第九章

第九章

そして。長泉なめり駅へ向かう電車の中。

「全く、杉ちゃんまでついてきて、、、。」

蘭は迷惑そうな顔をする。

「いいじゃないか。マークさんは、1人じゃ心細いといっていたし、それにこういうときは、多ければ多いほどいいだろう?」

そういう杉三は、どこかウキウキしているように見えてしまった。

「そうだけど、ステージ1なんだから。そんなに難易度の高い手術じゃないし、大丈夫だよ。」

「不安ですって顔に書いてあるのは誰かなあ?」

蘭をからかうように杉三はいった。

「馬鹿。不安なのは、杉ちゃんが、手術中にでかい声で騒ぎ立てないかが心配だからだ!」

「だって師匠に言われたのは、蘭の方だろ?なにかあると、すぐ心配してワーワー騒ぐ癖を早く直せと。」

「杉ちゃんそれ誰にきいた?」

「製鉄所で水穂さんにきいた。水穂さんも心配してて、マークさんと師匠によろしくって言ってた。」

「杉ちゃん、また水穂に何か言わせたな。あいつは、とにかく横になっているのが目下の急務なんだから、心配ごとを課すなよ。」

「あれ?水穂さんは、こないだ蘭と喧嘩して嬉しかったと言っていたぞ。蘭にやたらうるさく言われて、怒りたくても怒れないのが、ほんとに申し訳なかったってさ。」

「そんなことまで喋って来たのね。」

蘭は、もういい加減にしろと言いたかったが、

「まもなく、長泉なめり駅に到着いたします。降り口は、右側です。」

と、車掌のアナウンスが聞こえてきて、

「出よう。」

とだけいった。

二人は長泉なめり駅で、駅員さんに手伝ってもらって電車をおり、そのまま改札して、予約をしていたタクシーに乗せてもらい、がんセンターに到着した。受け付けに、本日菊岡和美師匠の手術が行われると聞いたのだがときくと、こちらですといって、手術室の前に案内してくれた。

「へえ、ブーブー文句いわないでつれていってくれるところがいいね。池本クリニックだと、こんなやつをとかいって、文句たらたらだぜ。」

「杉ちゃん、ここはそこらへんの病院じゃなくてがんセンターだよ。」

「そこらへんの病院っていうか、どこもそうじゃなきゃだめだよね。」

二人は、そんなことを言いながら手術室の前に到着すると、マークが待っていた。

「あ、こんにちは。師匠、もう入りました?」

蘭が急いでそう聞くと、

「はい。ちょっと前に入りました。もう、蘭を呼ぶのは始まってからにするようにとうるさく言っていたものですから、その通りにしたんです。」

と、マークが答えた。

「ほら見ろ、お見通しだ。蘭は心配しすぎるからだ。」

確かに杉三の言う通りかもしれなかった。

「とりあえず、日程は前倒しになりましたが、他に転移もないし、一つ切除するだけですから、数時間で済むみたいですよ。蘭さんが言っていた、化学療法はあまり重用ではないようです。」

「あ、そう。よかったね。あれは結構きついもん。頭が禿げたり、体が痩せたり、いろいろあるみたいよ。とれれば、それに越したことはないよ。」

杉三がそう応答する。蘭は、よくそれを知っているなと思ってしまった。

「肝臓というと、難しいようですけど、お医者さんの説明では、さほど大変ではないようなんです。でも、この書類を見ればわかると言われても、漢字ばかりでなにもわかりません。まあ、暇があったらちょっと漢和辞典を読みましたが、頭に入らなくて。」

マークは、一枚の書類を鞄から取り出した。それは手術の説明書で、肝臓の画像と一緒に、なにか説明がされているのだが、文字が小さくてわからないのだろう。

「わかった、つまりこういうことだ。肝臓のこの位置に腫瘍があるから、それをとると言うわけで、、、。」

蘭は、画像をペンで指しながら説明をはじめた。確かに読んでみると、切開して腫瘍の摘出をするには都合のよい場所だったのが、救いだったようだ。肝臓というと、沈黙の臓器といわれ、腫瘍の摘出は場所によっては大変になる。ちなみに、半分くらいの大きさになっても機能にはあまり問題はないらしい。師匠は、大酒のみではないので、あまり機能は低下していなかったようだ。これらを確認していくと、心配しすぎて騒ぎ立てるなと怒られても、仕方ないかと思った。

