名刺をどうぞ 召喚獣さん!

(’A`)

前編

『召喚契約仲介士  黒東こくとう 理司さとし

          有限会社 鬼志別おにしべつ召喚契約仲介事務所

   〒×××―×××× ○○○○○○○○

                    ○○○○○○○○○○○○

          TEL:△△―△△△△―△△△△

          Mobile:□□□―□□□□―□□□□』


「改めまして鬼志別召喚仲介事務所から参りました黒東 理司と申します。本日はよろしくお願いいたします」

 声色は柔らかく温容に。表情は馴れ馴れしくならない程度の微笑で。

 両手で持ったその名刺をソファーへ座ったままの老人へと差し出すのは、黒髪を中分けにした黒縁眼鏡の青年だ。着慣れた様子の黒いスーツ。幾何学模様の入った青いネクタイ。ビジネスルックが血肉になったサラリーマンの風貌だ。だが彼を『サラリーマン』と呼んでしまうには顔立ちにあどけなさが残る。されど『少年』と称するにはあまりに精悍。

 名刺を差し出された老人は無遠慮に理司を値踏みの視線で見上げた。奥まった瞳から鋭い眼差しが突きつけられても理司は精悍な微笑を崩さない。わずかな動揺も浮かべぬ彼の細面からは、精神的な太ささえ漂っていた。

 そんな理司になにを思ったか老人は不機嫌に鼻を鳴らし、差し出されていた名刺をかっさらう。

 続いて理司の隣に控えていた小柄な愛らしい少女が歩み出る。緊張の面持ち、馴染んでいない紺のリクルートスーツがどこか懸命な就活生をイメージさせる。

「アシスタントの陽賀美ようがみ・N・一子いちこです!」

 両手で持った名刺を突き出して、ぺこんと勢い良く頭を下げる。

 淡い水色の長髪がふわりと舞った。毛先がところどころ跳ねており、少女の活発さを思わせる。頭の両側でピンッと張った小さな三角形の獣耳がその印象をさらに強くしていた。琥珀色の大きな瞳はただただ真剣に――ややもすれば『ぬぐぐっ』と気合いが聞こえてきそうなほど真剣に老人を見つめている。

 老人は理司のときと同じく一子を無言で凝視したが、懸命な瞳にやや根負けした様子で名刺を受け取った――その手つきも先ほどより手心を感じる。

 緊張の中、名刺のお渡しが終わる。理司と一子は一言、断ってから老人の対面のソファーへと腰掛けた。無骨な石製のテーブルを挟み、彼らは改めて向かい合う。

 その光景は奇異で、どこか童話的だ。

 カンテラの仄明かりが淡く照らす石造りの部屋で、片やサラリーマン風の少年と獣耳の少女が並んで座っている。彼らと対面し、油断のない眼差しを向ける老人は、頭に褪せた緑の三角帽子を載せ、百センチに満たない身体へチュニックをまとっている。岩石のように節くれ立った手指は、長年の鍛冶仕事と研鑽により美しく汚れている。

 つい百年前までは童話の中にだけ存在と思われていたドワーフ族である。

「では召喚契約法に則って、契約術式を発動させていただきます」

 理司は艶めく黒革のカバンから一枚の書類を取り出す。A4サイズのそれは中央には大きな幾何学模様――魔方陣が描かれている。

 石製のテーブルへ書類を置いた理司は魔方陣へ手の平を添えた。途端、書類の魔方陣が青白い魔力光を発する。青い光は天球状に広がり洞穴のような趣の部屋をさらに童話的に飾った。

 ふと、隣に座っていた一子が机の下で理司の袖をつまんだ。袖をつまむ彼女の指からは初仕事の力みと意気込みが伝わってくるようで理司は内心微笑んだ。

 交渉の下準備はすべて整った。

 理司はドワーフの老人へ視線を戻す。奥まった瞳には依然として静かな怒りが堆積し、種族柄上背の低いドワーフの老人を少し大きく見せていた。

 交渉相手にこちらの弱気や困窮を悟らせてはつけ込まれかねない――理司は深呼吸したつもりになって、交渉の舵をどう切るべきなのか依頼内容を再確認する。

 今回、召喚契約の仲介を理司の所属する鬼志別事務所へ依頼してきたのは金丸工業という小さな町工場だ。金丸工業ではいま社会的に大きな意味を持つ『ある』工業品を試作している。

