後編

 応接間に集められた所員たちは、事の重大さに言葉がなかった。

 誰もがソファーに沈み込むように座り、身じろぎ一つできないでいる。

「わから……ないな……どうして……?」

 理司はそう絞り出した。その呟きのような問いに答えられる者はいない。

 ――催眠魔法はラレイラの声で作られていた。

 理司も確認したが、確かにあの柔らかくて暖かい、心に染み入るような声はラレイラのもので間違いない。否定してくれることを祈って一子にも聞かせてみたが、感想は理司と変わらず……一縷の望みはダメ押しの決定打になってしまった。

 理司自身、催眠魔法は断片的にではあるがテレビの報道などで何度も聞いている。だが放映されているものはすべて安全のため音声に加工がされおり――いわゆるプライバシー保護時に使われる甲高い声に変えられており気づかなかったのだ。わざわざ原版を聞く理由もなかったため、今日までラレイラの声が使われていたとは気づきもしなかった。

 これがどういう意味を持つのか……驚倒で麻痺した頭では理解が追いつかない。

 ただただ――まずい。

 それだけが理司の胸の内を重く大きく、そして深く占領していく。

「ここまでわかれば、誰がなんの理由でキラーズにラレイラさんと召喚契約を取ってくるよう依頼を出したのか検討がつく」

 理司の対面に座っていたルキノが身を乗り出す。

「依頼を出したのはおそらく新振り込め詐欺を統括している連中――詐欺団の上層部だろうね。目的は催眠魔法の強化と多様化さ」

 理司は背もたれに預けきっていた上半身を起こし、ルキノの話へ耳を傾ける。

「現在、詐欺団が使っている音声はボクらのように魔法抵抗力の高い相手には効かない。しかも単純な命令しか与えられない。でもこの抵抗力を突破し、複雑な命令を与えられる催眠魔法ができたらどうなるだろう?」

「……この世の何者でも操れるって、ことだよな?」

「そうさ。強化した催眠魔法を聞かせられるなら世界中の誰からでもお金を巻き上げられる。詐欺団はキラーズに何十億積もうがお釣りが来る莫大な利益が得られるだろうね」

 事の大きさに、理司は再び言葉をなくす。

「幸い、この詐欺はステホの特性に頼っている。だから他の詐欺への大きな転用が難しいところが限界でもあるんだけど……気慰みでしかないよねぇ」

 新振り込め詐欺がステホの機能に頼っている、というのは当初から指摘されていた欠点だ。

 ステホの簡素な魔法を即座に発生させられる機能がまず挙げられる。また骨伝導機能もあって電話を受けるとき誰もが受話口を脳の間近に押し当ててしまう。距離による減衰の大きい歌魔法にとっては非常に好ましい状態だ。

「ルキノ。私の記憶だとセイレーンの歌魔法を録音して流しても、ただの歌にしかならないというのが通説だったはずよ。違うのかしら?」

 理司も藤代と同じ認識だ。歌魔法はセイレーンの喉から発せられた歌という一種の呪文に当人の魔力を掛け合わせて生み出すもの。録音してもただの歌にしかならないはずだ。

 藤代から質問を受けたルキノは腕組みし『ぅぅ~ん』と小さく唸った。

「……ラレイラさんの声の特異性と言うのが早いね。通常、歌魔法は『本人の歌+本人の魔力』という図式でのみ発現する。でもラレイラさんの歌声は特異で『本人の歌+他人の魔力』という形でも発現できるんだと思う。だから簡単な魔法を発現させるステホの機能と非常に噛み合ってるんだ。他のセイレーン族を捕まえて同じことをやらせようとしても無理だよ」

 理司は口元を右手で覆い、その中にため息をこぼした。

 鬼志別召喚仲介事務所はラレイラを守るために行動してきた。だがラレイラの歌声にそれだけの特異性があるのならばキラーズから派遣されてきた二人を退けたとしても、第二、第三のブラック業者が彼女を手に入れるべく動くだろう。

 一生、ラレイラを守れるのか?

 あまりに暗い見通し――その中に光明を探して理司は沈黙する。

「…………どうして……どうしてラレイラさんは、そんなことに協力したんでしょうか……?」

 悲しげに……元気零点の一子がうつむいたまま、とつとつ呟く。

「ワン子ちゃん、それはちょっと違うんだ」

 一子は不思議そうに瞬きして顔を上げた。

「新振り込め詐欺に使われている音声は、合成音声なんだ。クリアな状態で録音したラレイラさんの声を精妙につなぎ合わせて催眠魔法の形にした――ということ。わかるかな?」

 理司には少し抑揚がない程度の違和感しかなかったが……一子ははっとして瞳を見開いた。

「声はラレイラさんのものでしたけど、なんだか……ラレイラさんがしゃべっていないような、そんな気がしてたんです。じゃあラレイラさんは悪いことしてないんですねっ!」

 一子はラレイラの無罪を信じ切った様子で立ち上がった。だが重々しい空気をまとったままの先輩所員三人に小さく息を呑む。

「直接的には、ね」

「……クリアな音源を詐欺団に提供した可能性が残るんだな?」

「そう。そこで出てくるのが、ラレイラさんのCDさ……順を追って説明するよ。少しボクの想像も含むけど、そう外れてはいないはずだ」

 ルキノは額に指を当てると目を閉じる。

「まず事の初めは三年前、ラレイラさんが芸能プロに所属してしばらくしたころに行われたミニライブだ。そこで販売された三十枚の限定CD。これをある連中が手に入れた」

 情報を整理しながらルキノはゆっくりと語る。

「ラレイラさんのファンだったのか、声の特異性に気づいてあとから手に入れたのかは知らないけれど、少なくともその連中はCDに収録された楽曲をステホで再生することで、相手に指示を強制できる催眠魔法になると理解していた。そうして起ったのが二年前に発生した現金輸送車襲撃事件だ、覚えてるかな?」

 問われ、三者三様に首を捻る。

 藤代はかすかに覚えがあるのか唇に指を添えて小さくうなずいている。一子はさっぱり、という表情。理司は先日新聞の記事を見たため覚えているが、当時の記憶は曖昧だ。

「だが現金輸送車襲撃事件の主犯たちはあまり頭が良くなかったのか間もなくお縄になった。たぶん輸送車に魔力抵抗力の高い人物が乗ってたんだろうね。輸送車襲撃事件はそれで収束したわけだけど、この一件はそこで終わらなかった……」

 ルキノは嫌悪するように口の端を歪めた。

「――彼女の音声をもっと安全に、悪質に使う方法を考えついた連中がいたのさ」

 ルキノは青い瞳で『わかるかい?』と言いたげにこちらを注視する。

「――新振り込め詐欺、か?」

「そういうこと。現金輸送車襲撃なんて直接的で危険な愚を犯さず、効率的にお金を人から巻き上げる素晴らしく合理的で畜生なやり口だよね」

 吐き捨てるように言ってルキノは続ける。

「で、さっきも言った通り詐欺団はさらに催眠魔法を強化、発展させるためにCDよりも高品質で加工が容易な音源を欲した。それがラレイラ・オデュッセイアさん本人というわけさ。詐欺団はキラーズに大金を積んで彼女を確保するように依頼、そうして派遣されてきたのがあの二人、戸木島 知朱とザンザメーラ・エイリアだろうね……」

 ラレイラの家へ交渉に赴いた帰りすれ違った黒と白の女。あのとき『イヤな予感』とでも呼ぶしかない無形のなにかを感じ取った自分を理司はほめてやりたい。

「もしも上村医師の依頼が一日でも遅かったら……理司がラレイラさんに会いにいくのが半日遅かったら……彼女は人知れず連れ去られて巨悪の片棒を担がされていただろうね」

 キラーズはラレイラに契約の撤回を強要させたが、契約術式の保護は突破できない。そのため召喚契約を取れず連れ去ることができずにいる状況なのだ。

 偶然、キラーズに先んじて理司たちがラレイラと召喚契約を結びに行ったこと――このわずかな時間差がラレイラをかろうじて守っていた。

「以上がボクの調べた限りわかる、事の始まりと現在に至るまでの状況さ」

 説明を終えて、ルキノは大きく息を吐いた。この情報量には拍手を送りたいところだが、そんな気分にはなれない。

「……でもでも……ラレイラさんは悪いことしてないんですよね? だったら脅される理由だってないと思います! どうしてラレイラさんはそういう風に言わないんでしょうか?」

「理屈で考えれば君の言う通りだよ……でもな、ワン子――――」

 今回の一件、ラレイラが詐欺団と知りながら自分のCDを提供していない限り、彼女に罪はない。自分に非がないのであれば堂々とそれを宣言し、しかるべき場所へ相談する――それだけでもキラーズの動きを大きく牽制できたはずだ。だがそうはならない……

「うかつな動きをしたら『新振り込め詐欺の音声はお前の声で作られている』と悪評を流すぞ、と脅されたらどうなる? ラレイラさんは『自分は悪くない』『勝手にしろ』ときっぱり言える人かい? そして人間は……彼女に非がないと誰もが認めてくれるだろうか?」

「………………」

 一子はラレイラを取り巻く悪意に絶句した。ラレイラの穏やかな性格を考えれば到底そのような強気に出て相手と舌戦などできないだろう。

「人間の世界で歌いたい、人に歌を聴いてもらいたい、という夢を持つラレイラさんにとって、その脅しはなにより怖ろしいだろうね」

 一子は沈鬱に黙り込んでしまった。だが二の句がなく黙らざるを得ないのは理司も同じだった。交渉の場に赴いて吼えるのが本業の理司には、この大局をどこから切り崩していいものか即断できない。

「ちょっと状況を整理しましょうか」

 折しも藤代が怜悧な所長の声で告げた。所長という仕事柄もあるが、藤代は全体を見渡す目に優れ、同時に細部の綻びを発見する能力も高い。

「私たちが目指す目標はラレイラ様の保護です。このゴールに変更はありません。では出そろった情報を元にして現在の問題点と解決方法を考えてみましょう」

 ルキノはラレイラの『これまで』を調べ上げた。

 藤代がラレイラの『これから』を模索し始める。

「問題点その一――ラレイラ様の声に宿った特性は、使いようによって強大な力になるとわかりました。この情報が裏社会にどれだけ広まっているか不明ですが、最早彼女は世界のどこにいても狙われるでしょう……例え金丸工業が作成しているアミュレットが流通しても、今度はアミュレットの防護を突破するためラレイラ様が不可欠になるはずですから」

 目の前が真っ暗になる感覚に理司は眩みを覚える。

「現状、確実な解決手段が一つありますが……私たちはラレイラ様が『その手段』を取らないように手を探る必要があります」

 藤代が『その手段』と言葉を濁した理由に理司もルキノも小さく呻いた。一子だけはわからない様子だが、それを補足するつもりはない……そんな残酷な方法を誰もこの子には告げたくなかったのだ。

「問題点一については良い解決方法に心当たりがあります。私に一任して下さい」

「そう……なのか?」

 絶望的な問題だと思っていただけに、あっさり解決の糸口を提示されて拍子抜けする。

「確実……とは言えませんが可能性は高いです――続いて問題その二、ラレイラ様が脅されている件について。経緯がどうあれ確かに彼女の声は催眠魔法に使われてしまっている。キラーズはこの事実を盾にして脅しをかけていると予測できます」

 この脅しはラレイラの罪悪感などに作用し、高い効果を発揮している。もしも勝ち気で凛然とした人物が相手なら、脅しの効果が薄くなる。彼女の性格を読んだ上で手を選んだなら……ほめたくはないが敵ながら上策だ。

「これに対してラレイラ様は性格上、身の潔白を主張して反撃することは難しいでしょう。またキラーズはこの情報をチラつかせるだけで正規の仲介士を追い払い、彼女が真っ当な仕事につけないよう牽制もできます」

 まともな仲介事務所ならば、過去にこんな大事件に関わった経緯のある召喚獣との契約を進んで取りにはいかないだろう。ラレイラには召喚獣としてまともな仕事は回ってこない。

 と、すると『お前の居場所は世界は裏側にしかない』と脅すことも、それを甘言に変えて誘うことも可能だ。キラーズはそういう手で攻めているのかもしれない。

「そして我々にはこの情報を封じる方法がない……キラーズはステホ一台あればこの情報をどうとでも拡散できてしまう。ラレイラ様が予定通り病院の仕事についたとしても、悪評を流されてしまえば退職と契約解除を望むでしょう……」

 話を聞いていたルキノがぎこちなく足を組みながら芝居がかった調子で帽子を目深に被り直す。吐き出すため息だけは演技抜きだった。情報に通じている彼だからこそキラーズの手を封じる方法がないと誰より痛感しているのだろう。

「さしあたって上村医師との契約仲介は…………中断するしかないようね」

 藤代は苦々しげに告げた。

 一様に声がない。応接間は深海に沈んだように暗く重く、絶望で息苦しい。

 ラレイラの声の特異性は藤代の『心当たり』に賭けるとして一旦保留する。

 だがキラーズが悪評を拡散することは防ぎようがない。ステホを少し操作するだけでヤツらはいつでも、好きなタイミングでラレイラの運命を破壊できるのだ。

 なんという理不尽……こんな理不尽があっていいものか?

 絶望の最中にあって、理司の胸には熱が湧き上がってゆく。理不尽なやり口で親友を連れ去られた幼き日――あのときから理司の心に灯り続ける鉄火にも似た、静かで赤い怒りが。

「ルキ兄――ラレイラさんが、悪用されると知ってCDを提供した可能性は?」

 しばしの沈黙を切り裂いた理司の声には、絶望に歯向かう執念が滲んだ。

 不意に問われたルキノは目を瞬かせたが、唸って考え込む。

「――――極めて低い。諸々の情報を鑑みるにボクはほぼ、ゼロと見ている」

「よし、つまり悪いのは彼女の歌を悪用したヤツ、そうだな?」

「うん……そういうことになるね」

「なら……この件は俺がなんとかしてくる……」

 立ち上がる理司は、応接間を出て行こうとする。

「理司さん……どこにいくんですか?」

 その背に一子の不安げな声が追いすがる。

 逡巡した理司は振り返り決然と口を開く。

「俺は、ラレイラさんと――カラオケデートだっ!」

 …………

 ……

 深海の静けさで満ちていた応接間には、白雲のように間延びした沈黙が漂った。

「ルキ兄。俺はデートのお誘いを文面にしたためる。召喚獣にその手紙を確実に――確・実・に・ラレイラさんへ渡すように依頼してくれ」

 ただ一人、真剣そのものの理司。それでルキノは理解したのか肩を揺すって小さく笑うと、藤代の反応をうかがう。藤代はかすかに眉根を寄せて不本意そうにしたがなにも言わない。

「所長。上村医師にアポを取っておいてくれ。可能ならこれからでも会いたい」

 ただ一人ぽかん、と口を開いたまま首を傾けている一子。

「ワン子、君にも協力してもらいたいことがある」

「わ、わん! デートのお手伝いですかっ!?」

 状況が呑み込めていない一子に理司は笑いかけた。

「そうじゃないさ。俺は……ラレイラさんに渡さなくちゃいけないものがある」

「渡さなくちゃ……いけないもの?」

「あぁ……キラーズの理不尽を打ち崩すために必要なものさ。そのために邪魔が入らないよう協力して欲しいんだ」

 理司がどんな計画を練っているかなど、彼女にはわかっていなかっただろう。だが理司がなにをしようとしているかは読み取れたらしい。

「なんでも手伝います! ラレイラさんを助けて上げましょう! わんわん!」

 琥珀色の両目に一杯の希望を湛えて、一子は犬かきのポーズ。

 底抜けに明るい一子の声が重苦しかった事務所の空気を刷新した。ルキノと藤代も立ち上がり気迫の満ちた表情で理司を見た。その視線を受けて理司はうなずく。

「契約術式の保護が終了するまであと四日。俺たちにやれることをやろうっ! やれることで足りないなら、それ以上のことをだ! ラレイラさんをあの理不尽な連中から救うんだ!」

 

 

 催眠魔法はラレイラの歌から作成されていた……驚倒の事実が判明した翌日。

 制服姿の理司はカラオケルームの待合所でラレイラの到着を待っていた。場所は神大賀駅から快速電車で三駅先の街にある駅前の大きな店だ。その一階にあるメインロビーの丸いソファーに腰を下ろした理司は、しきりに時計を確かめる。

 当然、デートを前にしてそわそわしているのではない。

 ……待ち合わせの十七時はわずかに過ぎた。

 ラレイラが到着する様子はないか、建物の屋上に隠れているルキノへとメールで尋ねる。だが『まだ見えない』と返信が届く。

 了解した旨を短く返すとステホを握ったまま人と召喚獣の行き来する自動ドアへと目を向ける。学校を終えた同年代のグループが増える中、待ち人の姿はない。

 ――キラーズの妨害にあって到着できなくなったのだろうか。戸木島という女に言いくるめられて鬼志別事務所に不信感を持たされたかもしれない。そもそも自分たちは正しいことを行っているつもりでラレイラに疎まれていた可能性は?

 湧き上がってくる様々な疑問と猜疑……理司は一呼吸して弱気と迷いを打ち消す。自信の欠けた交渉は負ける――最年少仲介士、鉄の経験則だ。

 いまはラレイラと交わす会話の内容でも整理し、落ち着いて待つべきだ。

 これからする会話はおそらくラレイラの今後を決定づけるものになる。理司はどうあっても彼女を説得しなくてはいけない。

 ラレイラもそれは察しているはず。デートと称して呼びはしたが、保護解除まで今日を含めて三日という大事な時期に理司が突如として恋愛感情をぶつけてきたとは思っているまい。

 理司は手鏡を開いて身だしなみを整える。

 今日、制服姿で訪れたのはこの現場をキラーズに監視されていたとしてもデートだと言い張りやすくするためだ。監視の土蜘蛛についても手は打ってある。

 理司は制服のネクタイを締め直す。恰好は高校生だがキャラはいつもの仲介士になりきる。

 そのとき、出入りしていた客たちが自然と左右へ別れて道を作った。

 眼前に開かれた道を有翼の美少女が足早に進んでくる。その美貌に、たおやかな佇まいに、神話や童話に描かれてきた神秘的な姿に、誰もが嘆声を漏らす。

「あっ、どうもラレイラさ――」

 立ち上がり、片手を挙げかけて理司は止まった。

 夕日色の髪に白いワンピース。貝殻のネックレス。水色のジャケット。背にはたたんだ黒と白の翼。紺色のショールを肩口にかけた少女――現れたのはラレイラに相違ない。

 だがこれまで見てきた彼女とは違い、唇にうっすら紅を引き、ほのかに化粧を施している。

 趾の先にある鳥類の爪には赤いペディキュアが塗られていた。靴でのおしゃれができないセイレーン族は、大事なときにこうやって爪を飾ると聞いたことがある。

 ――洒落込んでいる。明らかにめかし込んでいる。理司、悩む。

 こちらもラレイラのすべてを知ってはいない。このくらいは彼女にとって礼儀の内なのかもしれない。変に意識して空気がぎこちなくなっては話し合いに影響が出る。ここは自然体に接するべきか……黙考を経て理司は顔を上げる。

「ラレイラさ――」

「遅れてごめんなさい黒東さん! 人間の男性と、いえ……その、男性とのデートなんて私、初めてで……セイレーン族にとって男性は昔からさらってくるものだったので、なんというか……お誘いを受けたときどうして良いか、母にも聞いたことがなくって……」

 息を切らせたラレイラは少し苦しそうにしながら、理司へ深く頭を下げた。

 理司は動揺していた。だが表情を変えず冷静に持ち直す。

 ラレイラはデートする気満々だ。『そんなわけあるかい!』とツッコんでは恥をかかせる。

 交渉する上で相手を立てるのも重要だ。つまりプランはこう――こちらもデートする気満々だった風を装い、そのままルームへ。しかるのち歌でも歌いつつ自然な形で本題を切り出すタイミングを計るのだ。問題は歌手の眼前でからっきしなカラオケを披露することだが、ノリと勢いで突き抜けるしかないだろう。

 ではそれに適したキャラに入れ替えねば。理司は脳内の引き出しを漁る。

(んっ……んんんんんんっ……?)

 デート用のキャラ…………デート用のキャラ!?

