第二章 地底と天空 BGM #02 ”dive to freedom”.《003》


◆◆◆


 サーバー名、ガンマオレンジ。終点ロケーション、常夏市・第三工業フロート。


 ログアウト認証完了しました。


 お疲れ様です、霹靂へきれきミドリ様。


◆◆◆


「ふう……」


 長い髪の少女がぼんやりと目を覚ますと、そこはピンク色の壁紙に覆われた四角い部屋だった。黒いワンピースのサラサラした布地の感触が後から追い着くように思い出される。手にしたスマートフォンは電源ケーブルでコンセントに挿してあるせいか、わずかに熱を放っている。


 意識投入型のオンラインサービスであるマネー(ゲーム)マスターだが、別に得体の知れないヘッドギアを装着したり、コールドスリープじみたポッドに収まる必要はない。このスマートフォン。そこから放たれる種々様々な極彩色の光の乱舞が、使用者の意識を仮想空間へと引きずり込んでいく。


 ある種の催眠や暗示……とは少し違うものらしい。


表象ひょうしょうマーカーだっけか)


 外部から記号的な情報を次々と見せる事で、被験者の脳に共通するイメージを思い浮かべさせる技術。これが表象。何だか洗脳みたいで不気味な印象があるかもしれないが、やっているのは簡単な事だ。


『赤い』『丸い』『甘い』『野球ボールくらい』『果物』『ジュースやパイで有名』……ここまで並べれば、大抵の人は『リンゴ』と答えるだろう。


 VRで使う表象マーカーではそれこそスマホの画面いっぱいに、秒間一二〇フレームで連続的にこうした記号を表示させていく事で、五感全てを埋め尽くすような『強烈な表象』を生み出し、そこを起点に脳内へ直接VRビジョンを描き出す、という仕組みらしい。


 結局、人間の脳が作ったビジョン以上に高精度なものは存在しないか、それ以上になってしまうと人間には正しく知覚できなくなるから意味がない、という訳だ。神の娯楽を楽しむためには、まず神の脳を手に入れる必要がある。修業を積んだ人間だけが天国に行けるというのも、そういう脳の改造の話なのかもしれない。


 本来あるべき目の使い方とは異なるため、人によっては乗り物酔いのようになったり、眼球が乾いた痛みを発する事もあるのだという。幸い、少女にそうした弊害は出ていない。


 ただし、わずかな倦怠感があった。


 たとえるなら、宿題の事をすっかり忘れて遊び呆けた後、家に帰る時のような……現実を思い出す事での重荷、気だるさ、意識の萎縮。


(お兄ちゃん……)


 借金漬けの生活。


 ……とは言っても、年がら年中借金取りが玄関のドアを叩いたり、内臓を売るかカラダを売るか選択を迫られたり、といった日々とは違う。この部屋にだってテレビやエアコンはあるし、三食に困る訳でもないし、学校に通う自由も保障されている。


 足りないものは二つ。


 一つ目は、一人でふらりとどこかへ消えてしまった兄の存在。もちろん捜索願は出しているが、こればかりはどうにもならない。警察を出し抜いて自分だけで見つけ出せるとも思えない。その警察が、失踪の『理由』を聞くたびにああなるほどと納得してしまうのが腹立たしいが。


 そして二つ目は、


「んっ」


 スマートフォンにはいくつかのメールが受信していた。


 覗いてみれば、それはAI企業からのものだった。


『二〇XX年四月一一日、今月の入金内容が確定しました。主企業、アブサード製薬。従人物、×××××。口座内容を確認して無駄のない生活を心がけてください』


「……、」


 今の世の中はカンペキで、たとえ借金漬けになっても飢えて死ぬ事はない。そうした人々をAI企業が察知して、愛の手を差し伸べてくれるからだ。


 テレビだって言っている。


『AIと言っても自分の意思を持つ訳ではありません。柔軟なフローチャートで状況に対応しているようなものなのですからね。人の手よりも効率的に、かつ高速で大規模に労働処理を実行する。新しい時代の新しい仕事のやり方です』


