第八章

第八章

東臼塚から戻ってきて、千恵子はもうしばらく製鉄所にいたいと思ったが、たぶんこれはやってはいけないだろうなと思い、その翌日に山梨に帰ることにした。もう、懍から十分な給金はもらっていて、小淵沢に帰る電車賃は払うことができた。

もう、学校の先生になるのは無理だなと思った。きっと学校の先生という職種は、自分みたいな恵まれすぎた人間にはできないなと思った。もし、やるとしたら、水穂さんとか、菊岡さんとか、そういう人たちのほうがよほど向いているのではないか。だって自分は、一度逃げているんだもの。あたしは、方向を変えることに美徳を見出してしまっていては、人なんて教える職業には就けないだろうなと思う。それなら、仕方ない。もうやめるしかない。鳥あえず、山梨大学には入学したんだし、国立大学に行っているのだから、ある程度の称号は持てることは確実だ。だから、それを使って、会社員にでもなればいいや。千恵子はそう思っていた。

きっと、それでいいんだと思う。高校時代は、先生という仕事は安泰が得られるから、と言って強く勧められた。音楽を職業にすることはできないから、せめて学校の先生になって、偉い人とみなされるようになって、安泰な生活を得て幸せになれ、としょっちゅう言われていた。でも、安全路線ばかり優先しすぎるのも果たしてどうなんだろうか。学問を教えるということは、子供を安全な人生へ逃がしてやるということではないはずだ。そこを勘違いしてはならない。

この製鉄所に来させてもらってから、学校に行くという意識がだいぶ変わったような気がする。学校は学問するところというのは当たり前のことだけど、それは明治くらいまでで終わってしまったのではないだろうか。製鉄所の利用者さんたちは、大体の子が学校でのいじめや、進路関係のことで家族ともめたりして、それでやってくるが、私は何だろう。それに対して答えなんか言えるのだろうか。基本的に、彼らの話を聞いていると、安泰を得られないからと言って、本当にやりたいことを禁止させられ、そこで家族とガチバトルが生じてしまい、そのせいで病んでしまって、社会的に適応できない人になってしまったという人が非常に多いのである。安泰を得ることがそんなに大事かといいたいが、結局のところ、それが一番大事なことで、他人に迷惑をかけず、できるだけ自己主張しないで生きていくことが正しい生き方なんだと思う。きっと、親は苦労をしないで生きていくことが何よりも子供に望むことというか、やってほしいことなんだと思うし。

でも、そんなことを考えていると、心にぽっかり大きな穴が開いてしまったというか、なんかむなしい気持ちがしてしまうのはなぜなんだろうな。それが正しいと結論が出たのに、なんでこんなに寂しいんだろうか。正しい生き方って、こんなに寂しいものなのかな。もしかしたら、この寂しさというものが「安泰」というもの?

まあ、確かに、自分は国公立大学にも行っているし、どこかの会社で雇ってもらうことも比較的早くできるだろう。そうなれば、普通に仕事をして、普通に金をもらっていれば暮らしていける。逆を言えば、お金さえあれば、食べ物は普通に買え、お金がなければ食べ物は買えない。それこそ幸せな人生じゃないかと皆口をそろえて言うけど、何か足りない。ただ、それだけでいいの?それを得るために、ただ機械の前に座って、キーを打ち続けて、椅子にずっと座ったまま退社時間まで過ごして、の毎日を定年するまでやり遂げるの?自分の人生は、それでいいの?

そのために、国立大学に行き、教員を目指すなんて目標を立てていたのなら、本当に馬鹿といえる。

馬鹿だよなあ、安泰な人生って、結局こうするしかないのか。

結局、毎日何もないってことじゃん。

何も知らなかったんだ。

やっぱり、あたしは、ダメか。

と、いうことはつまり、存在しないでもよかったんじゃないのかなという思いが疼く。

なんか、大人は子供がほしいと口に出していうけど、それって、なんのためなんだろうね。

例えば、商売をしていて、その後継者がほしいからというのは理解できる。商売は、これからも必要だろうし。誰でも、ものを買って生活しているのだから、それを提供する商売は、やってくれる人が必要になるだろう。でも、それ以外の人であれば、別に無理して子供を持たなくてもいいんじゃないかと思う。だって、子供を持ったとしても、子供にはもうやることがない。ほとんどのことは、大人や年寄りが占拠していて、永続的に続いていく必要もない。そういうことを提供できないで、ただ、自分の自慢要素にしたいだけだったら、子供がかわいそうなだけである。だって、生まれたのはいいけれど、生きていく糧がないんだもの。

