第六章

第六章

翌日。

お約束通り、彫菊師匠こと菊岡和美と、その弟子のマークが、富士駅を訪れた。改札口を出て、杉三と蘭が出迎えると、常に和服で行動している杉三に、マークは驚いていた。

とりあえず、駅のカフェで休んでから行こうということになったが、蘭はとにかく杉三が、師匠に不快な思いをさせないかどうかが心配だった。かといって、本人に注意したら、今度はマークのほうが驚いてしまうのではないかという心配もあるのだが、、、。そんな事は馬耳東風で、杉三は平気な顔してコーヒーをずるずるとすすり、口の周りにクリームをつけて、ショートケーキを食べているのである。

「杉ちゃんでしたっけ?本当によく食べますね。」

思わずマークがそう言った。

「すみません、本当にマナーが悪くて、、、。」

どういう育ちなんだ、誰もマナーというものを教えなかったのか、なんて師匠が怒るのではないかと思いながら、蘭は、申し訳なさそうに言った。

「いや、わしが若かったころ、つまり戦時中のころは、誰でも食べ物があれば、そういう顔してかぶりつくのが当たり前だったぞ。」

穏やかにそういう和美は、怒鳴るという事はなさそうである。

「へへん。そうだろう。ていうか食べ物をみて誰も喜ばなくなったら、日本もおしまいだよ!」

全く悪びれずにそういう事をいう杉三。せめて敬語くらい使ってもらえないだろうか、、、。

「確かにそうだろうね。一時ドイツでも、食べ物よりも栄養剤のほうが優れていると誤解して、食事をしない若者が問題になったことがあって、発売が禁止されたことがあったぞ。」

「そうかあ。ヨーロッパでは、国を挙げて対策をすぐ取れるところがいいよね。なんですぐに実行できるんだろうなってよく思うんだけど、人口が少ないし、面積が狭いからいいのかなあ。日本では、あんまり薬品とかそういうものを取り締まる権力は強くないのよ。」

「あ、そうですね。食品と一緒にドリンク剤が買えるというのがありえないなと思いました。ドイツでは、薬局へ行かないと、買えないようになってますから。」

杉三の話にマークが口をはさむ。

「もうさ、そのくらいすればいいのにね。そうやって、食べ物より便利な薬剤が、簡単に手に入るんだったら、食べ物のよさっていうのかな、それもわすれるね。」

「はい、確かに問題だなと思います。」

「だろ?だから、うまいもんはうまいと言いながら食べるのが一番いいんだ。マナーを守って静かになんて言ったら、食べることが苦痛になって、若い人が逃げていくわ。」

「そうですね。確かに、僕の出身国であるフランス料理なんかは結構厳しいので、疲れるなあと思ったことはあります。」

「食べ物で疲れてどうすんのよ。笑っちゃうね。ご飯というものは、硬くなるもんじゃないぜ。しゃべりながら楽しくが一番いいんだ。そうだろう?」

こういう会話を水穂が聞いていたら、間違いなく辛いだろうなと蘭は思った。

数時間後。

製鉄所の正門の前に、大型のユニキャブタクシーが一台止まった。

「ほう、こんな建物がまだ立っていたのか。」

タクシーを降りた和美が、正門を見て言った。あ、そうかもしれないなと思った。ドイツの建物には、こういうつくりはめったに見られないと思う。

「まあ、日本でも、こういう建物は珍しいものになっているので、今はちょっとした観光名所になっている。おかしいだろ。ちょっと前まで当たり前になってたもんが、こうして見世物になるんだからね。」

と、おかしなやり方で説明する杉三だが、

「そうですね。面白そうですね。」

マークは、確かに興味深そうな顔をしている。

「畳なんて面白いものの一つじゃないの?じゅうたんみたいに柔らかくないが、寝っ転がるには最適。日本古来はそうなっていた。」

「へえ、、、。そうなんですか。面白そうな。」

またそんな会話を交わしている杉三とマーク。

「まあ、百聞は一見に如かず、とにかく入ろう。」

とか言いながら、杉三達は、どんどん製鉄所の中に入ってしまう。蘭は、一人だけ置いてきぼりを食うのではないかと思いながら、ついていった。

「来たよ!開けてくれ!彫菊師匠と、ちょっとなよっとしたマークさんがいらしたよ。」

玄関の戸を開けると、恵子さんと懍が出迎えてくれた。恵子さんは、マークの顔を見て、日本の中年おばさんらしく、

「いやあ素敵じゃない。やっぱりファッション大国だけあって、綺麗な人が多いのねえ。うらやましいなあ。」

という感想を漏らすのである。本人からしてみれば、何も気にしなくていいところに、日本女性は騒ぎ立てる人が多くて、迷惑だろうが、そういう感想は日本の中年おばさんであれば、必ず口にすることだと、杉三から言われている。全くな、どうしようもないけど、我慢してくれよ、なんて、杉三は申し訳なさそうに言っていた。