「あの……黒東さん……? 怒ってますか?」

 下げたままの頭をかすかに上げ、ラレイラは陰った表情でうかがってくる。

 そんな彼女の頬へ理司は片手を添えた、不安な心を支えるように。

「バっカ、俺はいつでもお前に怒りっぱなしだぜ。どうしてそんなに可愛いんだよ? どうしてそんなに俺の心の中心にいつもいんだよ? さぁ今日は映画見て、お前の三前趾足に似合うペディキュア買って、お前の好きな魚料理でディナーし・よ・う・ぜっ」

「……………………黒東さん?」

 当惑に満ちた紫の瞳が理司を貫く。

「……………………………」

 次第に冷静になってくる理司……顔が熱い……心が痛い。

「…………忘れて下さい……お願いします……」

 理司はラレイラから離れると背を向け、両手で顔を覆った。布団があったら潜り込んで丸まりたい気分だ。

 咄嗟に入れたのは昔、藤代の部屋で読んだ少女漫画の男キャラだった。しかも知識が浅く演じきれなかった。キャラが入りきらず半端になるととにかく恥ずかしい。キャラの『着脱』を考え始めたころに間々あった失敗だが、こんなにあからさまにミスしたのは初めてだ。

 そっ、と背中に触れる手の感触。振り返ると彼女は、優しく微笑んでいた。

「あの……私、忘れますから、ね? 気にしないで下さい」

 笑っていられるような状況ではないだろうに、無用の気遣いで笑顔を作らせてしまった。それが若き仲介士としての自負と、こさえたばかりの心の傷に染みた。

「……恐れ入ります……」

 持ち直した理司は一礼。

「まずルームへいきましょう。費用はウチが持ちますので」

 一連のやりとりを見ていたカウンターのマーメイドに、にやにやされながら受付を済ませる。まだ混み合う時間帯ではないため三~四人用で照明の明るいルームを用意してもらった。

 ルームへ向かう前に、理司はラレイラから少し離れてルキノへ電話をかけた。

「……ルキ兄……ラレイラさんが、ガチデートのつもりで来てるんだけど……」

 作戦の算段、状況確認などを差し置いて理司がまず口に出したのはそれだった。

 キラーズに手紙を見られてもいいように『カラオケルームで会いたい』という旨を書きはしたが……ラレイラのめかし込み方には違和感がある。

『んえ? ボクはウチの召喚獣に手紙を渡すようお願いしただけだよ?』

「…………どの召喚獣に頼んだ?」

『ウンディーネちゃん。水道管も通れるし見つからずに家へ忍び込めるから適任だと思って。珍しく仕事する気になってくれたみたいで、引き受けてくれたんだ』

 ウンディーネ。水を司る高位精霊――彼女らには珍しい特性がある。

「ルキ兄の契約してるウンディーネはまだ結婚してなかったよね……」

 それは結婚によりその身に魂が宿るというものだ。未婚のウンディーネは喜怒哀楽はあるものの精神の要が欠損しているため、他者との共感力に難があり気まぐれや身勝手が多い。

『そうだね、まだ独身だ。常々、お相手を探してるよ』

 知っている。理司も風呂で待ち構えられていた経験がある。

 ルキノの連れているウンディーネは明るく朗らかなのだが、結婚や恋愛の話になると目の色が変わる……なんだかラレイラのあの様子に合点がいった。

「なるほどね…………んでルキ兄。土蜘蛛の動向はどうだ?」

『……いま、お店の前に到着した。ラレイラさんが飛んできたものだから、追いつくのに苦労したみたいだよ』

「なら俺たちが一緒にいるところは見られてないな?」

『そのはずさ』

「じゃあ予定通りに頼む」

『りょ~かい』

 ここからが本番だ。理司はごたごたで緩んだ気持ちとネクタイを締め直した。


 理司との通話を終えたルキノはステホをポケットにしまう。カラオケルームの屋上を吹き抜けてゆく風にボルサリーノ帽を押さえ、眼前のフェンスを見上げた。

「よし、ワン子ちゃん――出番だよ」

「わんわん!」

 転落防止フェンスの上で腕組みをし、仁王立ちする獣耳の少女が一人。

 その堂々たる偉容から、背負った長柄が刀か槍と錯覚するが――虫取り網だ。

「土蜘蛛たちは見えてるかい?」

 一子は琥珀色の双眸で十数メートル下の入り口付近を見据えている。

「ばっちり丸見えです!」

 強風に翻る一子のスカート。丸出しになる肉球プリントのパンツ。

「…………ワン子ちゃんのパンツも丸見えだから、少し気を使った方がいいよ?」

「はぁうっ!?」

 思わず両手でスカートを押さえる一子。途端にバランスが崩れ、一子の小さな身体はフェンスの外側へと傾いていった。

「おわああーーっ!?」

 慌てたルキノがフェンスに飛びつく。だが背の低い彼では到底、一子の足には届かない。フェンスを昇るルキノ、転落してゆく一子、両者が金網越しにすれ違う。

「ワン子――ちゃん……」

 フェンスの上から視線で一子を追ったルキノが安堵の息を吐く。

「さすがだなぁ……なにあれ? ボブスレー?」


 エレベーターが三階に到着する。チ~ン、という音ともにドアが開く。

 まず現れたのは赤面した上、肩を落としたラレイラだ。

「あの……ラレイラさん。本当に、申し訳ありません」

 足早に先をゆくラレイラを追いながら理司は陳謝した。

 いかにしてデートという体裁を崩さずに本題へ至るかを冷静に考えたのだが時間の大幅なロス以外の何者でもないという当然の結論に至った理司。エレベーター内で本日の目的が『交渉』であると正直に伝えたのだったが……

「いえ……そんな……勝手に勘違いしたのは……私ですから……」

 振り返ったラレイラが微苦笑しながら赤い頬へ片手を添えた。やはり彼女は遣いのウンディーネに『絶対、理司の求愛行動よ、ふっふぅ!』と入れ知恵されデートと思い込んだらしい。

 いまは多少ましになっているが、真実を知ったラレイラの反応たるや顔から炎の魔法が出そうなほど真っ赤だった……これは失策だったかもしれない。

 だが一方でうれしい発見もあった。

 おしゃれをして外出できる程度には、ラレイラの心に余裕があるということだ。

 護衛の召喚獣の報告によるとキラーズは常にマンションの周囲でラレイラの動向を監視しているらしい。外出時には偶然を装ってラレイラの前に現れ、にやにや笑って去っていったりもするのだという……彼女を威圧しておきたいのだろうが、悪趣味なやり口だ。

 戸木島への恐怖や窮屈な生活にラレイラがどれほど疲弊しているか、心配だったのだが思ったよりは平気なのかもしれない。

 二人はまずドリンクバーで飲み物を用意するため薄明かりの通路をゆく。やがて曲がり角に差し掛かったとき向こうから足音が聞こえてきた。理司は別段、気にも留めず足を進める。

 角から現れる黒く長い髪、ゴスロリ衣装。緊張と戦慄が理司の全身を駆け抜ける。

「――――ッッ」

 ラレイラの声にならない悲鳴。

 角から現れた少女は佇立する理司たちを胡乱げに見たがそのまま去っていった。服装が似ていただけで背丈、顔立ち……戸木島とは明らかに別人だ。

 理司は安堵の息を吐き出す。背を冷や汗が伝い落ちた。

「ちょっと驚きましたね……」

 苦笑いで振り返った理司の目に映ったのは、くずおれゆくラレイラ。

 理司は慌てて彼女を胸に受け止める。顔面を蒼白にしたラレイラは理司の胸に不規則で荒い吐息を漏らす。恐怖に瞳を見開き、線の細い身体を震わせている。

 理司は己の愚かさに閉口した。

 平気なものか……心がすり減っていないわけがあるか……

 こんなにも戸木島を怖がっているのに、それを察してやれなかった……

「ラレイラさん……ひとまず、ルームへ……」

 ラレイラは無言のまま小さくうなずいた。理司はルームにラレイラを送り届けて休ませるとドリンクバーで速やかに飲み物を用意する。戻ったころには彼女はだいぶ落ち着いていた。

「カラオケルーム……とても久しぶりに来ました……」

 アイボリーのソファーに座ったラレイラは、懐かしげに内装を見回す。

 二人で使うには余裕のある広さだ。照明も暗すぎず明るすぎず悪くない。木目調の壁紙が貼られており、テーブルを挟んでソファーが向き合う形になっている。テーブルに並べた炭酸飲料と紅茶、そしてカラフルなタンバリンが目的に対して場違いだがこの際、仕方ない。

「以前、来たことがあるんですか?」

 理司は彼女の正面に座りながら問う。仲間とこういう場所で開放的に騒いでいるラレイラはあまり想像がつかない。

「あ……はい……昔、お世話になっていた人たちが連れてきてくれました……」

 眼を細めるラレイラはうれしそうで、でも少し悲しそうだった。

「どんな歌を歌ったんですか?」

「えと……色々です。私一人で歌うときは童謡や民謡などを……みなさんと一緒に流行の歌も歌いました。知らない曲ばかりで上手く歌えませんでしたけど……とても……楽しかった」

 ラレイラの表情がほぐれてくる。やはり歌の話をするとき、彼女は楽しげでいくらか饒舌になる。そんな彼女に微笑みながら理司はうなずいた。このままカラオケでもしつつ彼女から話を聞いていたい気分になるが、そうも言っていられない。

「さて……交渉には不似合いな場所ではありますが色々とお話させて下さい」

 理司は改まって切り出す。ラレイラも膝元に置いた手を握って真剣にうなずく。

 理司は名刺を見せ、それを裏返す。『再交渉 可 否』の『可』の部分が丸で囲んであり、彼女のサインも入っている。

 契約術式の保護下にあっても、被交渉側が了承した場合に限って仲介士は交渉を許される。

 ラレイラから再交渉の明確な意志表示を得ている理司は本来、堂々と彼女との交渉が可能だ。

 にも拘わらずこっそり会っているのはこれから交わす会話の内容を、キラーズに悟らせたくないからだ。一子たちが土蜘蛛をこの建物に入らないよう行動してくれている。だがそれも絶対ではない。相手は小型で速い。間隙を縫って建物内に侵入してくるかもしれない。

 つまり場合によっては唐突に会話を中断しなくてはならない可能性があるのだ。これは短くとも制限時間が確保されているより、心理的にずっと厳しい。

「まず貴女がおかれた状況について確認を――」

 逸る心を抑え、調べ上げた情報とそれに基づく推察について正直に伝えた。

 ラレイラのCDが悪用され、新振り込め詐欺の音声が作られていること。

 それを盾にされ脅されているのではないか、ということ。

 ラレイラは驚いた様子で聞いていたが、その顔には徐々に諦念が滲み始めた。

「そう……ですか……凄いものですね、私が言わなくてもそこまでわかってしまうなんて……」

 ラレイラは膝元へ悲しげな笑みを向けた。

「無礼は承知で色々と調べさせていただきました。その謝罪はまたいずれ、必ず」

 理司は深く頭を下げる。ラレイラは『いいんです……』とかすかに笑った。

「黒東さんは……私の声が新振り込め詐欺の催眠魔法に使われている、と知っても助けようとしてくれるのですね……やはり契約撤回の連絡を入れたとき、貴方を信じ切って助けを求めるべきでした……私がためらったばっかりに、こんな……」

 ラレイラは浅く唇を噛むと悔しげにうなずく。

 あのときラレイラがなにかを告げようとした矢先、電話は切れた。彼女が救助を求めようとする気配を察知したキラーズがステホを取り上げたのだろう。

「いま念を押して確認したいのは二つ、ラレイラさんは悪用されると知ってCDを詐欺団に渡してはいませんね? そしてそれを盾に脅されていますね?」

「どちらもその通りです……私のCDで催眠魔法が作られていると知ったのは、つい最近……戸木島さんに音声の原版を聞かされて…………そのときは目の前が真っ暗になりました」

 きっと理司たちがその事実を知ったときの何十倍もの衝撃を受けたのだろう。絶望で浸された心中は察するに余りある。

「ご自身の声の特異性にはいつ気がついたのですか?」

「……二年前に……現金輸送車襲撃事件があったのですが犯人が捕まったあと私も警察に取り調べを受けたんです。初めはなぜ私が取り調べを、と思いましたが犯人が私のCDを使って歌魔法を発生させ、犯行を行っていたと教えられました……」

 深くうつむくラレイラの容貌を長い緋色の髪が覆い隠した。

 無関係だと思っていた事件で、突然警察がやってきて驚いただろう。そして自分の歌声が重大事件のカギになっていたと知ったときのショックたるや……

 CDが回収されたのもこのタイミングだろう。本当の回収理由を公表すれば模倣犯の登場が懸念される。よって『歌詞に不適切な部分があった』としたのだ。

 少ない枚数ながら初めて出したCDだ――うれしかっただろう。それがこんな理由で回収されてしまっては、どれほど悔しかったことか。

「――警察からはその後、歌手活動について制限などを言い渡されましたか?」

 これ以上、過去を尋ねることに心苦しさを感じながらも状況を明確にするため続ける。

「初めは歌唱の禁止かオデュッセイア界への送還、どちらか選ぶように言われましたが……幸い、そのとき事件を担当された人狼の刑事さんがとても良い方で……最終的には歌のCD化やデータ化など、クリアな音源が不特定多数に渡らない程度の活動なら問題ないという形に……きちんとした収録環境がなければ録音されても、害にならないようで」

 大きな活動はせず小さなバーの片隅で歌っていた理由はそれか。

 理司は一旦、言葉を止めて深く息を吐いたつもりで、小さく一呼吸した。

 彼女は害――と言った。あんなにも素晴らしい歌声なのに、悪用されてしまったばかりに自責の念があるのか、己の声が有害だと思ってしまっている。

 なんという理不尽な話だ。

「そして、その過去を引っ張り出されてキラーズに脅されている……と」

「あと……もう一つ……」

「もう一つ……ですか?」

 理司に緊張が走る。ルキノが追い切れなかった要素で脅されているのだとすれば、特急でクリアしなくてはならない問題が持ち上がったことになる。

「私に目をかけて下さった芸能プロの社長さんが……もしかしたら、戸木島さんたちに捕まっているかもしれないんです……今日はその件もご相談したくて……」

 それは状況はかなり難しくなる……理司は逡巡の後に口を開く。

「キラーズ側が社長の身柄を押さえている証拠を出してきましたか?」

「いえ……でも……行方不明の社長さんの居場所に心当たりがあるような言い方をしていて」

 はっきりしたことを言わず、相手が自ら作り上げた不安で自家中毒に陥るよう仕向けるやり口だ。まったく同意しかねるが、悪くない手だ。しかし――

「ブラフの可能性が高いと、私は思います」

 キラーズはそう温くはないだろう。本当に社長の身柄を押さえているなら、もっと有効な使い方をしてくるはずだ……たとえば社長を拷問してその映像をラレイラに見せる、くらいは嬉々としてやりかねない。そうすればラレイラは理司へ助けを求めさえできなかっただろう。キラーズ側は鬼志別事務所とこうまでやりあう面倒も避けられたのだ。

「……そう……なのですか?」

 ラレイラは安堵と不安の入り混ざった、すがるような面持ちを向けてくる。

「現時点では可能性の高低でしかありませんから断言はできません。なので社長の足取りについてこちらで調査いたします。心苦しいかもしれませんが、その件は詳細がわかるまで一旦、保留させて下さい」

「わかり、ました……よろしくお願いします」

 頭を下げるラレイラに理司は『お任せ下さい』と告げて、すでに氷が大半溶けた炭酸飲料を一口飲む。それにならってラレイラも紅茶を一口。

「さて、ラレイラさん…………貴女はこれから、どうしたいですか?」

 静かに、優しく、問いかける。

「……私に取れる選択肢なんて……そう多くはないのでしょう?」

 ラレイラは諦めたような自嘲をかすかに浮かべた。

「それは……貴女次第です。貴女はどうしたいのですかっ?」

 やや語気を強めて再び問う。

 ラレイラはうつむき沈黙した。考えているというより、言うべき言葉は決まっているが、吐き出すのをためらっている、そんな風に見えた。譲れない要求を――心の内を引き出すためにもう一押し必要か……そのときだった。

 紫の瞳は迷って揺れ動き、それでも最後には理司を見つめた。

「黒東さん…………私は……歌が好きです。大好きなんです」

 それでいい、それが必要なんです。心中で励ましながら少女の訴えに耳を貸す。

「歌いたい……歌という文化を深く理解できる人間たちに歌を聞いてもらいたい……それができるなら、他にはなにもいらないです……」

 バー・フェアリーテイルでの召喚獣たちの反応を思い起こす。彼らとてラレイラの歌にまったくなにも感じていないわけではなかったのだと思う。だが自分や一子の覚えた感動とは砂漠の昼と夜にも似た激しい温度差がある。あの違いを鑑みれば、人間にこそ歌を聞いてもらいたいという主張はよくわかる。

「……でも私は歌うことを許されるのだろうか、とも思うのです」

 ラレイラは膝元で手を組み、再び視線を落とした。

「私がなんと言おうとも新振り込め詐欺の音声は私のCDから作られました。そのことが二年前、一部のマスコミにバレて、社長さんはその対応が忙しすぎて身体を壊してしまって……間もなく芸能プロは潰れました。みんな……とてもいい人たちだったのに……社長さんは特に親切にして下さったんです……」

 薄く口紅を引いた唇を噛み締めて、ラレイラは沈鬱にきつく目を閉じた。

「私を拾ってくれた大事な人と場所に恩を返すどころか、潰してしまう原因になってしまいました……そんな私が彼らの許しもなく再びスポットライトを夢見ていいのでしょうか?」

 正直なところ理司は回答に窮した。

 彼女自身が言う『とてもいい人たち』を信じて良いのでは? と口に出すのは簡単だ。そうすることが彼女の心を救うなら無責任を承知で告げてもいい。

 だが心というのは、わからないものだ……ラレイラが完全に事件の被害者だったとしても、芸能プロ関係者の中で彼女を恨んでいる人物がゼロだと考えるのはやや楽観視が過ぎる。

 いま信じた『とてもいい人たち』が、いつかラレイラの心を刺しに来るかもしれない。それを危ぶむなら、むやみに希望を持たせたくない。

「そしていまも詐欺に遭った多くの方が苦しんでいる……私の歌のせいで……どうやって罪を償えばいいのか検討もつきません」

 ラレイラは答えを求めず続けた。回答に悩んでいた理司は会話が別の方向へ流れたことに少し安堵しつつ、現段階で解決できない口惜しさも覚えていた。

 やはりラレイラは歌を悪用され、所属プロダクションが閉所してしまったことに自責の念と罪悪感を持っている。初めて出会ったとき彼女から歌唱を戸惑う気持ちは感じ取れた。けれど、これほどまでに強くもなかった。

 おそらくは戸木島 知朱が煽ってそれを増幅させた結果だろう。ラレイラの弱さにつけ込んで『なにもかもお前が悪い』と思い込ませ、心を縛ったのだ。

 ならば理司はラレイラの強さを信じる――歌を愛する彼女の情熱を信じて『貴女はなにも悪くない』と心に訴えるまでだ。

「……そうですね。自分に非はなく、被害者なのだ、と訴えたとして世間は認めてはくれないかもしれない。そうなれば人間は貴女の歌に怖れや怒りを持ち、耳を傾けないでしょう」

 理司は可能性の一つとして、あえて最悪の状況を提示した。

 ラレイラは自らの両肩をかき抱いて、かすかに震えた。聞いてもらいたい人間たちが歌に耳を塞いでしまう……それは彼女にとってなによりも怖ろしいだろう。

「そしてキラーズがその情報を拡散するのは阻止しようがありません。ステホを少々、操作するだけで貴女の過去を全世界へと広げることができます」

 するとラレイラはまるで気が楽になったとでも言わんばかりに弱々しく笑った。

「もう…………私は、ダメなんですね……そうかもしれない、と思っていました。この喉から不幸ばかりを吐き出してきた罰がいま当たっているのでしょうね……」

 うすうす感じていたがラレイラはキラーズにつけ込まれても仕方がない、と思っている節がある。詐欺にあっても、無知だった自分が悪かった、その場しのぎのために内容を了承してしまったのは自分だから、と思ってしまう心理が働いている。

 『自分に非はない』という正当な主張さえ、醜い言い逃れだと思っているに違いない。このまま放っておけばラレイラは自責の念から『罰を受けねば』とキラーズに下ってしまう。

 冷静であるように見えて、ラレイラの心には蜘蛛の巣のような戸木島 知朱の陰湿な網で覆われている。それを焼き払うために理司は口を開く。

「いいんですか? 歌を諦めても」

 軽く、ややもすれば小馬鹿にした調子で問う。

「……く……ぃ……です」

 怒りとも悔しさとも取れる熱情の光が紫の瞳に灯る。

「他の働き口を当事務所で斡旋できますよ、歌を止めてどんな仕事に――」

「良くなんかありませんッ!!」

 歌手ラレイラの喉からほとばしった大音声が理司の頭を貫き、ルームに殷々と響いた。耳鳴りと一瞬のめまいに耐えた理司は立ち上がり、テーブルに両手をついて身を乗り出す。

 驚き、見開かれた紫の瞳を真っ直ぐ、真剣に理司は見つめた。

「そうです! いいわけがないんです! 貴女になんの非があると言うんでしょうか!? 大事な歌を勝手に加工され、詐欺の道具にされ、その上で犯人として吊し上げるぞ、と脅され――こんな理不尽があっていいものですか!」

