第四話 絶滅ジャムビスケット

 朝が来るのが嬉しい。太陽の光を直に浴びるとじんわりとからだが温まって、生きているって実感が湧いてくる。人類絶滅後、人類最後の生き残りであるあたしは変温動物になってしまったようだ。太陽光で身体の奥から何かやる気が出る液が分泌される気がする。これだから外で眠るのはやめられない。


 ぱちり、瞼を開けると、見慣れない薄灰色した天井が間近に見えた。これは何だろうとぱちくりと瞬きを繰り返し、眩しい光が溢れてくる方へ首を傾ける。窓だ。窓の外、ガラス越しに朝陽が斜めに差し込んでいるのが見えた。そうだ。車の中だ。昨夜は車中泊してみたんだ。あたしは寝袋に包まったまま、うーんと伸びをした。


 誰もいないサービス工場で整備中だったと思われる軽自動車。これがけっこう使えそうに思えたのだ。シートレイアウトって言うのか、後部座席のあちこちを弄り回してみたら、なんと、トランク部分も含めてフルフラットになってしまった。


 サービス工場のコンクリート床なんかよりもよっぽど寝心地が良さそうだった。あたしは速攻でエアマットを膨らませて、脚を伸ばして横になってみた。その快適な事と言ったら。この車はまさしく走るベッドじゃないか。


 リアハッチをタープのように開放したまま、LEDランタンを車内に引っ掛けておけば、それはもうテントなんかよりもよっぽど過ごしやすい居住空間となった。車中泊、これは試さない訳にはいかない。と、言う訳で、整備中の軽自動車はあたしの宿泊施設となったのだ。


 寝袋から上半身をもぞもぞと引っ張り出して、でもまだエアマットにごろんと横になったまま、窓からの明るい景色を眺める。


 道路脇の植え込みはすっかり大きく育っていた。四方八方に伸び放題で、いろんな雑草がアスファルトにまで浸食しているようで、文字通りの草むらと化している。街路樹も全然剪定とかされていないから成長し放題で、歩道にも車道にも木漏れ日ができるほどに生い茂っていた。


 人類絶滅後、あたしは動物を一匹も見ていない。ペットだった犬や猫が野生化して、あたしと食糧の争奪戦を繰り広げるかもって思っていたけど、野良猫どころかネズミも、ハトもカラスも見かけない。それらの死骸も落ちていないし、そして虫の鳴き声すら聞いていない。人類どころか、生物がまるまる絶滅してしまった世界になったようだ。


 残されたのは、あたしとカビや微生物、そして植物だけ。植物は縦横無尽に緑色の触手を伸ばすように繁茂している。やがて地球は植物に支配された緑色だらけの惑星となるのだろう。それとも、種子や花粉を運んでくれる生物がいなくて、成長し過ぎて土の栄養分も乏しくなり、呆気なく枯れ果てて、苔生した静寂の惑星に成り果てるのか。


 あたしが生きていそうにないそんな未来を考えたってしょうがない。現在だ。今だ。今あたしが何をすべきかを考えて、実行しよう。まずあたしがすべき事。それは、朝ごはんだ。


 静かなる惑星よ、おはよう。いざ、目覚めよ、とばかりに朝一発目から発電機を回す。始動レバーを目一杯引けば、発電機はばばんと爆発音を鳴り響かせた。よし、今日も一発クリアだ。いい一日になりそうな気がする。


 電気ケトルで紅茶一杯分のお湯を沸かす。少しのお水だからすぐに沸いた。チタンマグにティーバッグを一個落として、もうもうと湯気を立てるお湯を注ぎながら、朝ごはんは何にしようか考えた。せっかく電子レンジが使えるんだ。手軽に温かいものが食べたい。


 ぶんぶんと順調にアイドリングしている発電機に電子レンジのプラグを差し込む。ガソリンはまだまだたっぷりとある。ガス欠して再び停電だなんて心配はいらない。あたしは紅茶によく合うビスケットを朝ごはんにしようと思った。温かい紅茶の香りをかいでいたら、どうしようもなくジャムビスケットが食べたくなってしまった。


 カブにくくりつけたバッグから非常食を探し出す。賞味期限なんてあってないような長期保存が可能な食品、ビスケットとジャムを取り出した。五枚ずつの個別包装パックだから二ヶ月前に賞味期限が切れていたって何の問題もないのさ。五枚をサイコロの五の目のようにお皿に並べて、あんずのジャムをたっぷり乗せる。ジャムも瓶の蓋さえ開けてなければ何ヶ月も食べられるけど、一度蓋を開けたらさすがにカビの心配をしなくちゃなんない。だから大量消費して早めに食べ切っちゃおう。


 電子レンジに入れて、九十秒レンチンしてやる。しっとりバタービスケットがさくさくに、とろとろあんずジャムがアツアツに、あっという間にジャムトーストみたいな朝ごはんの出来上がり。


 早速ほくほくと湯気を立てている一枚に齧り付き、排気ガスが臭いから発電機の始動キーをオフにしようと思い、もぐもぐやりながら、ふと整備中だったであろう軽自動車のボンネット内を見た。


 まるであたしのジャムビスケットを欲しがるかのようにあーんと口を開けている白い軽自動車。少し埃をかぶってはいるけど、ぱっと見はきれいだ。もしかして、これは整備中なんじゃなくて、整備が終わった後に人類が絶滅したのかも。


