第2話 チャイニーズのcafe
ツルンとしたきれいな顔をした男性が、静かなほほ笑みとともに、そのお茶を出してくれた。ポットを片手で示しながら彼は、「こちらの中のお花が開いたら飲み頃です」と教えてくれた。
ガラスポットのなか。小さくちぢこまってこげ茶色になっていた花が、お湯に浸かってすこしずつ気泡を放ちながら、こわばっていた身を開いてゆく。一枚一枚の花弁が、ゆっくりと。
火曜日のランチ前。
午前中のこんな時間にこの店に来たのは、ほんの気まぐれだ。
娘を幼稚園に送り届け、そのままふらりと青山まで走ってきてしまった。
11月。すこし冷えてきた季節だけれど、今日は小春の日和。窓の外にはわたしのブルゥのプジョーが停まっているのが見える。
もう、ここで恋人と待ち合わせることもない。
甘い時間を持つこともない。
不思議と、がっかりしたり痛みを覚えたりすることはなかった。
交際のあいだはとても熱烈に、親愛の情を交わしあったものだけれど、こうして離れてみるとまるで何事もなかったかのように穏やかな日々を送っていける自分に驚く。
夫と娘と。
朝食の席ではテレビを見ないことにしている我が家で、毎朝の穏やかな食事を取る。
ジャコと貝柱と大根のサラダ。温めなおしたクロワッサンに、半熟のスクランブル・エッグ。オレンジジュース。夫にはコーヒーを淹れ、娘とわたしはミルクを飲む。
今日の予定について。
娘の幼稚園での友達のこと。夫の仕事の様子。
朝の食卓には、斜めに日の光が差し込む。
そんな風な穏やかな日々。たいせつな、愛すべき生活。
熱に浮かされていた頃が遠く、嘘のように思える。
うわごとのように愛を言葉にし口に乗せ、何度も何度も抱き合ったこともすべて、乾いて色味のない思い出になった。
できれば彼もそうであってくれると良いのだが、とわたしは思う。
未練を残したり、憎んだりせずに。ゆっくりあの世界からここへ戻ってこられればいいのだけど。
深海に潜っていた潜水夫は、減圧調整という作業を行いながら、水面へと戻ってくる。そうしないと、あまりの急激な圧力の変化に、彼ら自身の肉体がついてこられないからだ。
同じようにわたしも、あの常軌を逸した熱情の世界から圧力を抜き、穏やかにこの生活へ帰還した。
時にいまのように気まぐれで、忘れ物を捜すかのごとくこのカフェを訪れてしまうことはあるけれど。
人気ない、火曜の午前中に。
耐熱ポットのなかで、ジャスミンの花が開いていた。
さわやかな香りが、ゆるりとした風に運ばれて、お客さんのいない店内へ消えてゆく。
沈静の、静かな効果があるそうだ。
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