第74話 大橋零の初恋(2)

「おーい、大橋」

「はい?」


 ある日の放課後、私は担任の男性教師に呼び止められた。

 帰りの支度の手を止めて教卓まで歩いて行く。


「悪いんだが、このプリントを片野の家に届けてくれないか?」


 そう言われて手渡されたのは三者面談の案内をはじめとしたプリントの束だった。


「あいつ今インフルエンザで休んでるだろ。このプリントは、あんまり遅いとご両親の都合がつかないから」

「どうして私が?」

「いや、調べたらお前が一番片野の家に近かったんだよ。これ、アイツの住所な?」


 このやり取りの間も、クラスの奇異の視線が注がれていることに、私は気づいていた。


「こんなの、写メにして送ればいいじゃないですか。知ってる人に頼んで下さいよ」

「それが、俺は片野のメールアドレスを知らないんだ。誰か知ってるヤツに心当たりがあれば、そいつに頼んでもいいから。じゃあ、頼んだぞ」

「あ、ちょっと」


 担任の先生はそれだけ言い渡すとさっさと行ってしまった。

 私は居心地の悪い思いをしながら、帰りの支度を再開した。


「災難だね、零。あんなオタク女の家に行けなんてさ」

「美咲ちゃん、そんな言い方しないの」

「あはは……。仕方ないから行ってくるよ。じゃあ、また明日学校でね」


 何となく気まずくて、咲々コンビとの会話もそこそこに私は学校を後にした。


 地図によると、片野さんの家はびっくりするほど私の家に近かった。

 というか、はす向かいだった。

 私の家は父親が転勤族だったので、幼なじみとかそういうのとは無縁である。

 引っ越してきたときに挨拶くらいはしていたかもしれないが、私たちくらいの女子が近所づきあいなんていうものをするのはレアだ。

 今日知らなければ、多分ずっと知らないままでいただろう。


 私は一旦帰宅して自分の荷物を置いてから、プリントの束を片手に片野さんの家を訪ねた。

 ドアの前で何度か深呼吸をする。

 なぜか、酷く緊張しながらインターホンを押した。


「はーい」

詩子しいこさんのクラスメイトで大橋と申します。詩子さんが欠席中に配られたプリントを届けに伺いました」

「あら、ありがとう。どうぞ、上がってちょうだい」


 その声と共に、玄関のロックが外れた。

 私は玄関でプリントを渡して帰るつもりだったので、上がって下さいという片野ママの言葉に動揺した。

 とはいえ、そのまま突っ立っているわけにもいかないので、仕方なく中に入った。


「お邪魔します」

「どうぞ。嬉しいわ。詩子にこんな仲のいいお友だちがいたなんて」

「いえ、私は――」


 なんと言うつもりだ?

 別に仲は良くないですって言うつもり?

 私はすんでの所で思いとどまって、とりあえず用件を済ませてしまうことにした。


「これ、プリントです。近々、三者面談がありますので、早めに都合をつけておいて下さいと先生が」

「ありがとう。申し訳ないんだけど、詩子の部屋まで届けてくれる? 今ちょっとお料理で手が離せないの」

「あ……」


 そう言うと、片野ママはキッチンに引っ込んでしまった。


「詩子さんの部屋って言われても……」

「二階の奥よー」


 当惑する私の元に、ご丁寧に声が飛んできた。

 逃げ場がない。

 仕方ないので、さっさと渡しておいとましよう。

 私は階段を上がり、二階の廊下の突き当たりにある部屋の前に立った。

 ドアプレートに「しいこ」と書いてある。

 私はコンコンコンと三回ノックした。


「……?」


 応答がない。

 私はもう一度ノックしたが、やはり同じだった。

 寝ているのだろうか?

 今日何度目かの当惑。

 私にどうしろと言うんだ。


(いや、待てよ?)


 これはひょっとしてチャンスなのでは?

