第12話 今夜だけは抱きしめて
「ふんっ、はっ、せいっ、やあっ」
ゴツッ、ドゴッ、ガガッ、ゴガッと打撃音が響く。
空に浮かぶ満月が白金の輝きを放つ中に、水兵服姿の男。
チョップは、ひたすら木を殴っていた。
サン・カリブ島の中央から、やや東寄りの丘の上に平たい公園のような場所がある。見下ろせば、水兵団の宿舎や水兵団の艦船が停泊している『東の港』が一望できるスポット。
昼間の訓練が終わったチョップは、夜の自由時間も自らの研鑽にあて、子供の時からのお気に入りのこの場所を特訓場として、いつもトレーニングを行っている。
一心不乱に拳を叩きつけるチョップ。だが、ふっと視界の中に白い影が入る。
彼は思わず振り向いて身構えたが、そこにはなぜか白いワンピースのマルガリータ姫の姿があった。
「チョップくん……。やっぱり、ここだったね」
「姫……? どうしてここへ?」
「ちょっとお散歩していたの」
見ると、マルガリータは一人きりで、お供を連れている様子もない。
「散歩って……、お供の方はいらっしゃらないのですか? こんな夜ふけに女性が一人で出歩くなんて」
「サン・カリブ王国は治安がいいから大丈夫よ。それこそ誘拐犯でもいない限りはね」
ふふんっとマルガリータは、いつものおてんばな態度で笑って見せるが、心なしか元気がないようにも見える。
幼なじみだけに分かる、わずかな変化。
「なんだか、久しぶりだね……」
「? 三日前に会ったばかりじゃないですか」
「え? あ、そ、そうだっけ?」
時間の感覚がマヒしていたマルガリータは、チョップの指摘に慌てる。
「……どうしたんですか? 本当に」
「うん……、ちょっと話がしたくって。それより特訓の最中でしょ? 待ってるから続けていいよ。どんな事をしているか見てみたいし」
「はあ……」
マルガリータに促され、チョップは引き続き木を殴る。
何度もボコにされた木は樹皮がめくれ、幹がえぐれていた。
「ふーん、パンチの練習をしてたんだね」
「はい。僕も拳で戦えるように鍛えてるんですけど、なかなかじいちゃんみたいには行かないです」
それでも、額に汗をにじませながら黙々と樹に向き合うチョップ。そのひたむきな姿を見たマルガリータは、うっとりと頬に手を当てながらつぶやく。
「やっぱり、チョップくんはカッコいいなあ……」
「え?」
「でも、朝からずっと訓練してて、夜もこんな夜更かししてたら、明日起きられなくない?」
「うーん、もう慣れましたからね。まあ、うっかり寝過ごしかけてヒヤッとする時もありますけど」
「知ってる? 極東の黄金の国の物語に、幼なじみの女の子が学校に行く時に、主人公の男の子が寝ているベッドに飛び乗って、起こしに来るシーンがあるの。今度やってあげようか?」
「それは、腹筋が鍛えられそうですね……。でも、僕の場合は四時半起きですから、起こしに来れます?」
「あ、それはムリ」
冗談を冗談で返し合い、わははっと二人は笑い合う。
トレーニングのノルマをこなしたチョップは、マルガリータを伴い、見晴らしのいい場所へと赴いた。
最も夜が明るい満月の空が、雲一つなくサン・カリブ島を照らす。海から島にかけて光の道がキラキラと繋がる、東側の海上が一望できる場所。
「素敵な景色ね……、ここに夜来たのは初めてだわ」
「ここは良く来てましたけど、まだ子供の時でしたからね」
並んで座り、しばし夜空を眺める二人。
「綺麗な月……。あ、そういえば。極東の黄金の国で『月が綺麗ですね』って言葉は、『あなたの事が好きです』って意味もあるらしいよ」
「へー、そうなんですか?」
「うん……。本当に月が綺麗だね……」
二人は何も語ることもなく、ただ黙って風景を見つめ続ける。
「……それで、話というのは?」
チョップの問いかけに、マルガリータは言いよどむものの、意を決して言葉を放つ。
「わたしの、結婚が決まりそうなの」
「へ……、へえ~、相手は誰なんです?」
動揺を悟られないように、気のない風を装うチョップ。
だが、マルガリータから語られたのは、さらに彼の心を大きく揺さぶるものであった。
「バミューダ帝国皇帝、アンドレス=バミューダ……」
「え……?」
「もし縁談を断れば、怒り狂った皇帝が問答無用で、この国に戦争を仕掛けてくる事になるの。それを避けるには、求婚を受けるしかないの……」
先程まで快晴だった夜空に、一片の雲が光を奪うかのように月を覆いつつある。
「チョップくん、お願い……。わたしを連れて逃げて……」
「!?」
「わたし、あんな国なんかに行きたくない。あんな男なんかに嫁ぎたくない。チョップくんが一緒に逃げてくれるなら、昔からずっと憧れていた『黄金の国』に連れて行ってほしい……」