 胸の前で拳を握り締め、理司が高らかに吼える。

「悪いのは誰か? 悪いのは貴女か? 悪いのは貴女の歌か?」

 ルームに理司の声が響き、消え入る。

 一瞬の沈黙――理司はラレイラの注意を十分に集めてから再び口を開く。

「そんなものっ、悪用したヤツに決まっているのです!」

 正論とさえ呼ぶに値するか怪しいほどに当然。

 だがラレイラは意外そうに目を瞬かせた。

「貴女には償うべき罪などない! 取り立てられるべき罪の債務などありはしない! もしも貴女が無用の罪悪感や恐怖心からキラーズに協力してしまえば、どうなるか――」

 ラレイラの表情が『熱』を帯びてくる。理司を見上げる瞳にこれまで以上の真剣さが、引き結んだ赤い唇には悔しさが――心の内からこみ上げた熱が、胸に張り巡らされた蜘蛛の巣を焼いていくのが見えるようだった。

「ヤツらは貴女に今以上の罪悪感を植え付け、キラーズという組織に依存するよう仕向けてくはず! そうなればもう二度と――永劫、人間に歌を聞かせることはなくなるでしょう!」

 理司はゆっくり、もう一度テーブルに両手をつくとラレイラの瞳を静かに見据えた。彼女は視線を真っ直ぐに受け止め、見つめ返してくる。紫の瞳には強い意力が灯っている。

「それでもいいんですか? お答え下さい」

 声を潜め、試すように理司は問う。

「良くありませんっ!」

 ラレイラは大きく首を振って否定する。夕日色の髪がさざ波のようになびいた。

 その返答に満足した理司はうなずいてアイボリーのソファーへ座り直した。

「理不尽は迎合しなくていいんです。多くの、そして強い理不尽を迎え入れてしまうと、いつかそれが理不尽だとさえわからなくなっていき心が歪んでいきます。理不尽はきっぱりと拒否する――それでいいんです。はね除ける力が足りないなら、私たちが手伝いますから」

 語調を柔らかく作って理司は一旦、締めくくる。

 膝元で両手を硬く組んだラレイラは、しっかりと首肯する。その表情に理司は見覚えがあった、入界審査の写真に似ているのだ。

 不安を拭いきれずややうつむいている。それでも深い紫色の瞳は、不安に抗って力強い光を湛えている。ラレイラの心は決して弱々しくなどない、そう信じていた理司は正しかった。

 今日、届けにきた火種は――正しさを主張する勇気と、自分を取り巻く理不尽に声を上げるための怒りは、いま確かにラレイラの胸に灯った。

「私はキラーズから……戸木島さんから離れたい。どうすればいいですか?」

「実は本日ラレイラさんにご足労いただいたのは、一つお願いがあるからです」

 これから告げる内容がラレイラにとって容易ではないと重々、理解している。

 それでも乗り越えてもらう必要がある。いまなら乗り越えられるはずだ。

 理司は小さく一呼吸すると、居住まいを正して口を開く。

「キラーズと――戸木島 知朱と戦って下さい」

 ラレイラは息を呑む……計り知れない恐怖があるだろう。

 だが瞳は逃げなかった。

「明後日、契約術式の保護が解けると同時に再度、契約を取りにうかがいます。貴女にお願いしたいのは当日、迷わず私たちの契約書にサインしていただくことです。戸木島の甘言や脅迫に負けず、私たちを信用していただく――それができるなら必ず貴女を救います」

 殴り合いとは違うが戸木島の言葉をはね除けるのは、彼女にとって精神の剣戟と同じだろう。

「わかりました、貴方たちを信用します。でも……あの……契約、と言うと?」

「お忘れですか? 上村医師との召喚契約の話を」

「でも……キラーズが私の悪評を流すことは防ぎようがないと思います……私だけならまだしも病院側へご迷惑をおかけするわけには……」

 彼女の言う通り、安心と信頼が重要な医療の場において、キラーズが構えている『悪評』の手札は厄介極まりない。だが被害者を加害者にすり替えた悪辣な手札に屈してやる必要はない。

「実は昨日、上村医師を含めた神大賀総合病院の方々と話をしてきたんです。そこでラレイラさんがキラーズと戦う選択を取れるなら、病院側は変わらずラレイラさんとの契約を希望する、という旨の約束を取ってきました」

 渋面のお歴々を説得するのは骨だったが、上村医師の援護もあり約束を取り付けてきた。

「ちなみに今回の契約は、上村医師との『独占契約』という形にさせて下さい。本来、召喚契約の独占、非独占は交渉で決めるものですがラレイラさんを保護する意味もあるので」

 上村医師とラレイラが『独占』の召喚契約を結べば、他者はラレイラへ契約術式を発動できなくなる。キラーズ側にしてみれば長期的かつ終了時期不明の保護が発動しているも同然だ。

 当然、今度はキラーズが上村医師に契約解除を迫る可能性が出てくるが、すでに抜かりなくルキノの召喚獣が護衛に回っている。

「そんなことまで……本当に……黒東さんには感謝しかありませんね」

 声を震わせるラレイラに、理司は『いいんです』と小さく頭を振った。

「さて、ラレイラさんが取れる選択肢は二つ。一つ、キラーズの裏にいる者たちと契約を結ぶこと。二つ、戸木島に逆らって私たちと来ること――選んで下さい」

 キラーズとゆけばラレイラは自身が望む形で人間に歌を聞かせることは一生なくなるだろう。だがキラーズへの反逆は戸木島との対決と同義……怖ろしいはずだ。

 それでも彼女は選び取らなくてはいけない。

 仲介士はあくまで召喚者と召喚獣を橋渡しする存在。

 交渉の行く末を最後に決定づけるのは本人なのだから。

 長く黙考したラレイラはやがて、

「私、戦ってみます……怖いですけれど……戸木島さんと」

 道を選び取った。

 握り締めた両手は震え、表情は強ばっている。だがそこには考え抜いた自信と自負がある。

「――いいんですね、本当に?」

 理司はラレイラの覚悟を試す。

 だが彼女の瞳は揺るぎない決意の火を静かに灯していた。

 満足のいく内容に理司はうなずき、ついつい安堵の息を吐き出した。

「なるほど――確かに『暖炉』ですね」

「暖炉……?」

 脈絡を読み取れない理司の言葉に、ラレイラは不思議そうに首を傾げた。

「『ラレイラ』という言葉は人間界のある言語で『暖炉』の意味なんだそうです」

 ルキノが、ラレイラを調べる内に発見した情報の枝葉。だが出掛けに彼から、そう教えられたとき理司の中で妙に得心した。

「私は暖かみのあるラレイラさんの声に漠然と『火』のイメージを持っていました、ランプの灯火よりも強くて、でも穏やかな炎……暖炉と聞いて納得したんです」

 声だけではない。歌への情熱、秘めた心の強さ、在り方が暖炉に似ている気がした。いまは少し薪が足りないだけ……いつかたくさんの人を暖められるはずだ。

「なんだか……素敵ですね。暖炉ラレイラ……そう……ですか」

 ラレイラは言葉をしまい込むように、両手を胸へそっと当てた。


 ――会話に結論が出たところで百二十分、取った利用時間にまだ余裕があった。

 理司は明後日の打ち合わせを開始する。

 当日はキラーズが妨害を仕掛けてくる可能性が強い。理司がその妨害に捕まってラレイラの元へ到着できない場合は他の所員を向かわせる旨を告げて、他三人の顔を覚えてもらう。

 また戸木島が取るであろう行動とその発言への対応の仕方など、思いつく限り書き出してラレイラへと伝えた。ラレイラも理司のアドバイス一言一言に真剣に相づちを打つ。

 そうしていまできるほぼすべてが完了したころ、理司の胸ポケットでステホが鳴る。発信者は『陽賀美・N・一子』。ラレイラへ断ってから理司は受話口をこめかみへ押し当てた。

『ごめんなさい理司さん! ワン子は失敗しました!』

「落ち着いて下さい、なにがありましたか?」

『たったいま網を噛み千切って土蜘蛛二匹が脱走しました!』

「こっちはほぼ完了しています。もう撤収して構いません、足止め感謝しますよ」

『はい! ではのちほどさまです!』

 新種の挨拶に首を傾げながら理司はステホをしまう。

「ではそろそろ引き上げましょうか」

「あっ……はい」

 うなずきながらもラレイラは名残惜しそうにカラオケのモニターへ目を向けた。一度も使われなかったカラオケの機材、無音で踊るダンサーの映像がどこか無念そうだった。

「――すべて終わったら、今度こそ歌いに来ましょうか?」

「はいっ!」

 ラレイラは目を細めると、屈託のない透明な微笑みを浮かべた。

 この笑顔を二度とキラーズに奪われてはならない。

 理司の胸の火が、二日後に向けて一層熱を強くした。

 

 駅で別れたラレイラを夜の空へ見送った理司は、近場の喫茶店でルキノたちの到着を待つ。

 しゃべり疲れた喉にオレンジジュースが染み渡る。一気に三分の一ほどストローで吸い上げてからネクタイを緩めた。

 今日の話し合いを振り返りながら、小さく一息。

 ラレイラからキラーズへの――理不尽への怒り引き出し、戦う勇気へと結びつけることはできた。彼女の罪悪感の根源となっている、芸能プロを潰してしまった辛い記憶にまでは手が届かなかったが……そちらにも突破口が見えた。

 ステホが震える。窓の外では一子とルキノのチビッ子ンビが交互にぴょんぴょん跳ねていた。理司はジュースを飲み干し、会計し、領収書をもらって外へ出る。

 彼女らと挨拶を交わしたあと理司はある依頼を切り出す。

「もう一仕事、なる早で頼みたいんだ――電子のハッキング魔法使い・ウィザード

「ハ、ハ、ハッキング……ウィザード……ダン……ディだはぁ……」

 ルキノは二つ名の響きに震えて悶絶した。

 

 所長室で藤代は一人、淡々と仕事に専念していた。

 パソコンの右下へ目を向けて時刻を確かめる。理司からはラレイラとの話し合いが無事に終了したと連絡を受けている。そろそろ帰ってくるだろう。

 所員たちの好物でも作って待っていたいところだ。理司にはイタリアン、ルキノにはカレーとハンバーグ、一子にはアイスクリーム――だが、残念ながらいまの藤代にはそこまで余裕がない。ここしばらくラレイラの一件でみな他の仕事にまで手が回らなくなっている。ラレイラも大事だが、事務所を回していくため別の仕事もおろそかにはできない。

 祝杯を上げるのはラレイラの一件が落ち着いてからでもいいだろう。そのときはどのお酒を開けようか――などと少し気と表情が緩む。そのときデスクに置いていたステホに着信がある。表示された電話番号を一瞥した藤代は小さくうなずいてから受信する。

「はい、お電話ありがとうございます、鬼志別召喚仲介事務所、所長の鬼志別でございます」

 声を柔らかく作って応じる。右手に握ったペンをメモ帳へと素早く添えた。

「その節はどうも――お仕事の状況はいかがですか? ええ――ええ――それはなによりです。はい――例の件ですね……可能……ですか? むしろ歓迎、あっ、それは素晴らしいですね! では恐れ入りますがお願いいたします。はい――はぁい失礼いたします」

 相手の女性が電話を切るのを待ち、藤代もステホの通話ボタンをOFFにする。一拍おいてから、箇条書きにしたメモ帳へ安堵の笑みを浮かべる。

「あとは明後日を迎えるだけね」

 これで所員たちの苦労も報われるのだと思うと少し肩の荷が下りる。同時に気が緩んで疲労が押し寄せてきた。

 藤代は眉根を揉むと、お茶でも淹れて小休止しようかと立ち上がる。そのとき窓の外から少女の元気な声が響いてきた。どうやら所員たちが帰社したようだ。

 出迎えるために藤代は所長室を出た。だが不意にデスクでステホの着信音が響いた。うっかり持ち歩くのを失念してしまった。

 先ほどの案件で先方がなにか伝え忘れたのかもしれない。三コール以内を目指して足早に戻ってきた藤代は即座に通話ボタンを押して受話口をこめかみへ当てる。

「はい、お電話ありがと――」

 電話を受けた藤代が驚愕で目を見開いた。ステホを握った右手が震える。こめかみから受話口を遠ざけようとするが、見えない手で押さえ込まれたように離れない。

 そうする内に藤代の表情が消えてゆく。生気の失せた赤い瞳で事務所の窓をぼおぅ、と眺めたまま受話口から流れてくる声に聞き入る。

「ただいま戻りましたーーっ!」

 事務所に響く一子の声。まるではがれ落ちるように藤代のこめかみからステホが離れ、ねずみ色のタイルカーペットへと落ちた。

 所長室のドアがノックされる。だが藤代は答えない。窓へと視線を向けたまま沈黙している。

「所長、失礼します」

 控えめに所長室のドアが開かれる。ドアの低い位置からひょっこり顔を覗かせた一子とルキノ。続いてドアを大きく開き、理司が入室してくる。

「所長?」

 理司の声に藤代はゆっくりと視線を室内へと戻す。そして何度か目を瞬かせると、初めて所員の帰還に気づいたような驚きの表情をかすかに浮かべた。

「どうしましたか、藤代さん? お疲れさまですか?」

 藤代の隣まで駆け寄ってきた一子が小首を傾げた。

「ん~、そうね――ちょっと疲れてたかしら?」

 一子に微笑みかけてからイスへ戻ろうとする藤代。草履が床に落ちていたステホを小突いた。藤代は首を傾げてからステホを拾うと、デスクに座って所員たちへと向き直った。

「ねえ所長、本当に大丈夫かい?」

 様子をうかがっていたルキノがいぶかしげに尋ねた。

「大丈夫よ。疲れているのは否定しないけど――黒東くん報告をお願いします」

 所長にそう促されて理司は戸惑いながらも報告を始めた。だが別段おかしな素振りのない藤代に、いつしかいぶかしむ感情も薄れていったようだった。

 

 とあるビルの屋上に黒いゴスロリ衣装の女、戸木島 知朱の姿があった。

 彼女はステホから生じた光ウインドウをモノクルのように右目へ添えて遠くを注視していた。ウインドウは光を魔力で屈折させ、夜の闇をものともせず一キロ先の像を映している。

 彼女が睨みつけていたビル三階には『鬼志別召喚仲介事務所』の看板。

 知朱はしばし所長室の状況に注目していたが、やがて上機嫌で『きっししし』と笑った。

「あんのクソババア、ようやく油断したデス」

 楽しげに悪態をつきながら黒いキャリーバッグに腰掛け、右目の光ウインドウを消す。鬼志別 藤代は召喚獣の血縁らしいが種族柄、魔法抵抗力は低いだろうと知朱は読んでいた

 ――だから待った、執念深く三日。視線の通る場所でヤツの警戒が緩む瞬間を。

「これで当日を迎えるだけデスねぇ」

 満足げな吐息を夜空へと吐き出す。その視界に揺れ動くものが映った。

 人影がふらふらしながら、ゆっくり下りてくる。白いパンツスーツ、褐色の肌、ザンザメーラが黒いフリル地の布でデコレーションされた大きめのバスケットを抱えている。

 知朱は旧知の親友とでも出会えたようにうれしげな表情を浮かべた。

 そのまま降下してくるザジだが、横殴りの風に煽られて大きく吹き飛んだ。

「ふあぁぁぁぁ~~~……」

 弱々しい悲鳴の尾を引いて宙を流されてゆくザジ。

「知朱ちゃん助けてぇぇ~~……」

 今度は駆け上がってきたビル風に煽られて急上昇。

 屋上の鉄柵まで駆け寄った知朱、その顔からは血の気が引き慄然としていた。

 知朱は即座にステホを取り出し、浮かび上がった青い光のウインドウを高速でタップ、一瞬で操作を終える。するとウインドウに青い魔方陣が描き出され、次いで突風に翻弄されるザジが抱えたバスケットが輝く。ほぼ同時に魔方陣から二体の土蜘蛛がせり上がってきた。

 知朱は土蜘蛛たちを両手に乗せると泣き出しそうな表情で頬をすり寄せた。

「あぁぁ……良かったデス。お前たちになにもなくて」

「そんなぁぁぁ~~…………」

 制御を失ったザジは自由落下を開始、ちょうど知朱たちの真上だ。

 愛する土蜘蛛の無事と再開を喜んでいた知朱は気分を壊されて舌打ちをしてから、ザジの救助を命じた。知朱の指示で素早く飛び出した土蜘蛛たちは、ビルとビルとの間を忍者かなにかのように交錯しながら飛び回り、皿網と呼ばれる受け皿型の巣を大きく張った。

 その中心へ落下したザジ。網に深々と沈み込み、知朱の頭の高さで停止した。

「んん~、お利口さんデスね」

 帰還した土蜘蛛たちを両肩に乗せ、知朱は交互に微笑みかける。

「知朱ちゃん……ありがとう。早く糸を解いて」

 ちょうどハンモックで寝そべるような状態のザジだが、粘着質な糸を地力ではふりほどけない様子だ。知朱は心底うんざりした表情になり、おもむろに右のブーツを脱いだ。そしてザジの尻を目がけてフルスイング。黒い円弧を描いたブーツがビル街の夜空に快音を響かせた。

「はひんっ!? 痛いんだけど、知朱ちゃんっ!」

 のたうち回ったせいで蜘蛛糸が絡みつき金色の髪が滅茶苦茶に乱れる。知朱は頭を横に傾け、ザジの顔を冷ややかにのぞき込む。

「召喚魔法はバッテリーを食うからお前に白絹と露草の輸送役を任せてるのに、このていたらくはなんデス? しかもこの子たちを危ない目に遭わせてッ! お前は死んでも構わないデスけど、ウチの子になにかあったら腸を引きずり出して縄跳びさせるデスよ!?」

「ふぇぇ……グロいよ、知朱ちゃん……許してぇ……」

 知朱はくだらなそうな嘆息をくれるとそれ以上は詰問せず、だが糸を解くこともしない。

 土蜘蛛を頭と肩に乗せたまま黒いキャリーバッグから両手大の虫かごを取り出す。開くと中にはモルモットが一匹、入っていた。知朱はモルモットを鷲掴みにし地面へと放る。

 着地したモルモットはコンクリートの床を懸命に逃げ出す。その背後から二体の土蜘蛛が俊敏に襲いかかった。モルモットは金切り声を上げたが、それはほどなくして悲鳴に変わる。

「美味しいデスか、白絹、露草」

 慈しむ眼差しで、食事する二体の土蜘蛛を眺める知朱。獲物の声は弱々しくなり……やがて途絶えた。土蜘蛛がネズミの臓腑をすする水っぽい音が小さく響く。

「ところで例の芸能プロの元社長は見つかったんデスか?」

 土蜘蛛の食事姿へ慈母の眼差しを注ぎながら知朱は興味がなさそうに尋ねた。

「ううん、全然。日本中を転々としてていまの居場所がよくわかんないんだよね」

「おおかた借金取りにでも追われて逃げ回ってるデスかねぇ、まぁいいデス」

 ラレイラを脅す材料に、とでも考えていたが行方がわからないならそれでも構わない。安否不明でも不安を煽る使い方はある。

「ねえ知朱ちゃん……本当に大丈夫なの?」

 糸に巻かれたままのザジが不意に問いかけた。

「なにがデス?」

「鬼志別事務所のことだよぉ。アイツら順調に情報を増やしてる。さっきだってあっちの仲介士とラレイラの接触を妨害できなかったし……どんな入れ知恵されたかわかんないし、やっぱりラレイラの行動をもっと制限しようよぉ。足の爪でも一本引っこ抜いておけばアイツなら大人しくなるよ。ワタシがやろうか?」

 ザジは名案を提言した、とでも言わんばかりに自信ありげな表情だ。

「まさか気づいてないんデスか、ラレイラの周りをうろちょろしてる召喚獣に」

「気づいてるよぉ。アレ、なんなんだろうね?」

 気づいてはいても、気にしていない部下に知朱は嫌悪丸出しのため息を吐く。

「あれは鬼志別事務所からラレイラを守るために派遣された召喚獣デス。下手にラレイラへ危害を加えたらそれを証拠に押さえられて、警察の介入を許してしまう可能性があるデス」

 バカを説き伏せるように淡々と続ける知朱。

「我ら『週末殺したち』にとって法は大して怖れるものではないデス。でも警察は面倒――それを考えれば表向きは最低限の法を守ってるふりだけでも見せる必要があるんデス。距離感も、いまのつかず離れずがベスト。そうでもなければとっくに監禁してるところデス」

「ふぅぅ~~ん、知朱ちゃんも色々考えてるんだね」

 まるでこちらが普段なにも考えていないような物言いに知朱は苛立ち、視線に怒気を含めて睨みつける。するとザジは恐怖と当惑の入り交じった表情で竦んだ。

「で、でも……知朱ちゃん、今回は流れが悪いしもっと手を打った方がいいよぉ。タッチの差で鬼志別事務所に先にラレイラと接触されちゃったところからケチがついてるんだし。これでもしも失敗して、噂になってる新振り込め詐欺の対抗策が本当に完成しちゃったら……」