「よう、懍ちゃん。元気だな。いくつになっても変わらないな。」

懍ちゃん、なんて名前で呼ぶのは、今はきっと、多分和美しかいないと思われるが、当たり前のように口にしたので、みんな一瞬ぽかんとなった。まあでも、和美の年齢を考えると、そうなっても仕方ないと思った。

「ええ、まあそうですね。この度は大変なことになって、僕も驚きました。まあでも、お会いしてみて、意外にそうでもなさそうなので、安心しましたよ。」

「あはは。全く、いつの時代も負けてたまるかという気持ちを持ち続けなければいかんよ。」

「あ、そうですね。もう、師匠には敵わないです。」

懍は軽く和美に向かって敬礼した。

「へえ、青柳教授が頭下げるなんて初めて見たなあ。」

杉三が、思わずそんな感想を漏らしたが、みんな納得してしまうほど、こういう光景は珍しいものであった。

「じゃあ、上がってください。もうお茶も用意してありますから。他には何もないですけど。」

懍の誘導により、全員製鉄所の中に入った。人数が多いため、応接室には通されず、食堂でおもてなしをすると、懍は説明した。廊下は、大人数が一度に歩いたため、けたたましい音を立てた。

食堂では、全員の人数分の湯呑が置かれていたが、

「マークさんはまだ玉露は苦手かな?とおもってさ、紅茶出しておいた。もし、コーヒーのほうがよかったら、急いで買ってくるから、言って頂戴ね。」

と、恵子さんは、ティーカップをマークの前に置く。

「いえ、最近ではヨーロッパでも日本茶がたまに売っています。ただ、玉露というものはわかりませんが、、、。」

「じゃあ一杯飲んでみな。日本茶の本家本元を飲んでみなければ、味なんかわからないよ。」

杉三に促されて、紅茶の代わりに玉露を飲んでみたが、非常に濃厚な味で、ヨーロッパで売っている日本茶とは偉い違いであり、驚いてしまう。

「な、うまいだろ。これが本物だ。加工なんかするもんじゃないんだよ。本物ってのは意外につらいもんでもあるんだよ。それをうまいと言えるようになれば、まさしく本物。」

と言っても、うまいですとは素直に言えない。

「無理なんかしなくていいんだけどね。誰でも最初はびっくりするよね。」

蘭が、援護射撃してくれるが、

「だめ!本物というのはいつの時代にも厳しいもんだよ。外国の人が、必ず体験しなきゃいけないと思うよ。その逆もいっぱいあるけどさ。久野久子さんとか。」

意外にそういうところは厳しい杉三であった。

「もうすみません。本当にどうしようもないです。原始時代と、評論家が同居しているみたい。」

「いや、面白い人じゃないですか。いつも一緒にいられて、楽しそうですね。」

「もう、こっちはいい迷惑ばっかりなんですけどね。」

「なかなかいませんよ。こんな面白い人。」

「あのね、こういう人間を一言で意味する日本語として、馬鹿という単語があるんだよ。フランス語がどう対応するのか知らないが、こういう人の事を言うんだなとしっかり頭の中に書いておけ。」

また杉三が面白いことを言った。

「はあ、えーと、そうですか。」

「そうだよ。まだ、手紙を書くのは難しかったようだけど、少し読み書きできるようになったら、そこらへんもやってみると面白いよね。というより、あんまり文書書くのは得意ではなかっただろ?あれね、かなり間違いが多くて、水穂さんも笑ってた。まあ確かに、日本の手紙は、時候の挨拶とか書かなきゃいけないから、非常に難しいもんだけどさ。」

「はい、急いで書いたので、もう滅茶苦茶だったと思います。」

「気持ちはわかるが、もうちょっと落ち着いて、今度はしっかりと日本語で書けるようになろうね。」

「あ、わかりました。一応、書き方は師匠から聞いたんですが、あの時はもう、動転していて、みんな忘れてしまったんです。」

「まあ、大事な師匠の一大事になれば誰でもそうなるけどさ、蘭のやつ、一日かけても翻訳できなかった。もう、水穂さんに頼まなければ、絶対解読できなかったぞ。」

「申し訳ありません。その、水穂さんという人にまで迷惑をかけてしまって。本当はお礼でもしたかったんですけどね。」

「礼なら、僕が代わりに言っておくよ。あの人はな、今は静かに眠っているのが一番いいんだ。たまに庭掃除に出してもらっているようだが、それだってほんの数時間に限られるらしい。あんまりいろんな人が顔出すと、疲れちゃうからよくないんだって。まあ、したい気持ちはわかるけど、我慢してくれよな。」