 その完成のため一体のドワーフ族から力を借りたいと相談があった。それが理司の正面でむすっとしている老人トワイア・ミドルアース氏というわけだ。

 金丸工業はドワーフ族の中でも特に卓越したトワイアの鍛冶技術を渇望しており、契約条件を提示している。内容は賃金や手当てを始めとし、週五回の召喚に応じてもらいたい件、二十二時から八時の間の召喚は一切行わないという旨、召喚時の派手な演出のオプションは不要、などなど……いくつも召喚契約を仲介してきた理司から見ても好条件だ。

 金丸工業が提示した条件に対してトワイアの主張する要求を取りまとめて、双方が納得できる最終的な着地点、妥結点を模索する手伝いをすること――いわば企業と個人のかすがいのような役割が召喚契約仲介士の理司に与えられた仕事だ。

 あとはトワイア側から条件を提示してもらい、双方がWin―Winになるよう妥結可能な範囲を探ってゆく。互いに条件へ納得がいけば成約となるし譲れない争点が浮かび上がれば、それを中心に交渉を進める――おおよその筋道は、こうだ。

「では早速ですが、先に送付いたしました契約条件等について――」

「やらん」

 しわがれたトワイアの声が厳しく理司の言葉を遮った。

「『やらん』とはこの仕事を引き受けたくない、ということでしょうか?」

 理司は動じずに問い返す。だがトワイアは『それ以外の意味に聞こえるか?』と言いたげな表情で、豊かなヒゲを蓄えた口元を引き結んだ。

「なるほど――ですが私も金丸工業の主任様よりなんとしてもトワイア様の協力を得られるようにと依頼を受けております。なにが問題なのか教えていただきたい。それを交渉によって可能な限り解決するのが我々、仲介士の役割ですから」

 理司はトワイアの奥まった目を真っ直ぐに見つめて、言葉に熱誠を込めた。

 トワイアはいかにも頑健そうな太い腕を組んでそっぽを向く。

「送付した書類はご覧いただけましたか?」

「……知らん」

 そのとき袖が引っ張られた。

 理司は視線をトワイアへ向けたまま、一子が袖を引いた意味を考え始める。

(……つまり契約条件の書類に目を通してはいるんだな? すると契約条件の中に納得できないどころかトワイア様を怒らせる要項があったってことかな……?)

 理司が次の一手を模索して深い逡巡に潜ろうとした矢先、

「トワイアさん! 本当に理司さんの送った書類、見てないんですか? ワン子もお手伝いしたんですけど、どこかおかしかったですか?」

 隣に座っていた一子が身を乗り出した。少女の語気に呼応して三角の獣耳がピコピコ動く。

 理司は思わず視線で一子を威喝する。一子は不思議そうに瞬きしたあと慌てて両手で口を押さえた。ため息を飲み下した理司は、胃に痛みを感じながらトワイアへ向き直った。

「大変、失礼いたしました!」

 立ち上がり頭を下げて深謝するも、憤怒で紅潮するトワイアの顔に無駄と悟る。

「『どこかおかしかったか』じゃと!? ふざけとるのかッ!」

 くすぶっていたトワイアの怒りが燃え立った。小さくも分厚いドワーフの身体からほとばしった特大の怒声に理司は仰け反る。だが場慣れした最年少仲介士はこれをチャンスと捉えた。不機嫌に黙るトワイアから序盤の膠着を予想したが、その心配はいま消滅した。

