第三話
大須に行ってから三日後のことである。
俺は放課後になって、部室へと出向いたのだが、先に来ていた、綿貫、鈴木、キティがなにやら、話をしていた。話、というならば別段不思議なところはないのだが、会議と言った方が、雰囲気をより適切に表現できるだろう。
「なにやっているんだ、お前ら」三人は目を見合わせる。
「ちょっと不思議な話がありまして」とキティが言った。
以下のような話だ。
綿貫は昼休みに部室に来た。
我らが山岳部部長がそのように昼を一人寂しく、過ごしていることは前から気づいていた。それを看過するのは気がとがめたが、その事は保留しておこう。
閑話休題。綿貫が部室に来て、昼食を取っていたとき、廊下を誰かが通るのに気がついた。
山岳部の部室は、部室棟の四階、学校の中でも最果てにあり、山岳部の他、四階に部室がある部活動および同好会はない。
綿貫は気になって、誰が通ったのか確かめようとした。しかし、廊下には誰もおらず、その人物が向かったと思われる、部屋の前に行っても、鍵がかかっていて誰かが中にいることさえ確かめられなかったのだと言う。
……なにを気にしているのか、俺にはてんで分からなかった。
「それがなにか?」
「気になりませんか?」綿貫が言った。
「はい?」
「その人が何をしにここまで来たのか」
「気にならん」どうしてそんなどうでもいいことで話ができるのか理解に苦しむ。「散歩でもしてたんだろ」
「私、言いましたよね。その人影は奥の方に向かって、消えたんですよ」
「お前の気のせいじゃないのか」
「違います」綿貫は強く言った。
綿貫さやかという女は、良家の息女らしく、普段は物腰柔らかで、めったに自己主張しない人間だ。そんな彼女が、こんなにも強く断言するというのは、珍しいことである。
されども、人が消えたと言って、俺に詰め寄られても、どうすることもできない。考えても答えがでないんだから考えるだけで無駄である。そんなことやめて、部活でもした方が、よほど生産的だ、そう告げたのだが、
「その人が何をしに来て、どこに消えたのかわかるまで部活をしません」という。鈴木もキティも綿貫に味方するらしい。
こいつらがいる手前、俺は運動着に着替えることもできない。
それならば帰ってしまってもよかったのだが、女三人に追い出されたとなれば、男が廃る。大変不本意だが、なぞなぞを解いてから部活に臨むことにしよう。
「わかったよ。それで、井戸端会議の結果、どんな予想が?」ありったけの皮肉を込めていったのだが、女どもは気にする様子もなく続けた。
綿貫曰く「救助袋を使った」
鈴木曰く「窓からザイルを使って降りた」
キティ曰く「屋上に上がったのだが、気がつかなかった」
……こいつらの頭の中はお花畑なのか?
「お前らよ、部屋の中にいたと、普通に考えれば分かるだろう」
「でも応答はありませんでしたよ」
「なぜお前は、人がすべての問いかけに応じると思っているんだ」
「どうして私が呼んでいるのに無視する人がいるんですか?」こいつはどこのお嬢様だ?あっ、お嬢様なのか。
もういい。こいつらと話していても埒があかない。
俺は廊下に出た。
山岳部の部室の奥には、部屋がひとつあり、廊下の突き当たりは壁になっていて、部室棟から出るには反対側にしかない階段を利用する必要がある。
「綿貫よ、その人影というのは東に向かったんだよな」
「東ってどちらです?」
「廊下の突き当たりの方だ」
「ええ、確かにそちらです」
俺は奥に向かい、その部屋の扉を開けようとした。
しかし施錠してあって、開けることはできなかった。
中を見たところで何かわかるとも思わなかったが、確かめないことには断定することもできない。ハンカチがバルコニーに飛ばされてしまったのだ、と適当な理由をつけて、隣の部屋の鍵を職員室から借りてきた。
その部屋にはいるとミントの香りがかすかにただよってきた。
部屋には特に物は置いてなく、壁際に流しとおそらくコンロをおいていたであろう台があり、他は中央に椅子があるだけだった換気扇の音が低く唸っていた。
何か用があるという部屋でもなさそうだが。
「誰が来たんでしょうね」綿貫が俺の顔を覗き込んできた。
「……教師だろ」
「なんでよ」鈴木がずいぶんと刺々しい口調でいう。なんでこいつは、雄大と俺とでこうも態度が違うんだろうか。「教材なんかを取りに来たっていうなら、あんたのことバカだと思うわ。こんなとこは倉庫として最低よ」鈴木の言いたいことは分かる。こんな最果てに、荷物をおいておくことなどわざわざしないだろう。かつては教室として使われた部室棟こと旧館だが、部室棟として使われるようになってから五年は経過している。荷物の移動などとうに終わっているはずだ。
「単純な理由だよ。生徒が部室の鍵を借りられるのは放課後になってからだ(綿貫が合鍵を保持していることは門外不出のこと)。職員室で、しかも昼間に鍵を持ち出せるのは教師ぐらいだろ」
「用務員だっていいじゃない」その意見は至極もっともなのだが、この場合は間違いであった。それは鈴木が知らないことを俺が知っているために起こったのだが、それは偶然であったので、鈴木の間違いは責められるものではない。
「用務員は違うよ。あの人は昼休みの時、中庭で作業してたから」窓際で弁当をつついていた俺だから知っていることだった。
「あっそう」
