第五章
第五章
製鉄所に帰ってきた懍は、とりあえず四畳半のほうへ行った。
「入りますよ。」
ふすまを開けると、水穂は布団に横になってはおらず、座って何か考えていた。
「あ、すみません。寝てないとだめですよね。どうも横になる気になれなくて、そのままでいました。」
懍は、静かにふすまを閉めた。
「いえ、あらましは恵子さんに聞きました。少しおつらいセリフを言われてしまったと思いますが、悪事をしたわけではないのですから、堂々としてくださいませよ。」
「はい。」
返答に力がなかった。
「気にするなと言われても、ご自身の自尊心を侵害されるということは、結構癪に障ることだと思いますので、嫌だと思ったら、遠慮なくやめろといってしまってもよかったと思うのですけどね。」
「いや、どうでしょうか。かえって変に刺激して、余計に説教されるだけではないでしょうか。」
まあ確かに、よけいにそうしてしまう若者も、今の時代では多くいる。
「いいえ、いいんですよ。今の若い人は、順風満帆に育ちすぎていますから、そうやって方向転換をすることを、美談のように話すと思うんですけど、それはある意味では逃げているということですから、周囲への甘えにもつながります。そのような人が、果たして社会に出て、非常な理不尽に遭遇した場合、耐え抜くことが可能なのかどうか、よく考えてみてください。利用者にもよくいますけど、初めて社会に出て挫折し、それが大きすぎて対処できなくなる者が多いでしょう。それに、耐える練習だと言わせておけばいいのです。それに、他人の自尊心を、立場を無視して傷つけることは、ある意味立派なマナー違反とも取れますので、そういうことを教えていくのも、僕たちの役目だと思うんですよね。」
懍は、いつも通り、独自の解釈で言った。
「まあ、来年の夏はエアコンを掃除するときは部屋を変えるとか、そういう風に工夫しなければなりませんね。もちろん手伝い人も雇うことも考えますし。いずれにしろ、気象庁に勤務している方にお話を聞きましたが、彼岸を過ぎれば、あまり暑さが到来することもないようなので、もうしばらくしたら、楽になると思います。」
「楽になりますかね。なんだか、もう、来年の夏の事を考えるのも、嫌になりますね。」
「そうはいっても仕方ありませんよ。今年の失敗を繰り返さないためにも、対策を練っておくことが肝要でしょう。きっとこれからは今まで以上に暑く成って、エアコンの掃除も追いつかなくなるほど稼働していなければいられないほどになると思いますよ。」
いつもの、厳しい口調であった。
「来年か。あと、何回聞けますかね。なんか、もう無理なんじゃないかと思いますけどね。」
「無理というか、そうしなきゃいけませんよ。いつの時代にもその言葉は飛び出すでしょ。」
「いや、どうですかね。近いうちにそれも聞けなくなると思いますね。」
「と、申されますと?」
「あ、教授が学会に出かけているときに、華岡さんと山田先生が見えましてね。まあ、華岡さんがどうしても、僕に手術を受けてほしいということを伝えたくて、山田先生も一緒に来て下さったようなんですが。」
「そうですか。やっぱり華岡さんらしい来訪形態ですね。彼のような小心者が、どうして警視まで昇格したのか、僕は不思議でなりませんよ。本当に、彼のような管理官に動かされて、部下の人たち、やりにくいのではないでしょうか。」
懍は、全くあきれたと思いながら言った。同時に、華岡まで心配してやってきたとは、思わず驚いてしまった。
「その時にね、山田先生が、もって数年程度だと言ったんです。まあ、華岡さんがそういうようにと演出したのかもしれないのですが、長く医師を勤めてきた山田先生が言う以上、間違いはないと思ったんですよ。」
「あ、わかりました。それなら、そうしなくちゃいけませんね。」
懍は、変に取り乱すこともなく、いつもと変わらないクールな表情でそういった。これには、水穂のほうがびっくりしてしまったくらいだ。
「驚きはしませんよ。そういう数字なんて全く役に立ちはしませんし。そもそも、そういわれても仕方ないなと、前々から思ってましたから。それに、昨日まで元気だった人が、いきなり逝ってしまうということは、戦時中に数多く遭遇しましたので、もう慣れておりますから、遠慮なくどうぞ。」
「あ、あ、そうですか。すみません。どういいだそうか、迷っていました。」
「迷わなくても結構です。自身の事を自身で説明できないでどうするんですか?」