時々、青柳先生がしてくれた原住民の話はよく覚えている。機械文明を拒否した原住民は、家事一つとっても、大変な手間も時間も費やすことが多いため、一人で掃除や洗濯など全部をこなすことは不可能である。だからこそ、自動的に家族が多くなるし、家事だって複数の人が分業することができるから、それらのことで、役割分担ができ、一つの暮らしを構築していくことができているという実感が持てるのだろう。原住民に自殺が少ないのは、そういうことで、生きている必要があると、感じることができるからだ。

まあ、ここはそういう社会ではないので、そんな暮らしは不可能だ。じゃあ、あたしはどうしたらいいかな、、、と思うけど、答えが出ない。かといって、ただ大学で学問して教師になっても、教育者としてやっていくことはできないなと思う。だって教えてやれることは何もないもの。それに、これからの人には、あたしのように、だまされてもらいたくないから。そして、あたしも、だますようなことはしたくない。そこだけははっきりしている。でも、代わりに何をやったらいいものか。どっちにも行けないじゃないの!

そうなると、今度は怒りが生じてきて、とても親に対して生んでくれてありがとうとか、そういう気持ちは怒らず、なんで無責任に子供を作ったのよ!という気持ちのほうが多くなる。

そんな気持ちを持ってはいけないことは、倫理の授業でさんざん聞かされているから、一生懸命消そうと試みるが、なぜか増加してしまうのだった。それは自分の中で処理するのは非常に難しかった。

そんなことを考えながら、中庭を眺めていた。時に池に設置されている鹿威しが、水がじょろじょろと流れる音の間に、さわやかにカーンと鳴ってくれるのであるが、それが何回なったのか、勘定するのも忘れていると、いつの間にかあたりはものすごい夕焼けになっていて、もうとっくに夕食時間になってしまっていることに気が付く。

ふいに後ろから誰かが咳をしながら歩いてくる音がする。この特徴的な音声を出す人物は、もうこの人だとすぐわかる。

「ここにいらしていたんですか。」

後ろを振り向くと、予想通りに、水穂さんその人が立っていた。

「ど、どうしたんです?」

と、思わず出てしまう決まり文句。

「どうしたって、恵子さんに頼まれて呼び出しに来ただけですよ。」

「そうじゃなくて、いいんですか。立って歩くなんて。」

「まあね、だれでも横になってろというんですけどね。それしか言われないのも結構つらいんですよね。どうせ呼び出して、食堂へ集合するのでしょうが、一人だけその逆方向へ行くというのは、どうも悲しいですよ。」

と、言いながら水穂は千恵子のすぐ隣に正座で座った。本来はすぐに部屋へ帰れとかいうべきなんだろうが、千恵子にはできなかった。

「たまに体調がいいと、僧都でも眺めているのも悪くないです。僧都なんてのんびりしすぎていて、あんまり好きではなかったんですけどね。演奏でたまたまニューヨークに行ったときに、なぜか銀行の待合室に僧都があって、なんだか海外の人が面白がるのかなと考えると、ちょっと印象も変わりましたね。」

僧都というのが鹿威しのことだと理解するのに数秒かかったが、確かにそういうものかなとも思った。

「まあ、アメリカなんて本当に気ぜわしいところですから、早くからそういうものには目を付けたんじゃないですか。」

その通り、とでも言いたげに鹿威しがまたカーンと鳴った。

「あ、こないだはすみませんでした。あんな、迷惑な発言してしまって。本当にごめんなさい。」

千恵子は、それだけはどうしても伝えたかった。これをしないと、小淵沢にかえっても、わだかまりが残ってしまうと思われたので、急いで発言した。

「あ、もうかまいません。明日帰るんですってね。まあ、きっと卒業演奏とかそういう行事の準備になるんでしょうけど、何を弾くのかは大体予測できますが、悔いのないようにしてくださいませよ。」