「僕が、姫を……?」
突如の申し出に狼狽するチョップ。
王女として、水兵として、国を守る自分たちの責務と身分の差。
王女としてではなく、一人の少女としての彼女の切なる願い。
水兵ではなく幼なじみとしての、自分のマルガリータへの純粋な感情。そして……。
様々な思惑がない交ぜになり、チョップは何も言葉を発する事ができない。
悩み苦しむチョップの姿を見て、マルガリータは。
「う、そ、よ♪」
「!?」
「冗談よ、じょうだん。国の存亡の危機にそんなこと出来るわけないもの。わたしたちを信じてくれている、みんなを裏切れないわ。ためしに言ってみただけ……」
明らかに強がっている事が分かる口ぶり。そして、マルガリータは気丈にも晴れやかな顔で。
「わたし、結婚するよ。わたしさえうまくやれば、王国と帝国間の争いを終わらせる事ができるから。国が滅ぶ事もないし、
チョップくんも戦争に行かなくてすむし。と、喉まで出かかった言葉をマルガリータは飲み込む。彼に負担をかけるようなことを、これ以上言えない。
「まあ、その分わたしが血を流すことになるんだけど……、ベッドの上でね」
てへへっと、マルガリータは茶目っ気たっぷりに冗談めかせて見せるものの、チョップの表情は明らかに強張っている。
「でも、いいの……」
マルガリータはすっくと立ち上がり、二、三歩歩くと、くるんっひらっとスカートを翻す。
「わたしは、マルガリータ=グアドループ。サン・カリブ王国を愛し、民から愛される、五百年続いた王家の末裔。
美しく成長したとはいえ、まだうら若き乙女。これから己に降りかかる運命を思い、清らかなその身をかき
月の光が淡く降り注ぐ、その消え入りそうな姿に、チョップは思わず立ち上がり、マルガリータに近寄ろうとする。
「それでね、あのね、一つだけ。たった一つだけ、わたしの最後のわがままを聞いて欲しいの」
「……なんでしょうか?」
幼い頃、思った事を全部やってしまうマルガリータから、無茶なお願いをされてうんざりする事もあったが、今ならどんな願いも叶えてあげたいと思う。
すると、マルガリータはチョップの胸に飛び込み。
「お願い、今夜だけでいいの! わたしをお嫁さんにして!」
「え……?」
彼女らしくない
マルガリータは、チョップの胸板に顔をうずめながら、涙声で訴える。
「みんなの笑顔を守るためなら、わたしはどうなっても構わないの。でも、本当にそう思えるように、せめて最初だけは……」
涙を浮かべてチョップを見上げ、マルガリータは瞳を閉じる。
その胸元には、彼がプレゼントした桜のネックレスが、彼女の想いを伝えるかのように、輝きを放つ。
チョップはそれに応え、その小さな身体を抱きしめようとする。
だが、ふと月明かりを受けた自らの右手が目に入ると、それはべっとりとした血に
「!!」
思わず、チョップはマルガリータを突き放し、もう一度右手を見ると、それは幻だったかのように何もない元の姿に戻っている。
驚き、そして、哀しみの表情を見せるマルガリータを、チョップは直視する事ができずに背を向けて。
「……駄目ですよ。あなたはこれから結婚されようとしているのに、そのような不義はなりません。はしたない事を言わないで下さい」
チョップの心ない言葉に、マルガリータは力なく肩を落とすが、納得したかのように呟く。
「ごめんね。わたし、チョップくんの気持ちも考えないで、変な事言っちゃった……」
「……」
「わたし、分かってた。今まで結構あからさまにアプローチをしてたつもりだったけど、チョップくんは気付かないフリしてたし、避けられてるんだろうなって。本当は嫌われてるんじゃないかって。でも……」
真珠のような涙をボロボロと落としながら、彼女は非難の言葉を投げる。
「チョップくんにだけは、絶対にそんなこと言われたくなかった。幻滅だよ。昔、わたしの事をお嫁さんにしてくれるって、約束したはずなのに……」
悲しみの最後の一滴を搾り出すかのように、マルガリータは。
「チョップくんの、ウソつき……」
キラキラと星屑のように涙を散らしながら、チョップの前から去って行く。
一人取り残された彼が握りしめていた両手を開いて見ると、爪の跡から血が滴っていた。
チョップは、再び拳を握る。
「僕は、嘘つきだ……。でも、これでいいんだ……」
月は完全に雲に覆われ、唯一の光の元が絶たれて色を喪った世界。
灰色の闇の中、一人打ち沈むチョップは、自分の無力を呪い、自らの心を責め
それから三日後、グアドループ王家から全国民に対し、マルガリータ王女の、バミューダ帝国の皇帝との婚約が発表された。
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