 怒鳴る相手との交渉はそう難しくない。怒鳴るということは当然、言葉を吐き出すということ。本音を避け続けて怒鳴り続けるなど人間も召喚獣もできないからだ。相手の本音と要求が引き出せるならば、結論が出るのも早い。それに交渉相手が激昂している場合でも、会話の舵取りと着港場所が上手くいけば最後は笑って握手できる。要は理司の技術次第だ。

 ただしそれは胃のダメージと引き替えになる荒技でもあるが……

 今日も今日とて胃薬のありがたみを噛み締めることになりそうだ。理司は内ポケットの錠剤入れに軽く触れると、深呼吸したつもりになって気合いを入れ直す。

 理司は怒声を叩きつけてくる交渉相手へ真っ直ぐ向き合った。


 陽賀美・N・一子はコンビニの入り口横でゴミ箱と並んでちんまり座っていた。

 琥珀色の瞳に憂いを浮かべ彼女は、所在なげに駐車場を眺めている。

 不意にコンビニのドアを押し開き、黒いスーツ姿の少年が出てくる。

 右手に愛用の革カバン。左手には小さな買い物袋。黒縁の伊達眼鏡は外されておりネクタイは緩んでいる。交渉時の精悍さはなく、物静かで緩慢な印象の黒東 理司がのっそり現れた。

 途端、ゴミ箱の隣に座り込んでいた一子は立ち上がる。

 175センチを越える長躯の理司。

 140センチを下回る短躯の一子。

 並んで立つと35センチ越えの身長差が際立ち、同い年ながら兄と妹のような趣がある。

「理司さん! ごめんなさいでした!」

 一子は腰を直角に折って理司へ頭を下げる。淡い水色の髪がふわっと舞う。

「ん……なにが?」

 理司はしばし考えてみたが、なにを謝られているのかわからない。

「ワン子は勝手にしゃべって理司さんのお仕事を邪魔してしまいました! ごめんなさい!」

 一子は頭を下げたままさらに謝罪を重ねる。

「あぁ…………そういう」

 理司は交渉前に一子へ不要の口を挟まないよう伝えてあった。だが彼女が性格上、ついつい口出ししてしまうであろうことも承知ずく。それを生かして交渉せねばと理司は気負っていたが終わってみれば無用の心配だった。

「成約も取れたし……いいんじゃないかな?」

 理司はトワイアのサインが入った契約書の収まるカバンを軽く叩いてみせる。

 トワイアを怒らせたのはまずかった。だが結果としてあちらが見せようとしなかった本音がすぐに出てきたため交渉は返ってスムーズに進んだ。おかげで彼は――いや『彼女』はある手違いと勘違いで怒っていただけだと判明した。

 交渉は成功。最後は信頼の握手を交わし、なぜかお土産にミスリル鉱石までもらってしまったが……理司には加工する術がない。当面は腰が抜けるほど高いインテリアになるだろう。

「ほら」

 理司は袋から取り出したそれを一子の淡い水色の髪の上に乗せた。

「わん?」

 一子の獣耳がぴくりと揺れる。それを手に取った一子の表情が見る間に明るくなってゆく。

「あっ! アイスの高いヤツ! 食べてもいいんですか!?」

「ここで『ステイ』させるほど俺は理不尽じゃないよ」

 言い回しの意味がよくわからなかったのか、一子は笑顔のまま首を傾げる。理司が笑いかけながらスプーンを差し出すと合点がいったようだ。スプーンを受け取り、開けたカップのフタの裏を美味そうに舐め始める……女子高生がそれはいかがなものかと思ったがご褒美をもらって喜んでいるところをしかるのも野暮か……と理司は微苦笑に留めた。

 それに彼女は少しくらいの行儀の悪さを黙認される働きをした。

 『ウソを見抜く』という仕事をきっちり勤めてくれたのだから。

 彼女のウソ検知能力については事前にもテストをしており信頼できるものと理司も承知していた。だが実地でその能力を目の当たりにし空恐ろしいものを感じた。

 満点には遠く届かないが、初めてのアシスタントとしては及第点だろう。

「理司さんもどうぞ!」

 フタを舐めろとっ? 