「問題はその人物がこの部屋の中でしていたことがやましいことだというところだな。綿貫はドアをノックしたんだよな?」綿貫はこくんと頷いた。「綿貫の呼び掛けに応じなかったということからそれは予想される」
「やましいこと?……逢い引き……とか?」鈴木瑠奈という女の頭の中はお花畑であるだけでなく、ピンク色でもあるらしい。
「どこの世界に、職場で、勤務時間中に乳繰り合う教師がいるんだよ」いそうだけど、という鈴木の言葉は無視して、話を続けた。
「とりあえず、鍵だけ返しにいこう。あんまり長引くと怪しまれるからな」
職員室へと行って、担当の先生に鍵を返却した。
「ハンカチはとれたのか?」
「えっ、あっ、はい」それを口実としていたのを、危うくも忘れていた。
「そうか。……山岳部は暇そうだな。美山は女子を三人も連れて歩いて。俺はお前が羨ましいよ」およそ教師の言葉とは思えない。
俺はそのとき気づいたことがあったので、訪ねた。
「昼にどなたか、鍵を借りていきませんでしたか?今返したのと同じやつです」
「あ?いや、誰も鍵なんて持っていってないぞ。それがなにか」
「……いえ、なんでもありません」もとからきな臭かったが、余計怪しい感じになってきたな。
「美山さん、どういうことなんでしょうか?」職員室を出るなり、綿貫が言った。
「……お前と同じだろうな」えっ、という顔を綿貫がする。「お前は昼にどうやって部室にはいったんだ?」それだけいうと、さすがに分かったようだ。
「なんのためにそんなこと」
「……とりあえず言えることは、その人物は恒常的にその部屋を利用していたことになる」
「……それはそうなんでしょうね」
「まあ、あまり首を突っ込むもんじゃないな」
今日のところは、それきりで解散することとなった。
綿貫と鈴木は帰りに喫茶店に行くと言って、校門で別れた。
「お前も行けば良かったのに。女同士でする話もあるだろう」俺は隣を歩くキティにそう言っていた。
「でもまだ会ったばかりですから。それにさっきの続きが気になります」綿貫本人がもう気にしていなかったのに、キティはそうはいかないらしい。「美山さん、なにか気づいているんでしょう」
「……お前は気がつかなかったか?」
「何にです?」キティは肩をすくめる。
「匂いだよ。あの部屋の。かなりかすかではあったが、ミントの匂いがした」
「それがなにか?」
「あれはミントそのものの匂いを誰かがつけたかった訳じゃない。別な臭いをごまかすためだ。換気までしたうえでな」キティはまだわからないようである。「もうひとつヒントだ。あの部屋の壁や天井は薄汚れていた。黄色くな」
キティも、そこでわかったようである。
「シガレット……ですか?」うなずいてみせた。
「うちの高校は、ちょいと厳しくてな、生徒はもちろんだが、教師も校内、および学校周辺でたばこを吸うのが禁じられている。これは去年、保護者からクレームがあったからなんだが」まあ、もともとたばこを吸っているのはごくわずかであったが。二、三の教師の顔が思い浮かんだ。おそらく犯人はこの中にいるのだろうが、突き止めるのは俺の仕事ではない。
強請って、登山用のテントをせしめるということもできたかもしれないが、教師の恨みを買っていいことはないし、それに綿貫がその人物をびびらせてしまった以上、もうあの部屋には来ないだろう。
ヘビースモーカーにとって、一日ニコチンを我慢しなければならない、辛さがどんなものかは想像できないが、教師たるもの、生徒の手本であってほしいとは思う。
ところで、とキティが言った。「さやかさんは美山さんのことが好きなのでは?」
唐突な話だ。曰く、綿貫がこの話を俺にしたのは単純に俺と話がしたかったからであり、誰が何をしに来たかという問いの答えはどうでもよかったものなのだと。だから、あっさり追求をやめたと。
俺は嘆息をついた。
「あんまり、その話はしたくないんだ」
俺も馬鹿じゃない。そんなことは、ずっと前から気づいていた。
だが、どうしろというのだ。確かに、綿貫はいいやつだ。でも、俺とあいつとでは月とすっぽんくらいに立場が違うんだ。許嫁がいるような相手に惚れられた俺に一体どうしろと?
綿貫の家は、金持ちだった。それも成金なんかではなく、昔から名のある家、いわゆる旧家であった。士族の中でも、上位に位置していたそうで、戦前に先見の明があった、当時の当主が、繊維産業に目をつけ、殖産興業で急速に発展した、軽工業の波にのり、戦後は高度経済成長と、異常な熱狂を見せた不動産投資に付随する、好景気に押され、綿貫家は愛知を代表する資産家の一つとなっていた。
そんなところのお嬢さんが俺みたいな、一般市民を相手にするのがおかしな話であるのだが、去年、問題を抱えていた彼女を助けたことで、綿貫は俺に親しみを覚えたようである。
だからと言って、いろんな事情を無視して彼女に近づけるほど、俺は餓鬼じゃなかった。
いつしか、自分の気持ちをシャットアウトし、綿貫を避けるようになっていた。卑怯だとは思う。でも、他にできることなんてなかったのだ。
綿貫だって、現実を理解している。理解した上で、ああいうことをするんだ。
自分に対する嫌悪感と、煮え切らない態度の綿貫に対し、苛立ちを覚え、足が早くなっていった。
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