Part2 氷の一閃

 校舎に隣接した体育館には、球技や器械体操などの運動部の活動場所がある他、温水プールや古代のヒノクニ……二ホンの文化を学ぶ資料室や文化系サークルの部室がある。五階建てのビルディングで、トレーニングルームは四階にあった。


 俺は荷物を纏めて、トレーニングルームへ移動した。

 エレベータはあるが、鍛える目的でやって来ているのだ、階段を使う。


 すると、三階のフロアが妙に静かなのが気になった。一階と二階では、バスケットボールやバレーボール、バドミントン部なんかが活動していて声援やボールの跳ねる音が聞こえて来ていたから、その静寂が余計に際立ったのだろう。


 三階には、武道場が入っていた筈だ。カラテ、ジュードー、アイキドー、キュードー、そしてケンドー、だったか。


 昔は、RCFの構成要素でもあるトータル・ファイティングと同じく格闘技であったと聞くが、今時は宗教や神話と同じで、文化的価値以外には存在理由を認められないものだ。しかしその文化を学ぼうという者は少なくなく、そうした古流オールド・スタイルから今に活かせる何かを掴み取ろうとする――この表現が既に精神文化の類か――学生も何人か見られた。


 だから多少の賑わいはある筈なのだが、今日に限っては妙に物静かであったのだ。


 俺は少し気になって、三階で階段から逸れて、武道場の様子を窺った。

 凛――と、涼やかな音がしそうな無音に包まれていた。


 フロアそのものに染み込んだような汗の匂いが、そうさせているのか。

 きらきらと輝く都会とは異なる、美術の教科書でしか見た事のないような密林が、眼の前に現れたような気分であった。


 階段に対して垂直に廊下が伸びており、左手にそれぞれの部活の道場があった。


 先ずカラテ部。

 次にジュードー部。

 アイキドー部。

 ケンドー部。

 キュードー部は、廊下の突き当りのドアの先だ。


 俺は、半開きになったケンドー部の扉の隙間から、光が漏れているのに気付いた。

 他の道場への扉は固く閉ざされていたが、ここだけが人の気配を感じさせた。


 俺はそっと、その隙間から中を覗いてみた。


 板張りの床。

 部屋の端には、コンバット・テクターと比べるとすかすかのプロテクターが並べられている。


 その道場の中央に、一人の女子生徒がいた。

 白い綿のジャケットに、黒い絹のガウチョパンツを合わせている。

 いや、確か……ドウギと、ハカマというのだったか。


 ドウギは、ボタンを使って正中線で止めるのではなく、襟を片側に重ねて、左の内側と右の外側で紐を結んで固定する、アジア古来の衣装だった。同じ着方をするものには、足首の上まで裾が長いものがあるが、ドウギは長くても太腿の中頃までだ。


 ハカマはズボンのように二つに分かれているが、それぞれに襞があり、腰に当てる生地の分厚い部分から太い紐が伸びており、これを臍の下あたりで結ぶ事になっている。


 黒い髪を、頭の上で結わえていた。


 その女子生徒は、藁をくるくると巻いて立てたものと、向かい合っている。

 何か妙な儀式でもやっているのだろうかと思ったが、彼女が左足を後ろに引いた時、腰の左側に長いものが生えているのに気付いた。


 緩く沿った剣だ。

 薄くて丸型の鍔が、鞘に被さるように取り付けられている。


 その先に伸びる柄に右手が被せられ、左手の親指が後ろから鍔を押し出している。


 右肩を前にした前傾姿勢を取ってから、数秒間、彼女の動きは凍て付いた。

 決して大きくはないその背中から、巨大な氷を冷凍庫から外気に晒した時のような、白い煙が立ち上っているように見えたのだ。


 凍り付いた空間を切り裂くように、


「しゃっ」


 と、彼女が息を吐いた。


 それと共に、鋼が空気を断つ音がして、彼女の右腕が前方に飛び出していた。

 そして鞘から離した左手が、右上に持ち上がった剣の柄に触れたと見るや、二度目の金属音が聞こえた。


 二度目とは言ったが、最初の音がいつ発せられたのかは分からなかった。それでも二度、という風に感じたのであるから、恐らく、一度目と二度目の金属が虚空を切断する音は、ほぼ同じタイミングで生じたのだろう。


 彼女の、機敏で逞しい所作に見惚れてしまった俺は、彼女が前にしていた巻き藁の上半分が床に落下していたのに、すぐに気付く事が出来なかった。


「すっげ……」


 思わず声を漏らすと共に、足音を立ててしまった。

 それが殊の外、大きく響いて、彼女がこちらを振り向いた。


 瞳が空間に残像を作るくらいの速さで肩越しに顔を動かしたのだが、俺の姿を見るとその黒い瞳は怯えに潤み、その場でたたらを踏んで、尻餅を付いてしまった。


「きゃあっ!」


 そして取りこぼした剣を、自分の脚の間にざっくりと突き立ててしまう。


「お、おいっ……」


 俺は咄嗟に道場の中に、土足のままで飛び込んでしまった。

 彼女の剣の切っ先は、袴の中に潜り込んで貫通していたが、皮膚には触れていないようであった。


「大丈夫か? 怪我、してないか?」

「は……はい……。そっ、それより! 土足で、道場に上がらないでっ……下さい……」

「えっ? ああ、すまない……」


 眼の前に巻き藁を切り落とすような鋭利さの刃物がある恐怖と、いきなり男に声を掛けられた事に怯え切りつつも、道場の規律を守ろうとする彼女。


 俺は声のヴォリュームを大きくしたり小さくしたりした挙句、俯いて黙り込んでしまった彼女の前で靴を脱ぎ、慎重に剣を引き抜いた。


 ずっしりと、鉄の重みが手に圧し掛かる。テクターを身に着けた状態なら兎も角、何の補助もなしにこんな鉄の塊を二度も振り回すなんて、とてつもない馬鹿力を持っているように思われた。


 それにしても、この刀身の美しさだ。


 片刃剣である。山なりにカーブする刀身の、濡れたように蒼褪めた輝き。腹に浮かび上がる、波打つような文様。窓から射し込む光に晒せば、鉄血の脈動を感じるかのようだった。

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