「あ、わかりました。会ってみたいなとは思っていましたが、そういう事なら仕方ありませんね。」

隣では、懍が、和美とドイツ時代の思い出や、原住民との交流などの話を交えながら、東臼塚の登山ルートなどを確認していた。その中に恵子さんも加わることもある。懍が、ある地方の原住民を訪問したところ、ヘリコプターに石を投げつけられるほど敵対されたため、どうやったら信頼してもらえるか考え抜いた上に、背一面に龍を彫ってもらったことが、交流の始まりだったというと、和美もそれはよく覚えていると言っていた。和美から見たら、大学の教授なんて言う職業の人がいきなり来訪したために、驚きを隠せなかったという。しかし、懍に龍を彫った後、原住民から信頼を得られて、無事に訪問ができたと聞かされたときは、刺青もそういう使い方をすればいいのかと、考え直すきっかけにもなったと語った。

「もうね、神を信じない日本人なんて信用できるもんかと怒鳴られたときは、ものすごく悩みましたよ。まあでも、そういう人はそれが一番のよりどころだと思いますので、もうしょうがないかと思ったんですけどね。でも、日本神話にも登場する動物を体に身に付ければ、印象もかわるかなと考え直して、それでお願いしたわけです。ただ、ヨーロッパで行われる刺青と言いますのは、ほとんど機械彫りですから、機械を使ったら機械嫌いの原住民のことだから、さらに馬鹿にされることだろうなと思って、総手彫りをやってくれるところを探しにさがして、師匠にたどり着いたわけです。」

「そうだったね。わしから見ると、カタギどころか、大学の先生なんて人がいきなりやってきたもんだから、こしが抜けたのではないかと思った。」

「まあそうですよね。暴力団の組長でもないわけですからね。師匠からしてみれば、暴力団への取り締まりから逃げて、ドイツに行ったわけですから、もう天敵ですよね。」

「そうだよ。ほんとはね、やくざだけがやってたわけではないんだけどね。そこらへんをいくら伝えても、日本ではなんだか悪い人と言われてしまうようで、、、。昔は火消しとか、飛脚なんかのほとんどはやってたし、沖縄とか、アイヌでは、成人女性の保護としてやっていたこともあったので、決して悪い人というわけではないんだけどね。」

「そうですね。僕もそこは知っていますよ。それに、ジョージ六世のように、日本の刺青に興味持った、外国の君主も結構いますから、いいんじゃないでしょうか。それに、蘭さんの下に来るお客さんの多数が訴えていますけど、誰かに暴力を振るわれて、忘れようとするけれど、傷跡などが残っていて、忘れられずに苦しんでいる人たちには、強い味方にもなりますよ。」

「うん、それはわかる。ドイツでも、そういう人は結構いる。ドイツだけではなく、他の国でも、いじめはひどいので、その殴られた痕などを消したいという人は多い。あのマークも、本人ではないけれど、妹が酷いいじめにあったので、何とかしたいと思って入門したくなったらしい。」

「そうですか。そういう繊細なところが顔に出ている青年ですね。」

「うん、もうちょっと気を大きく持つというか、しっかりしてもらいたいなと思うんだけどね。」

「どこの国でもそうですね。若い人は、優しさだけはあるのですけど、もう少ししぶとさというか、強くなってほしいですね。僕らもそこを伝えて行かないと、いけないでしょうね。」

「懍ちゃん、お前もそういうこと言うんだから、年を取ったな。」

「この頭がね、その証拠です。」

懍が長い髪を掻き揚げると、大量の白髪がむき出しになった。

四畳半では、いつも通り、水穂が静かに眠っていた。ところが、いきなり玄関先で、来たよという杉三のでかい声が聞こえてきて、目が覚めてしまった。どうせご挨拶には出てはいけないと言われていたから、玄関先へいくことはできなかったが、しばらくして食堂から杉三たちの喋り声が聞こえてきたので、何か話しているのだなと、いうことはわかった。そういうことを聞いていると、自分も加われたらなあという思いが、どうしても生じてしまうのだが、それにははっきりと線引きをして、寝ていなければならないのだった。杉三たちが楽しそうに話しているのに、自分は部屋の中で寝ていろといわれるのは、堪らなく苦痛だった。とりあえず、内容を聞かせてもらうだけ、聞かせてもらって、苦痛を和らげることに専念していた。

