第四章

第四章

翌日。蘭は刺青の予約があったために参加できなかったが、杉三と一緒にまたタクシーに乗って、千恵子は製鉄所に向かった。製鉄所というと、煙突があって、高炉があって、とにかく高温作業を要求されるのかと思ったが、そのようなものは全くなく、あるのは日本の高級旅館をまねしたような作りの建物であった。利用者がやっている、たたら製鉄体験は、裏庭で行われていたが、基本的に女人禁止制であり、参加することはまずできないので無理しないでいいと言われた。主宰の青柳懍という人も、ほかの人も、だれも悪そうな人はいないし、しっかりと給金は出すと言ってくれたので、しばらく千恵子はここに居させてもらうことにした。どっちにしろ、金がなければ小淵沢の一人暮らしの学生アパートに帰ることはできないので。

とりあえず、新規で製鉄所を利用する人はあまりいないし、空き部屋もいくつかあるので、千恵子はそこを貸してもらうことにした。訪問したその日から、働き始めて、とりあえず、仕事として廊下と応接室と食堂の床を拭くことを任されたが、建物が広いため、完了するには一苦労。でも、製鉄所の人たちは、みんな自分の悪口は言わないし、ご苦労様といって声もかけてくれるし、食堂のおばちゃんと呼ばれている塔野澤恵子さんという変わった名前のおばさんが、作ってくれる食事はおいしいので、結構居心地のいい場所だった。杉三が言った通り、それまではブッチャーこと須藤聰が、週に何回か来訪して、掃除をやっていたが、千恵子がやってきたため、それは終了することになった。なんだか聰の仕事を取ってしまったかと思ったが、やった、これで俺も商売に専念できる!なんて聰は喜んでいた。

製鉄所には、ほかに水穂さんという人が暮らしているらしいが、めったなことがない限り部屋からでることはないので、顔を合わせることはなかった。恵子さんに事情を聴くと、そっとしておいてやって、としか返ってこなかった。

それにしても、この製鉄所での暮らしぶりは非常に快適だった。これでは給金をもらって小淵沢に帰るのは嫌になるほど快適だった。誰にも悪口は言われないし、へんに権力を振りかざして怒鳴る人もいない。大学に帰ったら、また退屈な授業と、つまらないピアノの練習と、くだらないことをしゃべっている同級生たちが待っているのである。どうせ、専門的な音楽学校とは違うからと言って、同級生たちは、難曲を弾くのを嫌う傾向もあった。

始めのうちは本当にそれが嫌だったけど、四年生になってしまえば、そういう事も忘れていた。それよりも、山梨大学が、梨大と呼ばれて留年率が高いことが問題になっているらしく、先生方はそれに躍起になっていた。勿論、教育学部ではあまり例はないようであるが。まあねえ、そういう学校の評価にしがみついている大学は、あんまり評判がよろしくないと聞いていることもあるが。

でも、大学なんて、受験するときだけで、後になると何も意味がないなというのが、一般的な定義なんだなということに気が付くのが遅すぎた。受験するときは、学校の良いところをああだこうだとまくし立てて、あたかも理想郷のように訴えてくるが、一度釣り上げてしまうと、やたらにエサを与えるという事はしないのだろう。もしかしたらエサはいっぱいあるのかもしれないけど、なんだ、ただ授業を受けて、だけしかないじゃん!で終わってしまうのである。

まあ、自分はそれでも音楽関係の学部だったので、少し他の学部生と比べてピアノのレッスンなどやることはあった。でも、それがまた辛いところでもあった。ピアノの教授の先生は、ことごとく厳しく、何かあれば、何馬鹿なことを言っているの!なんて怒鳴り散らすことが多かった。時には、風邪をひいてレッスンに行ったときは、鼻水をかまないでピアノを弾くことを強要されて、もう泣きそうになったこともある。他の学生と比べることはあまりないが、あまりにもへたくそすぎると言って、ピアノを弾いているときにいきなり蓋を閉められて怪我をしたこともあった。そのほか、蘭が言った通り肥満体ではないのであるが、レッスン室のピアノの椅子が老朽化のためつぶれてしまったときなどは、体重が重たすぎるからだと言われて、弁償を迫られただけではなく、10キロの減量を命じられた。緊張しすぎて汗を大量にかいてしまったら、体を洗ってから来るようにと言われて、雨の降っているレッスン棟の外へ放り出されたりもした。同級生たちは、一種のパワーハラスメントだから気にしなくていいからね、なんて千恵子を励ましたが、自分がそうされるとでも脅かしたのだろうか、だんだんに彼女を避けていくようになっていた。