とはいっても、待っているのはかなり長かった。本当は数時間しか経っていないかも知れないけど、蘭にとっては何時間も経ったような気がした。マークも同じ気持ちだったらしく、二人は刺青でよく彫られる柄の話などをして気をまぎらわした。日本の吉祥紋様は奥が深いなとマークは真剣に聞いていた。杉三だけが、鼻唄を唄って、窓の外の景色を眺めていた。

空が少し、夕焼け色になってきたかな?と思われるころ。

手術室の扉が開いて、ストレッチゃーが看護師たちに運ばれてやってくる。

蘭が、声をかけようと思ったが、そんな暇はないかのように、通りすぎていった。そのあとを頭の汗を拭きながら、執刀してくれたお医者さんがやってきた。

「無事におわりました。比較的はやくとれましたので、大して体力も消費せずにいけたとおもいます。お年を召したかたは、割りと体力の消費が多いので、なかなか回復が遅れてしまいがちですから。」

マスクをしているので変な顔に見えたが、特に失敗したとは見えない口調だった。

「あ、ありがとうございます!」

マークは深々と礼をした。

「いや、問題はこれからだよ。体力を取り戻すのは、結構大変だからな。」

蘭は、まだ心配そうだったが、

「大丈夫さ。マークさんという大事な人がいれば。人間、必要とされてるかを自覚していれば、それが一番の薬になるよ!」

と、杉三は明るく言った。

「とりあえず、本日は私たちでやりますから、今日はお帰りになってくれて結構ですよ。もし、何かありましたら連絡いたします。」

「なんだ、そばについてちゃいけないのかよ。」

お医者さんの言葉に、杉三が反発する。

「はい、完全看護制ですから。」

マークは意味がわからないらしく首をかしげた。

「あ、看護師さんたちがみんなしてくれるってことだ。僕たちは、ホテルに帰ろう。」

蘭が解説をすると、

「そうはいっても、僕らにも何かさしてくれないもんでしょうかね。なんか、せっかくこっちに来たのに、ただ待たされて、ご挨拶もさせてくれないって、意味がないんじゃないのかな?」

持論を展開する杉三。

「意味がないじゃなくて、その方が安全だろ、杉ちゃん。」

蘭が急いで注意すると、

「病院に任せっきりってなんか、僕らはせっかく来たのに出てけって言われているみたいで、やだね。」

杉三がまた嫌みっぽく言う。

「杉ちゃん、ここはがんセンターなんだから。」

「いや、わかるきがしますよ。フランスの病院では、希望すれば付き添いも認められています。」

マークも杉三と同じ気持ちらしい。

「お二人が心配なのはよくわかりました。では、心配しなくてもいいように、責任をもって管理しますから、安心してお帰りになってください。」

お医者さんはそういってくれた。さすがはがんセンター。何か言われた時の対応方法もちゃんとわかっている。

「あそう、じゃあとりあえずそうするが、もし師匠に何かあったら、許さんよ。お金だすとか言っても納得しないよ。本当に何かあったら、不条理なこじつけはやめて、僕らにもマークさんにもわかるようにしっかりと説明してくれると、誓ってくれるかい?それができないんだったら僕らは帰らないから。」

杉三はそういうが、お医者さんは優しい口調のまま、

「わかりました。お約束いたしましょう。」

といった。

「そうか、看護師がわざとらしくいうのではなく、お医者さんが言うんだったらまだ信用できるな。どうも君たちみたいな偉い人は、僕らを馬鹿にして、子供に言うような言い方で、わざと事実を曲げたりするから、簡単には信用しないんだ。そういう言い方で人を騙すから嫌いなんだよ、こう言うところはね。僕らは、確かに馬鹿だけど、騙すのはちょろいもんだと思っている精神を感じることだけはできるからね。」

