一人呑み

@kinka

第1話

 10月中旬。涼しさを通り越して肌寒くなってきたある日のこと。

 仕事を定時で上がることができた私は、たまにはどこかで飲んでから帰ろうと、手頃なお店を探していた。

 やがて見つけたのは、小さな小料理屋。

 女性一人で入るには少し勇気がいるが、思い切って暖簾をくぐった。


 「いらっしゃいませー」


 そう言って迎え入れてくれたのは、自分とそう変わらない年齢の割烹着に身を包んだ女性だった。


 「お好きな席へどうぞ」


 促された私は、カウンター席の一番端に座る。

 まだ他に客は来ていないようで、仮初めの貸切状態になった。


 「こちら、お品書きです」


 差し出されたお品書きに目を通す。

 さて、どうしたものか。

 実のところあまりお腹は空いていない。

 なので、何かお酒と合うような一品を頼みたいのだが───

 なかなか注文を決められず、お品書きとのにらめっこを続ける。


 「お客様、もしよろしかったら本日のオススメ、秋刀魚さんまはいかがでしょうか」


 「秋刀魚………」


 いいかもしれない。時期も丁度旬だし、ここ最近食べることもなかった。


 「じゃあ、それをお願いします。後、一緒にぬるかんも」


 「はい、少々お待ちください」


 女将さんは返事をすると、私の前にお通しとお冷やを用意してから、秋刀魚の調理にかかった。

 その手つきは鮮やかで、秋刀魚を、いや、魚の扱いに慣れているのが分かる。


 あんまりその様子を見ているのもどうかと思うので、お通しとして出されたきんぴらごぼうに箸をつけることにする。


 「いただきます」


 普段食べているものより薄めの味付けで、ニンジンとゴボウに加えてレンコンまで入っているそれはとても美味しく、あっという間に小鉢の中を空にしてしまった。


 もう少し味わって食べればよかったなと後悔しながら、秋刀魚が出てくるのを今か今かと待つ。


 「………そういえば、もうすぐか」


 ふと、去年亡くなった父の命日が近かったことを思い出す。

 酒好きな人で、入院してからもこっそり飲んでは母に怒られていた。

 そんなんだから、あっさりと病気で逝ってしまったのだろう。


 「ま、私も人のこと言えないか」


 父の酒好きを受け継いでしまった自分も、健康には気を付けなればならない。


 そんなことを考えている間に、いよいよ秋刀魚が焼けたようだ。


 「お待たせしました」


 目の前に美味しそうな秋刀魚を乗せた長皿が置かれる。

 早速、一緒に渡された醤油をかけ、その身を口にする。


 美味しい。秋刀魚の旨味が口の中に溶け広がり、それが醤油のおかげで更に引き立つのを感じる。ただ、油が口の中に残る感じが少し気に食わない。


 次は皿の端に添えられている大根おろしも併せて口に入れる。今度は口の中にぎらつく油が大根の水分のおかげで気にならなくなった。


 「ぬる燗です」


 いいタイミングで、本日の楽しみがきてくれた。

 女将さんから徳利とっくりとお猪口ちょこを受け取る。

 溢さないように、お猪口に注いだそれをぐっと煽る。

 適度な温かさと、ピリッとした鋭い味がたまらなく効く。


 秋刀魚とぬる燗を交互に楽しんでいると、また父のことを思い出した。

 あれは、まだ私が四、五歳くらいだっただろうか。その日は、母が所用で出掛けていたから、父と二人で紅葉狩りに行っていた。

 空を赤が埋めていたあの景色は、当時の私には衝撃的だった。

 その日の夕食は、父の行き付けの居酒屋で済ましたが、確かその時父が食べていたのは秋刀魚だった。


 「ほら、父さんが一番好きなところだぞ」


 そう言って私の皿に乗せてくれたのは秋刀魚の内臓ワタ

 今思えば、何故父は当時の私にその部分を勧めたのか。

 あの苦味は子供の舌には刺激が強すぎて、怒った私は、しばらく父に対して拗ねたままだった。


 (ま、今では酒と合うから好きなんだけどね)


 懐かしい思い出と共にワタを飲み込む。

 大人になった舌は、苦味もまた美味なものだと感じる。


 「───ごちそうさまでした」


 そうして、すっかり秋刀魚を楽しんだ私は、冷めて味が変わったぬる燗の最後の一滴まで飲み干す。


 「時間は───まだ少しあるかな」


 せっかくだから、もう一品何か頼もうかななどと考えていると───


 ───ブルルルルル


 「おっと。───もしもし」


 「あ、もしもし、私だけど───」


 掛かってきたのは同じ会社に勤めている友人からの電話。

 彼女の仕事も終わったようで、一緒に飲まないかとお誘いがきた。


 「私、もう飲んじゃった」


 「いいよ、いいよ。私もそこに行くから。場所教えて」


 お店の名前と場所を教えると、友人はすぐに向かうと言って電話を切った。


 「すみません、もう一人追加で来ます」


 「はい、承りました」


 にこやかに答える女将さんは、そう言って私の隣の席の準備を始める。


 友人が来るのを心待ちにしながら、父へのお供え物を何しようかなどと考える。


 そんな秋の日の夜を、私は心地よく過ごすのだった。

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