終章《002》




 待った。


 待って待って待って待った。


 なのにいつまで経ってもツェリカの望んだ通りの銃撃はやって来なかった。


 暗い海底で二人きり。


 いい加減にしびれを切らして、レースクイーンの悪魔は口を開いた。


「どうした旦那様。妹を助けると誓ったのではなかったのかえ? それとも脳みそを置き忘れたシステムの奴隷にでも成り下がるつもりかのう」


「偽悪趣味はもう良い」


 短距離狙撃銃の銃口をツェリカから真上へ跳ね上げながら、カナメは応じた。


「お前の言動はどうにも一致しない部分が多い。途中から鼻のチリチリがなくなっていくのが分かったよ。そう、俺に最後の選択をさせるか否かの辺りで。大体、もっとやりようはあるんだ。例えば今回の件、俺が無辜の管理者とかいう秘密を知ってしまうのを恐れての処刑、口封じだとしたら、それだけで奇妙な点がいくつもある」


「獅子の嗅覚か。だが具体的には?」


「今だって、パワーウィンドウを閉めたのは何故? 車の中まで水没させてしまえば俺はフォール、お前はダウンだが、マギステルスは一定時間固まる以外にさして大きなペナルティはない。俺のフォール狙いなら共倒れで良かっただろう」


 カナメは自分の鼻を指先で擦りながら言う。


 あのピリピリした感覚は、もうない。


「豪華客船で『#豪雨.err』を手に入れた時、無数のPMCから鉛弾の盾になったのは誰だ? あそこで俺を裏切っていれば、お前は手を汚さずに俺をフォールできた。『AI落ち』させてしまえばさっさと支配下に置く事もできたはずだ」


「……、」


「それに『銀貨の狼Agウルブズ』と『#火線.err』を巡ってやり合った直後もそう。妹と話をしたいからログアウトさせてくれと頼んだ俺に、お前はすんなり応じたな。話を聞かれるのが怖かったら、ログアウトを拒否する事もできたはずだ。俺達は停車したマシンの中で五分以上待機していなければ、正規ログアウトの手順を済ませられないんだから」


 ツェリカは答えなかった。


 ただ、妖しく笑う悪魔の顔つきに、わずかな翳りが生じる。


「お前の行動には計画性と感情論の二つがないまぜになっている印象がある。そこでお前は言ったな、マギステルスの『総意』は個体から個体へ渡っていく、と。ここまで言われれば想像も容易い。お前はお前で、一人きりで戦ってきた訳だ。『総意』の決定とやらに、『個人』の意思で」


「だとしたら、何じゃ? 結局、わらわはマギステルスで旦那様の妹を害する存在からは逃れられぬぞ」


「馬鹿野郎、結果がどうこうじゃない。身を挺して妹を守ろうとしたヤツが同じ訳あるか。恩人を撃たせるような真似するんじゃない」


 そこまで言われて。


 一度だけゆっくりと瞼を閉じて。


 再び目を開け、ツェリカはようやく白状した。


「なんというか……敵わんのう」


 少しずつ、じんわりと。


 悪魔の氷の表情に変化が生じる。


 掌で触れ、じわりと氷を溶かしていくように。


 見知ったツェリカの顔が浮かび上がる。


 結局。


 彼女も同じだった。


 妹の件と、ミドリの件と、クリミナルAOの件。そこに並んで、ツェリカ自身もマギステルスの『総意』に巻き込まれた被害者でしかなかった。


 つまりは。


 仲間だったのだ。最初の最初から。


「まったく、本当に敵わんのう。この旦那様にだけは」


「当たり前だ。お前は誰の使い魔をやっていると思っている」


 カナメもカナメでダッシュボードの上に短距離狙撃銃を置いて小さく笑った。


 もうこの場に銃はいらない。


 ツェリカが目線で何かを操作すると、真っ暗な車内でフロントガラスにいくつかのウィンドウが表示され、すぐに消えた。


「何をした」


「余計な答え合わせを削除しただけじゃ。……なるほど、タカマサや旦那様の言った通りじゃな。いちいち見せびらかすようでは、その時点で『本物』とは呼べん。とんだ独りよがりのわがままじゃ」


 ツェリカは何かを吹っ切るように言った後、


「じゃがこれからどうする。旦那様がわらわという個人を許したところで、マギステルスとしての『総意』は相変わらず人類に牙を剥き、天への反逆の機会を窺い、旦那様の妹を害しようとするぞ。世界のスイッチを切らないのなら、これをどうにかせねばならぬが」