 ――アミュレット、なる新振り込め詐欺の対策が完成しつつある。

 いまそんな噂が裏社会に出回っている。新振り込め詐欺を実行する詐欺団の上層部は、来たる対抗策を突破するため催眠魔法の強化を考えている。そこで音声の原本であるセイレーンを探して召喚契約を取ってくるよう、キラーズに依頼を持ちかけてきたのだ。

 そうして知朱とおまけのザジが派遣されてきたのだが、運のないことに鬼志別事務所に先んじられてしまった。おかげで七日間もこの街で、鬼志別事務所と牽制合戦を繰り広げるはめになってしまった。だがそれもあと二日で終わる。

「いいデスか。知朱は『下準備がすべて』という言葉をモットーにしているデス。そして今回の件に関しては先ほどすべてっ、完璧にっ、網を張り終えました」

 普通の仲介業者であれば『週末殺したち』の名を聞いただけで身を引くところを、あの鬼志別事務所はがんばっている。

 だが生まれ持ったラレイラの心の弱さを、そして知朱が植え込んだ恐怖と罪悪感をどうにもできはしない。よしんば今日の接触で黒東とかいう仲介士がラレイラの心を変えられたとしても、それは最早些末なことなのだから。

「二日後――黒東は交渉の現場にさえ来ることはないのデス。きっしっしし!」

 知朱は甲高い引き笑いをまき散らす。

「ふぅ~~~~ん」

 高揚した気分に冷や水を浴びせる無味乾燥な返事。こめかみに青筋を立てた知朱は左のブーツも脱ぐと、プロゴルファー顔負けのスイングで振り上げた。

「ぁひぃいんっ!?」

 銃声を思わせる乾いた音と悲鳴がビル街の夜空に響き渡った。


 

 保護解除当日――鬼志別召喚仲介事務所上階の休憩室。

 スーツに着替えた理司は姿見の前に立っていた。

 クリーニングから戻ってきたスーツは一段と黒さが際立っている。

 いつもお守り代わりに締めている幾何学模様が入ったネクタイ――今日の色は赤だ。交渉をまとめる際には落ち着きのある青を締めることが多い。だがキラーズとのやりあいを予感していた理司は己を奮起させる意味でも活力的な赤を選んだ。キラーズとのにらみ合いを想定して今日は伊達眼鏡はなし。

 一番、安定感のあるサラリーマン風のキャラを入れて準備は完了。時刻は間もなく十五時。あと二時間少々でラレイラを守っている契約術式の保護が解除される。

 そのタイミングを狙ってキラーズの二人も仕掛けてくるはずだ。

「さぁ――参りましょうかっ」

 理司は握り拳を手の平に打ち付け気合いを入れると、黒革のカバンを手に階下へ降りた。

 事務所の前では和装の藤代。隣には紺のスーツ姿の一子も待っていた。まだまだ就活生っぽさの抜けない一子だが、以前に比べて格段に頼もしく見えるのは――きっと理司が彼女を信頼するようになってきたからだろう。彼女の心根はなにも変化していないのだから。

「理司さん……っ」

 一子は琥珀色の大きな瞳で真剣に理司を見上げてくる。やや緊張気味に引き結んだ口元からは『ぬぐぐっ』と気合いが聞こえてきそうだ。

「準備はいいですか、陽賀美さん?」

「は、はい! 陽賀美・N・一子、全力を全開にする所存です!」

 ピン、と張った獣耳からも気合いの入りようがうかがえる。理司はうなずき返してから藤代へと向き直った。

「伝えることはなにもありません。黒東くん、プラン通りにしっかり」

「承知しました、所長」

 行動プランから緊急時の対応まで、考え得る限り、時間の限り、計画は練った。

「陽賀美さんも――黒東くんの補佐、しっかり頼むわね」

 藤代は、やっぱりちょっと跳ねている一子の水色の髪を手櫛で撫でつけてやる。一子は心地よさそうに目を細めてから、大きくうなずいた。

「本件は一介の召喚仲介業者にはあまる大きさになってしまいました。でもいま私たちがやらなければラレイラ様は世界の裏に引きずり込まれ、戻ってはこれないでしょう。黒東 理司くん、陽賀美・N・一子さん――彼女をキラーズから守るため、全力を尽くして下さい」

『はいっ!』

 藤代が切ってくれた切り火に送り出されて二人は事務所を出発した。

 普段ならば経費節約のため電車で移動するところだがキラーズが電車に妨害を仕掛けてきた場合、長時間車内に閉じ込められる可能性がある。それを危惧した理司は計画通りにタクシーを拾い、二駅先にある駒明寺駅の待ち合わせ場所へ向かう。

 指定したのは駅から少し離れた大きな自然公園だ。

 人通りはそれなりにありキラーズがうかつな行動を取りにくく、かつ騒ぎになった場合、他人を巻き込みにくい――そういった理由での選択だ。

 順調に進むタクシーが駒明寺駅まで残り半分ほど来たとき隣の一子が呟いた。

「理司さん……今日はどうなっちゃうんでしょうか? 上手くいくでしょうか?」

 肩をすぼめて座った一子は、いつもよりさらに小さく見えた。

「そうですねぇ――」

 被交渉側からはすでに契約する約束を得ている。普通であれば胃も痛まない楽な仕事だ。

 問題はキラーズの動向……鬼志別事務所が一丸となって想定してきた事態を、ヤツらの妨害が上回るかもしれない。

 先行きが不透明で、不安を感じるのは仕方がない。

 だが成すべきはあくまで仲介業の一環。ならば自ずと答えは出る。

「陽賀美くん――負けると思った交渉は負けます。そして私たちは負けたくない一心で今日まで準備をしてきました。埋めきれなかった綻びもあるのかもしれません。それでも信じるに足る準備だったと思います」

 交渉に必要なのは下準備。そして、

「だから私たちは負けない。負けるわけにはいかない――そうでしょう?」

 どんな局面でも負けぬという気概。虚勢でもハッタリでもいい。強がりだって、ただ弱いより遙かにましだ。上手くいくかどうかなどわかりはしないのだから。

 一子は琥珀色の瞳を瞬かせると、目を閉じて味わうようにゆっくりとうなずく。

「ワン子はあんまりお勉強できませんけど…………いまの言葉はずっと忘れません。理司さんはやっぱりカッコいいなって……思いました」

 一子は『えひひ……』と少しはにかんで笑いながらうつむいた。

「そんな風に言ってくれるのはきっと君だけですよ」

 車内に訪れる一時の沈黙。

 理司の内ポケットでステホが震えた、所長から電話だ。

「お疲れさまです、黒東です」

『緊急の用件です、ラレイラさんから連絡があり、待ち合わせ場所の変更を指示してきたわ』

 藤代は単刀直入に、やや早口で用件を伝えてくる。 

「承知しました――なにがありましたか?」

 想定内のトラブルだ。理司は動じない。

『向こうも焦っているみたいで、詳しいことまでは……新しい待ち合わせ場所は兵部浜駅の駅ビル屋上とのことです』

「兵部浜駅? 所長、それはどういうことですか?」

 理司は眉根を寄せる。状況によって待ち合わせ場所の変更は想定していた。

 だが兵部浜駅は事前に選別したいくつかの予定場所のいずれでもない。方角が大きく違うため渋滞に巻き込まれでもしたら間に合わないかもしれない。

『おそらくキラーズの妨害を巻くためにやむを得なかったのだと思います』

 ……違和感がある。焦ったラレイラはなぜそんな場所を指示してきた? そして通話時間が十分取れない状況だったとして藤代が代替え案も出さず下準備を台無しにするだろうか?

「――わかりました。待ち合わせ場所が……えぇと……メモの準備をするので少し待って下さい――陽賀美くん、すみませんが所長にもう一度、交渉の場所を聞いて下さい」

 理司は内ポケットをまさぐりながら、ステホを一子へと手渡した。事情が呑み込めていない一子はたくさんの疑問符を浮かべたまま受話口をこめかみに当てた。

「藤代さん、お疲れさまです! ――――はい! はい!」

 一子は何度もうなずきながら藤代と通話している。

「――――――兵部浜駅の駅ビル屋上ですね!」

 やがて通話が切れたらしく、理司にステホを返してくる。

「兵部浜駅の駅ビル屋上で待ち合わせです!」

「陽賀美くん、所長はウソをついていませんでしたか?」

 一子はわざわざ理司のスーツの袖を掴み、黙考。袖は引っ張られなかった。

「そんなことなかったような気がしますよ?」

「そう――ですか。わかりました」

 一子がウソを感知しなかった以上、間違いはないだろう。藤代も人間だ。状況次第で上手く立ち回れないときも当然ある。

 考えを切り替えた理司は運転手に行き先の変更を頼む。理司たちの会話を耳に挟んでいた運転手はすでに行き先を兵部浜駅に向けてくれていた。神大賀交通――あなどれない。

 逸る気持ちを抑えながら理司はルキノへと電話する。彼に念のため自然公園へ向かってもらえば問題はなくなる。

 だが音声案内は電源が入っていないか圏外にいると、にべもない。

 彼に一仕事、依頼したのが裏目に出たか……イヤな汗が理司の背中をじっとりと濡らす。

 ふと、袖を掴んでいたはずの一子が理司の手を握った。

「負けませんよ、ワン子たち」

「ええ――もちろん」

 ――十六時三十六分。兵部浜駅。

 理司たちを乗せたタクシーは小さな渋滞に巻き込まれながらもなんとか時間前に目的地へ到着した。理司は領収書を受け取る暇も惜しんでタクシーから飛び出す。

 さすがに駅ビルだけあって往来する人も召喚獣も多い。それらを泳ぐようにかき分けて一子とともにエレベーターへ身体を差し込む。時計を一瞥――走って乱れた髪型を直す程度の余裕はありそうだ。やがてエレベーターは何事もなく六Fへ到着。さらに階段を駆け上がる。

 立ち入り禁止のプレートが下がる鎖に『申し訳ない』と一言詫びて飛び越え、理司と一子は屋上の扉を押し開いた。

 溢れてくる湿った生温い空気と騒音――屋上は大型の空調室外機と変電板が整然と並んでいた。黒ずんだコンクリートの床、見渡す限りのフェンス、にわかに曇り始めた空。

 一見してラレイラの姿はない。物陰は多いが広さが限られている、ものの一分もかからず屋上を調べ終えたがラレイラは見つからなかった。理司はフェンスに歩み寄ると周囲を囲むビル街の向こう――当初、待ち合わせ場所へ指定していた駒明寺駅の自然公園方面を見やった。

 ビルとビルとの合間にわずかばかり見える公園の深緑……本当に待ち合わせ場所はここで間違いないのか? 湧き上がる疑問を飲み下し、理司は簡単に身だしなみを整える。

 

 ――十六時四十八分。

 契約術式の保護が解けるまで、およそ十二分。

 待ち合わせ場所に指定された駒明寺駅の自然公園に、有翼の美少女が着陸する。

 ラレイラはぐるりと周囲を確かめる。見えるのは芝生とそれを取り囲む木々ばかり――黒東たちの姿はなく、だが戸木島やエイリアの姿も認められず安堵した。

 キラーズの二人に悟られぬようトイレに入ったあと窓から飛翔して家を抜け出てきた。土蜘蛛たちに気取られていなければ彼女らが気づくのはもう少し遅れるはずだ。それまでにどうか鬼志別事務所の面々が到着することを祈り、すがるように右手の甲へ左手を添える。

 青い光で刻まれた契約術式の保護。それが解けるまであと十数分。

 理司を心待ちにするラレイラの背後に、草地を踏んで駆け寄ってくる足音。

 少しの緊張――息を止めてラレイラは振り返った。

「ラレイラ・オデュッセイア様ですね?」

 待ち望んでいた彼でも、怖れていた彼女でもない。

 淡い紫色の着物に身を包んだ艶やかな黒髪の女性が息を弾ませそこに立っていた。その怜悧な容貌を、印象的な赤い瞳を、ラレイラはしっかりと覚えている。

「はい。貴女は……鬼志別所長?」

「その節はどうも、鬼志別召喚仲介事務所、所長の鬼志別 藤代でございます」

 鬼志別がしなやかに一礼する。

「黒東さんは……大丈夫なのですか?」

 彼がキラーズの妨害で足止めを食った場合、別の所員がこの場に現れる手はずになっていた。

「ええ。黒東は車に待機して契約の準備を整えております」

 ラレイラは胸に両手を添えて深く安堵の息を吐く。自分のため懸命にがんばってくれている誰かが、自分のせいで不幸になってしまう、なんてもうイヤだった。

 急ぎ足の藤代に続いたラレイラは自然公園を貫く道路へ出た。林を切り開いて通した道路らしく、周囲は木々に囲まれており人気がない。路肩に留まっていた黒塗りの高級車へ案内されたラレイラは後部座席のドアへ手を伸ばし……止まる。

「失礼なのですが……鬼志別事務所はお金がある方ではないと聞きました」

 先日、カラオケルームで打ち合わせを行った際に一時挟んだ談笑の中で、黒東からそう聞いた。だが車に詳しくないラレイラにもそこはかとなくわかるほど、その車は高そうなのだ。

「お恥ずかしい話ですが、レンタルカーです。交渉事には見栄えも必要ですから」

 鬼志別は微苦笑すると、再び車を手で示して乗るよう促してくる。

「レンタルカー……そう、ですか……」

 見栄や印象もときには大事だ……でもある程度、交流してお互いの事情を知った者同士の間に、そんな見栄が必要だろうか?

 ――それにあんなに礼儀正しい黒東なら、こちらに気づいたら真っ先に車から出てきそうなものだ。手が放せないとしても窓くらい開けて顔を見せるのでは?

 ラレイラは黒くスモークのかかった車の窓を凝視する。

 考えれば考えるほど、この車内に黒東が居るとは思えなくなってゆく。

 ラレイラは車へ伸ばしていた手を引いて、一歩下がった。 

「どうしました、ラレイラ様?」

「黒東さん! いますか!?」

 藤代の言葉を無視し、ラレイラは車へと呼びかけた。

 するとスモークのかかったパワーウインドがゆっくりと下がってゆく。

 真っ先に見える黒い髪。それは長く、頭の両側でくくられている。蜘蛛の目を思わせる黒い珠のヘアピン。嗜虐的に笑み崩れた顔。蜘蛛の巣の意匠を散りばめたゴスロリ衣装――

「はぁい、黒東デェス。きっっししっし!」

 咄嗟にラレイラは振り返り腰元の翼を大きくはためかせる。巻き起こった強烈な風がラレイラの細身を力強く宙へと持ち上げる。だが翼の動きが重い――そう感じた次の瞬間、まるでたくさんのパン生地が張りついたように動作が鈍くなる。

 低空を蛇行したラレイラは樹木に衝突して地面へと落下した。

 樹木の根に腹部をしたたか打つ。染み渡るような鈍痛。呼吸が止まり、脂汗が背を濡らす。身体を丸めたラレイラへゆっくりと示威的な足音が近づいてゆく。

「ラレイラさんはお外でトイレするのが趣味なんデスかぁ? 破廉恥デスねぇ? そんなラレイラさんに朗報デス! 貴女にはこれからたくさん恥ずかしい目に合って、それが快感だと思わなければやっていけないような生き方が用意されています、良かったデスねぇ?」

 両肩に土蜘蛛を、そして隣に鬼志別所長を伴った戸木島がラレイラの傍らでしゃがみ込んだ。

 戸木島はラレイラの夕日色の髪を鷲掴みにして顔を上げさせる。

 苦痛で歪んだラレイラの顔を見下ろす戸木島。その表情は死にかけた動物でも嘲弄するように、歪んだ微笑みで象られている。

「きっししっ、どうしましたぁ? せっかくの綺麗なお顔が台無しデスよぉ? なにか辛いことでもありましたか? 知朱が相談に乗りましょうか?」

 嗤う戸木島。

 見開かれた黒い瞳に居座る底知れない嗜虐心と、微塵も存在しない良心。

 その視線がラレイラを恐怖でかき混ぜる。逃げ延びようと必死だった心がじわじわと――蜘蛛に体液を吸い上げられるように凍えて衰弱してゆく。

 そして、救いはないと運命が断ずるようにラレイラの右手から青い光の粒が舞い散る……

 ついに契約術式の保護が消滅した。

 もうダメなのだろう……でも仕方がない……こんな人たちにつきまとわれるのは、元を辿れば自分が悪いのだから……すべては自分が招いた結果……

 ――そう思っていた、黒東に出会うまでは。

「……なんデス、その目は?」

 勝てるかどうかなど、知らない。

 それでも戦うと心に決めた。

 だから諦めない。黒東さんは必ず助けてくれると言ってくれた。

「ちなみに黒東なら到着しないデスよ? いまごろ白金町駅にいますから」

 心の支えを的確に殴られて、怯みそうになる。

 だがラレイラの覚悟は揺らがない。

 この女に運命をメチャクチャにされそうな事実の腹が立つ。

 なにもできずに負けそうな自分に腹が立つ。

 だからせめて思い通りになって上げない。

 盲信でもなんでもいい、黒東さんは来てくれると信じた。

 だからそれまで諦めないっ!

 これが弱い私のせめてもの戦い!

「知朱ちゃ~ん! 遊んでないで早くその女運ぼう! 唐揚げ食べにいこう~!」

 車の運転席から苛立たしいほど脳天気な声が飛んでくる。戸木島は楽しく遊んでいたところに横やりが入って不愉快だったのか、そちらを睨みつけた。

 瞬間ラレイラは動いた。理不尽から逃げ延びようとする意志に突き動かされた。

「キキーモラさん! お願いします!」

 雨空の下にうっすら伸びる自らの影へとラレイラは叫んだ。

 影の胸部付近で金色の小さな魔方陣が生じる。魔方陣からせり上がってくるのは体長百センチ前後、灰色の毛に覆われた獣人。

 顔立ちは狼に似ており、獣耳の揺れる頭には赤い花柄のスカーフが巻いてある。ふわふわした獣毛に覆われた身体にエプロンドレスを重ねており、小さなお手伝いさんといった風情だ。

「暖炉の影からあなたの暮らしを、いつでも見守る幻獣族――」

 腕組みし、胸を張り、召喚獣が名乗りを上げる。

「キキーモラさん、ここに顕現さ」

 キキーモラは暖炉の影に住み、働き者の主婦を密かに助け、怠け者の主婦を懲らしめる召喚獣だ。希に人前へ現れる際は少女の姿か、または獣人の姿を取ると言われている。

「……不愉快デス。いつから貴女はそんなに反抗的になったのデスか?」

 これまでのラレイラならば、戸木島を眼前にしては伸ばされた救助の手を掴みさえしなかっただろう。それが自ら対決と決別を選んだことに、戸木島は苛立ちと困惑の色を浮かべていた。

「いきなよ、ここはキキさんが引き受けた」

 キキーモラは振り払うように両腕を広げた。右袖からは四本のフォーク、左袖からは三枚の小皿が滑り出てくる。キキーモラはリスに似たその手でそれらを掴み、戸木島と対峙する。

「お……お願いします! でも危なくなったら、逃げて下さい!」

「あいよぅ」

 キキーモラがふさふさの白く長い尾を振って答える。

 ラレイラはキキーモラの背に一礼し、走りに向かない趾で懸命に地面を蹴った。

 折しも幾重にも蜘蛛糸の巻き付いた翼に、ぽつぽつと雨粒が落ち始めていた。

 

 頬に汗を浮かべた一子が、雨の降り注ぐ屋上へ飛び込んでくる。

「ダメです! どこにもいないです!」  

 一子に駆け回ってもらったがラレイラはこのビルにいないようだ。ビルの館内放送を使って待ち合わせの連絡も流してもらったが効果はなかった。

「ぬくっ……こちらもダメですね……」

 行き違いにならぬよう屋上で濡れながら待機していた理司。何度も藤代にも電話しているが繋がらず留守番電話に変わってしまう。そしてルキノのステホは変わらず電源が入っていないか圏外の場所にいるらしい。 

 時刻は十六時五十七分。あと三分少々で契約術式の保護が終了してしまう。

 理司はフェンスを鷲掴みにするとビル群の遙か向こうに垣間見える木々を睨む。

 なにか……想定できなかった妨害をキラーズが仕掛けてきた。

 歯がみした理司の奥歯からギリリィと音がこぼれる。

 その音に混ざり一瞬、気づかなかったがポケットに入れたステホが鳴っていた。

 取り出し、見る。液晶にはルキノ・クローチェの表示――救いはあった!