 驚いて見下ろすと、一子は背伸びしながらアイスをすくったスプーンを差し出してくる。

「……えっ」

 一口もらうのは構わないが、そのあと君はそのスプーンでアイスを食べるんだろう? それは間接キスというヤツになるわけで、こちらはやぶさかではないが、君は気にしないのか? というか、そういうことに敏感な年頃じゃないのか花の女子高生よ……などなど、一瞬で様々な思考が理司の脳裏を駆け抜けていくが――

「食べてくれないんですか?」

 琥珀色の瞳が悲しげに曇るのを見て、

「じゃあ……一口だけ……」

 差し出されたスプーンへ口を運ぶ。真っ先に来る冷たさがしゃべり疲れた口に心地よい。わずかに遅れてじんわり広がるバニラの香りと芳醇なミルクの甘さ。

 久々に食べたアイスの美味さに少し驚いていると、なぜか一子が満足げに笑ってから自分も一口……にこっ、と笑ったかと思えば、

「――ふあ!」

 スプーンと理司とを交互に見た。頬がうっすら赤くなり三角の獣耳がへにょっ、と倒れる。

「ぇひひひ……」

 一子は恥ずかしげに笑うとうつむいたままアイスを食べ始めた。

 ……この陽賀美・N・一子という少女、心根が優しく元気一杯なのは好ましいのだが一歩先が見えていない。自分の言動がどんな結果に結びつくかあまり考えていないのかもしれない。

 理司が微笑しながら肩をすくめていると、胸ポケットからメールの受信音が短く鳴った。

 理司が取り出したのはICレコーダーにも似た黒い機械だ。

 縦十センチ、横三・五センチ、厚さ一・五センチ。魔法科学の結晶が詰まった携帯電話スティックフォン――略称ステホ。電話やメール、ネットを始めとし簡単な魔法も使用できる。

 三センチ四方の小さな液晶には『所長』の文字。

 メールを打つのが嫌いな彼女は、いつも通り音声メッセージを送ってきていた。少し前にトワイアの件で成約が取れた旨をメールしてあった、その返信だろう。

 理司はステホの上端にある受話口をこめかみ辺りに押し当てた。ステホは人間と耳の位置が違う召喚獣たちの使用も見越して作られており、ほとんどの機種が骨伝導を採用している。顎だろうが後頭部だろうが、頭蓋に当てさえすれば音が伝わる仕組みだ。

『お疲れさま、黒東くん』

 若い女の落ち着いた声が聞こえてくる。

『成約が取れたそうね、評価するわ。さすがは最年少の召喚契約仲介士かしら。と、いうわけでいつものを予定しています。クローチェくんを派遣したので合流後、彼の指示に従って』

 いつもの……そうか……うれしいような逃げたいような気持ちになる。

『それから陽賀美さんの様子はどうかしら? 交渉の成否と同じくらいそういうことも気にかかるわ。次の仕事では報告を忘れずにね。以上』

 やんわりと指導を受けてしまい詰めの甘さに気づく。交渉の首尾は連絡したが、一子の仕事ぶりについては含めなかった。初仕事の一子を、人事も兼任する所長が気にしていないわけはない。これまでほとんど一人で交渉に赴いてきた弊害かもしれない。

「理司さん、ごちそーさまです!」

 一子にとってお高いアイスは量が不十分だったらしい。空になったカップをゴミ箱に捨てて、なぜかゴミ箱に対しても『ごちそーさまでした』と一礼している。

「いこうか……所長が俺たちの帰りをお待ちかねだ」

 同僚ルキノ・クローチェとの合流場所に指示はなかったが、適当に歩いていれば向こうがこちらを発見してくれるはずだ。

「わんわん!」

 胸の前で両手を軽く丸めて一子は犬かきのポーズ。理司にはどお~~しても招き猫のポーズにしか見えないのだが、指摘すると一子はちょっと不機嫌になる。

 召喚獣を遠縁に持つ一子の身体には犬に似た特徴が宿っている。そして彼女はそれを誇っている。だから犬っぽい言動を隠さないし、猫は好きだと言っていたが一緒にされるのはちょっとお怒り案件のようだ。

