きく唸らせるだけで前にも後ろにも全然動かなかった。慌ててシフトレバーを見るとギアはニュートラルになっている。間違えたか。今度こそ、バック。
後ろから迫り来る黒い夜を確認するため、身体をひねって直接後方確認しながらアクセルペダルをちょんちょんとノックするように踏む。車はぴょんと跳ねるように小刻みにバックした。ダメだ。やっぱり運転下手過ぎる。そりゃそうだ、無免許だもん。
後方の黒い夜はあたしを追うのを諦めたのか、それともあたしを見失ったのか、全然追って来ないで一箇所にぐるぐると留まって太陽の光に溶かされるように小さくなっていた。
よし、このまま邪魔なバスをやり過ごして真っ直ぐ走れば逃げ切れそうだ。運転席に座り直して前を見ると、つい今さっきまで女の人が笑ってたフロントガラスは真っ黒く塗り潰されていた。
「えっ」
いつの間に。黒い夜はあたしが目を離した隙にバスの影から湧き出て、あたしの軽自動車を包み込もうとしていた。あたしはまるで大きな口を開けた真っ黒い大蛇に飲み込まれる寸前の白いネズミだ。
光だ。何でもいい。明かりを点ければ奴らは何も出来ない。眩しさにただ尻尾を巻いて退散するのみだ。でも今のあたしはLEDランタンもジッポライターも持っていなかった。
フロントガラスは布をかぶせたみたいに完全に真っ黒くなり、今にもガラス越しに暗闇が染み込んで来そうだ。あたしはルームミラーの根っこの部分に付いている小さな照明灯のスイッチを入れた。ルームランプだ。明かりはとても小さくか弱かったが、何もないよりはマシだ。
黒い夜は太陽の光に当たって散り散りになって消えながらも、後から後からバスの下、裏側、追突して斜めってる車の影から湧き出てあたしを取り込もうと大きくなった。あたしの車はボンネットからバックミラー辺りまで闇に包まれて、ルームランプをつけたと言うのに室内もじんわりと薄暗くなってきた。まるでガラスから黒い夜が染み出てくるみたいに。
ルームランプだけじゃ光が足りない。車で他に光るものはあったっけ? 車で強力な光を放つものと言えば、ヘッドライトだ。でも、でも。
「これ、ライトってどうやってつけるの?」
あたしはヘッドライトのつけ方を知らなかった。カブならエンジンをかければ自動的にヘッドライトも明るくなるのに、車もそうじゃないの? ヘッドライトスイッチはどれ?
ハンドル周りのレバーにいくつかスイッチっぽいアイコンが描かれていて、コンパネにもボタンっぽいものが何個も並んでいる。ヘッドライトのアイコンはどれだ?
ティーバッグから濃い紅茶が染み出るように、運転席周りも薄暗い空気の膜がどんどん濃くなっていく。狭い車内に黒い夜が現れたら、もうあたしに逃げ場はない。とにかく全部のスイッチ、ボタン、レバーを動かしてやれ。どれかは当たりのはずだ。
あたしはやたらめったらにハンドル周りの動かせそうなもの、押せそうなもの、捻れそうなものを操作した。そしたらお約束みたいにまずはウインカーが点滅して、ワイパーがフロントガラスを往復して、カーラジオがノイズを奏でて、そして右手のレバーひと捻りようやくヘッドライトが眩しく点灯してくれた。
強い光が真っ直ぐ前を照らして、フロントガラスを覆っていた真っ黒い闇をすぱっと切り裂いてくれた。そのままバスの横腹の広告パネルに反射してあたしにスポットライトを当てる。一気に明るくなり過ぎて目が眩みそうだけど、突然現れた暗闇はもう切り払われた。このタイミングを逃す訳にはいかない。あたしは眩しさに目を細めて、ヘッドライトの反射から顔を背けて、ハンドルを右に切ってアクセルペダルを踏んだ。迂闊にも、けっこう思い切り踏んでしまった。
急発進した軽自動車は斜めに停まっているバスの鼻先をすり抜けようとしたが、勢いがあり過ぎて左のヘッドライトからバスの車体横腹に食い付くようにぶつかった。