「クローチェさん! 大至きゅ――」  

『理司ぃっ! ボク、見つけたんだ……十七時半に理司に……電話……』

『ほらキミ、ふざけてないでオジさんたちについてきなさい』

『お父さんとお母さんはどこなんだい?』

『キミ、お肌つるつるしてるね……』

『だからボクは見かけに寄らないんだってばぁ!』

 若干一名おかしかったが、どうも警官たちに補導されているようだ。そして、

『しゃ、ちょぉおおお!』

 ――ブツッ。ルキノが発した謎の断末魔を最後に電話は切れる。

「………………ッッ」

 さしもの最年少仲介士もこの緊急時にかかってきた珍妙な電話に脳の血管が切れかける。

(落ち着け冷静にクールに穏やかに……)

 深呼吸、客観視、キャラの維持……培ってきた知識と経験で心を鎮める。

 ルキノは知らないが、自分と藤代はキラーズのなんらかの策にはまったのだ。

 タイムリミットは間近。ここからではタクシーで移動しても約束の場所には間に合わない。

 クールタイムが終了した瞬間、キラーズが強引に契約を取りにかかる。

 ――――打つ手なし。

 だが万策が尽きようとて理不尽を憎む理司の気力は鎮火しない。

 ラレイラが逃げ延びる可能性だってある。少なくともいまのラレイラは無抵抗で捕まったりはしない……戸木島と戦う決意を固めた紫の瞳を思い出し、理司はそう確信していた。

 よって当然いまからでも自然公園へ向かう。

 だがタクシーでは時間がかかりすぎる……どうすれば……

 状況を打開できる『なにか』を探して思わず周囲を見回す。彼の瞳は、不安げにそれでも負けじと口元を引き結び、理司と同じように『なにか』を探している水色の髪の少女に留まった。

「なにか……なにかあるはずなんですっ!」

 琥珀色の瞳は突破口があると信じ、決して諦めていなかった。

 自然と脳裏に湧き上がる藤代の言葉。

『もしも理司ちゃんがどうにもできない問題が出てきたら、あの子を頼ってみて』

 理司は両手を静かに一子の肩へ添えた。

「陽賀美くん……上司として非常に力不足を感じる雑な指示ですが聞いて下さい」

 雨に濡れた獣耳がぴくりと震える。

「君の能力で駒明寺駅の自然公園へ三分以内に到着できませんか?」

「駒明寺駅……自然公園ですか?」

「ええ。あちらの方向に」 

 理司はビルの合間にわずかばかり見える森を指さした。

 一子はしばし考え込んだあと、うつむいた。 

「ぇひひ……」

 そして小さく笑う。

「陽賀美くん?」 

 いぶかしげに声をかけた理司。顔を上げた一子は少し恥ずかしげに微笑んだ。

「こんなときにゴメンなさい……でも理司さんが頼ってくれて、ワン子すっごくうれしいです」

 一子は右肩に残っていた理司の手を強く握ってから、ぴょんと飛び退いた。

「だから……ワン子、変身します! 理司さんはうしろを向いてて下さい!」

「やれますかっ?」

「わかりませんけど、やります!」

 最高の返事だ。最低の中から最大の結果を得るためもがく仲介士にぴったりだ。

 理司は静かに一子に背を向けた。途端、一子の髪色に似た淡い水色の魔法光が放射される。一子の祖先については理司も知っている。だが彼女の能力の全貌までは把握していない。どんな方法で一子は自然公園へ到着するつもりなのだろう。

 彼女は『変身』と言った。父親の容姿を聞くに、人狼もしくはより狼に近い風貌へ変化する可能性が高い。彼女だって高校生の女の子だ、うしろを向くように言ったのは人から獣への経過を見られたくない気持ちがあってだろう。

 不躾なお願いだったかもしれない……諸々が片付いたらお高いアイスクリームでも買って上げなければ……

「ぃたたたたっ!」

 理司が物思いに沈んでいると背後で一子の悲鳴が上がった。

「陽賀美くん!?」

 思わず振り返る理司。

「はぁうっ!?」

 驚いて飛び上がる一子。その姿は一見して肌色が多い――なぜかスカートを脱いでいた。

「………………尻尾?」

「…………ゎん」

 一子の容姿に大きな変化は見て取れない。だが腰から生えた水色の大きな尻尾が、パレオのように巻き付いてスカートの代わりを果たしていた。

「変身とは、それですか?」

「……スカートは履いたままだと尻尾が生えるとき引っかかってしまうので……あのあの理司さん、恥ずかしいのでもう少しうしろを向いてて下さい……」

 『ぇひひ……』と照れて笑う一子。理司は咳払いしてから即座に振り返った。沈黙の中に漂う衣擦れの音を妙に意識しながら少々……

「準備かんりょーです!」

 一子の合図を待って向き直る。少し下げて履いたスカートの上端からは、筆のようにふわふわとした尻尾が伸びており左右に揺れている。

「それで、どうやって自然公園まで――」

「んでわ、失礼して」

 質問を遮断した一子はおもむろに理司の膝裏を両手で押す。唐突なヒザカックンで腰が落ちた理司を一子は両腕で抱きかかえた。小柄な身体で長身の理司を悠々と支えている。

 いつもは見上げられてばかりの一子を真横に見るのは新鮮だった。

「それでは陽賀美・にゃぶっ……にゅふりゅ……」

 名乗りを上げようとして噛んだ一子。気まずそうに理司を一瞥してから唇をむにゅむにゅ動かしてほぐす。交渉時の自己紹介の一子がミドルネームを『エヌ』と略してばかりなのは、咄嗟に上手く言えずに噛むことが多く、交渉のとき恥ずかしいかららしい。

「陽賀美・『ニ・ブ・ル・ヘ・イ・ム』・一子! いきます!」

 理司を抱えたまま走り出す一子。その先にはフェンス。

「よ、陽賀美くん!?」

 思い切り跳躍した一子。理司の長躯を抱えながらも、その身体は容易くフェンスを飛び越え、ビル屋上から雨の降りしきる空中へ躍り出た。

「陽賀美くうぅううん!?」

 三十数メートル上空に水色の髪と尻尾、そして少年の悲鳴がなびいた。


 ラレイラの逃走劇はそう長く続かなかった。

 片や走るのに向かない足のセイレーン。片や森林が本拠地と言っても過言ではない土蜘蛛二体。歴然たる差に雨も加わり、白い鱗で覆われた足は蜘蛛糸で絡め取られてしまった。

 前のめりに倒れて水しぶきを上げたラレイラは周囲を見回す。どこをどう駆け回ったのか気づけば林を抜けて広場へ出ていた。

「楽しかったデスかぁ?」

 木々の合間から悠々と、蜘蛛の巣を象った傘を差した戸木島が歩み出てくる。傘にほとんど隠された顔。わずかにうかがえる口元は嗤いが浮かぶ。その隣には雨でずぶ濡れの鬼志別所長が虚ろな瞳で控えている。藤色の着物はあちこち裂けており、袖に刺さったままのフォークがキキーモラの懸命な足止めを物語っていた。

「…………キキさん」

 ラレイラは哀惜に目をきつく閉じる。彼女の苦闘に報いるためにも逃げ延びなければ……おぼれるように草地をかく。だが翼も両足も蜘蛛糸に絡め取られた彼女には幾ばくの抵抗も敵わない。浅く生えた草に顔を埋めて歯がみする。

 ――悔しかった。

 物心がついてからこれほど悔しいと感じたのは初めてだったかもしれない。心中には激しい感情が渦巻く。だがそれを体現する手だてがもうラレイラには、一つしか残っていない。

 なんとか上半身だけ起こすとゆっくりこちらへ歩いてくる戸木島に向き直った。

「私だって……気がついていました」

 そしてジャケットの内ポケットへ――最後の手段へと手を伸ばした。

「――なにが、デスか?」

 戸木島は歩みを止めた。心なしかその声は固く、口元の笑みも薄れる。

「この喉に傷がつけば……貴女たちは私を捕らえる理由がなくなります……」

 取り出したのは果物ナイフ。木製の鞘を取り払い、自らの白い喉へと添えた。

「へぇ~……人の良さそうな顔してあの黒東とかいうの、そんな残酷な手段まで伝えてたんデスねぇ。そんな連中に肩入れするのは止めて知朱たちと来た方がいいデスよ? 貴女が思っているほど待遇は悪くないデスから、きっしっし!」

 小馬鹿にする口調。なにを言っても反撃しないと思っているから言い放題だ。

「………………人を……」

 だがこの土壇場に至ってラレイラはもう戸木島が怖くはなかった。彼女らへの怒りや、逃げ延びようとする意志が怖れを塗りつぶしていた。

「人を見る目がないですね、戸木島さん。だから私なんかに抵抗を許すのでは?」

 思い通りになってやらない。その一心から、ラレイラは言葉で殴り返した。

 戸木島の口元から笑みが消失した。そしてかすかに、不快そうに歪む。

 きっとラレイラが放った内容そのものは問題ではない。無抵抗のマトだと思っていた相手に殴り返された事実に機嫌を曲げたのだろう。

 おもむろに戸木島は歩みを再開する。ラレイラとの距離三メートルほど。

 ラレイラは果物ナイフを喉へ水平に押し当てる。あとは引くか、押すだけ……それだけでキラーズの計画をなにもかも台無しにできる。いままで散々いたぶられた相手に、最大級の失望を与えられる――その考えは、ほのかに甘美だ。

「歌えなくなってもいいんデスか? そうしたら貴女のどこに存在意義が残るんデスか? 知ってるんデスよ? 貴女が家族の反対を押し切ってまで人間界に出てきたこと。それが原因で親子仲が悪くて、帰るに帰れないこと――」

 人間に歌を聴いてもらいたい一心で、母親と別離してきた。

「必死に人間界に踏みとどまった時間も、故郷を捨てる覚悟も、ぜぇんぶ無駄!」

 小さくていい、光の当たる場所でまた歌えると信じ続けた。

 その日々がすべて無駄……

「でも貴女は…………貴女たちは、また私の声で人を悲しませるのでしょう?」

 ラレイラは悲しく笑った。

 脳裏に駆け抜ける、歌手としての日々。

 芸能プロの社長さんたちと過ごした忙しくも充実した日々。

 辛くて、何度『もうたくさんだ』と思っても、ステージで拍手を浴びるたび『もう少しだけがんばれる』そんな気持ちになった。

 充実感で満ち満ちたあの日々へと、きっと帰る――杖のように、苦しい歩みを支え続けてくれていた想いを…………いま自ら切り落とす。


『戸木島の甘言や脅迫に負けず、私たちを信用していただく――

 それができるなら必ず貴女を救います』


「黒東さん…………助けて……」

 うつむいたラレイラの悲痛な呟きを雨音が溶かす。

 ラレイラの手から果物ナイフが落ちた。

「白絹ッ! 露草ッ!」 

 主人の合図でどこからともなく土蜘蛛たちがラレイラへ飛びかかる。

 瞬時に体中を蜘蛛糸に絡め取られ、ついにラレイラは腕の自由も失う。

 仰向けに倒れたラレイラは雨の降りしきる空を眺めた。その視界一杯に戸木島の無感情な幼い顔が映り込む。しばし表情のなかった彼女だが突如、笑み崩れる。

「きっしし! お前みたいに心の弱い根性なしにそんな大それたことができるわけないんデス!」

 戸木島は濡れそぼった夕日色の髪を掴むと、顔を突き合わせ凝視してくる。

「貴女の要望は可能な限りかなえてやるつもりだったんデスよ? お仕事をしっかりやるなら歌う場所だって与えるつもりだったし、不自由のない生活を提供するつもりだったんデスぅ」

 気味が悪いほどの猫なで声で語る戸木島。

「でぇも――気が変わったデスっ! 徹底的にいじめ倒して上げます! どうしてやりましょうか……きっしし、その綺麗な顔がどんな風に歪んでいくのか、いまから楽しみデスね!」 

 猫なで声は、徐々に吐き気がするほどの甘さを帯びてゆく。

 高らかに哄笑する戸木島をラレイラはどこか冷静に眺めていた。

 自由になる最後のチャンスを失ってしまったのかもしれない……

 これからは永遠にこの世の暗闇を這い、泥水をすするような生活が死ぬまで続くのだろう。

 私はただ……ただ、ただ……人間に歌を聴いてもらいたかっただけなのに……

 いつから鳴っていたのか、歌手の耳はその音に気づいた。

 空に、雨音とは異質な音がかすかに響いている。ザッ、ザッ、となにかを引っ掻くような擦過音。それが倒れたラレイラの頭上から近づいてくる。戸木島もやや遅れてそれに気づいたらしく空を見上げて、後退った。

「はぁあっ!? なんデスかあれ!?」

 擦過音が途絶え――それなりに重量のあるものが地面に落ちた音と振動。

 次いで草地が含んだ雨水を蹴散らしながら滑走してくる気配が二つ。

 戸木島は慌ててラレイラの傍らから飛び退く。

 腰を低くし地面を踏みしめた二つの人影がラレイラを挟み左右に静止した。

「ラレイラさん――」

 右隣では長身を黒いスーツに包んだ少年が腰を折って深く頭を下げる。

「待ち合わせ場所の確認ミス、ならびに遅刻を謝罪いたします」

「もーしわけありませんです!」

 左隣の少女も勢い良く頭を下げる。その拍子に彼女の水色の髪からは氷結が散った。よくみると前に会ったときにはなかった大きな尻尾が腰から生えている。

「鬼志別召喚契約仲介事務所所属、黒東 理司! 到着いたしました!」

「同じく! 陽賀美・ねびゅ……ぬふ……N・一子……到着です……」

 なにを言いたかったのか噛んでしまった陽賀美。語気が一気にしおれていった。

「………………黒東さん……」 

 ラレイラが震える声で呼びかける。

「はい。なんでしょうか?」

 黒東がラレイラの傍らに片膝をついた。

「来てくれるって……信じて良かった」

 涙と雨で滲んで、もう彼の顔はよく見えなかった。だが傍らに感じる存在の大きさと頼もしさにラレイラは心から安堵していた。

「ラレイラさんなら――いまのラレイラさんなら必ず逃げ延びようとしてくれている、そう信じていました。よくがんばって下さいました」

「糸を割ります! ちょっと寒いけど我慢強くでお願いします!」

 陽賀美はおもむろにラレイラの身体を捕縛する蜘蛛糸を掴んだ。陽賀美の手から起こった水色の魔法光は、瞬時に糸の上を疾走した。

 そして魔法光が蜘蛛糸全体に行き渡った瞬間、突如凍り付く。ほとんど氷で身体を巻かれたラレイラだが寒さを感じるよりも早く、それは粉々に砕ける。見事に蜘蛛糸だけが粉砕されており、ラレイラはゆっくりと上半身をもたげた。

「その力は……」

 髪色や感じる魔力からして召喚獣の血を引いているとは思っていた。だが魔力の扱いが卓越しており、ラレイラはやや驚いていた。

「陽賀美はニブルヘイム出身の大召喚獣フェンリルの子孫なんです」

 ラレイラは瞠目し、陽賀美をまじまじと見た。

 笑顔のまま首を傾げている陽賀美はその偉大さにピンと来ていないようだがフェンリル、といえばエッダ界のニブルヘイムという極寒の地下世界に住まう有力者。約百年前、人間界に召喚獣の存在を公にし人間と共生するため活動した交渉団――後に『偉大なるつま先』と呼ばれる五体の内の一体だ。

「兵部浜駅からここまで数分で移動できたのも、彼女の力でして」

 黒東は後方を手で示す。

 空には龍がのたうつような氷のレールがあった。ビルとビルの合間を通すように走っているそれは役目を終えて徐々に霧散し始めている。

「雨水があったので、氷を作るの楽ちんでした!」

 彼らが到着する間際に聞いた擦過音を思い出す。きっと空中に氷のレールを通して、そこをスキーかスノーボードように滑ってきたのだろう。

「さて――と」

 立ち上がった黒東は戸木島へと向き直った。その瞳には殺気とも怒気とも取れる気迫が満ちていた。その灼熱の視線に、戸木島は『ぐっ』と小さく呻いた。


 なぜ藤代が戸木島の後方に控えているのかは判然としない。

 だがこちらに目もくれず虚空を見ている表情から、なんらかの魔力的操作を受けていることは明白だ。動揺はある、状況は良くない。だがそれらを呑み込んで理司は戸木島へ言葉を放つ。

「待ってくれるとはブラック業者にしてはなかなか礼儀のできている方ですね」

 怒りと恨みを視線に込めつつ、涼やかに告げる。

 なんとしてもラレイラを手に入れなくてはならない彼女に逃走という選択肢がないと知って皮肉る。すると戸木島は苦しげに表情をしかめた――ずいぶんと簡単に心情を顔に出す女だ。演技か、それとも……?

「鬼志別事務所の黒東 理司と申します。以・後・お見知りおきを。戸木島 知朱さん。色々とじっくり話をうかがいたいのですが、いまは時間がありません」

 冷静な自分に理司は内心、自嘲した。理不尽の権化を目の前にして自分が思いがけない行動に出る可能性も考えていたが、キャラはブレておらず優先すべき事項は抜けていない。

「どういうことデス……白金町駅からこんな短時間で……?」

 呆然と呟く戸木島。

 理司は讐敵から目を逸らし、再びラレイラへと向き直る。

「さぁラレイラさん、移動しましょう。早く契約書にサインを。それに身体も温めないと」

 まずラレイラを守らなくてはいけない。戸木島の捕縛も同時に行おうとすればどちらも中途半端になり、姿の見えないエイリアという白スーツの女に足元をすくわれかねない。

 それにここでもたもたしていては戸木島が藤代を人質として使ってくるかもしれない。そんな脅迫を切り出される前に一時撤退だ。

「――っ、理司さんそっち!」

 突然、一子が叫び、理司の後方を指さした。

 咄嗟に横へと飛び退く理司。右隣を蜘蛛糸の束が通り抜けてゆく。同時に右手で握った黒革のカバンが強い力で引っ張られる。抵抗しきれずカバンは手を離れて高々と空中へと跳ね上がった。跳躍した二体の土蜘蛛はカバンを中心に×字で交錯――降りしきる雨の中に、切り裂かれたカバンと契約書の断片が飛び散った。

「きっししっし! ザマぁないデス! これですぐには契約できませんねぇ!?」

 舞い散る契約書の破片を浴びながら戸木島は下卑た引き笑いをまき散らす。

 召喚契約の書類はただの紙ではない。召喚魔法を組み込んでおり、正規の調達には一定の手続きが必要だ。少なくとも事務所に戻らなければ『通常』の契約書は手に入らない。

「そのカバン――最初の給料で買ったものなんですよ。大事に使っていたんですけどねぇ……」

 大仰な反応は相手を喜ばせるだけ。理司は怒りをこらえて淡々と告げる。

「当然、事務所に帰れるとは思わないことデス! お前たちは白絹と露草の糸で簀巻きになってもらうデス! うれしいデスか!? うれしいデスよねぇ!?」

 ――一つ、わかった。この女、下準備や手回しが入念なタイプだ。それは交渉において絶対、必須だ。だがキラーズという組織の下準備には法も良心もない。そのため準備を終えた時点で勝ったも同然の状況が多くなる。故に商売敵と言葉を応酬した経験が少ないのだ。