やっぱり、懍は厳しいままであった。
「ごめんなさい。もうちょっと強く成らなきゃだめですね。」
「まあ、それを責めても仕方ないので、次の対策に移りましょう。とりあえず、まだ製鉄所の方々にはそれは伝えないほうがいいと思いますね。大体ここの会員はそういうことに直接立ち会う原因はほとんどないと思いますから、免疫はほとんどないでしょう。恵子さんにも、まだ伝えないほうが賢明です。あと、蘭さんには、ぎりぎりまで黙っていたほうがいいですね。」
「あ、はい。確かに、僕もそう思います。ああいう人ですから、業務にまで支障が出たら、困ります。彫菊師匠の見舞に行ったところ、何かあったらすぐに慌てて騒ぎ立てる癖をやめろと、叱られて帰ってきたようです。」
確かに想像できる。蘭という人は、そういう事例には非常に弱い。かえって杉三のほうが強いかもしれない。というか、エリート大学へ進学した人というのは、こういう事例に対して、抵抗力があまりない傾向があった。日本だけではなく、ヨーロッパでも同じだった。
「そうなんですよね、蘭さんは。僕もドイツにいたころ、しょっちゅう蘭さんから彫菊師匠から怒鳴られたと、電話などで愚痴を聞かされておりました。まあ、彼の場合は里子のような環境でしたし、大学もエリートばかりが集うところなので、怒鳴られる経験が少なかったのでしょうね。蘭さんは、結構自信を無くされて落ち込んでいたようですが、僕は彫菊師匠に手紙を送って、真偽を確かめたことがありました。それによると、蘭さんは優秀な大学を出て、大学院まで修了しているので、美術の知識は非常に多いのですが、それを日本の伝統刺青に持ち込もうとすると、伝統刺青の形が崩れてしまうので、何とかそこを断ち切ってほしいために怒鳴っていたそうです。そのためには、どうしても怒鳴るしか方法がないのだと、師匠はおっしゃっていました。」
「そうですね。昔から頭でっかちなところはありますからね。」
全く、あいつらしい怒られ方だな、と水穂は苦笑いした。
「しかし、蘭さんが、うまれて初めて刺青の展示会に出品して、第一等を受賞した時は、彫菊師匠は、飛び上がるほどうれしかったそうです。ですから、これまで怒鳴ったことを謝罪し、大いに誉めてやったともおっしゃっていました。まあ、そうやってちゃんと筋を通したので、蘭さんはちゃんと独立し、刺青師として、今も仕事ができているわけですから、怒鳴られたということも、悪いことではないのではないでしょうか。」
「そうですか。まあ、しっかりと理由が明確になっていれば、怒鳴っても、相手にはよい思い出として残ってくれるもんなんですよね。」
水穂もそういえば、数多く色んな人に怒鳴られたことを思い出す。もちろん、理不尽な怒鳴られ方も数多くあって、もう思い出したくもない怒鳴られ方もあるが、あの時怒鳴ってくれてよかったなと思ったことも結構ある。
「ええ、そうですよ。ですから、彼女がそう発言した時も、水穂さんだって怒鳴ってくれてもかまわないんですよ。ある意味人を馬鹿にしているのにもつながりますからね。誰でもそうですが、若い人たちに馬鹿にされながら逝くのは嫌でしょう。」
「僕は、怒鳴るなんてそんな体力はありませんよ。」
そんなことはとても無理だ。というより気力がない。
「いいえ、本当は、甘えを武器にして生きている高校生たちに、そんなことはけしからんと、怒鳴ってもらいたいものですよ。そうやって、苦学することの大切さも伝えておやりなさい。このままだと、日本は豊かになりすぎて、本当に必要な学問さえも、若い人は不用品であると勘違いし、本来能力があるはずの若者が、全滅することになります。」
「でも、同和地区の出身者と言えば、何をしたって、無効になってしまうのではないでしょうか。馬鹿にする技術は年々磨かれていますから。」
「いいえ、真実を伝えるのに階級は必要ありませんよ。それよりも、相手に確実に伝えることが大切です。時にはそうやって怒鳴ってもよいのではないでしょうか。例えば、原住民なんてしょっちゅう怒鳴っていましたけど、それは木から転落するとか、ライオンに襲われるとかして、常に誰かが死去する可能性が身近にあるからでしょう。ですから、そうなる前に相手に伝えなければなりませんので、一番確実な方法を選ぶんです。怒りというのはね、嫌な感情と取られがちですけど、一番相手にわかりやすい感情でもありますから、そう考えると、決して悪いものではないと思います。」
「そうですか。体力的にできるか不詳ですが、まあ、やってみることにします。」