杉三が言っていることは、青柳教授が、原住民に投げつけられた言葉に意味が近いなと蘭は思った。本人からしてみたら結構重用な事項なのだが、意外に上流階級はこれを受け流してしまい、馬鹿にしてしまうことが多い。それが内戦などの原因に繋がってしまう場合もある。

「はい、決していたしません。大丈夫ですよ。私たちが責任をもって、管理いたします。」

口調を変えずにいうお医者さん。

「そうか。じゃあ何かあったら必ず言えよ。あの人には伝えないでおこうなんて認めないよ。頼むぜ!」

変にわらったりしないで淡々といい続ける態度が、杉三にとっては、一番確実にわかるのかもしれなかった。

「わかりました。今日は僕たちは帰ります。三人でホテルにいるようにしますので、何かありましたら、連絡をいただけますか?」

マークが今一度確認するように言った。

「了解です。では、そのようにいたします。」

「ありがとうございます。じゃあ、今日は1日よろしくお願いいたします。」

三人は、お医者さんに礼をして、静かにがんセンターをあとにした。

そのまま、がんセンターの近くにたっているホテルに三人で入った。何かあったら、一番にマークのスマートフォンに電話してもらうように言っておいたから、すぐに連絡が来るだろうと思ったので、娯楽室にでもいこうかと蘭は提案したが、杉三は、絶対に嫌だといって部屋からでなかった。まあ、こういうことがおきると、基本的に患者さんのそばを離れないのが杉三である。結局、レストランで食べようかと予定していた夕食は、マークの提案でルームサービスにより部屋で食べさせてもらった。蘭はこんな贅沢はするな!と言いたかったが、杉三が頑としていうことを聞かないため、渋々同意した。幸い、サラダもなにも全く残さず、きれいに完食してくれるので、ルームサービス料金は、無駄にはならなかった。

蘭は、マークに手伝ってもらって入浴したが、杉三は、それさえもしなかった。全く不潔だなと蘭は言ったが、そんなことは一大事の時にしたくないと杉三は頑固に断った。

マークも蘭も疲れてしまって早々寝てしまったが、杉三は、寝ることさえしないで、ずっと連絡が来るスマートフォンの前に張り付いていた。いくら疲れたらはやくねろといっても聞かなかった。

翌朝、枕元にあった大音量目覚まし時計の音で蘭は目を覚ましたが、杉三がまだ同じ位置でスマートフォンに張り付いていて、ビックリ仰天した。

「杉ちゃん、寝なかったのか?」

思わずそう聞くと、

「当たり前だい。連絡逃したらいけないから、ずっと待っていたよ。」

と、当たり前のように答えた。同時にマークも目が覚めて、

「すごいですね。こうして気持ちさえあれば平気でいられるなんて、ある意味達人ですよ。」

という。杉三の顔は隈すらなかった。

「じゃあ、すぐにルームサービスで朝ごはんしようぜ。そしたらすぐに病院で待たせてもらおう。」

「何を言っているんだ、病院は9時にならないとあかないよ。」

でかい声でいう杉三に、蘭が反対するが、

「玄関先で待っていればそれでいいだろ。」

ある意味、自分より人のいうことを聞かない男なのではないかと思う。

「杉ちゃんすごいですね。そうやって人のために全身で考えられるんですからね。僕は、つかれてしまって、とてもダメでした。」

マークは、とても感心していたが、蘭はある意味超人というか、変人ではないかと思った。

「でも、朝ごはんは、七時を過ぎないとでないので、まだ一時間以上ありますよ。」

「だったらこのままでもうしばらく待つよ。」

蘭は、本当にあきれてしまい、もう杉ちゃんは何を言っても聞かないなと思った。とりあえず、マークに手伝ってもらいながら、ホテルで指定された浴衣を脱ぎ、持ってきた着物を着用した。その間にも杉三は、スマートフォンに張り付いていた。

七時になると、おはようございます、といって、客室係が朝食を持ってきてくれた。このときは、杉三もしっかり食事をとった。この行為だけは絶対にはずさないのも杉三ならではである。そしてまた、連絡をまち続けるのだった。