他の同級生は、自宅から通っている者が多かったが、千恵子は一人で学生マンションに住んでいたため、家に帰っても誰にも話せる人もおらず、一人で悩みを処理するしかなかった。本当は、誰かに話して気分をすっきりさせたいなと思っても、彼女の実家は遠方であるので、わざわざ電話をして、大学にきてもらうということも申し訳ないと思ってしまって、連絡を取ることもできなかった。それに親が反対する中、おばあちゃんだけが味方になってくれて、やっとたどり着いた音楽を学ぶ学校ということもあって、親に相談したら、それ見ろだから言っただろ、さっさとやめろ、なんて言われてしまう可能性もあり、そうしたら、もう自分のまけということも理由の一つだった。

そういう生活をしていた自分から見ると、製鉄所での生活は、本当に平穏で、幸せすぎるほど幸せだ。もうちょっと欲を言えばピアノの練習をする場があるとよかったが、ピアノなんて弾かないほうが幸せになれるのではないかと思われるくらいだった。まあ掃除の仕事という内容に関しては、懍先生に厳しく叱責されることはよくあったけれど、それに対して怒鳴ることもないし、何か罰則があるわけでもないので、大学よりはずっと楽だった。

ある日、千恵子が昼食を食べようと食堂へ呼ばれたときの事だ。とりあえず自分の分を食べていると、その横を、茶碗を乗せた盆を持った恵子さんが通りかかった。水穂さんという人に持っていくのはわかったが、丁度その時、

「すみません!塔野澤恵子さんに郵便です!代金引き換えになっております!」

玄関先で郵便配達の声がした。恵子さんの大好きな歌丸師匠のCDがまた届いたんだよ、なんて、他の利用者が言っていたが、まさにその通りなのであった。CDを買いに行く暇がないので、こうして通信販売で買うことが多く、時折郵便配達がやってくるのである。

「はい、今行きます!」

恵子さんは玄関先に向かって一言いうと、

「悪いけど、これ、水穂ちゃんに持って行って。」

と、小さく言って、お盆を千恵子に手渡した。

「わかりました。」

千恵子はそれを受け取って、水穂の部屋へ歩いていき、恵子さんは急いで玄関の方へ走っていった。

しかし、これ、どういうもんなんだろうね。どうしてこんなに粗末な食事?ご飯もおかずもなく、味噌汁の入った茶碗と箸が乗せられているのみで、どう見ても成人男性の昼食としてはあまりに足りなすぎると思うんだけど、、、。まあ、とりあえず持っていけばいいのかな、と、とりあえず奥にある四畳半の部屋へ向かう。

入り口であるふすまの向こう側は何か異様な雰囲気があった。水穂さんという人はどういう人なんだろうかと、ちょっと怖がりながらふすまに手をかける。

「すみません。」

とりあえず、声に出して挨拶してみる。

「あ、どうぞ。」

えらく細い声で返答があった。

「開けていいですか?」

「どうぞ。」

千恵子は、勇気を出してふすまを開けた。中は勿論畳の敷かれた和室というものではあるけれど、その六割くらいは、なぜか艶消しのグランドピアノが占めていて、その下に無理やり押し込んであるかのように布団が敷いてあった。その側面に書かれているピアノメーカーのロゴをみて千恵子はまたびっくり。日本にあるヤマハとかカワイとかそういうありふれた会社のピアノではないからである。そして布団に座っているやつれた姿の男性は、確かにとても小さい人ではあったが、信じられないほど綺麗な人だった。

「これでいいんですか?」

思わず、こういってしまう。

「何がです?」

「だ、だから内容がです。これだけではいくらなんでも、」

「あ、かまいません。そこに置いておいてくれれば。」

と言っても狭い部屋なので、空いているスペースというと、枕元にちょっとあるだけなのである。千恵子は急いで食事をそこに置いた。といっても、彼女の関心はむしろこの部屋を占領しているピアノにある。とにかく、なんていうメーカーなのか全くわからないので、聞いてみたいと思ってしまう。どうやって答えを得ようか考えていると、

「なんですか?何か用でも?」

と、彼のほうがそう聞いてくれたので、もう、こうなったらこうしてしまえ!と勇気を振り絞って聞いてみる。

「あの、これはなんていう会社のピアノなんですか。私の大学にあるスタインウェイ・アンド・サンズとはちがいますよね。」

「あ、はい。グロトリアン・シュタインヴェーグというのですが、あまり有名な会社ではないので、知らないと思います。ドイツのブラウンシュヴァイクにある本社で演奏した時にいただいてきました。」