しばらくすると、よし、いこうぜという声がきこえてきて、誰かが廊下を通っていく音がし、玄関の戸が閉まる音がしたと同時に、製鉄所はぱたんと静かになった。ということは、もう帰ってしまったのかなと思ったが、贅沢を言えばもう少し長居をしてくれてもよいのでは、と思ってしまった。

「おい、ちょっとだけ起きてくれるか?」

不意に、ふすまが開く音がして、蘭が部屋に入ってきた。と、いう事はわざと残っていたのだろうか。また余計なことして、と思ったが、そこは顔に出さずに、

「何だ、お前か。」

水穂は、わざとからかうように、布団の上に座った。

「どうせ、言われたんだろ。時間は三十分だけにしろとか。」

実は懍がよく課すことなのであるが、こうされると、結構辛いものがある。

「まあ、もしなんかそういわれたら、トイレに行ってたとかごまかせばいいよ。汚い話だけどさ。」

蘭は、恥ずかしそうにいった。確かに、車椅子の蘭には、短時間でトイレを済ますことができないから、結構な時間稼ぎになるのだった。

「で、彫菊師匠、帰ったの?」

「いや、まだいるよ。青柳教授と喋ってるよ。」

「原住民の話でもしているか。杉ちゃん抜けると、結構音量が減るな。」

「まあそうだね、明日、マークさんと一緒に東臼塚登るんだって。そうしたら、教授が、製鉄所の利用者も連れて行ったらどうかと提案したんだよ。」

「へえ、意外に元気だな。あそこはかなりの難所と聞いたことがあったよ。そこへ登れるとは、まだいい方だな。」

「二人だけだと心配だから、誰か利用者に一緒にいってもらうほうが確実だってさ。僕らは、ほら、これじゃあついていけないからな。」

まあ、確かにそうだ。車椅子の人間に登山は難しいのは、よくわかる。それに登山というものは、二人というよりかは、三人以上のほうが安全面では安心だ。

「で、杉ちゃんは先に帰ったの?」

「杉ちゃんならマークさんといっしょにブッチャーの会社にいったよ。着物というのが、どういうもんなのか、見てみたいって、マークさんが発言したら、よしつれていってやるといって、出掛けていった。」

「ブッチャーの会社って、何で銘仙の工場に連れていった?」

水穂は、思わず感情的になってそう言ったが、次の文句を言う前に咳き込んでしまった。

「怒るな怒るな。そんなことしたらまた、体に障るぞ。」

反論する前に、咳に邪魔されてできない。

「おい、あんまり、気にしないでくれ。思うほど重要なことじゃないんだから。ただ、見に行くだけだから、それ以外何もないよ。」

しかし、咳はとまらず、とうとう指が赤く染まってきた。そして赤い液体がぼたんと落ちてやっと止まった。

「ああ、ごめん。悪いことしたな。そこまで深刻に悩むなと言う意味だったのだが。」

「うるさい。」

水穂は、よごれた手を手拭いで拭きながら、やっとそれだけ言った。

「もう、体に邪魔されて怒りたくても怒れないよ。」

「ごめんね。だけど、気にしすぎというのは認めてくれ。ほんとにさ、見に行くだけで何もしないから気にするな。それに、何か聞けばブッチャーがちゃんと説明することもできるから、お前も怒る必要なんてないんだよ。」

「お前もさ、師匠に怒鳴られた癖がまだ治らないね。ああだこうだとうるさく言ってないで、もう黙ってくれ。銘仙の工場なんて連れていかないで、見せるのなら羽二重とかそういうレベルの高いものを見せろ。人間の着るものではないと扱われた着物を、伝統意識の強い国家の人間に見せたりして、へんに侮辱されたりしたと思われたらどうするの?フランス人ってさ、意外にプライドか高いんだよ。」

「ある程度の事は、僕もいっておいた。そうしたら、ロマ族のデザインを取り入れた洋服もあるから、それとおんなじと思えば大丈夫と言っていたから、なんとかなるだろ。」

「それとはいみがちがうよ。ちっともわかっていない。」

そういう水穂は、やっぱり辛そうだった。

「だ、だけど、今は違うよ。日本では悪いとされていても、海外では結構人気者になって、売り上げは上がったというものは結構あるよ。うちのお母さんの会社で作っている檀紙だってそうだろう。それとか、今川焼きとか、有田焼とか、そういう路線をとっている工芸品はたくさんあるじゃないか。さっきも言ったけど、ロマ族の服装なんかを真似する例もあるし、ロマ族の音楽を取り入れた楽曲もあるだろ。それと一緒だと教えれば理解できると思うから、本当に今の時代は、何でも取り入れることができるから、大丈夫だってば。」