 スマホの広告メールにも書いてある。


『AIビジネスが普及すれば、もはや人は労働の軛から解き放たれるのです。無駄な事に浪費せず、もっと自分のため有意義に時間を使いましょう』


 コールセンターの受付対応や工場の自動操業などから始まったAIビジネスは、今や第一次、第二次、第三次、あらゆる産業に枝葉を伸ばしている。街を歩いていても、ゴミの収集やウェイトレスなどの業務がどんどんオート化されているのが分かる。大体、バイトにできる程度の仕事は全滅、正社員クラスのポストをプログラムに奪われる事も珍しくない。そして機械にできる仕事は機械に回せば人件費を削減できるのだから、どんどんAIは活躍の場を広げていく。人の雇用は、AIによって三〇から四〇%奪われているとされ、今後一〇年で値は六〇から七〇%にまで拡大するのだとか。


 すでに末端から会長まで全てがプログラムで統制された完全なAI企業も台頭している。マシントゥマシン、つまり人から機械、機械から人ではなく『機械から機械』へのデータ取引も活発化され、世界のネットワークを流れる金融取引の四八%はマシンが行っているとも聞く。


 この値が五〇%を超えた時、人間と機械の関係性は逆転するとも。


 人間が機械を操るのではない。機械が世界経済を握り、それによって人間が踊らされる世界。AIが自我を持つなんて大仰な話でなくとも、ただ効率化と最適化のために、自分は勝ち組で賢く儲けていると思い込まされて操られる、それだけの世界が。


 それは便利だけど、何だか不安だ。


 それは気楽だけど、本当に苦しみを明け渡しても良いのか?


 世界全体が、そんな疑問に包まれている時代。


 だからだろうか。




 




「……、」


 知らず、重たい息を吐く。


 こうして保護してもらっている少女自身、自分の胸の中にもやもやしたものが渦巻いているのだ。外から見てそんな風に思われたとしても、何も不思議な事ではない。


 俗に言う『AI落ち』。


 日々の生活が快適であればあるほど、こう思ってしまう。


 自分の首筋には、目に見えないケーブルでも繋がっているんじゃないか。


 もう自分はAI企業の奴隷になっていて、『快適』や『満足』という信号を送られるたび、彼らにとって都合の良いように手足を動かすだけの人型デバイスになっているんじゃないか。


 自分の意思で考えているようでいて、何も考えていないんじゃないか。


 そんな、漠然とした不安だ。


(ただ、どうにもならないのよね)


 そう、分かっていても具体的な突破口が見えない。だから楽な方にみんなで流れていく。どんどん気持ち悪い方へ動いていく世界を止められない。それが今の時代なんじゃないだろうか。


 例えばの話。


 マネー(ゲーム)マスターでは日々有名ディーラーが数億、数十億をゲームの感覚で稼いでいる。あの蘇芳カナメもその一人だろう。では彼に泣きついて借金を帳消しにしてもらえば、こんな『物質的には満たされて、精神的にはどん底な』生活を脱する事はできるのか。


 答えはノーだ。


 いや、データ上の借金だけならチャラにしてもらえるだろう。だけど結局、半端者という烙印はなくならない。自分の足で立って稼いで生活している、一人前の仲間には入れない。周りからの偏見だけではない、他ならぬ少女自身がそう思っている。それにそもそも今のは極端なたとえ話で、制度的に第三者の金を使って『AI落ち』を脱せられるのかだって分からないし。


 だから、誰かにしてもらうだけでは駄目なのだ。


 這い上がりたければ、自力でAI庇護の生活を脱するしかない。


 両親はゲームに疎く、どこかへ消えた兄は訳あってデッド状態、つまり遠隔地からマネー(ゲーム)マスターに復帰する事もない。あと、何とか可能性があると言えば……そう、他ならぬミドリしかいない。


(できる訳ないよ、そんなの……)


 気分が落ち込むと、彼女はほとんど防御反応のように机の引き出しに手を伸ばしていた。


 中から出てきたのは可愛らしいパステルカラーの便箋と、筆記用具がいくつか。


 レターセット。


『AI落ち』した自分の、全てをデジタルデータで管理された自分の、ささやかな抵抗。郵便仕分けシステムも単純配送もAIの影響は及んでいるし、その気になれば通信の秘密を無視して文字列を閲覧される事もあるだろう。


 だけど、手紙に書いた文字には感情が宿る。


 いくら何でも、行間の温度まではAIにだって読み取れまい。


(何を書こうかな……)


 状況が状況だったとはいえ、思えばここ最近は随分と愚痴っぽい事ばかり書いて相手を心配させてしまった。寄りかかってばかりはいられない。


 できるだけ楽しい内容にしよう。


 そう思って、彼女は色とりどりのボールペンを弄んでいた。

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