備忘録

御調草子

1

 妻に先立たれると夫は長生きしないらしい。

 どこかで聞いた話をふと思い出して、7年という歳月を考える。これは長生きと言えるだろうか、それともまだまだ短いだろうか。心に空いた穴を埋めてしまうにはまだ足りず、だけどそこに穴がある事を受け容れるには十分な時間だったように思う。ともかく、こうして君を迎えるのも7回目ということで、用意もずいぶん手際良くできるようになった。

 線香の煙が果物の香りと混じり、種類の異なる甘さの香りが冷房の風に吹かれて部屋を漂う。静かな部屋とは対照的に窓の外では疲れ知らずの蝉たちが今日も元気で、薄いガラスの向こうで空気がわんわんと震えているのが見えるようだ。たしか蝉というのは7年間を幼虫として過ごした後に地上に出て羽化するのだったか。ということは今鳴いている彼らは君と入れ違いに生を受け、そうして今日まで生き続けてきたわけだ。

 そこまで考えて、蝉に勝手な親近感を覚えている自分に苦笑した。いやいや、彼らは彼らで勝手に生きているのだ。何もかも都合の良い物語にして受け取るのは人間の悪癖だと、君もよく言っていた。


 チャイムが聞こえて我に返る。もうそんな時間だったか。

 出迎えも待たずにカギを開く音が聞こえ、引き戸が軋む。蝉の声がわっと大きくなったかと思うと廊下の端まで暑気を帯びた空気が届いた。そしてその暑気に被さるように大声が響く。

「親父、入るぞ。ああ、暑かったあ!」

 声の主は狭い玄関で大きな身体を器用に縮こませて靴を揃えていた。久しぶりとはいえ長年育った家だ、勝手は身体が覚えているのだろう。その後ろ、まだ慣れない様子で立っている人物がもう一人。

「お義父さん、こんにちは。ご無沙汰しています」

「大介。祐子さんも。いらっしゃい、さあ上がって。いま麦茶を出すよ」


 二人を仏間に促してから台所へと向かう。再び静けさを取り戻した家の中にカチカチとライターの音が響き、線香の香りが少し強まったのを感じる。足元で廊下のきしむ音、ガラスのコップが軽くぶつかる音、冷蔵庫が唸る音が妙に大きく聞こえる。麦茶を注ぎながら、コップを3つも用意するのは久しぶりだなあと呟いていた。

 7年前は高校生だった大介も今や勤め人となった。君を失った直後は声の出し方すらわすれてしまったかのようだった彼も今となってはあの通り、うるさいばかりの大声だ。本人に言わせれば「営業課の元気当番」なのだそうだけれど、あんな暑苦しさで詰め寄られる客の事を考えると不憫でならない。何でもいいから早く買ってしまって楽になりたい、なんて思わせているんじゃないかと言ってやったら、それも交渉術だなんて偉そうにしていたっけ。

「二人とも、お待たせ」

 麦茶をテーブルに置くが早いか、大介がガブガブと勢いよく飲み始めた。隣で祐子さんが一礼してから静かに口に運ぶ様子を見て、本当に好対照だと笑ってしまう。

 はじめて大介が祐子さんを連れてきたときは本当に大丈夫かと思ったものだ。ほっそりとして静かな彼女は涼やかな印象で、隣の暑苦しい男と並び立つと炎天下にみるみる小さくなってゆく氷を思わせられた。これでは長くは耐えきれないのではないかと心配したのだが、付き合いが長くなるにつれてそれは杞憂だったと知ることになる。彼女は意外にも芯が強く、一見すると流れに逆らっているようには見えないのに決して流される事はなく、まるで根が生えているようにどっしりと安定していた。

 なるほど、彼女の涼やかさは溶けゆく氷粒ではなく、大樹の作る木陰のそれだ。そう喩えてみれば我らが息子とはよく合っているのかもしれない。陽光と木陰が揃ったならば、そこにあるのは心地の良い木漏れ日だ。

 などと考えていると不意に大介がバタバタと動くのが見えた。見ると胸元に茶をこぼしたようだ。既に祐子さんがハンカチを取り出しつつ笑みを浮かべていた。

「ふふ、こうなると思った」

「サンキュ。あー、祐子には敵わねぇな」

 大介がそう言うのを聞いて思わず目を向けてしまう。大介も言ってしまってから気づいたのだろう、一瞬こちらを見つめてから若干気まずそうに目を逸らした。突然の沈黙に一人キョトンとしている祐子さんを見て、大介が渋々といった顔で説明を始める。

「いや、今のセリフさ。敵わないな、っての。親父の口癖だったんだよ。よく母さんに言っててさ。いやあまさか移っちゃってるとは」

 そう、それは私の口癖だった。君には敵わないな、いったい何度この言葉を口に出しただろう。この言葉を投げかける先でいつも浮かんでいた得意気な笑顔も鮮明に覚えている。

「ははあ、なるほどね。でも言っておくとね、大介はウチでもよく言ってるよ」

「本当かよ。ショックだなあ。親父に似てきちゃってるよ」

「ま、私はお前と違って飲み物を溢したりはしなかったけどな」

 大介のような粗相をやっていたと祐子さんに思われたら堪らない、きちんと言っておかなければ、と咄嗟に口を挟んでしまったが、これは悪手だった。

「お義父さんは、どんな時に言ってたんですか?」

 当然そう問われる。小さな恥に気を取られて大きな恥をかく道に踏み込んでしまうのは私の悪い癖だ。攻勢に転じた事を嗅ぎ取った大介がニヤニヤと笑っているのが憎たらしい。代わりに答えてやろうかと目配せする息子に、不本意ながら助力を乞う。

「わすれ物だよ。親父は昔っから物わすれが酷くてさ」

「酷いって程じゃないだろう。昨日の夕飯だって覚えてるぞ」

「親父は毎晩同じものだろ。そういう抵抗はやめとけって」

 祐子さんがクスクスと笑っているのを見て、負けを悟る。ああ、もう好きにしろ。

「物わすれが酷くてさ、しょっちゅう母さんに聞いてたんだよ『なあ、アレはどこにいったっけ』『アレはなんといったっけ』とかさ。普通アレなんて言って分かるわけないじゃん。でも母さんは凄くてさ、だいたい当ててくるんだよ。俺も結構長いこと親父と暮らしてたけど全然わからねえのにさ」

「お前が鈍いだけなんじゃないのか」

「いや、母さんが凄いんだよ。まあそれでさ、母さんが『ほら、これでしょ』と答えるわけだ」

「得意顔でな」

「そう、得意顔で。ゲームに勝ったみたいな顔だったよなあ。ま、それで親父が『君には敵わないな』って返すのがお決まりでさ」

「ご夫婦、仲がよろしかったんですね」

 君たち夫婦もな、と返すのは少し照れくさくて心にしまっておくことにした。

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