蘭は、一生懸命謝罪の意味と、どうしても楽になってほしいという意味を込めて、弁論したつもりだったが、水穂には全く関係のないことをあげられて、迷惑だという事しかなかった。

「ほかにもいろんな例はある。アメリカなんかに行けばもっと面白いものがあるのかもしれないよ。」

一生懸命礼をあげようとする蘭に、水穂は逆に腹が立ってしまう。しかし、もうよしてくれよ、と、言おうとしたのと同時に、再び吐き気がして、もう一度せき込みながら内容物を出さなければならないのだった。

「おい、大丈夫か?疲れたなら横になってくれよ、横に。もう、座ってるとつらいんだったら、早く言ってくれ。じゃないと何もわからない。」

「お前はうるさいんだ。余分な方向へずらすな。」

蘭の問いかけに、答えるのが精いっぱいだった。とにかく血液が止まってくれるのを待つしかなかった。

「あ、もう、ごめんごめん。本当に悪かった。これから気を付けるから、本当にごめん。とりあえず今は横になってくれ。頼むから。」

「本当に、人の言う事聞かない男だな。」

水穂は、そう言いながらもやむを得ず横になった。

「ごめん。」

「もういい。いい加減に黙れ。」

もう、何も言ってはいけないなと、蘭は感づいた。自分には何もできなかったとがっくり肩を落とす。

しばらく二人の間に沈黙が流れた。

「なあ。」

水穂が静かに言った。

思わず蘭はびっくりしてはっとする。

「な、何だよ。」

「お前、観音講で、どこまで習ってきたのかしらないが、杉ちゃんが、色究竟天に到達した音楽家は、ベートーベンだけだったとよく言っていたよな。」

「そんなこと知らないよ。僕からしてみたら、あの講座はよくわからないもの。」

「僕も、そう思ってたよ。確かにベートーベンといえば、癇癪もちの塊みたいなもんだから、なんで?なんて思っていたけど、今になったらわかるような気がするんだよね。」

「な、何だよ。お前。いきなり何をいいはじめるんだ?」

「もう。最後まできけよ。杉ちゃんみたいにしっかり解読していないけど、杉ちゃんが色究竟天の音楽は、どこかのんびりしていて、崇高な物が好まれると言っていたので、なるほどと思った。きっと、悲愴ソナタの二楽章みたいなものを書けたからだろ。そうじゃなければ許されないよ。さすがに、ゴドフスキーは、やたら難しい曲は書いたけど、そういうものは、できなかったもの。さすがに、色究竟天の人が、あんなにけたたましい曲を聞いたら、怒るに決まってるよ。」

「そ、そうだな。確かにベートーベンのあの曲はゆっくりしている。」

「だからきっと、君みたいにゴドフスキーばっかり弾いていたひとは、絶対に色究竟天にはいかしてもらえないぞ、と杉ちゃんは言っていたんだ。」

「だから、どうしたんだよ。そんなこと言われて、何になるのさ。」

「練習しなきゃいけないや。桐朋時代に少しやっただけで、あとはリサイタルではほとんどゴドフスキーだったもの。ベートーベンのソナタなんて、ほんとにやらなかったもの。」

なるほど。ピアニストは年をとってくるとベートーベンに熱中するようになるというが、水穂もそうなってきたのかと蘭は考え直した。きっと直接口に出すのが難しいから、そのような表現を使ったんだろうと思う。

「そうだな。じゃあベートーベンを弾けるように、今はとにかく体を休めることに専念することだな。」

「結局、そうなるのか。まあ、今日は楽しかったよ。久しぶりに喧嘩して、嬉しかった。じゃあ、もう部屋から出ろ。あんまり長居をすると教授に怒られて、また貧乏くじを引くぞ。」

「はいよ。わかったよ。出る前にもう一度確認していいかな?」

これだけは、言っておきたくて、急いで口にする。

「もう一度?」

「布団くらいかけなくていいのかと思って。」

「本当にうるさい男だな。そのくらいやれるといっても、人の言う事聞かないよな。」

もうお見通しだったか。でも、迷惑しているとか、余計なことするなと言っているような顔ではなかった。

「ほらよ。」

蘭は、かけ布団をそっとかけてやった。

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