 下手に起きていられるよりも、寝ている間に机なりなんなりにプリントを置いて、詩子さん寝ていたみたいですからこれで、とでも言って帰ればいい。


「……お邪魔します」


 私は極力音を立てずにドアを開けると、小さな声でそう言いながら片野さんの部屋に入った。


「わ。すご……」


 片野さんの部屋の中は、いわゆるオタク部屋だった。

 壁にはアニメのポスターがいくつも貼ってあり、本棚にはマンガがずらり。

 私には正体の分からないキャラクターのグッズも、ガラスケースに入れられて綺麗に飾ってあった。


「! いけないいけない」


 思わずそれらに目を奪われてしまい、少しの間思わず眺めてしまった。

 こんなことをしている間に、片野さんが起きてきたら面倒なことになる。

 見れば、片野さんはすやすやとベッドで寝息を立てていた。

 今のうちだ。


「机は……。わっ……っと」


 アニメグッズに埋もれているような部屋だが、机の周りは綺麗に片付けてあった。

 私はそこにプリントの束を置こうとして、パソコンのマウスを動かしてしまったらしく、スリープ状態にあったパソコンの画面が立ち上がってしまった。


「これは……マンガの原稿……?」


 大きめのディスプレイ一杯に映し出されたのは、裸の女の子二人が見つめ合っているシーンだった。

 最近はパソコンでマンガを描く人もいるというが、片野さんもその一人なのだろう。

 などと思いながら、私はそのイラストに見惚れた。


 イラストの女の子の内、一人は内気そうなボブカットの子、もう一人は、どこか鈍そうだけど純朴な長身の女の子だった。

 二人は何も服を着ていなかったが、私は不思議とそれを嫌なものとは思えなかった。

 むしろ、繊細なタッチで描かれたその原稿が、とても美しいものだと思えた。


「それ、モデルは小咲さんと零さんだよ」


 音量こそ小さかったものの、静寂の中に確かに響いた声にびっくりして私は振り返った。

 片野さんがパジャマに包まれた上半身を起こして、こちらを見ていた。


「あ……違う……。その……私……!」

「大丈夫。プリント届けてくれたんでしょ? 分かってるから」


 私は混乱の極みにあったが、片野さんが落ち着いた様子だったので、感染するように私もやがて落ち着いてきた。


「勝手に見て、ごめんね?」

「ううん。私も勝手にモデルにさせて貰ってるし、おあいこ」


 片野さんはそう言って少し笑った。

 眼鏡をしていない片野さんは、いつも教室で見ているよりも表情がよく見えた。

 顔色もいい。


「モデルって?」

「美咲さんは私のこと腐女子だと思ってたみたいだけど、実際は逆。私、百合女子なの」


 微妙にキャッチボールが失敗した会話だった。

 女の子同士の恋愛をテーマに、マンガを書いているのだ、と片野さんは言った。


「気持ち悪いと思う?」


 その問いは、疑問ではなく確認の響きを帯びていた。


「……気持ち悪……くはないと思う」


 私は本音を隠して、飽くまで片野さんを気遣った発言をしたつもりだった。

 しかし、


「そうだよね」

「そうだよね、って……どういうこと?」


 私は訊いてしまってから、訊かなければよかったと思ったがもう遅い。


「だって零さん、小咲さんのこと好きでしょ?」

「!?」


 その時の私を客観的に見たら、さぞ面白い顔をしていたことだろう。

 だが、当時の私は全然笑えなかった。


「なに……言ってるの?」

「誤魔化さなくてもいいよ。言ったでしょ? 私、百合女子だって。そういうのに偏見ないし」


 淡々と言う片野さんが、私はとても怖かった。

 片野さんにバラされたら、私の学校生活は終わる。

 私は必死に否定しようとした。


「違……私は違うよ! そういう変なのじゃないし!」

「変? 変ってどこが?」


 向きになる私に対して、片野さんは飽くまで冷静だった。


「別に誰が誰を好きになろうが、その人の自由じゃない?」


 そう言ってのける片野さんに、私は「ああ、この人にはきっと敵わない」と思った。

 二の句が継げずにいる私をよそに、片野さんはベッドから降りると、本棚から数冊の本を抜き出した。

 それをアニメのキャラクターがプリントされた手提げバッグに詰める。


「これ、よかったら読んでみて」

「……?」


 手渡されたそれは、表紙に美しい少女が描かれた小説のようだった。


「きっと、色々と力が抜けると思うよ」


 私はそれを拒むことが、どうしてか出来なかった。

 あるいは、心のどこかで自分の気持ちを誰かに肯定されたかったのかも知れない。

 なんにしても、私はそれを受け取った。


「読んだら、感想を聞かせてね」


 そう言って、片野さんは再びベッドに横になった。

 一分も立たずに寝息が聞こえてきた。

 私は半ば以上呆然としていたが、何もすることがなくなった以上、帰るしかなかった。


「あら、もう帰っちゃうの? よかったらお夕飯を一緒にと思ったのに」

「いえ……。うちでも母が作っていると思うので」

「そう? じゃあ、またの機会にね」

「はい。失礼します」


 私は片野さんの家を辞去した。


 その夜、私は片野さんに借りた本を読んだみた。

 そして――。


 私の中で、世界が変わった。

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