 理司と一子は並んで事務所へと歩き始める。

 一子は理司になにか話したいのか、別の理由があるのか、しばしば彼を見上げてはうれしそうにしている。大好きな飼い主と散歩中の犬のようだ。

 理司は視線を空へ向けた。彼女を眺めているとこちらも釣られてにやけてしまいそうで、それがなんとなく悔しい気がしたからだ。

 まだ暑くはないが、澄んだ強い日差しがやがて来る夏を予感させる。

 青い空、漂う綿雲。そして力強く翼で宙を打ち据えて飛び去ってゆくのは――たぶんグリフォンの特急便だろう。一刻を争う書類を届けるために何度か利用したことがある。とにかく早いが……利用料が高額だ。所長に領収書を渡す際、理司は愛用の胃薬も添えている。

 空想上の存在とされていた妖怪、妖精、精霊、幻獣など……それらが人間たちの前に姿を現したのがおおよそ百年ほど昔。様々な衝突と軋轢を生みながら現代に至り、いまでは『召喚獣』と総称されて人間界に不可欠の存在となっている。

 コンビニでレジ打ちなど人間と変わらない仕事に従事している召喚獣もいれば、いましがた飛び去っていったグリフォンのように自らの能力を活用して働いているものもいる。

 そんな自らの特殊能力を提供する代わりに対価を得たい召喚獣側と、力を借りたい人間たち召喚者側――価値観の違う双方の橋渡しをするのが理司たち召喚仲介士の仕事だった。

「あっ――」

 隣をちょこちょこ歩いていた一子が驚いた声を上げて立ち止まった。

 数メートル先。歩道の消火栓にもたれかかりスーツ姿の人物が立っていた。

 グレーのスリーピーススーツとそろいのボルサリーノ帽子を目深に被り、金属製のボトル――スキットルに口をつけている。スーツ姿の彼はスキットルを煽って喉を鳴らす。口端から垂れた茶褐色の飲料を手の甲で荒く拭うと、指先で帽子のつばを弾き上げた。

「ずいぶんと待たせるじゃねえか、小僧たち」

 と、精一杯の低音で宣うも、その声は少年特有の高音。

「ルキノさんお疲れさまです!」

 駆け寄った一子がぺこん、と頭を下げる。小柄な一子と並んでも彼は一段、背丈が低い。

 いかにもバーの片隅が似合いそうな恰好だが、一子よりも低いその身長では門前払いを喰らうだろう。と、いうか何度も喰らっているらしい。

「ルキ兄……あんた……わざわざそのセリフ言うため、ここで待ってただろう?」

 理司は辟易しながら尋ねる。

「そうさ! どうだった? ダンディな感じが出てただろう!」

 背中を預けていた消火栓から離れて、ルキノは理司の足元に駆け寄ってくる。

 『ダンディ』であったか否か、判定を求めて理司を見上げるのは濁りのない青い瞳。その容貌は、少女と見まがう美少年だ。ボルサリーノ帽のつばの下では、蜂蜜色の前髪がさらさらと揺れている。まるで絵に描いたような金髪碧眼の美少年だ。

