お花見とハンドポンプと泡を立てないビール「もう、我慢できない……」
・一話完結スタイルです。
・気になる種類のビールやお店のお話からどうぞ。
・ふんわり楽しくお気軽に。難しいことはほとんど出てきません。
ビールが苦手気味だった新社会人”舞浜みつき”が、先輩や同僚たちと、日本各地で作られたおいしいビールと出会ううちに、いつのまにかビールを好きになったり、それなりに知識がついたりつかなかったりする物語。
§ § §
「きゃー! すっごーい!! まさかのハンドポンプー!!!」
ビール大好き社会人、常陸野まなかは大興奮の様子で、会社寮の中庭に置かれた機具の周りをぐるぐると回っていた。
いつもはおっとりとした話し口で、人見知りの気もあるのだが、今はそんな普段の様子を微塵も感じさせないテンションである。
ここは、東京のお台場の一角建つ、シェアハウス型の社員寮、いなほ荘の中庭。
名前からは想像もつかないような、近代的な設備を備えた新築の寮3棟の間に芝生が広がり、桜も咲き誇っている。
中庭は近隣の住民にも解放されており、あちらこちらでお花見を楽しんでいた。
そんな朗らかな光景の中、機具の周りをぐるぐる回りながら観察している女性の姿はなかなかアレだ。
「ほらほら、まなにゃーん。そんなにグルグルしてるとバターになっちゃうよー」
ぐるぐるとハンドポンプ の周りを回るまなかに笑顔で声を掛けたのは川越毬花。まなかがよく通うビール専門のバーの店員であり、まなかが熱い視線を注ぐ機材をここまで運んできたその人である。
「えっ? マリ姉。あの機械ってビールじやなくてバターが出るんですか?」
と、ネタにマジレスを返したのは、新人社会人の舞浜みつき。レジャーシートの上に食事を広げていたが、バターという単語に顔を上げて反応した。
機材の周りをぐるぐるしているまなかとみつきは、新人と教育係という関係の他に、オフィスの席も寮の部屋がお隣さんという関係もある。
想定外の当たり判定にダメージを受けつつも、毱花は説明を始めた。
「おぉぉ、ジェネレーションギャップがなんか痛いわ……あれはバターじゃなくて、ビールが出るビールサーバー」
みつきは食事をシートの上に広げる手を休めると、お姉さん座りをやめて正座になる。お勉強モードだ。
毱花の方に体を向けて姿勢を正し 、疑問を投げかける。
「まなかさんが見てない方のサーバーは、ちょっと形が違うように見えるんですけど、何か違うんですか?」
「えっとね、ビールを注ぐところの違いとボンベの有無よ。どちらにもつながっている銀色のやつがビールが入ってる樽ね。で、あの2つのサーバーは、樽からビールを出すやり方が違うの。ガスで押し出すか、手動のポンプで吸い上げるか」
あっ、わかった! という表情で、まなかは仮説を唱えてみる。
「もしかして、ボンベを使って楽チンっていうのと、手で頑張って大変っていう違いですか?」
「みつきくん、良いところに気がついたね! でも惜しい。ボンベを使うから楽というわけでもないんだよ」
まるで先生になったかのように、腰に手をそえる毱花。解説を続ける。
「ボンベが付いている方は炭酸ガスでビールを押し出して、グラスにビールを注ぐ仕組みなんだけど、圧力が強すぎると泡だらけになったり、ビールにガスが溶けてピリピリになっちゃうこともあるの。逆に圧力が低いと、ビールの中にあった炭酸が抜けて、気が抜けちゃうんだ。ビールの温度とかいろんな条件で、ちょうどいい圧力は変わるの」
「ふむー、ガスを使うのは準備がすっごい難しいんですねえ」
意外とビールを注ぐのって難しいらしい。
ならばガスを使わなければ楽なのでは? と思い至ると、みつきは手をあげた。
「はい、先生! じゃあ、手動の方が手間なく簡単に美味しく飲めるってことですね!」
毱花は苦笑を浮かべる。
「うんにゃ。手動のはハンドポンプっていうんだけど、そっちにつなげられる樽は専用のなの。こっちも準備が大変なんだ」
「ぐぬぬぬ、どっちも大変ってどういうこと……」
残念な顔で悔しがるみつきに、毱花は補足する。
「ハンドポンプに繋げるのは、リアルエールって言う分野のビールなんだけど、樽の中で発酵させるものなの。だから、飲み時の見極めが難しいんだ。それに、注ぐ時にガスを使わないから、グラスに注いだ時の泡は、発酵過程で生まれた分しかたたないんだよ」
「む……むむ?」
みつきの瞳の輝きが失われつつある。
感づいた毬花は、ガラッと言葉を変えた。
「まあ簡単に言うと、飲めるビールが違いまーす! あと、ハンドポンプから注ぐと、ほとんど泡が出ません! っていうか、むしろ泡が立たなくて正解なビールなのです!」
途端にみつきの顔が正気に戻る。
「おぉぉー、泡のないビールなんですね! それは気になるかも!」
「うむうむ。泡がたたない分、香りや味をより味わえて好きって人もいるし、まろやかとか、クリーミーとか言われることもあるよ」
毱花は満足げに頷くと、機材を置いた方向へ視線を向ける。
2人がやりとりをしているうちに、いつの間にかまなかがよろよろとした足取りで近づいてきていた。
上気した頬と、唇の端に見える輝きは、もしかするとバターになる予兆かもしれない。
「マリ姉……その、あの……。もう、我慢できないかも……。いいかなぁ?」
お預けを食らって涙目のまなかはどこか微笑ましい。
「お待たせっスー」
「お惣菜持ってきたわよー」
ちょうどそのタイミングで明るい声が響き、毱花に似た顔立ちのボーイッシュなボクっ娘と、長い栗色の髪をふわりとなびかせながら色香をまとう女性が連れ立って歩いてくる。
みつきが首を傾げる。
「あれ? カヨちゃん先輩と瑠璃ちゃん、一緒に買い出し行かれてたんですか?」
「いやいや、ボクはカメラを忘れて、途中で取りに帰ったっス」
そう問いに答えながら、一眼レフを鞄から取り出すのは、毬花の妹であり、みつきの同期の・川越瑠璃だ。
「私はお気に入りのお店のお惣菜が食べたくなっちゃって、皆が来る前に買いに出てたの。で、戻りぎわにたまたま瑠璃ちゃんと会ったってわけ」
ふわふわとした笑顔を浮かべながらシートに上がると、持参したお惣菜を広げ始めたのは軽井沢夏夜。まなかの同期だ。
メンバーが揃うと、毱花は皆に呼びかけた。
「よっし、そろそろビールの準備も始めよっか! まなニャン、注いできていいよー」
「ふわぁい……」
恍惚の顔でハンドポンプの元に駆けていくまなか。
「みんなもセルフサービスで、無理しない程度に好きなだけどうぞ。まなにゃんに全部飲まれちゃわないようにね」
「「「はーい!」」」
早速ビールを注ぎ始めているまなかが、泡が全く立っていないグラスを手にしつつ顔をあげ、口を尖らせてる。
「全部は……飲みきれないもん……多分」
そんなまなかの返事に、さまざまなツッコミが掛けられる。
「ほら、まなにゃんはほとんど独り占めするつもりだぞう!」
「もう、ビールのこととなると人が変わるんだから」
「ほんとに泡がないんですねえ!」
「いやー、まなかさん嬉しそうっスねえ」
そう言って笑い合う皆の顔には笑顔が、頭上には桜が咲き誇り、花びらがふんわりと降り注ぐのだった。
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