 下準備に自信があるから相手に次の手を警戒もせず、すぐ勝ち誇る。

「それが――」

 だから仲介士なら見慣れたはずの、ネクタイの幾何学模様にも気がつけない。

 理司はネクタイの結び目に指をかけて緩める。同時に交渉用の『キャラ』という一種の自己暗示も解けて、鉄火のような理不尽への恨みが猛炎と化す。

「どうかしたかよ、薄汚ねえブラック業者ッ!」

 解いた赤いネクタイ。生地を縫いつけてあった糸を理司は思い切り引っ張る。すると青い魔法光が生じて長方形の布地へと変化した。

「はぁあっ!?」

 片目をしかめて戸木島は驚愕する。

 広がったネクタイの生地はおおよそA4サイズ。刺繍に見えていた幾何学模様が、魔法陣の一部だったとうかがえる――それは布製の契約書だった。

「召喚契約書の術式を織り込んだ一本七万円の特注ネクタイだ。備えあればなんとやら、か。まさか使う日が来るとは思わなかったけどな」

 理司は困惑気味の眼差しを向けてくるラレイラへと布の契約書を見せる。

「ラレイラさん、こんな場所でなんですが契約書にサインもらっていいですか? アイツらの理不尽な計画、ブッ潰してやりましょう」

「えっと……はいっ!」

 戸惑いながらもラレイラはうなずく、そこに迷いはない。理司はニッと笑い、契約書の魔方陣へ手をかざした。

「契約術式――展開」

 契約書から生じた青い魔法光は天球状に広がり、理司とラレイラを覆った。

「ッ――待つデス! 契約術式――展開!」

 その契約に戸木島が待ったをかける。契約書を取り出し、術式を発動した。

 違法契約書から黒ずんだ赤い魔法光が生じ、戸木島を中心に広がった。

「貴女の歌声がどれだけの人間を不幸にしたと思ってるんデスか! それを罪を償いもせずに自分だけ光の当たる場所へ行くんデスか!」

 ……この女もガキの使いではないらしい。『罪悪感』というラレイラのもろい部分を的確に突き崩しにかかってきた。事実、ラレイラの表情が曇る。

 口喧嘩なぐりあいがご所望ならば受けて立つまで。

 理司はラレイラと戸木島の間に立つ。

 青と赤の領域に区切られ、両者が対峙した。

 理司は息を吸い込む。切羽詰まった表情の戸木島を睨みつけて口火を切った。

「それはテメェの妄言だ! ラレイラさんに罪はない!」

 言葉には火のような勢威を、心には止水のごとき平静を。

「例え罪がなくても、優しいラレイラさんの心はどうデスか!? 贖罪の場が欲しいとは思いませんか!? 芸能プロの人たちに貴女は顔向けできるんデスか!?」

「妄言は止めろ! ラレイラさんに罪はない! だから贖罪の場なんざ不要だ!」

 『そうかもしれないが――』などという半端な同意は相手につけいる隙を与えるだけ。相手の言葉はすべてはね除け、余計な情報は与えない。

「大体、テメェはどんな贖罪の方法を用意するつもりなんだ、言ってみろ!」

 そして唐突に意見を要求して、思考のペースを荒らしにかかる。

「そ……れは、いま知朱たちは……芸能プロの人を探してるんです! 社長の足取りを掴んでいるデス! 一緒に来れば会って謝る場所を与えて上げるデスよ!?」

 口調の焦り方からしてやはりブラフ。そしてその手はすでに封殺してある。

「残念だったな! ウチの優秀な所員がもう見つけてるぜ!」

「はぁあっ!?」

「――えっ」

 前方の戸木島と後方のラレイラが同時に驚愕する。

 一子に抱えられて移動する最中にルキノの電話はなんだったのか考えていた。

 だが冷静になってみれば難しいことなどなかった。

 理司は彼にラレイラの所属していた芸能プロの社長を探すよう頼んでいた。そしてあの電話だ。断末魔にも似た叫びはおそらく『社長』――彼は見つけたのだ。

 理司は肩越しに振り返り、ラレイラに笑いかけた。

「ラレイラさん――芸能プロの社長さん、実は見つかったんです」

 察するに十七時三十分――そろそろ社長から電話がくるはずだ。

 これがラレイラの贖罪とイコールになるかは彼女次第だ。

 しかしこの場では贖罪になり得るか否かの精査はいらない。

「というわけだ! お前らみたいなブラック業者の手を借りなくても対話の席を俺たちが整えられる! 他にはなんかあるのか!?」

 広場に理司の糾弾が力強く響く。

「んぐ……ふっ……う」

 とうとう答えに窮した戸木島が、悶絶するように身を捩った。

 理司と戸木島、相反する心情による沈黙。

 充満する剣呑な空気を、理司のポケットから飛び出した着信音が割った。

「はい、黒東です」

 電話を受ける。まず苦しげな吐息が聞こえた。

『ルキノという少年から……すべて聞いた。ラレイラちゃん、そこにいるの?』

 やつれた声だ。だが穏やかな男性の声だ。

「――話は聞いてます、ちょっと待って下さい」

『ああ、頼むよ』

 彼は喉から押し出すような辛そうな声で告げる。電話の主が、多忙の末に身体を壊した芸能プロの社長ならば、それも無理からぬ話だろう。

「ラレイラさん、これを」

 理司は振り返り、ラレイラへとステホを差し出した。

 首を傾げながらも受け取ったラレイラは受話口をこめかみへと押し当てた。

「はい……ラレイラ……です」

 不安げに応じる。だが二、三言、交わしたラレイラは驚嘆に目を見張った。

「本当に…………社長、さん……?」

 理司は戸木島へと向き直り、にんまりと余裕の笑みを浮かべてみせる。

 だがその心中は、ほっと一安心していた。これでラレイラの中に堆積する罪悪感にも一旦の整理がつくだろう。新たな出発にも弾みがつくというものだ。

 眼前で歯がみしている女のような、理不尽な連中にもつけ込まれなくなる。

「そんな……そんなこと……っ!」

 ラレイラの暖かな声は震え、涙で濡れていた。

「えっ、私が…………社長さんの命を……」

 にわかに戸木島の口元が嗜虐的な笑みへと変化してゆく。

 平静を装う理司の背筋を雨とは違う冷たさが伝い落ちる。

 もし社長が発見できたとしても、ラレイラに対して良くない感情を持っていた場合は安否の確認だけで良いとルキノには伝えてあった。だがこの緊急時に焦ったルキノが秘められた悪意を見抜けなかった可能性は除外できない。

 もしも社長がラレイラを激しく恨んでいたなら――ラレイラは最も案じていた人物に心を刺されることになる。それは立ち直れないほどの傷を負いかねない。

「ぁぁ…………あぁぁ……」

 まるで魂が宙へ溶け出る音。

 たまらず振り返った理司の目に、くずおれて膝をつくラレイラの姿が映った。

 理不尽と決別するため奮い立った彼女の心が……

「きっ――っっししっしし!」

 燃え盛るように哄笑をまき散らし、戸木島が勢いづく。

「ねっ、わかったでしょう? 貴女はみんなに恨まれているんデス。でも司法上、貴女に罪はないんデスって。困りましたね、誰が罪を償う場所を与えてくれるんでしょうか?」

 遠間の戸木島は慈しむような声音で訴えかける。

「貴女が居るべきはこちら側デス。知朱たちキラーズが、貴女の居場所になって上げます。いま考えを改めるなら待遇の話も撤回するプレゼントつきデスよぉ?」

 ピクニックにでもいくような軽い足取りで近づいてくる戸木島。

 理司は必死に思考を回しながら戸木島の前に立ちはだかる。だが最早、理司など眼中にない戸木島は、懺悔するように膝をついてうつむくラレイラへ語りかける。

「ねぇラレイラさん、お返事は?」

「………………返事は」

 理司の背後でラレイラがふらりと立ち上がった。よろめくような足取りで理司の隣へと歩み出たラレイラ、その横顔に理司は息を呑んで見入った。

 ――笑顔だ。

 雨と涙、泥と傷、彼女の歴程を現すような横顔だった。

 ならばその晴れやかで透明な笑顔はなにを意味するのか?

「こんなこと――あるんですね、黒東さん」

 ラレイラは穏やかな紫の瞳で正面を見据えたまま、とつとつと語り始めた。

「社長さんの命は…………もう長くないんですって……二年前に身体を壊したのは多忙だっただけではなくすでに病気に蝕まれていたからみたいで……」

 忙殺され身体の異変に気づけなかった……理不尽に巻かれた人たちの、ありきたりと言うには過酷で珍しくない結末。その境遇に理司は前所長を重ね、沈鬱にまぶたを閉じる。

「手術をすれば助かるそうなんですけど社長さんは麻酔との相性が悪いせいで、どこの病院でも手術ができなくって……ゆっくり死んでいくしかなかったそうです」

 思考の深い部分で、なにかが一繋ぎになる感覚が駆け抜けた。理司はゆっくりと目を開き、ラレイラを見つめた。

 そこには生まれ変わったような明るい微笑みの彼女がいた。

「でも私がその命を救うんです、この歌で」

 わずかに遅れて頭が理解し、驚嘆する。

「上村医師が一刻も早く手術したい相手ってのは……」

「はい、社長さんです。そしてそのために選ばれた召喚獣が私なんです」

 ――なんと運命的な巡りだろうか。

 ラレイラの過去も、上村医師の依頼も、すべて一本のレールの上にあったのだ。

「おいっ! 無視すんなデス! 返事はどうなんデスか、ラレイラ!」

 話が見えず置き去りにされていた戸木島が苛立って声を張り上げた。

 戸木島へと向く紫の瞳には凄烈なまでの怒りが宿っていた。

 毒蜘蛛に怯えていた、か弱い少女はもうどこにもいない。

「貴女なんて大嫌いッ! 二度と私の前に姿を見せないで下さいッ!」

 猛烈な怒声が突風となって広場を駆け抜ける。

 呆然と目を見開いた戸木島は、頭に砲丸でも直撃したように二歩、三歩とよろめき、ついに膝をついた。瞳は虚ろで口元は唖然としたまま半分開いている。

「黒東さん、契約を」

「わかりました」

 理司は赤い布の契約書とペンをラレイラへと渡す。受け取ったラレイラは手の平を下敷き代わりに署名欄へペン先を走らせてゆく。一子は土蜘蛛の邪魔立てを牽制すべく『がおーっ』と犬かきの手振りつきで威嚇していた。

 やがてペンを止めたラレイラが理司へ契約書を差し出す。

 署名欄には確かにラレイラ・オデュッセイアの名が記されている。

「私は、私の意志と自由に基づいてここに召喚契約を望みます」

 その美貌には力強さがあった。それは彼女が本質的に持っていた強さがにじみ出たのだと理司は思う。夢を追って一人、人間界へ出てきた。そして人間界に留まり、研鑽を続けた。

 ラレイラの弱さだけを見ていた戸木島には理解し得ぬ、燦然たる心の輝きだ。

 理司は契約書を受け取り、一つうなずく。

 彼らを包んでいた淡い青の魔法光は収束し、再びラレイラの右手の甲へ幾何学模様と呪文を刻みつけてゆく。やがて魔法光は緩やかに消失し、あとには召喚魔法が残される。

 愛おしむようにラレイラは魔方陣へ、そっと頬をすり寄せた。

 それは証だ。小さくともラレイラが理不尽に打ち勝った証。

「この新しき契約がいつか良き古の盟約となることを心よりお祈り申し上げます」

 祝福の拍手でもしたい心持ちだった。だがカチリという金属音がその気分を阻害する。理司は音の発信源を――戸木島を見やり、表情を険しくした。

「――なりふり構わず、か。見苦しいな」

 戸木島は片手で黒い拳銃を構えていた。銃口が――ピタリと理司を向く。

「ババアも突っ立てるんじゃねえデス! こっち来てそいつらブチのめすデス!」

 怒りに満ちた指示が飛び、所在なげに佇んでいた藤代が歩み寄ってくる。

「さぁ~あ、ラレイラさぁん。知朱たちと来てもらうデス。別に拒否してくれても構わないデスよ? そのたびに一つ血だるまができあがりますけど」

 銃を抜いたことで精神が一線を越えたのか瞳が血走っている。口元には歪んだ笑み。黒いツインテールをゆさゆさ左右に振りながら、よろめくように歩んでくる。だがその銃口は少しもブレずに理司の頭を狙っている。

 銃を向けられた経験はさすがにない理司だが、この女は『撃ち慣れている』と直感した。

 戸木島と追従する土蜘蛛二体を視界に入れつつ理司はラレイラに半身を重ねる立ち位置でジリジリと後退する。魔法が浸透したこの時代においても、弾丸の速度と殺傷力は厄介だ。

「大丈夫です……ワン子が……ワン子がなんとか……」

 理司たちの前に出た一子は身体を低くし尻尾を立てると、猟犬のように闘志をみなぎらせる。

「ワン子――ステイだぞ、ステイ」

「……わんっ」

 一方的に戸木島が優勢だった状況は、一子が対峙してくれたことで拮抗した。

 だがそれによってあとに引けない一触即発の空気が瞬く間に場へ充満してゆく。

「さすがにそんなもん使ったら人が来るんじゃねえか……?」

 理司はやや気弱な口調を意識した。緊張感が高まりきっては一子、戸木島ともに暴発の怖れがある。ここは逃げの姿勢を見せて戸木島に余裕を与えておきたい。

 戸木島は鼻で笑うと嘲弄するように、理司へ向けた銃口を左右へ振ってみせる。

「バ~カ、誰も来たりしないデスよ?」

「なるほど……お前の相棒がなにかやってんのか?」

 理司は納得していた。元来の人通りの少なさと、降雨という条件が重なってはいるが、それにしても人気が少なすぎるのだ。

「相棒っ? アイツはただの運転手兼パシリ――でもまぁ、そういうことです。結界ってのに似てるんデスかねぇ、アイツは広域にイヤな空気を散布して人払いができるんデスよ」

 ……戦いは避けられない。腹をくくった理司は深呼吸したつもりで小さく息を吸う。ステホには護身用に認可された魔法がいくつか入っている。それを扱うに適した『キャラ』はどんなものがあったか――戸木島から視線を外さず沈思する。

 そのときだった。

「そいつぁ好都合だなぁ、お嬢ちゃん」

 明後日の方向から飛んできた甲高い少年の声に、一同が視線を注ぐ。

 雨水に濡れたベンチにボルサリーノ帽を目深に被った小柄な人影。グレーのスリーピーススーツを着た少年が背もたれに深く身体を預けて座っていた。彼はスキットルに口をつけて小さく喉を鳴らすと、荒々しい仕草で口元を拭った。

「はっ! 誰かと思えば鬼志別事務所のチビガキじゃねえデスか! 多少、召喚魔法に精通してるみたいデスが、白絹と露草には勝てないデス!」

 『チビガキ』と呼ばれてルキノの小さな身体に大きな動揺が走った。だが『召喚魔法』と聞いた瞬間、彼の口元に余裕の笑みが浮いた。

「へぇ、やるってのかい――この魔法使いと、さ」

 ルキノは気だるげにベンチから立つと、右手の人差し指を高く天へ突きつけた。

 それを合図にルキノの周囲に金色の魔法光がわき起こった。

 三つ、四つ――ルキノを囲むように地面へ金色の魔法陣が浮き上がる。

「ハ……ハッタリに決まってるデス……道具なしで、そんな数の召喚獣を……」

 五つ、六つ――さらに空中にも魔法陣は増え続ける。

「顕現させるなんて人間には不可能デス……」

 二十、三十――魔法陣は際限なく増殖してゆく。

「できるさ、ボクは見かけに寄らないんだからね」

 泰然と両腕を広げたルキノ。黄金に輝く無数の魔方陣を従える姿は神々しくさえあった。

「『召喚サモン』!」

 すべての魔法陣から一斉に、実体がせり上がる。

「……はっは、すげぇなルキ兄」

 四大元素の化身たるシルフ、ノーム、サラマンダー、ウンディーネ。

 さらにはトロル、ゴブリン、グリフォン、キリン、雷獣……生まれた世界も大きさも性質も違う召喚獣たちがルキノの周囲に整然と揃い踏みした。

 世界規模の百鬼夜行を思わせる光景に、さしもの戸木島も青ざめる。土蜘蛛たちも尻込みしたらしく主人の背中に飛びついて肩越しに恐る恐る召喚獣軍団の様子をうかがっている。

 拳銃を握り締めた戸木島は動揺した瞳で落ち着きなく周囲を見回す。その視線が理司の背後にいるラレイラへ留まり、見る間に憤怒の形相へ転じてゆく。

「ラレイラぁッ! ここで一緒に来なかったらどうなるかわかってるんデスか!?」

 戸木島はすべての否がラレイラにある、とでも言わんばかりに筋違いの怒りを叩きつける。

 心を決めたラレイラの足を、この期に及んでまだ引っ張ろうとする悪辣さに理司の堪忍袋が破裂した。交渉の場でははばかられる深呼吸で、肺の中身を一新する。

「知朱がお前の過去を拡散したら――」

「いい加減、そのクセェ口を閉じやがれ戸木島 知朱ィィッ!」

 戸木島の怒声を理司の大音声が殴り飛ばした。

「いままでどれだけ他者の涙でその喉を潤してきた! どれだけの夢を噛み砕いてきた! どれだけの命をその腹に収めてきた! 悲しみで肥え太ったテメェらの腹からは、この世で一番醜悪な理不尽の臭いしかしねえんだよッッ!」

 音の砲弾に戸木島は圧倒されて身をすくませた。

 理司の咆哮がこだまする中、ラレイラは涼しい顔のまま前へと歩み出た。

「お好きにどうぞ。私、貴女の脅しには負けて上げませんから」

「~~~~ッ!」

 怒りを喉に詰まらせた戸木島が呻き、うなだれる。理不尽を振りかざして好き放題に振る舞っていた悪達者の面影は最早なかった。

 対して見違えるようにたくましくなったラレイラ。理司は感心するような心持ちでその背を眺めていると、彼女が振り返った。

「言ってやりました」

 ラレイラは声を弾ませると、小さく舌を出して恥ずかしげに笑う。

 胸にわき起こってくる教え子の成長を見届けたような感情に理司は少し照れて頬をかいた。

「さて……ルキ兄。戸木島の拘束を頼む」

 成り行きを見守っていたルキノが片手を挙げて応じる。観念したのか戸木島は放心したまま身じろぎしない。

「年貢の納め時ってヤツだね、戸木島 知朱。警察に引き渡す前に、キミにはその契約書の入手経路を始めとして色々としゃべってもらう。ボクはキミたちのような連中を恨んでいる、素直にしゃべらないなら手心はないと思うんだね」

 それは感情を叩いて潰したような平たい声音だった。いつ暴れ出すともしれない激情を青い瞳にチラつかせながら、彼は召喚獣を何体か連れて戸木島へと歩み寄っていく。

「…………黒東さん、車の音が」

「理司さん、車が来ます」

 ラレイラと一子がほぼ同時に告げる。遅れて理司にも近づいてくるエンジン音が聞こえた。どうやって乗り入れたのか広場の遊歩道を黒塗りの車が猛スピードで突っ込んでくる。

「ルキ兄、たぶん戸木島の相棒だ!」

「おっけー、任せて!」

 ルキノの指示で岩壁のような偉丈夫のトロルが車の進路上へと進み出る。

「知朱ちゃああん! 助けて上げるぅぅうっ!」

 開け放たれた車の窓からエイリアという女の必死な叫びが飛び出す。

 だが雨でぬかるんだ地面にタイヤが取られる。黒塗りの車は制御を失い、思い切り蛇行して戸木島とは明後日の方向へと急カーブした。

「ふあぁぁ~~っ!?」

 一体、なにをしにきたのか……誰もが困惑で止まる中、ただ一人が素早く。

「白絹! 露草!」

 その声で我に返った理司。

 戸木島の身体が不自然な恰好で吹き飛ぶ。その身体には蜘蛛糸がハーネスのような形で幾重にも巻かれており、それは走り去っていく車へと繋がっていた。

 いつの間にか車の上へと移動していた土蜘蛛二体が脚を蠢かして、糸を手繰る。見かけは小さくともやはり召喚獣か、怪力で引かれた戸木島は釣り上げられた魚のように空中で放物線を描き、そのまま車の屋根へと落下。雨水で滑り、転倒こそしたが走り去る車の屋根にしがみついた彼女は唾を吐き捨てて理司たちへとサムズダウンしてみせる。

 続けざま、意識のおぼろげな藤代が地面に引き倒されて、泥の混ざった水しぶきを上げた。

「藤代姉っ!」

 彼女の手首には手錠のように蜘蛛糸が巻き付いてた。

「………………」

 そのまま猛スピードの車に引きずられてゆく藤代。

 だが赤い瞳は静かに理司を見た――一瞬ではあるが確かに。

 戸木島と藤代を回収した車は木々の合間を巧みに縫って林の奥へ消えていった。

「藤代さんが! 藤代さんが誘拐事件にされてしまいました!」

 耳と尻尾を逆立てた一子が慌てふためく。

「藤代を置いてけッ! ボクが逃がすと思ってるのか! みんな集合!」

 ルキノは呼び出した召喚獣を振り返ると、即座に追跡隊の編成を始める。

「…………ルキ兄、追跡はOKだがちょっと様子を見て欲しい」

 そう声をかけるとルキノは少し怒るような色を碧眼に浮かべた。

「どうしてっ? 藤代が連れて行かれちゃったんだぞ!?」

「車のナンバーは覚えた。ルキ兄の召喚獣なら追跡は容易だろ? それにアイツらは藤代姉を使って脅迫なりなんなり仕掛けてくるはずだ、車で移動している間は大それたことをしない」