「まぁ……雰囲気は良かったんじゃないかな、雰囲気は」

「そっかそっかぁ! ボクの『男』にも磨きがかかってきたかなぁ!」

 ルキノはうれしそうに飛び跳ねると、スキットルの中身を一口飲む。

「今日の中身はなんだ? 麦茶? コーヒー牛乳? ミルクティー?」

 理司が一層、辟易して尋ねるとルキノは『ふっ』と小さく口端を釣り上げる。

「バカだなぁ、ボクがいつまでもそんな幼稚なものを飲んでると思ったのかい?」

 スキットルをつまんで顔の高さまで持ち上げる。

「京都から取り寄せた冷やし飴さ! ダンディだろう!?」

「冷やし、飴!?」

 一子の瞳が好奇心にきらめく。主に『冷やし』の部分が琴線に触れたらしい。

「おっ、やるかい、お嬢ちゃん。グッ、といけよ」

 ルキノはダンディさを狙ってか、ぶっきらぼうにスキットルを一子へ放る。

 キャッチした一子は栓を開け、飲み口も拭かずに喉を鳴らす。

「冷たくて甘くてショウガ味もします! ショウガがダンディぽいです!」

「わかってるじゃねえかお嬢ちゃん」

 一子の肩に手を置くルキノ。釣られて一子もルキノの肩に手を置いた。ちびっ子ンビは肩を組み、酔いが回ったかのように笑い合う。

 同じスプーンを使ったときは遅れて恥ずかしそうにしていた一子だが、今回はその様子がない。もしかしたら半日後くらいに思い出して『はぁぅ!?』とかやるのだろうか。

「もういこう……警官に見つかったらまた補導される。『子供がなにを飲んでるんだ!』って」

 なんかもう他人のふりをしたくなってきた理司は二人を促す。

「だからボクは見た目に寄らないって言ってるだろっ!」

 だがそれに対して、ルキノが突っかかってくる。

「ボクは今年で32歳!」

 ルキノ・クローチェ。理司の同僚、鬼志別召喚仲介事務所の所員。

 どう見ても金髪碧眼の美少年が大人ぶっているだけだが――申告通りの32歳。

 事務所の最年長にして、最小の人物である。

「お酒も飲めるし、レンタルビデオ屋のなんか幕がかかってるコーナーにも入れるんだぞ!」

 ルキノが喚いて両手を振り回す。『幕がかかってるコーナー』と表現がふんわりしているのは、入ろうとしても止められるため内部を知らないからだ。

「あぁ……それは凄いことで……」

 いい加減、道行く人の目も気になり始めた理司は勝手に歩き始めた。


 ルキノと一子を先頭に、一歩うしろを理司がゆく。小、小、大――背丈の不釣り合いな三人組はまばらに人と召喚獣の行き交う道を歩く。

「それでワン子ちゃん。初めてのお仕事、どうだった?」

 グレーのボルサリーノ帽を頭に乗せたルキノが一子に問う。

「わん! 理司さんがす~~っごくカッコよかったです!」

 そこは『君が、どう行動し、なにを思ったか?』を聞かれているわけで、俺がどうだったかは関係ないのだが……と理司は思ったが会話に乗っかるタイミングが掴めず黙る。

「うん、わかるわかる! 普段はなんか『ぬぼ~』としてるのに交渉のときの理司はダンディでカッコいいよね! 偽装者イミテーターと異名を取る最年少召喚契約仲介士、黒東 理司! いいなぁ~、ボクも異名とかつけられたいなぁ!」

 純真さ100%の青い眼差しでルキノが理司を見上げてくる。

 確かに理司は最年少で召喚契約仲介士の試験を突破した期待の新人として業界に少しは知られている。だが当人に言わせれば召喚仲介業などという、いかにも胃の痛くなりそうな仕事を高校生の内から目指す物好きが少ないだけだ。

「やめてくれよ……異名とか、小っ恥ずかしいだけだって」

 それにルキノに異名の一つもついていないのは、単に彼の仕事が完璧だからだ。もう少し痕跡を残すような愛嬌もあれば、望むだけの異名が手に入るのではないだろうか。

「いみてーたー……ってなんですか?」

「知らねえのかいお嬢ちゃん」

 精一杯の低音(高音)で呟き、ルキノは帽子のつばを人差し指で押し上げた。

「理司はね、交渉相手によって自分の『キャラ』を入れ替えるのさ! たとえばゲームのディスクを入れ替えるみたいにね! 『理司』っていうゲーム機と『キャラ』っていうディスク。同じ機械でもディスクを入れ替えたら全然、別のゲームが遊べるでしょ?」