たぶんきっと、すでに音楽学校を出ているから、大体の人が何を弾くか、つまり演奏会の決まり文句的な楽曲は知っているんだろうなと思う。

「そうですね。でも、もう無理かなと思うんですよね。音楽でやっていくのには、きっと水穂さんと同じくらい実力がないと今はだめだろうし。かといって、私は教育者として教えてやれることなんて果たしてあるだろうかと考えると、何にもないなと分かったので。もう、大学出たら、どっかの会社にでも入るしかないかなと、、、。」

「まあ、確かに教師なんて、ほんとに頭が空っぽな人は多いですからね。もうそれについて何も知らないで、権力をふるうしかできない人ばっかりですよ。それほど役に立たない人って、果たしているのかなと思うくらい。」

ああやっぱりか。そこまで考えられるなら、あたしなんて全然ダメじゃん。

「でも、それを撤去してしまうと、何もないんでしょう?」

「はい。」

その質問には素直にそう答えを出した。

「それなら、あるものを勘定していくほうが良いのではないですか?何もないってらくなように見えるけど、人間、結構つらいですよ。」

「だって、あたしはもうだめなんじゃないですか。学校の先生なんて、教えるものがないとやれないでしょ。それがないんですもの。それなら、あの和美さんみたいな人のほうが、よほどたくさんのことを教えてあげられますよ。」

正直に本当の気持ちを言った。だってそうじゃないか。教えるものが何もなかったら、教師とは言えない。

「まあ、そうなのかもしれませんが、師匠だって、若いころには何も知らなかったわけで、生きていながら得たことを、そのまま口にしているだけだと思いますよ。まあ、確かに、伝えられるか、できないかは人間性の問題だとは思うんですけど、内容はものすごい普遍的なことですからね。」

そうはいっても、やっぱり教えてやれることはないなと思う。

「たぶんこれもみんな忘れていくんだと思いますが、基本的にどんな学問でも伝えることって、一つか二つくらいのことなんじゃないかと思いますね。そこさえ押さえておけば、もう少し教師も自覚してくれるんじゃないかなとは思うんですが、、、。今はどうなんだろう。」

「も、もう、本当は和美さんのような人に教育現場に来てほしいくらいですよ。ほかの先生たちに喝を入れてくれるような人が、一人か二人はいてほしいわ。ほんとはね、水穂さんだって、そういう人であるはずなのに。」

「いや、無理ですね。教育現場なんて、体に邪魔されてとてもできませんよ。」

そこだけははっきりしなければいけなかった。もう教育現場とかそういう物には手を出すことはしたくない。

「見ればわかると思いますけど、これでは何もできないですから。」

千恵子からしてみれば、なんだかそれではとてもつらいというか、もったいない人だと思った。

「水穂さんは、どうして音楽家になろうとしたんですか?」

思わず千恵子は聞いてみる。

「いや、なんなんでしょうね。何もわかりませんよ。ただ成り行きに任せて生きてきたのかなっていう感じです。結果としてこういう体になりましたから、具体的な目標なんて立てる暇も何もありませんでしたよ。えらい人たちが、先人たちの意思を継ぐとか、作曲者の意思を伝えるとか、そういいますけど、そんなこと考えたことは一度もないです。あっても、今日の米代を得ることくらいかな。もう、それくらいしかありませんでした。おかしいかもしれないですけど、結局それしかないですよ。」

ずいぶん世俗的なセリフだったので、思わずぽかんとしてしまう千恵子。ピアニストとして活動していた人が、本日の米代なんて発言するのは前代未聞である。

「じゃあなんですか。そのためにゴドフスキーなんて、あんな難しい人の曲を弾いていたとでも?」

「はいまさしく。ほかに手段がありませんでしたから。」

水穂も、今時の若い人は同和問題なんて全く知らないんだなと思うのだが、そのほうが良いと思わざるを得なかったことも多々あり、複雑な気持ちになってしまう。

「まあ、そういうことでした。本当に恥ずかしい話ですが、それしかないのでそう答えるしかないですね。それでもピアノ一本にすがって生きてきましたから、それによって得たものはあったといえばありましたよ。そういうこともありましたので、何か一つあるってことは捨てないほうが良いのかなということは何となくわかります。だから、やっぱり教育学部に行ったという、本来の目的は捨てないほうが良いと思うんですよね。」