硬いものが歪む鈍い音を立てて、がくんと揺れる車体。シートベルトにきつく締め付けられるあたしの身体。ハンドルがぐるんと持ってかれて、それでもあたしはアクセルペダルを踏みっぱなしだったから、軽自動車は車体側面をがりがりとバスに擦り付けるようにして、甲高い金属音の悲鳴を上げながら強引にバスの鼻先へ通り抜けた。
やっちゃった。がっつりやっちゃった。この車の持ち主さん、ごめんなさい。でも今はそんな事を気にしてる場合じゃない。とにかくこの場から一秒でも早く離れなければ。
交差点を塞ぐようにして停まっていたバスをやり過ごして、ヘッドライトが一つ潰れてしまったけど、あたしの頼もしい軽自動車はぐんぐんスピードを上げて無人の国道を逆走して行く。快調に、だけどちょっと乱暴に。
何と言おうか、タガが外れたと言うか、暗黙の制約が解かれたと言うべきか。一度ぶつけてしまったんだ。きれいに整備された車体にがっつりと大きな傷を刻んでしまった。だから、二度目、三度目もどうって事もないわ。そんな無責任な考えがあたしの頭の中に芽生えてしまった。さっきまで慎重だったハンドルさばきも少し大胆になっている。
初めての無免許運転だってのに、余裕の片手運転。空いた片手でコンパネのスイッチ類をいじり回す。さーって砂が流れる音みたいなカーラジオのノイズがうるさい。ラジオを止めたいけど、さっきあたしどのボタンを押したっけ?
人類はすでに絶滅しているので、当然だけど、どのラジオ局もチューニングを合わせてみてもノイズばっかり。運転が捗るような軽快な音楽や懐かしき他人の声なんて聞こえて来なかった。ラジオのスイッチを見つけて、スイッチオフ。再び車内はエンジン音だけが低く鳴り響く寂しい空間となった。
音楽CDでもいいから、人の声が聴きたい。でも車内にはCDなんてなさそうだし、偶然CD屋さんでもそこらにないかな、と片手運転に加えて脇見運転していると、大きなショッピングモールの看板が目に飛び込んで来た。大駐車場まで後2キロメートルと書いてある。
ルームミラーとバックミラーを見る限り、黒い夜からはうまく逃げられたように思える。高いビルの影、テナントの奥、停まっている車の下。暗い影はそこら中にあるけど、さっきのバスから黒い夜は見ていない。ヘッドライト攻撃で撃退できたのかな。
このままショッピングモールへ行こう。あたしは決めた。ここは逃げの一手だ。荒ぶった黒い夜が落ち着くまでいったんモールに隠れる。保存の効く食べ物もたくさんあるだろうし、アウトドアショップとか百円ショップがテナントとしてモール内に入っていればキャンプに役立つアイテムも補充出来るだろうし。
あたしはハンドルを両手で握り締めて、少しゆっくりめに、あまり大きなエンジン音と走行音を立てないようにしてショッピングモールの大駐車場へ向かった。
ショッピングモールの大駐車場はやっぱり広かった。さすが、大駐車場の大の字は伊達じゃない。サッカースタジアムみたいにずっと向こうまで続いている駐車スペースはそこそこ埋まっているけど、当たり前のように人影はなく、無免許かつ初心者で下手くそなあたしでも車と車の合間を縫ってすいすいと走る事ができた。
大きな建物の正面入り口に横付けするように軽自動車を寄せる。きれいなガラスの自動ドアはぴったりと閉じていて、側面に大きく擦り傷を作ったあたしの車が映り込んでいた。建物の中はひっそりと薄暗い。
外に溢れる太陽の光が届く範囲は華やかで賑やかな雰囲気のインテリアとなっているけど、光が届かない奥まった商品売り場の方は完全に真っ暗で、生きているって感じがまったくしない静止した空間が佇んでいた。まるで古いモノクロの写真を大きく引き伸ばして貼り付けたみたいで、見ていて何となく無機質な冷たさが感じられた。大勢の人が歩くようにデザインされたくせに人がまったく存在しない光景って、こんなにも温度が失われてしまうものなのか。