 例えがしっくりきたのか一子は少し考えてから『わん!』と明るい返事をした。

「交渉相手に最適と思われる『キャラ』になりきって交渉に挑む! キャラになりきるための勉強も変装もお手の物だもんね! こんなおっきいのにさ、前に女の人に変装してバレずに成約を取ったんだ。凄いと思ったなぁ……全然、ダンディじゃないけどね!」

 あまり思い出したくない交渉の話を持ち出されて、理司は頬の紅潮を感じた。だが交渉が上手くいくならスカートだって履くし、ヒゲだってつける所存だ。

「だから偽装の達人、偽装者イミテーターの黒東さ!」

 『おぉお~……』と感嘆の声を漏らした一子は、理司を見上げた。

「だからわたしと初めて会ったときは、こわ~い風味の人だったんですね!」

「まぁ……そういうことだよ」

 理司と一子が初めて出会ったのは十日ほど前。

 とある牛丼屋で召喚者に理不尽な扱いを受けて泣いていた召喚獣たちがおり、それを理司が助けた。真っ当な筋の召喚者ではなかったので、対抗するためにほの暗いバックボーンを持つ同業者に自身を偽装したのだ。

 一子はたまたま同席しており、30円引きセール中のドラゴンステーキ丼を頬張りつつ召喚者をやっつけてやろうと考えていたようだ。だが会話で場を収めた理司に強い感銘を受け、数日後に鬼志別事務所に押しかけてきた次第だ。

「そんなことより……あんまり遅れると所長がツノを出して怒るよ」

 これ以上、過去の仕事話をほじくられるが恥ずかしくて理司は話題を変える。

「そうだった」

 ルキノはグレーのステホを取り出し、中央にあるキーを操作。すると三センチ四方の液晶に青い光の魔方陣が映し出される。さらに操作を進めると液晶と平行に青い光で描かれた半透明のウインドウが出現した。

 彼は光ウインドウをつまみ取ると、ホワイトボードにでも貼るように空中へ浮かべた。最後に両手を使ってB5サイズにピンチアウトして操作を終える。

 それは駅周辺の地図だった。

「まずお肉はスーパーむつで調達。すき焼き用の牛肉がグラム88円の大特価さ。野菜は今日は駅ビルの地下が良さそう。飲み物はいつもの小坪酒店で――乾物も少し買っていこうか」

 ルキノが目的地へ指でタッチするとその箇所に赤いマーカーがつく。

「晩ご飯のお買い物ですか?」

 一子が不思議そうに街の地図をのぞき込んだ。

「そっか、ワン子ちゃんは初めてだもんね。所長は成約が取れるとご褒美にパーティー開いてくれるんだ。でも倹約家だから料理は全部、彼女のお手製。ワン子ちゃんはなにが食べたい? 所長は器用だよぉ、寿司も握るしピザだって伸ばすんだ。大体の要望に応えてくれるよ」

 鬼志別事務所恒例の祝勝パーティーだ。喧騒は嫌いだが、賑やかな席を片隅で眺めるのはそう嫌いではない理司はこのパーティー自体苦手ではないのだが……

「じゃあ――アイス!」

 一子が予想通りの回答を飛ばす。

「ちょっと……アイスが作れるのか所長に聞いてみる」

 理司がメールを打とうとした矢先、ルキノがステホを顔の高さに上げた。

 再生された音声メールから『可能、以上』と所長の返事が響く。

「ほぉら、器用でしょ!」

 一子は『おぉお~!』と感動して拍手している。ステホをジャケットにしまいながらルキノはにっこり笑顔。

 こういう円滑な仕事を決めたタイミングでこそダンディさをアピールすれば多少はルキノのダンディズムポイントも上昇するのではないだろうか、と理司は思うが楽しげな二人の間に上手く会話を差し込めず、結局黙ったのだった。