水穂は、また苦笑いをした。本当は、怒鳴ろうとして声を出せば、声より血液のほうが先に出てしまうのであるが、、、。
「じゃあ、とりあえずはそういうことにしましょうね。これからは、やり残したことがないかどうか、常に確認しながら生活することを心がけてください。晩御飯までまだ数時間はあると思いますから、しばらく横になっておやすみなさい。たぶん、千恵子さんも、そのうち反省してくれるのではないかなと思います。暫く彼女には考えさせることも必要でしょう。いつも通りにしていてくれれば全く問題ないですよ。」
「わかりました。」
結局これか、と思いながら、水穂は敷布団の上に横になった。
「じゃあ、また、晩御飯ができたら持ってこさせますから、しばらくお休みになってください。結論を出してしまったら、それ以上無意味に考えを続けることはおやめなさい。それは返って体に毒になります。」
「はい。」
静かにかけ布団をかける。もう、かけ布団は必要なものになっている。
「それでは失敬。」
懍は静かにふすまを開けて、部屋を出て行った。水穂は、それを見ながら、戦時中の人は、自身の死期について、あまりくよくよ悩むことはしなかったのかなと思った。
一方。
杉三の家では、杉三と蘭が昼食をとっていた。
「おい、蘭、鳴っているぞ。」
みそ汁を飲みながら、杉三がそういった。
「へ?何が?」
「スマートフォン!」
そういえば、マナーモードのままにしていたんだった。急いで鞄の中に手を入れると確かに音がなっていた。
「はい、もしもし、伊能ですが。」
「あ、こんにちは。先日はどうもありがとうございました。」
電話をよこしてきたのはマークだった。
「あ、その節はどうもです。で、今日はどうされたんです?」
「ええ、ちょっと言いにくい話なのですが、師匠が、ちょっと検査結果があまり良くなかったんですよ。」
「では、ステージ1から2に移行してしまったとか?」
蘭はヒヤッと全身が冷たくなる。
「いや、それはありません。そこははっきりしています。新たな腫瘍が発見されたとかそういうこともありません。でも、肝臓の中でも場所が悪いので、手術日程が前倒しになりました。なので、もしかしたらということもあり、最期に富士山見させてやりたいなと思っているのですが。」
「富士山?」
「はい、そうなのです。やっぱり富士山は日本一の山ということもあり、師匠も喜ぶんじゃないかなと思うんで、、、。」
まあ確かにそうだ。富士山と言ったら日本の象徴だ。かつては危険な山ともいわれていたが、その美しさはやっぱり、多くの日本人が芸術の素材にしている。
それを見たいと言い出しても、別におかしなことではない。
確かに、マークが言う通り、和美の年齢を考えると、最期に一回富士山を見られる可能性は極めて低いと思った。
「しかし、富士山の登山シーズンは終わってしまったよ。もう9月の上旬で終了と言われているんだ。それに、あと二、三日したら、初冠雪も出るだろう。」
初冠雪が観測されれば、あまりの寒さで五合目も立ち入りできない。
「いいことがあるぞ、蘭。富士山本体の登山シーズンは確かに終わってしまっているが、東臼塚の当たりなら、まだ登れるんじゃないかな。」
いきなり杉三が蘭のスマートフォンをひったくった。
「おい、何をする!」
蘭が驚いても何のその。杉三は無視して話し始めてしまう。
「あ、初めまして。僕は蘭の親友で影山杉三です。杉ちゃんと呼んでね。」
マークが、びっくりしていないか、蘭は心配で仕方なかった。
「そうそう。杉ちゃんだよ。二度と杉三さんとは呼ぶなよ。」
早く、用件を言ってやれ。マークさんは、迷惑しているんじゃないか?
「実はね、蘭がさっきも言ったけど、富士山の登山シーズンはもう終わっているんだ。でも、富士山には寄生火口というものがあってね、そこだったら、この時期でもまだ登れると思うのよ。西臼塚と東臼塚と二つあるんだが、うちの母ちゃんの話によると、東臼塚のほうが、まだ観光化してなくて、自然が沢山あるみたいなんだ。いずれにしろ、冬には雪が降って、登れなくなるから、今のうちに行ってこいや。」
杉ちゃん、あんまり早口だと、マークさんは理解できないのではないかな?
「そうそう。まあ、詳しい説明は電話では難しいから、一度僕の家まで来てくれるとありがたいわ。最寄りは、富士駅だ。来てくれる日付を言ってくれれば、僕と蘭で迎えに行く。」
おい、勝手に決めてしまうなよ、杉ちゃん!