「そういう問題じゃないだろ!」

「――藤代姉は、もしかしたら正気に戻っていたかもしれないんだ」

「じゃあなんで連れてかれたのさ! 糸がどんなに頑丈でも藤代なら千切れるはずなのに!」

 確かにその通りなのだが……赤い瞳には明澄な意志があった。

 彼女はいつから操られ、いつから正気だったのか、理司は今日の記憶を遡る。

 すると真っ先に不可解な疑問へ行き当たった。

 理司は乱立する木々の向こうに見えるビル群へと視線を上げる。

 戸木島の口ぶりでは理司たちを『白金町駅』へ誘導したようだった。だが理司たちが藤代の指示で誘導されたのは『兵部浜駅』……明らかに食い違っている。

 そして兵部浜駅屋上からここまでは一子の力を行使すれば、数分でたどり着ける位置関係。

『もしも理司ちゃんがどうにもできない問題が出てきたら、あの子を頼ってみて』

 誘導先の食い違い、理司が一子に頼ったときだけ開けるルートの存在――これらが藤代の狙いではなく、偶然だったと考えるのは逆に不自然だろう。

 ならば少なくとも藤代は朝から正気だったことになる。ラレイラが襲撃を受けていたであろう時間帯も……正気で静観し、最後まで行動せずに拉致された……

「…………さすが、所長様ってところだなぁ」

 藤代の思考を完全に辿れていないが、どうやら大筋は彼女の手の上で転がっていたらしい。

「ワン子、君はタクシーの中で俺にウソをついたかい?」

「ふぁあっ!? な、なぜゆえわかったんですか!」

 唐突の質問に最速でネタばらしする一子。理司は苦笑しつつ己の推察が正しい確証を得た。

「所長に、俺にはあえてウソの待ち合わせ場所を伝えるよう言われたんだね?」

「は……はい……ごめんなさい」

 肩をすぼめて小柄な一子がより小さくなる。

「いや……いいんだ。なにも問題ないさ」

 思い返してみれば変更になった待ち合わせ場所を聞くだけにも関わらず、通話時間がやや長かった気もする。それに屋上で突破口を探す一子の瞳にどこか確信的な色があったのは、藤代がその手段を用意していると信じていたからだろう。

「だからそんな話はどうでもいいだろう! 藤代が危ないんだよ!」

「――待っとくれよ、ご主人。理司の言う通りさ」

 不意に降ってくる女の声と、小さな影。理司たちの間近へ軽やかに着地したのはエプロンドレスの召喚獣。ラレイラの護衛と身の回りの世話を務めてくれていたキキーモラだ。

「キキさん……っ! 無事だったんですね!」

 ラレイラは涙ながらにキキーモラの小さな身体に抱きついた。

「所長とプロレスしたもんだから、ちっとキズこしらえちまったけど平気さ」

 キキーモラは少し照れくさそうな笑みを浮かべて頬をかいた。

「私……キキさんに……なにかあったんじゃないかって……」

「泣くんじゃないよぅ。美人が台無しじゃないか」

 肉球のついた手がラレイラの頭を優しくぽんぽん叩いた。

「相変わらずダンディだなキミ……じゃなくて、さっきのどういう意味だい?」

「どういう意味もなにも、そのままさ」

 キキーモラの話は、理司の推察が正解だったことを示すものだった。納得したルキノに追跡部隊を派遣してもらう。状況がどう動くとしても、ここに残る理由はない。ラレイラの手当てなども考えて理司たちは移動を開始した。

 あとは藤代が上手くやってくれるだろう。


 クラクションを鳴らされながら市内を走った黒塗りの高級車は、やがて交通量の少ない海沿いの道へ抜ける。走行する車体は不規則にゆさゆさ揺れている。

「クソ! クソ! クソクソクソクソぉッ!」

 車内の至る所に泥と靴底の跡が飛び散っていた。後部座席で荒れ狂う知朱は愛する土蜘蛛二体を収めたカゴを抱いたまま窓、ドア、シート――ところ構わず蹴りまくっている。

「ふざけやがって! ふざけやがってデス! バカにしてぇ! なにが『理不尽の臭いしかしねえ』デスか! キッモ! 調子に乗りやがってええッ!」

「知朱ちゃん! 助けたお礼とか……いいからね?」

 対して脳天気なザンザメーラはバックミラー越しに期待の眼差しを向けている。

「このバカザジ! お前はお前でいい加減に空気読めデス!」

 知朱のブーツの底が思い切り運転席のヘッドレストを蹴飛ばす。

「ひぃやああっ!? やめて知朱ちゃん! アタシが死んじゃう!」

 ハンドルがブレてわずかに対向車線へはみ出す車。さすがにその程度の冷静さは残っていた知朱は蹴り足を引っ込めて、大きく舌打ちした。

「当たりたいなら、隣の頑丈そうなのでも殴ってみたら?」

 友達に新しいお菓子でも勧めるような気軽さでザジが提案する。

 知朱の隣には蜘蛛糸で手首を拘束されたままの鬼志別 藤代が座っている。

 依然、視点が定まらないまま車内を眺めている。車でしばらく引きずられたため藤色の着物は背面がズタズタに裂けていた。艶やかだった髪も雨と泥にまみれており無残だ。

 唇を尖らせた知朱はしばし憮然と鬼志別を見上げていたが、おもむろに握り拳で横っ面を殴打する。衝撃で藤代がドア側へと倒れ込む。さらに無防備な藤代の腹へ蹴りが押し込まれる。

「これじゃ知朱の評価がだだ下がりデス! お前らが! お前らが余計なことをしてくれたせいで! どう始末をつけてくれるつもりデスか!」

 無抵抗の藤代に容赦なくブーツの踵が降り注ぐ。

「お前にはこれから鬼志別事務所をグッチャグチャのズタボロにするための手伝いをしてもらうデス! お前のクソオヤジと同じように、今度は所員全員をボロ雑巾にしてやるデス!」

 脇腹へ突き刺さる踵に、藤代の喉からくぐもった呻きが押し出される。

「きっしし! 楽しみデスかぁ? 楽しみデスねぇ? なんか言ってみろデス!」

 知朱は藤代の胸ぐらを掴んで彼女の虚ろな顔をのぞき込むと、その頭を窓へと叩きつける。肩で息をしながらも、人心地ついた知朱はさっぱりした表情で座席に腰を落とした。

「…………知朱ちゃん……ま、まずいかも」

「……なにがデス? 知朱はいまようやく落ち着いてきたところです、くだらないこと言ったらお前も蹴っ飛ばすデスよ?」

「……知朱ちゃん……そいつ……やばいよぉ」

「だからなんの話デスっ!?」

 ぽつ、ぽつ、と雫の滴る音が鳴る。雨水でずぶ濡れの藤色の着物。その膝元に一つ、二つと雫が落ちて赤い染みを広げてゆく。

 藤代の左目から鮮血が一筋、流れ落ちる。血涙にも見えたその源泉は彼女の額にあった。

 ――角だ。左眉の上で黒曜石のように艶めく角が一本、皮膚を裂いて伸びゆく。

 赤い瞳には炯々たる殺意を灯して、隣の知朱を見下ろした。

「そいつ正気に戻ってるッ!」

 ザンザメーラの絶叫。

 『ふぅぅっ』と藤代が大きく息を吸い込んで両腕に力を込めた。手錠のように絡んだ手首の強靱な蜘蛛糸が、ミチリッと音を立てて千切れていく。

「知朱ちゃん! そいつ殺しちゃおう! じゃないとアタシが危ないよぉ!」

 ザジは運転席からパワーウインドを操作。すべての窓を開けると同時に、アクセルを踏み込んだ。車は手近な電柱目がけて一切の躊躇なく猛加速する。

「ちょ、この……バカザジィィッ!」

 知朱の叫び――わずかに遅れて高速の車が電柱に衝突。

 フロント部がひしゃげ、ガラスが砕け、それらない交ぜになった崩潰音が鳴り響く。細粒となったガラスが散らかり、車体から脱落したタイヤが一つ、道路で弾み彼方へ転がっていった。かすかに鳴動していたエンジンもやがて黙りこくり、漏れ出た燃料が路面を伝う。

「どうかなぁ、死んだかな?」

 パンケーキの焼き加減でも気にするような軽い声が、車の上方から落ちる。

 上空数メートルから浮遊するザジが車を見下ろしていた。海風にふらつきながら小首を傾げるザジの顔面に、ブーメランのごとく飛来したブーツが激突した。

「いったぁああいっ! なにするのぉ、知朱ちゃん!」

「黙るデス、このバカたれ! くるくるパー! エアーリードスキルゼロ女!」

 蜘蛛糸で電線にぶら下がる知朱はブーツを投擲した体勢のまま息を荒げている。

「どさくさに紛れて知朱を亡き者にしようとしたデスね!? 日頃の恨みデスか! 積年の恨みデスか! なんならお前もここで死体になるデスか!?」

 烈火のごとく怒る知朱に対して、ザジは不思議そうに首を傾げた。

「えっ? そんなわけないよぉ、アタシを近くに置いてくれる友達なんて知朱ちゃんだけだもん。だから…………知朱ちゃん大好きっ!」

 そう言ってザジは褐色の頬を朱に染めた。その顔面にまたも飛来するブーツ。

「ふぎゃぁ! ぁぁあぁ……いたぁい……」

 今度は褐色の頬が腫れて赤く染まった。

「ったく……どう始末をつけたもんデスかねぇ……」

 それでもやや毒気の抜けた知朱は、ため息混じりで車を見下ろした。

 電柱がフロント部にめり込み、変わり果てた姿の高級車。

 後部座席に乗っていたとはいえ鬼志別はどうだろうか? あの女の素性は知っているが無事ではないだろう。重傷で済んでいるなら癪だが救助する、あれには鬼志別事務所へ復讐するための重要なカードになってもらわなければいけない。

 だが見込みがなければ……この場で始末か。知朱が考えをまとめた矢先だった。

 なんの前触れもなく後部右のドアが吹き飛んだ。

「はぁっ!?」

「ぉひゃぁ! びっくりしたぁ!」

 鬼志別は寝起きのような緩慢な動作で車内から出てくる。左半面が血塗れになった彼女はその赤い瞳で周囲を見回す。乱れきった衣服と左眉の上に生えた十五センチほどの一本角が相まって、怨敵を求めさまよう幽鬼のような有様だ。

「かぁぁぁ…………」

 鬼志別は頭上にいた二人に気づくと、深く息を吐き出した。

「……ダメよねぇ。理司ちゃんなら最後まで感情を殺しきれたのかしら」

 鬼志別はぼやきながら最早、衣服の体を成していなかった薄紫の着物を破るように脱ぐと、二つに裂いて胸と腰へ巻き付ける。

「お前いつから……催眠が解けるような複雑な命令は出していないはずデス……」

 現状の催眠魔法ではあまり複雑な行動は指示できない。無理に行わせようとすれば催眠が解けることも承知していた知朱は『ラレイラを呼んでこい』『連れてこい』など、鬼志別へ極力シンプルな命令しか与えていなかった。

「最初から」

 知朱の呟きに、鬼志別は嘲笑で鼻を鳴らした。そして左耳を覆う長い髪をかき上げる。その耳を和装に似合わぬ銀のイヤリングが飾っていた。

「これが貴女たちの依頼人が怖れている新振り込め詐欺の対抗策……アミュレットよ。試作品をいち早く売ってもらったの。魔法抵抗力の低い所長が新振り込め詐欺に引っかかったなんてくだらなすぎて笑えないものね」

 鬼志別は言いながら身体の調子を確かめるように、右肩を回す。

「そもそも計画が甘かったわね。催眠魔法を聞かせるタイミングを見計らってたんでしょうけど……私、すっごく視力がいいの」

 あれだけ痛い目に遭いながら、ここまで操られたふりをやってこれたその頑強さと胆力、演技力……何枚も上をいかれたと痛感して知朱は表情を歪める。

「ふ~~~~~ん…………じゃあ、ラレイラが追いかけ回されて転がってるときも正気で傍観してたんだ! そっかそっかぁ、結構いいねえ、アナタ!」

 だが平常運転のザジは無邪気に鬼志別へと言い放った。その指摘に鋭く心を刺されたらしく鬼志別は、不快そうに口端を歪めて長い八重歯を覗かせた。

「…………ええ、そうよっ」

 鬼志別は吐き捨てるように短く答え、右手へ視線を落とした。よく見れば手の平は真っ青に鬱血しており、ところどころに血がにじみ出ている。そうまでして堪えた意味はどこにあるのか知朱は思考を巡らせ、ほどなくして捻出された恐るべき回答に息を呑む。

 きっとこの女は操られた風を装いキラーズの本部へ乗り込むつもりだったのだ。それは下手なミサイルを撃ち込まれるよりも危険だ。

 こいつはただの女所長ではない――鬼志別 藤代の先祖は鬼。

 魔法的能力は低いが、その金剛力と打たれ強さは十全に受け継いでいるようだ。彼女が鬼の力を解放したなら、もう躊躇していられない。知朱は背中に張りついている白絹と露草へ脇に釣っている拳銃を取り出すよう思念を送る。

「十七回よ。忘れないから……私のこと十七回も『ババア』って言ったこと」

 猛烈な怒りを宿した赤い瞳が、宙ぶらりの知朱を睨みつけた。

「それに私の大事な所員たちをボロ雑巾にする、ですって? パパみたいに?」

 おもむろに壊れた車へ手を伸ばした鬼志別。屋根の板金をアルミ箔のように容易く、乱暴に引きはがした。

「私、ブチ切れました」

 殺意を冷やして固めたような、底冷えする声。

 鬼志別は板金を千切っては、矢継ぎ早に投げつけてくる。風を切り裂いて飛来する金属板はまるで大きな手裏剣。手当たり次第に千切って投げている上、形が歪なためコントロールは良くない。だがそれ故に避けにくい。

「無理無理無理無理! こんなの死んじゃう! 知朱ちゃんなんとかしてぇ!」

 悲鳴を上げながら宙を逃げ惑うザジ。知朱へ飛んでくる金属片は七枚重ねに張らせた円網状の蜘蛛糸がかろうじて受け止めている。

「きっしし! 手始めにお前がボロ雑巾になるデスよ、泥まみれの汚いババア!」

 銃声が海岸沿いの道に響き渡る。円網の裏から放たれた弾丸に反応して鬼志別は身を翻した。だがそこまで織り込み済みの知朱――弾丸は狙い通り、路面に漏れ出た燃料を穿つ。

 燃料が炎上し、一瞬と待たず鬼志別を巻き込んで爆発。激しい炎が車を包んだ。

「やったぁ、知朱ちゃん! カッコイイよぉ!」

 ザジが知朱に抱きついてゆく。だがその鼻っ面に知朱は頭突きをかまして拒否。

「いたぁい……ひどいよぉ……」

「んなことやってないで逃げるデス! 鬼がこの程度で死ぬわけないデス!」

「ふ~~~~~ん……そうなんだ! じゃあお先に!」

 ふらり、ふらりと宙で揺れたザジは、そのまま知朱を置いて遠ざかってゆく。

「『お先に!』じゃねえデス! お前が壊したせいで車がないんデスよ!」

 むなしい叫びが波音に呑まれる。すでに遠いザジへ舌打ちをくれてから、知朱は激しい火の手が上がる車を憮然と見下ろした。

「『週末殺したちウィークエンド・キラーズ』はいつでもお前らの運命を喰らう機会を狙っていますよ?」

 幼く見えるその容貌が、狂喜を含んで崩れるように笑った。

「知朱たちは理不尽デスからねっ!」

 

 炎上し、小さな爆発が断続する車から転がり出る人影があった。

 藤代はまだ濡れている道路に四肢を放り出して、空を仰いだ。その左手には熱で歪んだ黒いキャリーバッグが握られている。

「……効いたわぁ……焼き芋になった気分ね」

 藤代が上半身を起こすと申し訳程度に胸を隠していた着物の断片が焼け落ちた。

 もうほとんど裸身も同然。肌も泥や擦り傷でボロボロになっているが、爆発や炎による重篤なダメージはない。髪の毛でさえ先がかすかに熱で縮れている程度だ。

 藤代は念のため周囲を見回したが、すでにキラーズ二人の姿はない――逃がした。悔しさに柳眉を寄せるが、左手に握っていた戸木島のキャリーバッグを一瞥し小さくうなずく。

「まぁ、いいわ。最低限の目的は達したわけだし」

 藤代はキャリーバッグのカギを指でねじ切り、開く。中には女の子らしい化粧品や着替えなどと一緒にドキュメントケースが入っている。中を改めた藤代は一枚の書類に目を留める。

「これこれ。えぇっと……あらぁ……あんな場所にあったのね」

 そのとき藤代の傍らへと緑の光点が粉雪のように舞い降りてきた。

「所長さんってば大丈夫?」

 ルキノの召喚獣ピクシーだった。

「動きがあるまで監視って言われてたんだけど……遅かったらゴメンして?」

 どうやら理司はこちらのアイコンタクトをよく理解してくれたようだ。

「いいえバッチリよ。すぐにルキノに連絡してちょうだい。これから一暴れしましょって」

「あいさー」

「それから着替えもお願い。これじゃ会場のドレスコードは通れそうにないから」

 用件を伝えると藤代はすごすごと道路脇の茂みへ入っていった。召喚仲介事務所の所長が白昼堂々、道路で全裸なんて話が広まっては業務に差し支える。

 一息ついた藤代は手持ちぶさた、これからのことを考えた。

 理司はラレイラを救い、申し分なく仕事を完遂してくれた。成約の報酬は他の仲介依頼と大差ないのだが今回の祝勝会は派手にやらなくてはいけないだろう。

 最近飲んでいなかったお酒も解禁だ。今回ばかりは飲む、力尽き果てるまで。

「あっ、焼き芋……いいわねぇ」

 だがその前に前夜祭という名の一仕事を片付けなければ。

 百歳を超える召喚獣たちが闊歩する世の中で、二十四は断じてババアではない。

 その憤懣をゲンコに込めて、派手に、そう派手に――



 本日休業の鬼志別召喚仲介事務所にたどたどしくキーボードを叩く音が響く。時折それに混ざって新聞をめくる音も。制服姿の理司がぬぼ~っとソファーに座り新聞を読んでいた。

 新聞を読むことが習慣化している理司は最近持ちきりの記事に苦笑した。

 一週間ほど前の話だ。新振り込め詐欺の統括本部が多数の召喚獣たちに襲撃されて壊滅した。

 詐欺団主要メンバーは全員、逮捕。警察は聴取した情報を元に日本各地で末端組織を次々と摘発している。同時に警察は統括本部を襲撃した召喚獣たちのリーダーと思しき、黒い髪の鬼女と金髪の少年を探しているようだが……それは見つからないだろう。

 なんにせよ新振り込め詐欺はこのまま根絶やしになる。

 金丸工業が作ったアミュレットが今後、制作されるステホ内に組み込まれることが正式決定した。また藤代の働きかけにより金丸工業のアミュレット作りに、音声の原本に『極めて近い声質』の女性が協力する運びとなった。これで催眠魔法は完全に無効化される。

 つまり裏社会的にラレイラの価値は消滅。歌魔法を録音できるセイレーンがラレイラのみである以上、電話越しに相手を魔法操作するタイプの類似犯罪もこれで不可能となった。

 詐欺団壊滅によりキラーズも雇い主を失い、あの女たちがラレイラを狙う理由も消えた。私怨での襲撃もないだろう――ヤツらは理不尽だが非合理ではない。

 一つの理不尽が潰えたことに理司は深い満足感と安堵を覚えていた。

「理司さん! お願いします!」

 不意にパーティションの裏側から一子がぴょん、と飛び出てきた。両手で掴んだ数枚の紙を理司へ差し出し、深く頭を下げた。

「うん……今回の出来映えは?」

「わん! 渾身の破壊力です!」

「なるほど……それは大変だ」

 報告書の仕上がりを聞いたはずなのに、なぜこんな会話に? と理司は思ったがにっこり笑顔の一子に尋ね返すのは無粋な気がし、黙って報告書へと目を滑らせてゆく。

 彼女には藤代の指示で、今回の一件を報告書にまとめてもらっていた。

「どうですか!? 凄いですか!?」

 ちなみにこの報告書で第三稿になる。第一稿はいかに一子が『ふんわり』としか今回の件を把握していなかったが浮き彫りになる内容で没。第二稿は報告書というより情熱的な感想文で彼女がいかにラレイラを案じ、キラーズに怒っていたかが判明した……が、没。

 そして第三稿――おおよその出来事が列記されている。

 また本件に関わった様々な人物の、その後について記載されている辺りに他者を気遣える一子の人柄が表れており、理司的にはポイントが高い。

「だいぶよくなったよ……でも、ここの……戸木島と言い合う俺がカッコよかった……とか、そういうどうでもいい情報を含める必要はない」

「え~……ダメですか?」

 一子は唇を尖らせて不満げだ。

「誰が読んでもわかりやすいよう簡潔に、端的に、出来事を書き連ねるイメージだ。そのためには不要な情報は極力削りたい……まぁ、私見をまったく混ぜるなとは言わないけどさ」

「じゃあじゃあカッコいいは何回まで――何カッコいいまでならいいですか?」

 何カッコいいまで許すべきだろう? いや根本的に許すべきではない? あと『カッコいい』を連呼されると恥ずかしいのだが……理司の黙考はステホのアラームによって途切れた。

「時間だ。報告書はまたあとで……そろそろいこう」

 藤代に頼まれた着替えを詰めたリュックを掴み、理司は立ち上がる。

「わんっ!」

 事務所を出た二人は神大賀総合病院へ向けて歩き出す。

 青い空、漂う綿雲。強い日差しをアスファルトが照り返し、少し暑い。いつの間にか夏本番が迫っていた。思い返せば一子と仕事をするようになって早くも半月近く過ぎた。仲介業に興味があるのか疑わしかった少女を連れ、トワイアの元へ交渉に向かったのが昨日のようだ。

