第1章 ならず者姉妹と魔法修行

第1章1話 救世主に選ばれました。おめでとう

 俺が捨て忘れたプリンのカップにより、母親のスリッパが汚れたという理由で両親に小一時間も怒鳴られたのは、いくらなんでも理不尽だろう。そのあまりの理不尽さに、俺は現世に対する失望感すら抱いている。


 自室に逃げ込みベッドの上でスマホをいじる今も、両親の理不尽な怒鳴り声が頭の中に響いていた。

 スマホの画面に映った「ステラーウォーズ/最初のナイト、本日公開!」や「神代岳噴火から三年」「某俳優の不倫現場を激写!」といった文字は、ことごとく頭に入らない。

 

 おかしい。あんなに理不尽な両親を見たのははじめてだ。何者かの精神支配でも受けているのではないか、と思えるほどの、理不尽でアホらしい怒りを、俺は理解できないでいた。


 不愉快な過去は忘れ去るに限る。俺は見果てぬ遠い世界――妄想の世界に入り込むことにした。


「勇者の力を思い知れ! ……いや、違うな。魔王、覚悟! ……これも違う。ここはクールキャラで黙って魔王に突撃したほうがカッコイイか」


 妄想の世界で勇者となった俺は、不愉快な過去を上書きする傍ら、スマホをいじり寝返りを打つ。


 まさにその時だ。地割れのような轟音とともに家が揺れた。

 家が揺れた衝撃で、俺の手に収まっていたスマホは重力に身を任せる。手の平サイズの板はちょっとした凶器と化し、俺のこめかみに直撃。


「イテッ!」


 つくづく不幸な一日だ。

 いくら軽量化を謳ったところで、電子機器は電子機器。顔面にスマホが直撃した痛みに悶える俺は、とても魔王と戦っている場合ではない。

 あまりの痛みに目を瞑り、しばらくのたうち回る。


「お若いの、大丈夫か?」


 突如として俺の鼓膜を震わせたしゃがれ声。

 声のした方向に視線を向けると、そこには知らない老人が。


 自室に知らない老人? 俺の中の危機管理センターが警報を鳴らし、俺は警察に通報しようとスマホを探す。


 ない。スマホがどこにもない。

 スマホがないだけならまだマシだった。辺りを見渡せば、そこには不気味なまでに真っ白な部屋が広がっている。


「どこだ……ここ……?」


 壁と床の境界線も分からぬほどに、白一色に染め上げられた広い部屋。


 俺の左隣にいるのが老人だ。


 右隣からは獣のうめき声が聞こえてくる。比喩ではなく、本当に獣のうめき声が。

 ここは動物園なのか、アフリカなのか、俺の右隣にはゴリラがいた。なかなかにイケメンなゴリラが、白い床の上に腰を落ち着かせ、頭をさすっていた。


「夢かな? 夢だな。間違いない。これは夢だ」


 とにかく自分の頬をつねってみる。

 ダメだ、目を覚まさない。

 つねってもダメならと、自分の頬を殴ってみる。

 ダメだ、痛いだけだ。こめかみに残る鈍痛に、頬の痛みが追加されただけだ。


「これこれ、自分の顔を殴ったところで、現状は何も変わりはせんぞ」


 老人は呆れたような目を俺に向け苦笑する。

 現状を少しでも理解するためには、素人目にもそれが高級品であると一目で分かる上質なマントを羽織った、左隣に座る老人に話しかけるしかなさそうだ。


「すみません、ここどこです?」


「……ワシも分からん」


「分からないんですか?」


「ああ。どうやら眠っている間に何かが起きたようでな。気づいたら此処ここにいた」


「そうですか……。あの、変な質問して良いですか?」


「なんじゃ、言ってみろ」


「これ、異世界転生みたいな展開ですか?」


「ほお、面白いことを言う。そうか、異世界転生か。ワシも異世界に転生するのかのお。楽しみじゃのお」


 可笑しそうにする老人の笑い声が、真っ白な部屋に木霊する。まさかの異世界転生を期待した俺だったが、老人もそれを期待しているらしい。


 真実は未だに分からずじまいだ。

 謎の真っ白空間で、異世界転生を夢見る老人と、哲学的な表情をしながら落ち着き払った様子のゴリラと一緒に、無為な時間を過ごす。これには部屋だけでなく俺の頭も真っ白である。