杉三は、朝ごはんを食べたらすぐにがんセンターにいこうと言ったが、雨が降っていたので、九時まで待機しなければならなかった。マークと蘭は、仕方なく下らない朝ドラなんかを見て過ごしたが、テレビが大嫌いな杉三は、見ようともしなかった。元々、杉三の家はテレビが一台もないので、テレビを見る習慣もなかった。蘭もマークもテレビというものはもっていて、ある程度その効果を知っていたが、杉三は、テレビなんてうるさいだけで、本当の姿ではないから見ない、見たかったら直接見に行けばいい、なんて主張を繰り返していた。

そうこうしているうちに、時計が九時を示した。蘭たちも身支度をして、ちょっと緊張しながら、三人はホテルを出てがんセンターに向かった。

がんセンターに到着して、受け付けに聞いてみると、もう麻酔も切れていて、起きているというので、よかったなあといいながら三人は病室に入らせてもらった。ということは、やっぱりまだ初期で、さほど難易度の高い手術ではないらしい。

病室は個室で、なんだかホテルみたいな設備を有していた。というか、がんセンターの場合、よほどのことがなければ、個室を使うようになっている。

「やっほ!昨日はお疲れ様。どうにかこうにか無事に帰ってきてくれましたな。ほんとに生還万歳だ。」

杉三がまた選挙みたいに万歳をしないか、蘭は不安だったが、さすがにそれは分かっていたようで、そのようなことはしなかった。

「おう、終わった終わった。もうこんなに退屈な病院は困るわ。もう、さっさと出て、お客さん待ってる仕事場へ帰ろうな。」

「師匠、せっかくだから、ここでちょっとのんびりしよう何て言う気持ちにはならないんですか?いつも多忙なんですから、少し楽が出来て嬉しいのでは?」

でかい声でそういう和美に、蘭は言ったが、

「何を言っているんだ。わしは針を持ち、鑿をもっている時間が一番嬉しいよ。二人とも、そのくらいにならないと、職人は勤まらないぞ!」

と、言われてしまった。

「本当にそれ一筋なんですね。ヨーロッパでは、副業することも割りと多いから、一つのことに徹底的なんて人は少ないですよ。」

マークがそういうほど、確かにこういう人は珍しいかもしれなかった。

「そうだねえ。中途半端に二つの仕事するよりさ、人生のまとは、一つがいいよね。いいね。こういう生き方、好きだなあ。」

杉三はそう言うが、蘭はピアノを弾くために、多くの人を巻き込み、結果的に自分の体も壊してしまった水穂を思い出して、果たしてそれはどうなんだろうか、という疑問を持ってしまった。

「僕もすごいと思いますね。まあ、他人に迷惑かけないでできるだけ平和にと教えられる事が多いんですが、人間、自身の空虚感にも耐えられないですからね。それだったら、一本の道を走るというのも悪くない気がします。」

マークも杉三の意見に近いようである。

「馬鹿者!迷惑をかけないでなんてできるはずがないんだから、そんなことを気にしていたらいかん!逆に、他人にかけた迷惑が重大な思い出になることもあるから、もう人間という以上、喜んで迷惑をかけろ!」

「あ、あ、はい。すみません。」

「口ごもらなくたっていい。はいと一回言えばそれでいいんだ。」

「はい。」

蘭は、自分もこうやって叱責されたなあと思いながらそれを聞いていた。はじめのころは、何かある度に馬鹿者が飛び出すので、本当に怖い人だと思っていたが、そうでもないなとわかってきたのは、大学の教科書をごみに捨てたときからである。入門したばかりのころは、絵の書き方などのほとんどは、大学の美術書からヒントをもらっていたが、尽く叱責され、もう教科書は役にたたなくて捨てることにしたのだ。それから師匠の態度が変わりはじめたのである。

