第2話
カツン、カツン、カツン
ゆっくりと誰かが近づく音が静寂に包まれたトイレに響く。
「っ───」
その音を聞いたムラサメは、即座に鍵を掛けなおし、再び便器にまたがった。
それから僅か数秒後に、隣のトイレのドアが開くのを聞いたムラサメは、心の中で舌打ちをする。
(ちっ、タイミングの悪いやつだ。まあ、いい。わざわざ恥を忍んで取りに行かなくても、こいつから紙を分けてもらえるしな)
そう考えたムラサメは、しばらくして、隣の人物が用を足した頃合いをみて声を掛ける。
「おい、ちょっといいか?」
「え───あ、はい」
返ってきたのは戸惑うような若者の声。
とりあえず返事があったことに、ムラサメは小さくガッツポーズをとる。
「突然すまんな。実はこっちのトイレに紙が無いんだ。悪いが、そっちのを分けてもらえないか?」
「本当ですか? それは大変ですね。分かりました。上から投げればいいですか?」
「ああ、頼む」
自分の頼みに快く応じてくれた(恐らくは)若者に感謝するムラサメ。
とりあえず、これで一安心だ。
そう思ったのも束の間、再び彼に絶望が訪れる。
「………あの、すみません」
「ん、どうした?」
「───ありません」
「なに?」
「こっちも、紙が無いんです………」
「なんだとぉぉぉ!」
思わず絶叫するムラサメ。
隣の人物から告げられた残酷な事実に、いつもの冷静さが崩れる。
「おい、後ろは確認したか? 落ち着け。周りをよく見るんだ!」
「もちろん見ました。けど、どこにも紙は無くて、『トイレは綺麗に使ってね』って書かれた張り紙しか………」
「そっちもか!」
「ど、どうしましょう………」
「こっちのセリフだ! どうにもならん!」
あまりにもヒドイ状況に、ムラサメは怒鳴ることしかできない。
だが、なんとか落ち着きを取り戻し、すぐに次の手を打つために、再び隣の人物に尋ねる。
「………おい、お前。ここには一人で来たのか?」
「いえ、案内係の人に、ここまで連れて来てもらいました」
「じゃあ、その案内した奴を呼べば───」
「すみません。待たせるのも悪い気がしたので、先に帰ってもらいました」
「できたやつだなお前は───ん、ちょっと待て。案内してもらった?」
この場所は戦士全員が把握しており、案内の必要などないはず。
もし必要があるとすれば、それは───
「まさかお前、勇者なのか?」
今日ここにきたばかりの人物に他ならない。
「はい。勇者をやらせてもらってる、ブレイブといいます」
「そうか、お前が───」
意外な場所での意外な会合に、ムラサメはなんとも言えないものを感じる。
そんなムラサメに、今度はブレイブが尋ねた。
「あの、あなたは一体」
「ん、ああ。俺も名乗らねばな。俺の名はムラサメ。ジルアース軍の戦士長の一人だ」
それを聞いたブレイブは、急に緊張したような声になる。
「ムラサメって───もしかして、『孤高の剣士』って呼ばれている、あの?」
「そうだ。後、その名で俺を呼ばないでくれ、恥ずかしいから」
「なんでですか? 凄くカッコイイじゃないですか。誰とも群れることなく、ただ自分の力で道を切り開く一匹狼。男なら誰でも一度は憧れる生きた伝説。すごいや。まさか本物に会えるなんて。───あの、サインもらってもいいですか?」
ブレイブはどうやらムラサメの大ファンのようで、ひたすら感動している。
壁一枚を隔てて送られてくる熱い思いを嬉しく思いつつも、今はそんな場合ではないと、ムラサメは半ば無理やり話題を変える。
「とりあえず、一旦落ち着けブレイブ。今はまず、この状況をなんとかするのが優先だ。サインはその後で書いてやる」
ムラサメの言葉に、ブレイブははっとして、すぐに声のトーンを戻した。
「そ、そうですね。すみません、興奮しちゃって」
「気にするな。若い奴はそれくらい元気なほうがいい」
そもそもブレイブはまだ15になったばかりの少年なのだ。憧れの人物を目の前にして、興奮するなというのが無理な話であり、ムラサメもそこのところを分かっているため、決して彼を咎めはしなかった。
「ありがとうございます。後、サインのこと、よろしくお願いします」
「おう。それじゃ、二人でここから出るとするか」
こうして伝説の剣士と勇者は、協力して、この状況を打破するべく、作戦会議を開始する。
