第75話 大橋零の初恋(3)

 片野さんの家を訪れた翌日から、私はインフルエンザで学校を休むことになった。

 おそらく、片野さんのがうつったのだろう。

 私は熱に浮かされながらも、片野さんに借りた小説にどっぷりハマっていた。


 片野さんが貸してくれた小説は、とあるカトリック系の名門女子高校を舞台にした物語だった。

 タイトルは「祈りと想いの間で」という。

 主人公の少女は敬虔なクリスチャンだったのだが、ある時、年上の同性の先輩に恋心を抱いてしまう。

 それまで抱いてきた素朴な信仰と同性を求める恋情との間に板挟みになりつつも、主人公は少しずつ成長していく。

 年上の先輩とのプラトニックな関係や、友人たちとの心温まるエピソードなどが、精緻な描写で美しく綴られていた。

 私はすっかり虜になってしまった。


 その物語の中にひとり、同性愛者であることを公言しているキャラクターがいる。

 せい先輩というキャラだ。

 主人公が思い悩む時、聖先輩は決まって彼女の思いを肯定してくれる。

 それも、ただの感情的なシンパシーではない。

 神学的な知識やジェンダー論的な視点から、同性愛に罪はないとこんこんと説くのだ。

 主人公は最初反発するものの、やがて信仰への盲従から自発的な恋へと思いを移していく。

 私はまるでその主人公になったかのように、自分の気持ちが肯定された気がした。


 その日も、私は自室のベッドでおでこに冷えピタを貼りながら、片野さんから借りた小説を何度目か分からないほど読み返していた。

 もう熱は下がったのだが、心配性の父親のせいで絶対安静を言い渡されていたので、他に何もすることがなかったのだ。

 不意に、部屋のドアが開けられた。


「零、お友だちがいらしてるわよ」

「ちょっとお母さん。ノックくらいしてよ」

「したわよ。あなたが気がつかなかっただけでしょ」


 どうやら小説に熱中しすぎていたらしい。


「それよりどうするの? 少し上がって貰う? 片野さんって仰ってたけど」

「……」


 美咲か小咲だと思ったら、片野さんだったのか。

 私は迷った。

 片野さんに会うのは正直、少し怖い。

 彼女は得体の知れないところがある。

 でも、私はどうしてもこの小説のお礼が言いたかった。


「ちょっとだけ」

「分かったわ」


 そう言うと、母は戻っていった。

 程なくして部屋に近づく気配があり、ドアが三度ノックされた。


「どうぞ」

「お邪魔します。あら、意外と元気そうじゃない」


 そう言うと、片野さんは鞄をカーペットの上に下ろした。


「可愛い……とは言えない部屋だね」

「あんまり見ないでよ。自覚してるんだから」


 私はあまり女の子女の子したものが好きではない。

 いや、なかった。

 可愛いものは好きなのだが、図体の大きい自分にはどうもそういうものが似つかわしくないように思えて、これまで遠ざけてきた。

 でも、これからは増えるかも知れない。


「小説、面白かった」

「そう。どんなところが?」

「うん。たとえば――」


 私たちは夢中で作品について語り合った。

 登場人物の一人一人を上げてその良さを言い合ったり、物語の見せ場について論評し合ったりした。

 小説についてそんな風に熱く語るのは初めての経験だったが、驚くほど楽しかった。


「その分だと、治ったのはインフルエンザだけじゃなさそうだね?」

「そうだね……。自分の恋愛感情と向き合えるようになったかも」


 この小説はまだ完結していないから、主人公が最終的にどんな結論を出すのかはまだ分からない。

 でも、私自身は信仰に生きてきた訳ではないから、もう自分の感情を否定するつもりはなかった。


「片野さんのおかげ。本当に感謝してる」

「感謝してるなら詩子って呼んでよね。私だけ零さんって言うんじゃ不公平じゃない」

「そうだね。ありがとう、詩子さん」

「どういたしまして」


 なんとなく私にとって詩子さんは、小説の中に出てくるあの聖先輩の立ち位置だったのだと思う。

 同性への恋に思い悩む私に、道を指し示してくれた大切な存在だった。

 名前で呼ぶことにも、もうそれほど抵抗はなかった。

 この時の私はもう自分を偽らない、と晴れ晴れとした気分でいたのだ。