「よし、馬鹿者が出れば大丈夫だ。馬鹿者は彫菊師匠の十八番だもんね。これさえあれば大丈夫だよ。多分、傷が治ればまた復活するよ。」

杉三がそういうくらい、この言葉は、師匠のトレードマークかもしれなかった。

「おはようございます。」

昨日のお医者さんがにこやかにやって来た。あのときはマスクをしていたからちょっと変な顔だったけど、とってしまえば穏やかで優しそうなお医者さんだとわかった。

「あ、昨日はどうもありがとね。ちゃんと約束守ってくれて嬉しいよ。もうさあ、病院って意外に約束しても、すぐ破るんだよ。もう非常に困るといっても、ちっとも改善しない。でも、ここはそういうことは無さそうだね。ちょっと、僕たちが将来利用する時に、参考にするよ。」

また杉三がおかしな発言をはじめたが、お医者さんはにこやかに聞いていた。

「はいはい、いつでも来てくださいね。来てくれれば、しっかり対応しますよ。」

「遠い将来にね。だって病院なんて、ほんとはさ、青柳教授がやっている製鉄所と一緒で、繁盛したら悲しくなる商売の一つだもんね。病院が繁盛したら、みんな健康じゃないってことだからな。原住民は無医村が多いから、みんな健康についていろいろ気を付けているようだが、かえってそういうところに頼らないで、自分で管理する能力は高いのではないか、と教授がよく感心してた。」

杉三がこの話をするとマークも和美も失笑した。蘭だけが、何で偉い先生に向けて失礼なことを言うんだと言ったが、

「いやいや、わしらもな、若い頃はそうだった。何しろ1人欠けたら困るんだからな。日頃から気を付けておかなくちゃ。だからこそやむを得ず倒れたときは、嫌がらずに介抱してもらうことができるのかもしれないぞ。」

と和美はいった。確かに、機械化されていない時代だったから、個人の責任も大きいだろうし、個人の実績というか存在感もそういうことで示せることはわかった。

「そうですね。今は、パソコンが何でもやるから、人がどれくらい必要なのかなんて、あんまり考えないですよね。」

「そうだよ、マーク。だから悪い面ばかり気にするようになって、いじめだとかなんだとか、そういう風になるんだ。わしらのころには、気にしなくてもよかったようなことまで、今の時代はいじめの理由になっているからな。」

蘭は、やっぱり師匠には敵わない、と、改めて尊敬の気持ちがわいてきた。

「えーと、菊岡さん、抜糸がすんだら、確かドイツへお帰りになるんですよね。」

不意に、お医者さんがそう発言する。

「はい、そのつもりですが、いけないのでしょうか?」

マークが不安そうに聞き返すと、

「じゃあ、生活の注意とか、早めに申し渡すようにしますね。あと、冊子なんかもお渡ししますから、お時間のあるときに読んでくださいね。」

と、お医者さんはこたえた。

「そうじゃなくてさ、いけないのかと聞いてんだから、それについて答えろよ。」

また杉三が口を挟むと、

「はい、全く問題ないですよ。」

態度を変えずにお医者さんは答えた。そういうことができるんだから、確かにこの病院は、超一流であることは間違いなかった。

「じゃあ、もう少ししたら、成田に連絡してきますね。飛行機の時間とか調べておかなきゃ。」

「できれば、というかファーストクラスにしてやって。のんびり帰れるようにさ。」

「あ、そうですね。確かに体への負担を考えるとそうした方がいいですね。」

「そうだよ。日本の航空機は、ちょっと粗末だから、普通のクラスでは、かわいそうだよ。」

「はい、来るときにそう感じましたよ。飛行機だけでなく、電車なんかも。なんか冷たいなあというか。空港の人も、駅員さんもなんだか無愛想だったし。」

「あー、すまんすまん。もう、日本人はブスッとしたひとばっかりだからさ、ちょっと勘弁してやって。でも、悪いやつばかりでもないよ。それは、日本人として、自慢できる。日本人はわざと無表情ではいるが、そのうらに、喜びや悲しみをいっぱい抱えていることが多い。」