 この際、もう誰でも良い。誰でも良いから、この状況を説明してほしい。

 どこかの誰かに説明責任を果たしてもらうことを願いながら、俺は床に寝そべった。


 まるで床暖房でもあるかのように暖かい床。睡眠前の謎の展開というのもあって、だんだんとまぶたが眼球を覆いはじめる。


「フフ~ン、お待たせしちゃったわね」


 眠りにつく直前、白い壁の一部が消え、そこから2人の人影が現れる。

 1人は、白のワンピースに黒いジャケットのようなものを羽織る、長いブロンドヘアと垂れ目が魅力的な女性。

 もう1人は、今にも血を吐き出しそうなまでに厳しい表情をした、ローブらしきものに身を包む細身の男性。


 事情を知っていそうな人物のようやくの登場に、俺は多少の落ち着きを取り戻した。

 だが、男性は俺たちを見るなり唾を飛ばす。 


「これはどういうことだ!? なぜこの老人がここにいる!? この生物はなんだ!? 救世主を呼び出したのではなかったのか!?」


「やめてよね、その追求モード」


「これは当然の追求だ! 事前の報告と違うではないか! 老人とこの獣、一体どうするつもりなんだ!?」


「うう~ん」


「早く答えを出せ!」


「ちょっと待ってくれないかしら……そうだ! そのおじいさんは、『スペース』の若者に転生させてあげて。この獣――ゴリラかしら? は第141世界に送りましょう。きっとUMAとして有名になれるわよ」


「まったく……」


 2人の間の話は決着がついたようだ。

 男性は女性の耳に届くように舌打ちをする。女性は男性の舌打ちなど気にせず、俺の顔をじっと見て口を開いた。


「はじめまして。私はラグルエル=オルタファ=メイエムフォン=イーゼン。あの人がコンストニオ=メタトール=イゼエル=ベーカよ。コンストニオは生真面目だけど、なんだかつまらない人で――」


「私の話はどうでもいいだろ!」


「ほらね、つまらない男でしょ。さて、あなたの名前は?」


 首をかしげ、そう質問してくる女性――ラグルエル。

 俺は混乱したままの頭で、ラグルエルの質問に答えた。


「俺の名前は倉坂空人クラサカソラトです」


「クラサカ君ね。よろしく」


 ラグルエルは余裕に満ちた温和な表情をしている。異物を見るような目を俺に向け、老人とゴリラを運び去っていった男性――コンストニオとは正反対の表情だ。

 この女性は信用できる、という何の根拠もない思いが、俺の中に生まれた。同時に、この人なら俺の現状を教えてくれるだろう、という確信も生まれる。だからこそ俺は質問した。


「ここはどこなんです? 何で俺、こんな場所に?」


「あなたの妄想が実現したのよ」


「は?」


「歩きながら話しましょうか」


「わ、分かりました」


 俺に背中を向け、真っ白な部屋から出ていってしまうラグルエル。そんな彼女を追って、俺も真っ白な部屋を後にした。


 部屋を出ると、そこは飾り気のない廊下。間接照明に仄かに照らされた、白と灰色の、簡素ながらも洗練された廊下が、俺を包み込む。


 俺たちの他には誰もいない廊下を歩きながら、ラグルエルはおもむろに語り出した。


「単刀直入に言っちゃうわね。あなたは『ムーヴ』という世界を魔王の侵略から守る、救世主に選ばれました。おめでとう」


「へ~、俺が救世主ですか。じゃあラグルエルさんは女神様ですね」


「女神様、ね。まあ、そういう解釈で良いわよ」


「……あれ? もしかして本気ですか?」


「フフ~ン、信じてないわね。良いの良いの、そう簡単に信じられることじゃないし。ともかく、話だけ聞いてちょうだい」


「はぁ」


「あなたは私を女神様と呼んだけど、それは半分正解で、半分間違い。私たちは第1世界『プリムス』の住人よ。『プリムス』の住人たちは、数多の世界を生み出し、その世界を管理しているの。クラサカ君が住む世界『スペース』も、私の管理下にある世界のひとつね。つまり、女神様は半分正解」


 話の規模が大きすぎてついていけない。こんな話を信じろというのか。


 ただ、ラグルエルが嘘を言っているようにも見えない。そもそも、これが嘘だとして、俺にそんな嘘を教えて何になるのか。

 とりあえず、言われた通り話だけでも聞いてみよう。


「一方で私たちは、文明の発展によって高次元空間を生み出せるようになった、ただの人類でもある。『プリムス』に住む私たち人類は、一体誰によって創造されたのか? そこを問い詰めれば、私たちは神様ではなくなるわ。じゃあ、女神様は半分間違いということ」


「ごめんなさい、言ってることが全く理解できないです」


「少しずつ理解していけば十分よ」


「……ええと、ともかく、俺は魔王を倒す救世主に選ばれたんですよね? つまり俺が勇者」


「その通り」


「俺が救う『ムーヴ』って世界は、この『プリムス』とかいう世界じゃないんですね?」


「ええ。『ムーヴ』は『スペース』と同じ、私の管理下にある世界よ」


「どうして、俺が救世主に選ばれたんです? 実は両親が英雄だったとか?」


「それは自分に聞いてみなさい」


「…………」


 自分に聞いたところで答えなど出ないだろう。捨て忘れたプリンのカップであれだけ怒鳴り散らす両親が、実は英雄でした、とも思えない。


 現状の一部については霧が晴れたが、霧の先にあったのは、さらに深く濃い霧であった。

 きっと俺がここで頭を悩ませたところで、真実なんか見えてこない。考えるだけ無駄ならば、流れに身を任せるだけだ。

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