建物の奥の暗闇に、いる、だろうね。ショッピングモールは人がたくさん集まる場所だ。奴らがいない訳がない。大駐車場にあれだけの数の車が停まっていたんだ。人類ほぼ絶滅の瞬間にこのモールにどれだけの人間が歩いていた事か。みんな、訳もわからないまま黒い夜に飲み込まれたんだろう。
だからって、あたしがここに踏み込まない理由はない。今日はここをキャンプ地とするって決めたんだ。大きな音を立てさえしなければ、今まで通り、あたしはあたしらしくキャンプできるはず。美味しいものを料理して食べたいだけ食べて、焚き火の揺れる炎を見たいだけ見て、そしてテントで寝たいだけ寝る。人類絶滅後もそうやって生きてきたんだ。これからもそのつもりだ。
あたしは軽自動車のエンジンを止めた。モールのエントランスって賑やかそうなイメージなのに、場が一気に静まり返る。ばかみたいに広いせいで、この完全に無音のショッピングモールって光景は、あたしの耳をぶっ壊れたかと感じさせる。念のためドアロックをかけて、キーを持っていく。自動ドアに細い腕をねじ込んで押し開いて、無人のショッピングモールへ足を踏み入れた。
今日はスマホをほとんどいじってない。いじるって言っても、電気がなくなってネットも消滅してるからセルフィーを撮ったり音楽を聴いたりしかないけど。なのでスマホのバッテリーは充分に残っている。このスマホが今のあたしにとって唯一の光源だ。フラッシュライトをオンにして、小さいけどあたしは武器を持っているんだぞ、と誇示するように頭上に掲げる。
正面エントランスを進むと左側に靴屋さんがあり、真正面には婦人向けファッションの売り場か、あたしよりも年齢層が高そうな服を着たマネキンが何体もこっちを無言で見つめていた。人の形をしたものに久しぶりに出会った訳だが、薄闇にぼやっと浮かぶ無機質な表情はちょっとしたホラーだ。怖いって。
でも一体だけ、一人のマネキンだけがあたしを見ていなかった。そのマネキンは首を斜めに傾けるようにしてあっちの方へ目線を送り、まるで指差すように片手を持ち上げている。エレガントなスーツ姿のマネキンが指差す方向、エントランスから右側を見やれば、はい、あったあった、ありました。薄っすらとした闇の向こう側、ドーナツ屋さん、ハンバーガー屋さんにアイスクリーム屋さん。
あたしが探していたのはまさにそこだ。ショッピングモールの憩いの場、明るい光が差し込むフードコート。ありがとう、エレガントマネキンさん。見事な目線誘導技術です。
スマホのライトを頼りに、エレガントなマネキンの指差す方へ、とことこと小さな靴音を立てて歩いて行く。靴音はすぐにショップの奥に渦巻く真っ暗闇に飲まれて消えてしまう。それでもあたしは負けじとトレッキングシューズの硬い靴底を床材に叩き付け、エレガントマネキンさんの目線誘導に従って、店側の思い描いたお客様導線通りに動いた。
明かり取りの窓がなくて真っ暗い建物内とまるで違って、フードコートは明るかった。山を歩いていて急に開けた土地に出たみたいだった。大駐車場に面した側が大きなガラス張りのエリアになっていて、太陽の光がさんさんと降り注いでいて暖かかった。
四人掛けのテーブルが理路整然と並んでいて、黒い夜に襲われて人類ほぼ絶滅の瞬間に食事中の家族連れがいたのか、食べかけの食器が散乱して、椅子に家族の荷物が置かれたままになっているテーブルもあった。お皿の上の料理は有機物の成れの果てと言うか、腐り、カビて、完璧に乾燥して、もはや原型も留めずに臭いさえもまったくしない状態で放置されている。
でもその食事の痕跡が、かつてここに人間が存在した確かな証として、ひとりぼっちのあたしの手を握って慰めてくれているようだった。
うん。あたしもここでごはんを食べよう。今日のキャンプ地はここだ。
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