「だから、言ったじゃないですか。教えることがないからあたしには無理だって。」

「いや、あるじゃないですか。無知の知という言葉だってあるんですから。今はなくても長年やっていけば自然に身についてきますよ。まあ時代が時代ですから、多少困難には直面するとは思いますけど、それだって何か得るためのきっかけというか、そういうことにつながっていくと思いますから、やくに立たないということはないと思います。」

「つ、つまり、今は何もないのに、そのまま教員になってしまえとでも?だって、教員というのは、教えるのが仕事でしょ、それがなかったら、何もできないじゃありませんか。ただ、教壇の前にたって、生徒の前で勉強を教える教員なんて、無意味極まりなくて、生徒がかわいそうですよ。」

とにかく、それを言わないとダメなんじゃないかと思った。千恵子は、自身にとって一番欠けていることはそれだと確信していて、もうあきらめるしかないのだと伝えたいが、水穂さんはどうしてわかってくれないんだろう。

「まあ、確かにね、、、。それもある意味では必要なのかもしれないですけど、僕からしてみれば、余計な事考えないでほしいなと思うんですけどね。」

「ですけど、事実は事実ですから、それをわざとまげるのはやめてください。お年寄りって、そういうことがあるから非常に困るんです!」

千恵子は思わず声を荒げてそう言ってしまう。

「あ、ごめんなさい。言いすぎましたね。他人が、人生には口出ししてはなりませんからね。」

水穂はもう疲れてしまったのか、三度せき込んだ。千恵子は、急いでハンカチを出し、彼に手渡してやった。

「すみません。もうどうしようもないですね。若い人から見ると、ダメな人にしか見えないんでしょうね。まあ、確かにダメですけど、少なくとも、ピアノをやっていて、ここまで来たかな。こういう人が、この分野で大成するというのは、ある意味アウトローの力もないといけないんですけど、その必要がなかったことだけは有利なのかもしれないですよね。もし、何か得るものがどうしてもほしかったら、音楽一つに着目してみると、意外に何か得られるのではないかなとは思います。」

そこまで言って、もう疲れきってしまったらしい。立て続けにせき込んで、指の間から赤い液体がどろどろと流れてくる。

「だ、大丈夫ですか。休まなきゃ、いけないのでは、、、?」

それだけしか言えないが、どうしなければいけないかは本人も彼女もわかっていた。幸い、さほど大量ではなく、数十回で止まったため、渡されたハンカチで手を拭くくらいの余裕はあった。

「すみません。こんなおぞましいところまで。」

と、彼はいうが、千恵子はどうしてもそれをせめてどうするかという気にはならなかった。

「もう、若い人に言えることは、こんな失敗はしないでもらいたいというだけかな。」

千恵子にとっては、ここまで演奏技術がある人が、自身のことを失敗というのはおかしいなと思うのだけど、、、。

「すみません。戻らないとだめですね。もう、疲れてしまって。もし、これが見つかったら、教授にも恵子さんにも、叱責されることになりますから。もう、本当に情けないですね。いつの時代も、人間といいますのは、最期はごみみたいになっていくわけですから、ベートーベンのように後世まで語り継がれるって、本当にすごいことになるんでしょうね。」

「そんなことないですよ。」

と、いうが、それだって根拠は何もないので、発言しても意味ないなと千恵子は思った。

「千恵子さんも、早く食堂へ行かないと、叱られますよ。もし、何か言われたら、責任は取りますから、遠慮なく言ってくださいませ。」

なんでまた責任なんてと千恵子は思った。なので、責任をとらなくてもいいように、今のやり取りは行われていなかったことにすることにし、絶対に他人には漏らさないと誓った。

立ち上がって水穂は、自室に戻っていった。鴬張りの廊下を歩く音と一緒にせき込む音が混じったので千恵子は心配で仕方なかった。ふすまが閉まる音が聞こえてきて、無事に四畳半に行ったんだなとわかったので、急いで食堂に行くことにした。そのころには、夕焼けは完全に黒色に変わっていた。

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