「よくわかりませんね。そういうことは、すぐに口に出して言うもんだと思うんですが。それなのに、皆さん無愛想な顔しているから、ちょっと怖いくらいでしたよ。」

確かに、マークのこの発言は、ヨーロッパ人なら大体感じる疑問である。多分、そういうことは、すぐに喋ってしまうのが当たり前なのだろう。

「そうだねえ。まあね、わかんなかったら、自分のことで他人に迷惑かけたくないから、みんな無愛想になってしまうと思ってくれや。自分は、こんなに辛いが、せめて他人には幸せになってほしい、そのためには自分の発言はしない。これが日本には大昔からある。」

「あ、そうですか。なんだか、不合理な。」

杉三の答えにマークはよくわからないようだったが、

「そういうことかも知れないな。古代の文献などには、そういう場面も数多くあるぞ。お前も、はやく漢字を読めるようになって勉強しろ。」

と、和美も同調した。蘭は、単に他人と接するのが面倒くさい人が多いだけだと言おうとしたが、この答えをいったらマークは幻滅するだろうな、と思ってやめた。

「せめて、製鉄所にいってもう一回挨拶していきますか?青柳先生にも、お世話になったし。」

「いや、いい。懍ちゃんも頻繁に東京へいかないといけないようだし。いまは、いろんなところから講演を頼まれて、忙しいようだ。あいつも大変だな。日本の教育は、ちっとも変わろうとしないから。挨拶なんかしないで帰ってくれたほうが、安心だといっていたぞ。」

青柳教授らしい解釈のしかたであるが、それだけ日本は問題が多いということなんだろうなとわかる。

「それじゃあ大変ですね。なんか、そういう風に警告してくれる人がいてくれればいいのに。」

「全くだ。この蘭のように、変な西洋文明にかぶれすぎて、日本の伝統を忘れすぎた若い人が、本当に多すぎるんだ。本当はな、わざわざドイツで日本の伝統刺青を教えようなんてことは、要らないんだよ。」

和美は、ちょっと寂しそうにいった。

「ほんとだね。蘭のお母さんの会社もそうだよね。なんか優れたものは次々にヨーロッパにいっちゃってさあ、そのうち頭はでかいが内容は空っぽの国家になっちゃうよ!」

杉三がそう結論をだしたので、またマークたちは笑い出した。でも、確かにこの現象は問題だと蘭は思った。産業だけではなく、教育も経済的にも、古くからあったすごいものをもう一回使ってみれば、一発で解決できそうなのに!という問題は日本には多い。なんか、そういうことをどんどん捨ててしまっているような気がする。技術大国とはいうが、古来からあるものを放置しっぱなしでは、たんに西洋の物真似をしているのにすぎないのではないか?

「まあ、しょうがない。なったものはなったもので、わしらはやっぱりドイツで暮らしていくしかないよ。確かに悲しいことだけど、日本の若いひとに、伝統を教えていこうなんてことは、あきらめた方がいいのかもしれないよ。もちろん、歴史的なことをいうと、ドイツもナチスなんてものがあったりもしているから、似たり寄ったりかもしれないけれど、ちゃんと反省して、もう一回やり直そうとしているところが、決定的に違うかな。」

そうだよな。前向きとはよい言葉だが、こういう弊害も生じてしまうのか。

「いいなあ。僕らもそういう国家にいってみたいなあ。僕みたいに、日本の古いもんが大好きな馬鹿もここにいるぜ。」

「杉ちゃん、そういうのなら、馬鹿のまま、空っぽが進むのを止める役になってくれ。」

杉三の発言に和美がそういう。

「いろいろあると思うが、君みたいな人は、そういう役目があるんだと思うよ。足が悪いとか、目がみえないとか、そういう人は、意外に重要な役目があるのではないかと思うよ。」

「いやいや、任務なんて、緊張しちゃう。馬鹿は、馬鹿のまま、のらりくらりと、明るく楽しく生きていけばそれでいいのさ。馬鹿には、任務の意味もわからないよ。」

でかい声で、杉三は笑い飛ばすが、蘭は師匠のような考えをしていれば、杉ちゃんも英雄視されるのかなと思った。

同時に、二人がドイツに帰ってしまうのが残念だと思った。

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