「理司さん、理司さん」

 大好きな飼い主と散歩する子犬のように何度もうれしそうに理司を見上げていた一子が、やがて話しかけてくる。その語調はやや元気が控えめだった。

「報告書を作っててワン子思いました……みなさん凄く難しいことを考えながら動いてたんだな、って。ワン子がお手伝いできたことなんてほんのちょっぴりで……」

 幸か不幸か、そこまで深く考えない一子には珍しく物憂げだ。

「ワン子はお役に立てたでしょうか?」

 答えは決まっている。

 一子のウソ検知能力と氷狼の能力、これらなくしてはこうまで丸く収まらなかっただろう。

 だが即座にそう答えなかったのは、理司の中で解決できずにいる問題が原因だ。

 理司は改めて一子に移籍の話を勧めたいと考えていた。

 一子が事務所に留まってくれれば、交渉人として主に現場へ出る理司自身が助かる。だが鬼志別召喚仲介事務所は今後も理不尽な無法のブラック業者を相手取る。

 あの手合いとぶつかり続ける限り、この少女にも危険が迫る。理司たちのように理不尽を恨んでいるわけでもない彼女が無用の危険に巻き込まれる可能性は、やはり看過できない。

 一子が自分の力に疑問を持ってたこのタイミングで『仲介士の力をつけるには鬼志別召喚仲介事務所は不向きだ』と伝えれば呑み込んでくれるかもしれない。

 移籍の話を切り出すには良いタイミングなのだが……

 しばし無言のまま歩き続けた二人は、赤信号に阻まれる。

 心が決まらないまま一子を見下ろす。彼女は犬耳を立て『ぬぐぐっ』と唸り声が聞こえてきそうな面持ちで答えを待っている。真剣な琥珀色の瞳に気圧されて思わず視線を逸らす。

 しゃべらなくては気まずい空気が刻一刻と膨らんでゆく。こうなってしまいがちだから交渉の席において理司はなんでも良いので、まず発言するようにしている。

 打開策を見つけられず脂汗を流す理司。

「こんにちは黒東さん」

 その背に暖炉のような温みのある声がかかり、理司は振り返った。

 さざ波のように緩くウエーブのかかった夕日色の長い髪。腰元から生えた褐色と白色の翼。物静かそうな美貌には以前と違って希望と活力が満ちている。

「……ラレイラさん。どうもお久しぶりです」

「こんにちは、ラレイラさん!」

「ええ、その節はお世話になりました」

 セイレーンの少女――ラレイラはその場で深く頭を下げた。

「用事を済ませたあとに、うかがうところだったんですよ」

 理司は藤代に頼まれた着替えを詰めたリュックを見せる。

「あっ、お二人とも来て下さるんですね、うれしいです」

 胸の前で両手を合わせラレイラは穏やかに微笑む。その右手には青い魔方陣が。

 あの一件から一ヶ月と経っていないのにその雰囲気はずいぶんと和らいで見える。病院での仕事も順調と聞いている。手術を受けた芸能プロの社長も現在、快方に向かっているようだ。気がかりも消え、日々が充実しているのは晴れ晴れした表情からもうかがえる。

 三人はそのまま談笑しながら神大賀総合病院に到着した。

「それじゃあ私は打ち合わせがあるので、またあとで。必ず来て下さいね」

 一階の待合所でラレイラと別れた理司たちは、入院棟の三階へ向かった。

「ワン子、病院の匂いはちょっと苦手です……」

 リノリウムの通路を歩く一子、その犬耳はへんにょりしおれている。

 何人かの看護師たちとすれ違いつつ、目当ての部屋を発見した理司はドアをノックする。

「はぁ~い、どうぞ」

 中から見知った藤代の声。ドアを開くとカットしたリンゴをくわえた和装の藤代が出迎えた。リンゴを噛むたびもこもこ動く頬には大きめの湿布が貼ってある。

「これ……頼まれてた着替え」

 理司は肩に提げていたリュックを藤代へと渡す。

「悪いわね、お使い頼んじゃって」

「別にいいよ。今日は元々、ここにくる予定だったんだし」

 言いながら理司と一子は病室へと入ってゆく。個室のベッドには病衣で身を包んだ金髪碧眼、少女と見まがう美少年が両手で顔を覆って泣いている。

「うぅっ……ぐす……なんでこんなことに……全然ダンディじゃないよぉ」

「ルキノさん、峠が近い感じなんですか?」

 ベッドの縁にもたれかかった一子が心配げに問いかける。

「ワン子ちゃん……『峠が近いのか?』なんてボク以外に聞いちゃダメだよ?」

 ルキノは涙声のまま冷静に一子を諭す。

 一昨日の話だ。ラレイラの一件が事後処理も含めてすべて解決し、鬼志別事務所恒例のパーティーが催された。その際こりもせず酒に手を出したルキノは、よりにもよってとびきりきつい日本酒を飲んでしまい一発で酩酊。派手に転んで足にヒビが入ってしまったのだ。

 ちなみに戸木島たちにさんざっぱら痛めつけられた藤代だが、傷はほとんど完治している。

「ルキ兄、明日には退院できるんだしメソメソするな……ダンディじゃないよ」

「看護師さんたちがみんなそろってボクのこと『カワイイカワイイ』って言うんだ! さっきなんか頼んでないのに尿瓶を、尿瓶を…………ボクは見かけに寄らないのにぃ!」

 泣きながら怒るルキノ。ケガよりも看護師からの扱いに憤っているご様子だ。

「わかったわかった。洒脱で伊達なもの、買ってきて上げるから機嫌を直しなよ」

「むーーーっ…………ブラックコーヒーと煙草!」

 あとはシュークリームかプリンがあれば機嫌も直るだろう。

「フルーツも飽きたし私もいこうかしら。ワン子ちゃん、ここをお願いできる?」

「わん! 番犬ワン子にお任せです!」

 犬かきポーズの一子に子守を任せ、理司と藤代は一階の売店へと向かう。

「そう言えば理司ちゃん聞いた? 移籍に関しての話」

 その道中でふと、藤代が切り出した。

「………………誰の移籍?」

 思わず足を止めた理司が尋ねる。だがおおよその察しはついていた。

「ワン子ちゃんに決まってるしょや」

「…………移籍……するのかい、アイツ」

 予想通りの答え。だが我知らず理司は声のトーンが落ちる。

「この前、話したのよ。でも、そう……本人が話してないなら私が言うことじゃないのかしら」

「ほとんどしゃべってるようなものじゃないか」

「それもそうねぇ……」

 藤代は逡巡してから、苦笑いを浮かべた。

「でも……そうか……」

「浮かない顔ね。意外だわ、もう少し反応が違うと思ってた」

 一子が移籍を考えているのなら、それは願ったりの話だ。

 危険な目に遭わず済む。指導役が常に手一杯で、毎日現場訓練なんて無茶もない。言いたくはないが時給も良くなるだろう。一子にとってプラスしかない。

 なのに、どこかで気落ちしている自分に気づく。

 わかっている……一子との仕事が『悪くない』と思い始めていたのだ。

 所員が必要最低限以下、という状況が当たり前の鬼志別事務所において理司が初めて持った部下だった。彼女の行動に驚かされてばかりだった。だが仲介士としての大切な心構えを天然で秘めている、そんな少女を理司はいつからか認めていた。

 寂しくなる。それが偽らぬ理司の感想だ。

 だが本人が移籍を決めたのならば、言うべきはなにもない。新たな出発を祝ってやるのが、上司としてなにもしてやれなかった自分の最後の仕事になるだろう。

 彼女が別の事務所でも仲介士を目指し続け、やがてウソ検知能力が一人で活用できるようになれば、どんな交渉にも敵はない。いつか商売敵になった一子に手も足も出ず負ける日が来るのだろうか、と想像するとそれはそれで不快感のない微笑がこみ上げてくる。

「ほら理司ちゃん、いくわよ」

 気づけば藤代は通路の先にいた。小走りで追う理司は足取りを重く感じた。

 

 時刻は間もなく十五時。神大賀総合病院の広い中庭は歓談が響いていた。

 芝生の手入れが行き届いた中庭。その中央には長方形の踏み台を並べて作った簡素な舞台がある。設置されているのはレトロなアップライトピアノとイスだけ。

 小さな舞台を中心に放射状に並べられた百個近いパイプイスは、病衣の観客とその関係者が埋めていた。他にも遠巻きから、車いすに座っている者や、立ち見の病院勤務者が十五時の開演を待っている。その中には上村医師の姿もある。彼は車いすに乗った壮年の男性に付き添いにこやかに会話している。他にも今回のミニライブ開催に当たってピアノを担いで運んでくれた一つ目の巨漢――バー・フェアリーテイルの店主の姿もある。

 理司たち鬼志別事務所の面々は入院患者たちに席を譲るため、舞台から少し離れた場所にレジャーシートを引いて腰を下ろしていた。ルキノだけは車いすに座ったまま、美味しそうにプリンをかっ食らっている。

「ピクニックみたいでいいですね!」

「そうね。今度のパーティーは外でこんな風にやりましょうか」

「風の吹く草原、くゆる紫煙、帽子で顔を覆って昼寝する伊達男――いいね!」

 あなたたちはそんなにも余所様に痴態をお披露目したいか? と理司は思ったが、会話に入り込むタイミングが掴めず黙った。

 人々の歓談が一時的に止まる。彼らの視線を辿った先に、美しいセイレーンの少女はいた。中庭の外周を囲むレンガの道を一人、静かに歩くラレイラはそれだけで絵になる。

 彼女は上村医師としっかり握手し、傍らの男性と真剣な表情で言葉を交わす。次いでフェアリーテイルの店主と楽しげに笑い合ったあと、理司たちの元へと歩み寄ってきた。

「みなさん……その節は本当に、本当に、お世話になりました」

 深々と頭を下げるラレイラ。くつろぎきっていた四人はわたわたと居住まいを正し、各々にラレイラへと頭を下げる。

「こんな素敵なライブまで用意していただいて……どう感謝すればいいのか」

「感謝されることはなにもないですよ。俺がお仕事として依頼し、それを引き受けていただいた……それだけですから」

 今回のミニライブは、入院患者を慰謝するため神大賀総合病院と鬼志別事務所の協賛で催された。院内イベントになぜ事務所が絡んでいるのかといえば、これが理司の提案だからだ。

 この件をラレイラは快諾してくれた。だが報酬について交渉は揉めに揉めた。

 無報酬でなければ歌えない、と譲らないラレイラ。正当な報酬は受け取らなければダメだ、と説得する理司――という謎の構図で交渉は進み、最終的に理司がなんとか彼女を説き伏せた……ラレイラ自身、このライブで得る報酬はどこかへ寄付するつもりのようだが。

 ともかく『一緒にカラオケにいく』という約束を別の形ながら果たしたつもりだ。これで歌手の前で不慣れな歌を披露する必要もないだろう。

「いえ、それでも」

 おもむろに理司の前で両膝をついたラレイラ。彼女は理司の右手を取り、両手で握り締める。手の温もりに理司は照れたが、彼女の瞳を見てはっとする。

 紫の瞳には苦しくなるほどの真剣さが宿っていた。

 純粋な歌の仕事は数年ぶりになるはずだ、彼女の意気込みがうかがえる。

「心を込めて、歌います。楽しんでいって下さい」

 ラレイラは一際強く理司の手を握り締めた。理司はうなずき彼女を送り出す。

 小さな舞台へ向けて歩き出した彼女だが、不意に振り返る。

「そうだ、黒東さん」

「はい、なんですか」

 一転してラレイラは明るく微笑んでいた。

「私、決めたんです――暖炉のようであろう、って」

 その柔らかな笑顔には、見る者を勇気づける温もりが確かにあった。

 召喚仲介業は悪い仕事ではないな、と理司は改めて実感する。

 悩み事の絶えない業種だ。無灯の航海を思わせる交渉、決裂寸前の舌戦、摩耗する気力。日々、胃痛に苦しんでいる高校生など自分以外、回りにいない。

 それでもやり抜いたときの達成感は格別だ。

 理司はこれからも理不尽を憎み、歯向かう。

 だがそれはあくまで召喚仲介業の側面。

 人と召喚獣を温情と理知とで結び続けたい――そう強く想わせる、印象深い一件になった。

「なんか……あんな優しい笑い方する子なんだね。聞いてたイメージと違うなぁ」

 舞台に登壇し、拍手を浴びるラレイラを眺めながらルキノが呟いた。

「そうじゃないさ、きっと」

 丁寧に四方へ一度ずつ深く頭を下げたラレイラ。彼女の合図で中庭の四隅から青い魔法光がわき起こった。野外ライブに使用される音漏れ防止用の結界だ。

 中庭は透き通った海中のような、落ち着いた青の光に包まれる。

「あれがラレイラさんなんだよ」

 ラレイラは変わったのではない、理司はそう思う。不運な事件と悪意に巻き込まれて苦しみの中に沈んでいた心が本来の輝きを取り戻しつつあるのだろう。

 壇上でイスに座ったラレイラはゆっくりと鍵盤蓋を開いた。

 白く細く滑らかな手を鍵盤へ添え、深く一呼吸。

 決然と、彼女の指は駆け出す。

 響き始めるもの悲しいピアノの前奏。

 未来を信じる強さに彩られた歌詞を紡ぐ、声。

 結界を透過し降り注ぐ太陽の光は、スポットライトのようだった。


 夕暮れの帰路を理司と一子は歩いていた。

 入院中のルキノは当然として、藤代が一緒にいないのは、ライブ後ラレイラの歌に感動して一杯飲みたくなった、などとほざいて駅周辺の飲食街に消えていったからだ。たぶんどこかの焼き鳥屋で好物のハツでもかじっているに違いない。

「あのあの……理司さん?」

 気遣わしげに一子が見上げてくる。

「ん……なんだい?」

硬い口調が自分でもわかった。

「とても困った顔になってますけど……」

「んん……そうだろうね」

 理司は口元を手で覆い、小さく唸った。

 ライブ終了後、再び理司たちの元を訪れたラレイラは『カラオケはいついきますか?』と予定を聞いてきた。立て込んでいるので後ほど連絡する、と切り返しつつも内心頭を抱えた。

 別にラレイラがイヤなわけではないし、カラオケにいくことはやぶさかでない。だが不慣れな歌を絶技巧派の歌手の前で披露する、というのが憂鬱でならない。

 しかも去り際に『セイレーンは強引なんですよ、忘れないで下さいね?』とまで言われてしまった。カラオケは覚悟するしかなさそうだ。

 ならば参加人数を最大限に増やして自分の歌う回数をいかに減らすか考えるのが得策か? しかしそれは逆に自分の歌を聞く人数も増えるわけだが、それは大丈夫なのか? などと算段していると、不意に一子が『あっ!』と驚いた声を上げた。

 見れば一子はとある牛丼屋を指さしていた。

「あぁ、あそこは……」

「覚えてますか、理司さん」

「君と……初めて出会った場所だったね」

 召喚者に理不尽な要求を突きつけられて困っていた召喚獣たちを理司が助けたのだ。たまたま同席していた一子に気に入られ、なんだかよくわからない内に同僚になっていた。

「わん! あのときの理司さん、カッコよかったです!」

「良い機会だし聞きたいんだけど、俺のどこを『カッコいい』と思ったんだい?」

 いま一つ実感のないまま彼女から向けられる『カッコいい』という言葉。こそばゆくもあり、同時に深く疑問だ。移籍する一子とこうやって話すのも、これで最後かもしれない。尋ねておくにも良い機会だ。

 一子は少し考えてから語り始める。

「お父さんは『困っている人も召喚獣も助けられるようになれ』って言います。ワン子もそうなれたらいいな、って思うんですけど……でも誰かを助けるためにワン子ができるのは、体を使ったことばっかりで」

 牛丼屋の一件は、理司が割って入らなければ一子は拳での解決を狙っていた。いま考えると伝説の氷狼を先祖に持つ少女がどう収めるつもりだったのか……考えるだに怖ろしい。

「だから、あの日ワン子とは全然違うやり方で人を助けられる理司さんがす~~っごくカッコいいって思ったんです。あんな風になりたいなって……ぇひひ……」

 気恥ずかしそうに笑いながら一子は結ぶ。

 召喚仲介業、という分野が一子に向いているのかどうか……それを判断するにはまだ早い。けれど一子が誰かを助けられるようになりたいと思い続け、考え続けられたなら、いつか必ずそうなれるはずだ。彼女にはその素養がある。

「だから……ワン子、まだまだですけど――」

 ぴょん、と前に飛び出した一子が深く頭を下げる。水色の髪がふわりと跳ねた。

「これからもよろしくお願いします!」

「…………えっ、君は……移籍するんじゃないのか?」

「…………えっ、ワン子……移籍しちゃうんですか?」

 一子のぽかん、とした顔が曇ってゆく。琥珀色の瞳に涙が溜まり、うなだれてしまった。

「ちょっと待ってくれないか! 藤代姉と最近、移籍について話をしただろう?」

 これではまるでこちらが彼女を邪魔者扱いしているような流れだ。

「……しました。ラレイラさんの一件を踏まえて改めて、鬼志別事務所に残るか、移籍するかって。もちろんワン子、残りたいって言ったんですけど……」

 勘違いしていた……自分は一子が移籍するものと思い込んでいた。

 なぜだ? 記憶を掘り返す。

 一子の移籍の話が出たのは今日、藤代との会話――あのとき理司は一子の移籍を願っていた。そこに藤代から『一子の移籍の話』と言葉を放り込まれて自然と『一子が移籍する』と頭の中で補正してしまったのだ。

「…………やっぱりワン子はお役に立てませんでしたか?」

 涙を浮かべながらも一子は苦しく笑って理司を見上げた。

 今日、病院へ向かうときにも近しい質問をされた……一子は力不足を痛感し、悩んでいたのだ。それを『珍しく考え込んでるようだ』程度にしか感じず、この後に至るまで察してやれなかった。自分の気持ちをきちんと言葉にしなかった上司としての力不足……

(あぁ、そうか……そういうことかい、藤代姉)

 理司はきっと焼き鳥屋で上機嫌に一杯やっているであろう策士に歯がみする。

 これからの仕事には部下がつく。その気持ちをちゃんと察してやるように、とかそういった類いのやや悪趣味なメッセージなのだ。

「違う、違うぞ、違うんだ……俺は君が残ってくれてとてもうれしい」

 小さくなった一子の肩に両手を置く。

「そう……ですか?」

 琥珀色の瞳は、不安げだ。

「ああ。まず君は十分、事務所の力になってくれた。君がいなければ、ラレイラさんだってあんなにきちんと助けられなかっただろう。感謝している」

 交渉時と同じ熱誠で、キャラを入れず、理司は一子へ伝えてゆく。

「正直なところ君は仲介士としてはまだ足りない。でも大事なものをちゃんと持っている。それをきちんと伸ばして上げられるか……努力はするが自信はない。そんな上司だけど――」

 理司は一子の眼前へと手を差し出した。

「これからも一緒に働いてくれるかい?」

 雲が引いてゆくように、一子の表情が晴れやかになっていく。

「わんっ!」

 一子は理司の腕に抱きついてきた。

「わんわんわん! 理司さん大好きです!」

 数年ぶりに再会した飼い主に甘えるみたいに、一子は顔を擦りつけている。

 周囲の視線を気にしながら理司は頬をかいた。

 そのときだった。少し離れた場所から怒声が響いてくる。

「波瀾万丈でしょうか?」

「さぁ……どうだろう」

 どうやら何者かが一方的にまくし立てているような雰囲気だ。

 その会話の中に『召喚獣』の単語が聞こえてきた。

 理司は緩んでいた制服のネクタイをきゅっと締める。

「よし――いきますよ、陽賀美くん」

「わんわん! こっち側でした!」

 耳の良い一子に先導され、たどり着いた先はパチンコ屋の前だった。

 サングラスをかけた自由業風の若い男が、足元へ向かって怒鳴っている。彼の正面では和装の召喚獣――座敷童が震えながら怒声に耐えている。

「お話中、大変失礼いたします」

 黙っていられず、理司は早々に彼らの間へと割り込んでいく。

「ンだオマエッ?」

「私、こういうものでございます」

 敵意を向けてくる男に理司は両手で名刺を差し出す。

 男は横柄に名刺を取り、口元を気まずそうに歪めた。

「そちらも方も――」

 声をかけられた座敷童は怯えた眼差しで理司を見上げた。

 理司はかがんで座敷童へ目線の高さをそろえ、優しく微笑みかける。

「最早、ご安心ですよ!」

 一子は右手を前にかざしたポーズ――珍妙な犬耳少女に自然と座敷童の表情がほぐれた。

 そんな彼の前へ理司はそれを差し出す。

「名刺をどうぞ、召喚獣さん」


~終わり~

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名刺をどうぞ 召喚獣さん! (’A`) @uvaaa

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