 けど――。


 次の日学校に行ってみると、私はすぐに違和感に気づいた。

 挨拶をしても、返事が返ってこない。

 いつもなら自然と入れる女子たちの輪に入れない。

 最初は長く欠席していたから感覚が掴めないだけかと思っていたけど、明らかにこれは違う。


 私は、避けられている。


「ねー、小咲。こんな季節にインフルエンザになるなんて、超レアだよね」

「う、うん……」


 美咲がこちらをちらちら見ながら声高に言った。

 小咲は気まずそうにしているが、やはりこちらを見ている。


「そういえば、ちょっと前にも同じようにインフルエンザになった人がいるじゃん?」

「そ、そうだね」

「なんかさー……。怪しいよね」


 湿り気を帯びたねっとりとした口調で、美咲が言う。

 それに、男子の一人が乗っかった。


「うつるようなこと、したんじゃねーの?」


 教室、大爆笑。

 私はと言えば、必死に維持していた日常がもろくも崩れ去りつつあることに狼狽していた。


「ちがっ……! 私、そんなことしてない!」

「あれー? 零、どうしたの、そんなに必死になっちゃって。別にアンタのこととは言ってないじゃん」

「とぼけないでよ。なんでそんなこと言うの?」

「えー、別に他意はないけどー」


 ネズミをいたぶる猫のようだ、と私は思った。


「詩子さんもなんか言ってよ! このままじゃ私、誤解されて――」

「え、詩子さん? なに? 零ってば、あのオタク女と名前で呼び合う関係になったの? ヤバ。ガチなヤツじゃん」

「ち、違う! そうじゃない!」


 完全に泥沼だった。


「じゃあ、何? なんで突然、アイツと仲良くなってんの?」

「私はただ……少しアドバイスを貰って……」

「アドバイス? なんの? ああ、ベッドの上の寝技とか?」


 下卑た笑いが教室にこだました。

 私はもう涙がこみ上げそうになった。


 その時――。


「なんでそんなに馬鹿なの? 猿なの?」


 怜悧な声が、笑いを両断した。

 片野さんが立ち上がってこちらを見ていた。


「なに、片野。文句ある?」

「ある。なんなのこの茶番。下らなさすぎて反吐が出る。いい年してなにやってんのあんたら。身体ばっかり大きくなって、頭の中幼稚園児か」


 容赦ない罵声だった。

 普段、主張をあまりしない詩子さんからそんな言葉が出るとは思っていなかったのか、勝ち気な美咲も一瞬言葉に詰まる。

 その隙に、詩子さんは畳みかけた。


「大体、零さんには好きな人がちゃんといる。それは私じゃない。友だちだったんなら、それくらい分かるでしょ」

「……何を分かった風な」

「あー、どうでもいい。どうでもいいから、幼稚園児のお遊戯に私を巻き込まないでくれる? こっちまでレベルが下がるから」

「! この……!」


 美咲と詩子さんが一触即発になりそうだったその時。


「もう……もう、やめよう……? こんなのヤだ……」


 涙声でそう言ったのは、小咲だった。


「美咲ちゃん……。私、教室のみんながケンカするのヤだ……。美咲ちゃんが誰かとケンカするのは……もっとやだ……」


 ぽろぽろと泣きながら、でもそう言い切った小咲に教室中が毒気を抜かれた。

 あっけにとられたように、美咲も詩子さんも、教室中のみんなが小咲を見た。


「チッ……。わーったよ。ほら、泣くなよー」

「ごめんねぇ……みんな……」


 舌打ちして矛先を収めた美咲が、小咲を抱きしめた。

 調子に乗ってはやしたてていた男子たちも、三々五々散っていく。


「……」


 詩子さんはいつの間にか自分の席に座って、本を読んでいる。

 見事な切り替えの早さだ。


 私はといえば、とりあえず事態が落ち着いたことにそっと安堵の息を漏らした。

 でも――。


(安息の日々よ、さらばってとこかな)


 この場は収まったものの、もう美咲のグループにはいられないだろう。

 明日からの身の振り方を真剣に考えないといけない。

 どうしたものか。

 私はもう、どうにでもなあれという気持ちになっていた。

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