そんな会社があるなんて全く知らない。ピアノメーカーとして筆頭に挙げられるのは、誰でもスタインウェイ・アンド・サンズだと思ってしまっているし、それ以外にあるにはあるけど、たいして変わらないと聞いている。

「じゃあ、ステインウェイよりは、もうちょっと、」

「あ、もっと古いです。というかステインウェイを創立した人物の師匠が起こした会社であり、元祖と言えばいいですかね。でも、ステインウェイと商標争いを起こして結局敗北し、今は米国で使用が認められてないようなので、全く知られていない会社になりましたけど。まあ、どちらを弾き比べてみると比較的音量はあるのですが、キーは重たくて押しにくいし、ほんと、ドイツらしいピアノですよ。」

「じゃあ、そう言われるっていう事は、いろいろ弾いたんですか?」

「あ、はい。はじめはヤマハから始まって、大学に行ってからはいろいろ試しましたけど、一番頑丈だったのは、このメーカーだったんじゃないかなとは思います。まあ、自分で持ち歩いていけない楽器ということもあり、国産、海外産、いろいろ弾きましたが、そのたびによく故障してましたから。短いもので一年くらい、長いものでも数年程度で、絃が切れちゃうんですよ。これも、もう、絃は錆びていて、近いうちに張り替えろと言われてますけど、最近はそれより畳の張替えをするほうが先で、いつまでたっても実行できていないのですが。」

と、いうことはつまり、この人はピアノを専門的に学び、どこかで演奏活動したことがある人物だという事がわかった。となると、自分の先輩格ということにもなるので、そこはある程度親近感は持てるのだが、しかし、同じピアノを専攻している人間として疑問に思うことは、そんなに頻繁にピアノが故障するかということである。ピアノの絃が切れるなんて、めったにないことであり、よほど乱暴なタッチであったということだろうか?

と、いう事はつまり、失礼な言い方だが、久野久子さんとたいして変わらなかったということか。そうなると、現在ピアニストとしては、おかしなことになってしまうと思うのだが、、、。

答えはピアノの隣に置かれていた本箱の中にあった。中に楽譜がこれでもかと詰め込まれていたが、そこに書かれていたキリル文字から判断すると、九割くらいは同じ作曲家のものである。まあ、ロシア語の知識は全くないけど、ほんの少しだけ輸入のピアノ楽譜を使用したこともあるから、作曲者の名前くらいは何とか読める。

「すごい、レオポルト・ゴドフスキーの楽譜がいっぱい、、、。」

「あ、すみません。一時そればっかりやっていた時期があったんですけどね。演奏したあとは疲れ切ってどうしようもなかったです。」

まあそうである。今でこそ、ゴドフスキーを弾く人はいるが、そういう人は大体、身長が高くて、筋肉もりもり、ちょっとばかり無骨な感じの人、という特徴がある。一度、演奏会で取り上げたピアニストも、演奏しなかったら、小柄な柔道選手と間違われるだろうなと思われる体格をしていた。ゴドフスキーをやってみたいと憧れる人はいるが、基本的に女の人は無理だと言わるし、よほど体力に自信のある人でなければチャレンジすることもない作曲家なので、ほとんど大学でも取り上げられていないような気がする。

そういう事から考えると、この人は正反対である。そうなれば相当無理をしなければならなかっただろうから、確かに頻繁にピアノが故障するほど練習したのだろう。

「じゃあ、芸大とかそういうところに行ったんでしょうか?」

思わずそう聞いてしまった。

「もしかしたらそこでもよかったかなと思ってましたけど、はじめに習ったのが、桐朋の先生だったので、そのまま桐朋に行きました。」

何!桐朋だって!桐朋と言えばものすごい名の知られた名門校だ。少なくとも出れば将来が約束されることは間違いない。

しかし、それだけではないような気もする。桐朋のようなところに行っていれば、ちゃんと専門的な指導もあるだろうし、得意な作曲家とか、ある程度、方向性を付けてくれるような気がする。だってそれくらいのところだもの。ただピアノが弾ければいいという人間をつくるところではないと思う。どうみても、この人はゴドフスキーなんていう、あんなに険しい難易度を誇る曲を売り物にするよりも、その容姿から判断してショパンのような柔らかくておしゃれな曲を弾くほうがよほどあっているような気がするのだ。そのほうが、ピアノを何回も故障させることもなかっただろうし。意外にピアノを修理するのは、経済的にも大変なのは知っているので。

