その別れに
「ねぇ、私たち別れようか」
その言葉は唐突だった。
何か間違いのような気がした。
もう一度! もう一度行ってくれない?
そう口からこぼれそうになるのをぐっとこらえた。
彼女と共に過ごした6年間という時間。
もう自分の中では彼女がいることが当たり前になっていた。
その彼女が今僕の前から消えようとしている。
今日は。今日は僕らが出会ってからちょうど6年目のその日に、別れを切り出された。
どうして彼女は別れを切り出したのだろう。
僕が不甲斐ないから?
それともほかに好きな人が出来たんだろうか?
それならそう言ってほしかった。
彼女と別れもう数時間が過ぎ去った。
夕暮れの橋の上。
歩道を渡る人の影は少ない。
行きかう車の音、その並びを走る電車の小気味よい音。
その音だけが今自分の耳の中にこだましている。
でも心の中では彼女のあの一言がいつまでも鳴り響いている。
コートのポッケに忍ばせていた小さな箱を手にすると、その声がまた僕の心を締め付けた。
今日僕はこの小さな箱に込めた思いを、彼女に捧げるつもりだった。
でも、もうそれは出来ない。
「私たち別れようか」
あの一言で僕は彼女を失ったからだ。
流れゆく海の水を橋の上から眺めていた。
吸い込まれる自分がいた。
吸い込まれてもいい。
このまま……ここから身を投げれば、その心の痛みも消えるだろうか?
苦しい。痛いんじゃない。とても胸が締め付けられて苦しい。
頬から涙が流れ落ち、海へとその雫は落ちていく。
次第に明るさが失われていく。
車のヘッドライトが流れるように僕の後ろを走り去る。
この流れの様に僕は今、真っ黒く染まった海へとその身を投げだそうとしている。
引き込まれる暗黒の海の中に僕の心はすでにうずもれていた。
そんな僕を見つめる一匹の猫の姿。
その目はずっと僕を見つめていた。
「そんな悲しい目で俺を見つめるなよ」
その猫はにゃぁと声を上げた。
見上げると、そこには人の影がうすら明かりに照らされている。
髪の長い清楚な女性の姿が。
「こんなところで何をなさろうとしているんですか?」
小さな声で彼女は僕に語り掛ける。
その声を訊きながら僕は何も答えなかった。
答える気力さえ今の僕にもう残っていなかった。
吸い込まれる暗黒の海に僕の身体は落ちていく。
いや、落ちたのは……あの小さなリボンのついた箱だった。
僕の身体は海に引き込まれなかった。
あの猫が必死に僕のズボンのすそを口で咥えていた。
そして彼女は僕に向かっていった。
「その苦しみ、私にも少し分けてもらえませんか」と。
その一言は僕の視線を変えた。
暗黒の海から、満天の星空へと。
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