「エンジン、かかるかな」


 あたしはぼそっとつぶやいてみた。たまに喋らないと声の出し方忘れちゃうし。


 発電機が一発でエンジンかかるほどに保存状況は良かったんだ。さすがは車屋さんのサービス工場だ。シャッターも降りていたし、車として完璧な状態で保管されていたとしたら。


「君、エンジン、かけてみようか」


 三日月の形になったジャムビスケットを口に放り込んで、赤と黒のブースターケーブルを探してみる。さすがにバッテリーは上がっているだろうし。二枚目のジャムビスケットをさくっとやっているうちに、それはすぐに見つかった。ちゃんと発電機用のブースターケーブルだ。発電機が置いてあった壁際の工具棚に束ねて引っ掛けてあった。


 発電機にブースターケーブルのプラグを差し込み、ぽっかりと口を開けた軽自動車のボンネットに、まるでカバの虫歯検診でもするかのように、頭から潜り込んで赤いケーブル、黒いケーブルの順番でバッテリーに繋ぐ。そして三枚目のジャムビスケットをさくり。


 一応エンジンオイルを見ておこう。機械としてはカブも発電機も作動原理はおんなじだ。もちろん、車だって。車の免許を持ってないあたしでも、カブの整備とおんなじ手順を踏めばエンジンをかけるくらいは出来るはず。たぶん。


 ブースターケーブルに触らないようにしてオイルレベルゲージをゆっくりと引き抜く。ケーブルを繋げられたバッテリーやボルトどめされたメカメカしい金属の塊を間近に見ながら精密な動作を要求されると、何か爆弾処理でもしてる気分になってくるわ。


「オイルレベル、よし。オイルの色もクリア」


 それっぽい仕草でゲージをウエスで拭き取って、臨時爆弾処理班のあたしはあえて指差し確認してみた。


「ブースターケーブル、よし」


 それから、えーと、その他、よし。やっぱりカブとは全然違うか。エンジンルームを見ただけじゃどこに何があるかわかんない。あとはガソリンさえ入っていれば何とかなるだろう。


 四枚目のジャムビスケットをさくさくとやりながらあたしは運転席に滑り込んだ。キュロットのしわをシートに馴染ませるようにお尻をぐりぐり、シートに押し付けられてめくれたダウンベストを戻そうと背中をもじもじ、そうやってハンドルを掴もうとしたら、ぴんと肘を伸ばしても指先しかハンドルに触れられなかった。タイツに包まれた脚をぐいと伸ばしてもブレーキペダルに届かなかった。あたしの身体が規格よりも小さいのか、この軽自動車に乗ってた人が大きいのか。


「シート調節、よし」


 あたしの短い手脚でもハンドル、アクセルとブレーキペダルに余裕で届くようにシート調整して、さて、ハンドル脇を覗き込む。キーを挿し込むガキ穴はなかった。やっぱりスマートキーだ。スマートキーそのものはハンドル脇ポケットに置いてあった。


「キー、よし」


 この車がちゃんと整備されていれば、ガソリンが思ったよりも劣化していなければ、スタートボタンをクリックすれば、問題なくエンジンがかかるはずだ。


 ふうと深呼吸を一つ。迷う必要なんてない。エンジンがかかればラッキー。かからなければただそれだけの事。あたしに何の好都合も不利益もないのだ。ただ、エンジンかかるかなって思っただけだ。あたしはスタートボタンを力強く押し込んだ。


 何か小動物がひきつけを起こして鳴いているような、小刻みに震える甲高い音が連続して鳴り響いた。バッテリーは大丈夫のようだ。いったんスタートボタンから指を離してやる。謎の小動物は静かに鳴き止んだ。


 きっちり三秒間、エンジンが落ち着くまで待ってやり、もう一度スタートボタンをクリック。また謎の小動物が鳴き始めた。今度はさっきよりちょっと大きめの声に聞こえた。


 ハンドルを握る左腕に微振動が伝わってくる。ブレーキペダルを踏み込んでいる右脚にもだ。この軽自動車は今小さく震えていた。八ヶ月ぶりに電気が流れてエンジンに火が入れられるんだ。そりゃあ怖いよね。あたしだってそうだ。八ヶ月もあまりいい物食べてなかったのに急に中トロのお寿司を食べさせられて走れって鞭を打たれたら、そりゃあびっくりして身体が拒否してしまうだろう。


「よしよし、頑張って」


 そしてひきつけを起こしていた小動物は、中型犬が咳き込むようにして唸り声を上げる音を出して、やがて大型の獣のように一度ぶるっと震えてから大きく吠えた。


「よし、かかったあっ!」


 あたしも吠えてみた。かかった。ダメ元でやってみたけど、ほんとにエンジンがかかっちゃったよ。


 アイドリング音は安定してるっぽい。そうっとアクセルペダルを踏み込んでみる。痰がからんだように大きくむせて咳き込んだけど、いい音を立ててエンジンは吹き上がった。いい感じだ。何の問題もないエンジン音に聞こえる。


 あたしは喜びのダンスのつもりでステップを踏むようにして運転席から降りて、真正面から軽自動車を見てみた。車体は小さいけど、きりっとした目ヂカラのある顔付きしてるじゃないか、君は。


 五枚目のジャムビスケットに齧り付く。さくさく、もぐもぐやりながら軽快なエンジン音を聴く。発電機のアイドリング音と、軽自動車のエンジン音がサービス工場内で反響しあってシンクロしたビートを刻んでくれた。


 運転、しちゃおうかな。


 人類は絶滅して、どうせ誰もいないんだ。運転しちゃっても、いいかな。

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