「考えがない事もない」


 即答されて、ツェリカは思わず目を見開いていた。


 妖艶な見た目に拘わらず子供らしいその仕草に、カナメはようやく肩の力を抜く。


 いつもの調子が戻ってきた。


「なあ、クリミナルAO……タカマサはどうしてフォールさせられたんだと思う?」


「それは、ヤツの持つ『遺産』があらかじめシステムに設定された物理現象の上限を超えてしまうほどカスタムを極めてしまったから」


「だから、何で?」


 良く言って聞かせるように、ゆっくりと質問を繰り返す。


「何で物理現象の上限を超えると、お前達の『総意』が慌てる事になるんだ」


「あれ……?」


「ツェリカ、お前は言ったはずだ。ここは別にゲーム専用に構築された仮想空間ではない。量子論の四つの力をシミュレートしているだけで、それを見た俺達人間がこれはきっとゲームだろうと決めて、そういう価値をつけていったと。その言い分だとマギステルスだってリアル世界に存在できるかもしれない。でも、だとしたら。たかだか架空のゲームバランスが崩壊したからって、マギステルス側の何が困るっていうんだ。人間が勝手に決めて、人間が勝手に楽しむ『HPの代わりにお金を使って殴り合う』ローカルルールが崩れるだけなのに」


 つまり、ツェリカに知らされていた前提には間違いがある。


『総意』が隠しておいた真実が別にある。


 クリミナルAOを反則に頼ってでも迅速にフォールさせ、マネー(ゲーム)マスターの世界から追い出さなくてはならなかった理由が。


「『遺産』はこの世界の物理エンジンを超えているんだ」


 カナメはそう言った。


「言ってしまえばバグやエラー。整然と振る舞っているように見える街並みも、『遺産』を通して眺めれば歪みが出てくる。きっと、正常な風景と異質な風景を見比べれば、俺達にも分かってくるんだよ」


「一体何が?」


「マネー(ゲーム)マスターを作っている最小単位。つまり、仮想物理を支配するプログラム言語が」


 その言葉に、ツェリカでさえもギョッとしたようだった。


「マネー(ゲーム)マスターは過去一度もサイバー攻撃やハッキングを受けた記録はない。大規模な障害が発生した事もない。常にマギステルス側から一方通行で人間を冒すシステムなんだから当然だ。人間側のハッカーに侵入されて手玉に取られたらどうしようもない……どころか、少なくとも今のところはデータの集積体であるマギステルス本人の生存に関わる大問題だ」


 現に、マギステルスは徹底的に隠している。


 サーバーの位置も、使っているプログラムの言語も、どういうサービスでどういう通信網でどういう処理システムを使っているのかも。一つたりとも人間には明かしていない。ただ使え、利用し、溺れろ。それだけなのだ。


「それを……クリミナルAOの『遺産』はひっくり返す可能性を秘めている、じゃと?」


「『#豪雨.err』や『#火線.err』を振り回した程度で、その持ち主が次々と怪死するなんて事はなかった。一つ一つの『遺産』では、見えてくるプログラム言語の種類は限定されているんだろう。だからシステム全体を掌握する事はできない。では今の俺達とタカマサの違いは何だ?」


「『遺産』の……数?」


「それを全て見つければ、タカマサと同じものを眺めれば、きっとマネー(ゲーム)マスターの全てを掌握するプログラム言語の一覧表が手に入る。無数のデータに支えられたマギステルスの『総意』を抑え込める。マネー(ゲーム)マスターは……まあ学校の先生も安心の一〇〇点満点とはいかなくても、本来あるべき安全なネットゲームに変わってくれる」


 つまり、とカナメは一度だけ言葉を切ってから。


 言った。


「お前が死ぬ必要なんかなくなる。妹の命が狙われる必要なんかなくなる。ミドリがフォール分の借金を負わされる事も、タカマサが行方を晦ます事も。みんなリセットできる、そういう話さ」


「……、」


 その言葉を受けて。


 しばしの間、ツェリカは沈黙していた。運転席のシートに深く身を預けたまま、固まっている。カナメからもたらされた情報の意味を、ゆっくりと、じっくりと、頭の中で噛み砕いていくように。


 やがて。


 本当に時間を空けて、彼女は呟いていた。


「……良いのかえ?」


「何が」


「わらわは『総意』と共に死ななくても良いのかえ。本当に、そんな道を選んでしまっても良いのかえ」


 妖艶なその見た目とはどこまでも不釣り合いに、可憐な唇は震えていた。


 まるで、小さな子供が恐る恐る手を伸ばすような、その空気。


「旦那様はわらわのやった事を帳消しにしてくれるのかえ? わらわの事を許してくれるのかえ? 本当に、本当の本当に、またあの馬鹿騒ぎの中へ戻っていく事ができるのかえ?」


 あるいは、『遺産』の真実などよりも、そちらの方がよほど重要だと言わんばかりのツェリカの言葉。それだけで、彼女が本当は何を望んでどれを一番大切にしまっていたかが窺えた。


 対して。


 蘇芳カナメは一秒も迷わずにこう答えていた。




「その答え、いちいち見せびらかすような事か?」




 そこが限界だったようだ。


 レースクイーンの悪魔は両手で顔を覆う。


 パートナー以外には決して見せられない顔と声。


 いいや、敵対者から再びパートナーに戻れたという証。


 それこそ子供のように。


 少女は泣いた。


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