「あ、本当?ほんじゃあ、明日来てくれるんだね。じゃあ、明日できるだけ早くこっちに来てちょうだい。あ、行き方はね、御殿場線の富士駅へ直通する電車を探してくれる?あ、そうか、歩けるから、乗り換えできるのか。でも、沼津駅って本当に使いにくくて、嫌な駅だからさ、できれば直通電車を使ったほうがいいよ。そうそう、東海道直通ね。あ、静岡行きであれば、富士はその途中だから、大丈夫。」
杉ちゃん、なんで文字が読めないのに電車の種類を知っているんだよ。
「うん、それそれ。その静岡行きを使って、富士駅というところで降りればいい。うん、浜松行きでも来れるよ。まあ、どっちかは任せるわ。じゃあ、富士駅に着いたら、連絡してくれるか?悪いけど僕、足が悪くて歩けないので、車いすエレベーターを使わないと駅には入れないのよ。」
そんなことまでべらべらしゃべるなよ、、、。
「あ、泊るところなら、駅前に富士グランドホテルがあるよ。あと、そこで予約がとれなかったら、僕の家に泊りなよ。一つ空き部屋があるからさ。使ってくれていいよ。あそう。しっかりしてるねえ。まあ、ホテル取るのもいいが、サービスのいいところを選べよ。値段が高ければ高いほどいいとは限らんよ。そうか。今はスマートフォンで通訳までできちゃうのね。あ、でも、そういう口コミは、全くあてにならないことが多いから、予約サイトだけで判断せず、必ずホテルに電話して雰囲気をしっかり確かめろよ。」
もう、杉ちゃん、なんでそんなに余計なおせっかいばっかり焼くんだ!
「うるさいようだけど、青柳教授が、海外に行くときは高級なところを選ぶのが、安全に旅行するコツだと言っていたぜ。」
まあ確かにそうなのだが、それは発展途上国に旅行する場合だよ、杉ちゃん。
「あと、チェーンのホテルはなるべく避けな。あんまりよくないことが多いから。特に日本の場合はね。え、なんだそんなに心配するのかって?だって、いざとなって慌てると日本語を忘れて手紙をよこすくらいなら、まだ、あんまり取得できてないんじゃないのって、水穂さんが言ってたから、心配だっただよ。まあ、確かにさあ、わかりにくい言語で申し訳ないね。いろんな国の人が、口をそろえて日本語は覚えにくいというから、僕が代わりに謝っとくよ。」
なんだそれ。杉ちゃんも日本語がおかしくなっていないか?
「ま、わからないところは、多言語家で有名な水穂さんもいてくれるので、遠慮なく聞いてくれ。あ、駅から?うん、日本には、車いす用のユニキャブタクシーが走っているから、それを捕まえて僕らはいつも移動しているのさ。愛称はみんなのタクシーだ。まあ、ワゴン車なので、少なくとも5人くらいは乗れるかな?」
そんな便利なもの、成田空港の周辺には走っていませんでしたが?とマークが聞いている声が聞こえてくる。
「あ、あれはね、静岡限定なの。へへ、静岡県は日本でも有数のバカの名産地として有名よ。じゃあ、それにのってとりあえずこっちへ来てもらってさ、まあ、師匠の体のこともあるでしょうから、明日は一日のんびりしてもらって、明後日に東臼塚に登ってこいや。あ、道とかそういうことならね、タクシーの運転手がしっかり指導してくれるので、お任せしてくれて構わないよ。日本の観光はしっかりしているからね。フランス語の通訳ができる運転手もたくさんいる。まあ、気にしないで、観光に来たつもりでゆっくりやれ。じゃあ、よろしく頼むね。明日、富士へ直通する御殿場線に乗ったら、すぐに連絡頂戴ね。おう、頼むよ。あ、水穂さんとはだれかって?蘭の大昔からの親友でさあ、ちっとばかり頼りないけど、美人薄命の男版と言える、絶好の美男子だ。お会いしたら、絶対びっくりするよ。ま、積もる話はまず食べてから。彫菊師匠に、どうぞよろしく。じゃ、明日ねえ。」
と、杉三は電話を切ってしまった。
「もう、杉ちゃん!勝手に一から十まで決めないでよ!また水穂まで巻き込んで!」
蘭は、怒鳴り散らしてやりたいくらいだったが、急いで訂正の電話を掛ける気力はまだあった。
「ほら、スマートフォンかして。今の事、取り消すから!」
と、急いで杉三からスマートフォンを取りかえすことには成功したのだが、
「あ、電池が切れてる、、、。」
いくら、電源を押しても、入らなかった。これを何度も繰り返しているうちに、訂正の電話などしようという気持ちも消えて行ってしまった。
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