「どうして、そんなにゴドフスキーの曲を弾いていたんですか?」

そう聞かれて、水穂も答えに困ってしまう。もともとゴドフスキーの存在を知らせてくれたのは、どんぶりまんと呼ばれていた隣のおじさんである。なんとも、所属している暴力団の組長がコンサートに連れて行ってくれた時に、初めて聞かせてもらったらしいが、そのあまりの難しさに、途中で帰ってしまうお客さんもいたくらいだったという。その時、同和地区の人間がピアニストとして成功するには、これくらい弾けないとだめなんじゃないかと直感的に思ったそうだ。やってみろ、と言われておじさんに楽譜をもらい、猛練習を重ねたうえで桐朋の先生の前で演奏したところ、おじさんの予想が見事的中。と、いう事から始まりだった。以降、彼の周りには常にゴドフスキーがまとわりついてくるようになったが、水穂自身も、学校で受けた執拗ないじめから逃れるための武器になることを知ったため、彼にとっては、愛用の戦車と同じくらい大事なものになった。でも、目の前にいる女性にこんな話をしても、果たしてわかってもらえるかどうか、全く不詳である。

「ええ、まあ、、、。よくわかりません。成り行きでそうなっただけの事です。」

とりあえず、それだけ答えを出した。

「でも、そんなむりをする必要なんて、ないと思うんですけどね。私も、一度聞いたことがありますけど、ゴドフスキーなんて、もっともっと強そうな感じの人が演奏すると思うんですよ。私も、よく言われるんですけどね、大学の先生に、本当にへたくそだってそればっかり言われて、もう、無理なのかなって思ったこともあるんです。まあ、なんやかんやで四年生にはなれましたけど、先生にこんな簡単な曲もできんのかとか言われて、もうさんざん傷つきました。例えば、厳格なる変奏曲とかやってたこともあったけど、無理なものは無理なので、学校のカウンセリングの先生なんかに相談して、曲をかえてもらったりしたこともありましたよ。あの時、私はああいう曲よりも、フォーレみたいな柔らかい感じのほうが向いているんだなってわかったので、後悔はしてないです。そういうことだって、あるんですから、あんまり一つの事を追求しすぎるのもどうかと思うのですが。」

急に、今時の学生らしい言葉を、千恵子がしゃべりだしたので、水穂は怒るというよりも、なんだかな、とあきれてしまった。

「まあ確かに、厳格なる変奏曲を女性が取り上げる例も少ないですよね。」

とりあえずそういうしかなかった。女性があの曲を取り上げたのはあまりきいたことがない。

「そうでしょう。だから、そういう事もあるんですから、ずっとゴドフスキーにこだわり続けて演奏するというのも、昔の人だったらかっこいいのかもしれませんが、今はそうじゃないと思うんです。それより方向性を変えることだってできると思うし。なんか今、臥せていらっしゃるようですが、お体が回復されたら、ゴドフスキーではなくて、メンデルスゾーンの無言歌とか、ショパンのバルカローレとか、ああいう感じのものをやって、演奏活動再開させたらどうですか?多分、そのほうが、体力的に楽なような気がするんです。だって、手の大きさからみても、私がある本で読んだ、実物大のショパンの手とたいして変わらないじゃないですか。」

あの書籍は、水穂も手にしたことがあるが、今になって結構誤差があるということで、問題になっているらしい。日本では非常に高名なピアニストが書いたことで有名だが、大事なことを書き忘れているとか、いろいろ問題点があるらしいのだ。

「そういう事も私はあったので、今は方向を変えることも大切なのかなと。」

千恵子は、まだ熱弁をふるっていたが、水穂は怒ることも憤慨することもできず、そのまま聞いているしかできなかった。同時に、日本の若い人はこういう風に考えるしかできなくなったか、と思うと、自分のしてきたことは全く無意味に終わってしまったことを知らされているようで、本当に悲しいな、という気になってしまう。

もう仕方ないのだ、と反論したかったが、代わりに出たものは、涙ではなく吐き気で、同時にせき込んで中身を出す。千恵子は、大丈夫ですかと聞こうと思ったが、口に当てた手指の間から鮮血が漏れ出してくるので、思わずギョッとして、たじろいでしまう。

「千恵子ちゃんどうしたの?あんまり待っていると迷惑になっちゃうわよ。」

恵子さんが、いつまでたっても戻ってこないのを心配して、様子を見に来てくれたのが幸いだった。ああまたやってる、とか言いながら介抱してくれたが、千恵子にはとてもそんな事はできない。

「無理してみなくてもいいよ。ちょっと刺激の強い映像なんじゃないの?」

と、恵子さんが言ってくれなかったら、卒倒するところだった。

ごめんなさいと言って、千恵子は四畳半の部屋を出て行った。

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