「まず、俺が試みようとした隣の個室に半裸で入る作戦だが、これはかなり勝算が低いだろう。三つある内の二つが紙を切らしていたんだ。最後の一つに掛けるのは、少し分が悪い」
「あくまで、最終手段にするわけですね?」
「そういうことだ。お前には、なにかアイディアはあるか?」
「そうですね。そもそも僕は、この状況がなんらかの企みによるものだと思います」
「罠、だと?」
「はい。考えてもみてください。ただの偶然で、ジルアース軍のトップと勇者が二人してトイレに籠るなんてこと、あると思いますか?」
「────!」
「もし、仮にこの状況で僕達二人、もしくはジルアース軍が襲撃されたら、どちらにしろ被害は大きいものになります。だとすると、これは魔王軍が仕組んだ罠なんじゃないんでしょうか?」
「…………」
何を馬鹿な、と否定することがムラサメには出来なかった。
実に馬鹿げた話ではあるが、ブレイブの推測は的を射ている。
もし仮にその通りだとすれば、もはや一刻の猶予もない。
それどころか、既に現実に起こっている出来事かもしれないのだ。
「(さすがは勇者、と言うべきか………)ブレイブ、紙が無いとか言っている場合じゃないかもしれんな」
「! ムラサメさん、まさか………」
「まだ焦るのは早いかもしれん。だが、お前の考えが当たっている可能性も充分にある。あまり悠長にはしてられん。すぐに行動を起こすぞ」
「じゃあ、やっぱり例の作戦を?」
「ああ。お前は隣を、俺は掃除用具入れを確認する」
「………それしか、ありませんか」
苦しそうに言うブレイブ。
しかし、すぐに覚悟を決め、いつでも外へ出れるよう、鍵を開けた。
「よし───行くぞ」
「はい─────!」
そう言って、二人は同時にトイレから飛び出す────はずだった。
「………クククッ」
それは、本当に小さな声だった。
どこかノイズが走ったような、不気味な笑い声がムラサメとブレイブの耳に届く。
「「────!」」
中途半端に立った姿勢で停まる。
確かに聞こえた誰かの失笑。
その発信源は───三つ目の個室だった。
(馬鹿な、有り得ない───!)
(いつからそこに───)
片や最強の剣士。片や伝説の勇者。
その二人に気配を悟らせることなく、至近距離まで近づく。
そんな芸当をやってのけた者が、彼らのすぐそばに現れたのだ。
「何者だ? 人間か? 悪魔か?」
「───ソウ焦ルナ、勇者ブレイブ。動揺ヲ気取ラレルヨウデハ、タカガ知レルゾ?」
「なんだと────!」
「フフッ、マサカ勇者ガコンナ所デ窮地ニ立タサレテイルトハナ。マヌケナ話ダ」
「貴っ様ぁぁぁ!」
「よせブレイブ。相手のペースに乗せられるな」
「でも、ムラサメさん。こいつ───」
「よせと言っているだろう! こいつはヤバい。それくらい、お前も分かるだろ?」
「………はい」
ムラサメに宥められて落ち着きを取り戻したブレイブは、一旦便座に腰を下ろす。
ブレイブが冷静になったのを感じた、謎の声はまたも愉快そうに笑った。
「クククッ、伝説ノ勇者モ歴戦ノ戦士ニハ逆エンカ。オモシロイモノダ」
そんな彼に、ムラサメが問う。
「さっきからペラペラと、よく喋る奴だ。で、お前は何者なんだ?」
「名ハ名乗ラン。タダ、貴様達ノ敵ダトダケ答エテオコウ」
「! 悪魔、いやただの悪魔じゃない。お前、まさか、魔王ザリンなのか?」
「な────!」
その事実に衝撃を受けるブレイブとムラサメ。
悪魔が───それも魔王がトイレで用を足しているなどと、彼らには想像もつかないのだろう。
「オカシイカネ? 我ダッテ生キテイルンダ。食事ヲスレバ排泄モスルサ」
「俺達が驚いたのは、悪魔がトイレで使うというところさ。そんな概念は無いもんだと思っていたよ」
「馬鹿ダナ。ダッタラ魔王城ニトイレナド造ルモノカヨ」
「───そうか。確かに」
ザリンの言葉にムラサメは納得する。
確かに、わざわざ人間のためにトイレがあるというのも変な話だ。
「で、お前は何故俺達に話し掛けてきたんだ?」
ブレイブが核心をついた質問で切り込む。
「簡単ナ話シダヨ。実ハネ───」
それに対し、ザリンは───
「私モ紙ガナインダ」
非常に困ったように答えた。
「「いや、結局お前もかよぉぉぉ!」」
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