 理司たちの生活する神大賀町はベッドタウンだ。

 神大賀駅前を中心に商業施設が密集し、その周辺に大きくないが飲食街がある。そして飲食街の向こうに住宅地という形だ。飲食街の外れには、近代化を拒否したような古い居酒屋やバーが多く立ち並ぶ歓楽通りがある。その通りに足を踏み入れ最初に右手へ見えてくる古びた四階建ての雑居ビル。

 その三階の窓の下には白地の看板に毛筆体で『鬼志別召喚仲介事務所』と掲げられていた。

 大きな買い物袋を手に提げた理司たち三人は、ぞろぞろと雑居ビルへ足を踏み入れてゆく。年月を感じさせる古い階段ホールに反響する足音と、ビニール袋の擦れる音、それから、

藤代ふじよさんのご飯、楽しみです!」

 買い物袋を持ったまま両腕を上げた一子の元気な声。

「ワン子……外では『所長』と呼ぶように言われてただろう?」

「はぁぅ! ぼーきゃくの彼方でした!」

 理司がたしなめると一子は両手で口元を押さえた。

 階段を昇った理司たちは三階を素通りして、四階への階段に足をかけた。四階は鬼志別事務所の休憩室となっており、食事も作れるし寝泊まりもできる。この雑居ビル自体、所長が先代から受け継いだ持ちビルなので多少の融通が利くのだ。

 不意に、事務所のドアが開く。

 室内から姿を現したのは、和装の若い女性。

 長い髪は漆黒。和服は淡い紫――藤色。白い帯と袖、裾には象牙色の藤が描かれている。

 目鼻立ちはほっそりしており、涼やかな風情の中に赤い瞳が印象深い美人だ。

「ああ、所長……お疲れさまです」

 理司は会釈した。二十四歳の若さで事務所を仕切る、鬼志別 藤代だ。

「みんな、お疲れさま。悪いけれどすぐに応接間へ来て」

 藤代はほっそりした美貌に笑みを浮かべたあと、三人へそう告げた。

「――承知しました」

 言葉の硬い響きから『どうやら仕事の話らしい』と察した理司は緩めていたネクタイをきゅっ、と締め直す。一瞬にして交渉用のキャラが入る。

「仲介依頼ですか?」

 室内には聞こえないよう理司はやや声を潜める。

「ええ。依頼主の名前は上村茂夫様。54歳。職業は医師。ある手術を行うために、召喚獣の力を借りたいとのことよ」

「なるほど。人柄などは、どうですか?」

 鬼志別事務所では仲介依頼者の人柄や経歴、バックボーンを重要視する。

 召喚獣に悪事の片棒を担がせる気で仲介依頼してくる輩を弾くためだ。

 また召喚仲介業は召喚者と召喚獣を結びつける仕事であり、両者が良い関係を築けるかどうかに大きく関わってくる。だから自信を持って紹介できる仕事だけを仲介し、一方が理不尽な目に合う内容であれば金をいくら積まれても仲介しない。

 そんなポリシーもあって、鬼志別事務所は人物を視る。

「好人物に見えるわ。依頼を受けてもいいと思ってる、私は」

 『私は』――つまり理司ら三人にも見定めて欲しい、ということだろう。そもそも依頼内容を聞くだけならば藤代だけで十分に事足りるのだから。

「あのあの……ワン子は、なにをすればいいですか?」

 一子は控えめに手を挙げる。やや不安げに口元を引き結んでいる彼女へ理司は微笑みかける。

「陽賀美さんは自然にしていれば、それだけで大丈夫です」

「は、はい! 自然にします!」

「それから、お客様は一人、こちらは四人。人によっては圧迫感を感じてしまうから、みんな少し控えめな行動を心がけて」

「よぉし、それじゃやっこさんの顔を拝みにいくとしようじゃねえか」

 低く作った高音でルキノが締め、三人は藤代に続いて鬼志別事務所内へと入る。

 所内は正直なところ手狭だ。床はねずみ色のタイルカーペット。入ってすぐ左手に所長室。右手には生活感の滲む給湯室、三人はそこへ買い物袋を置くと室内中央のホワイトボード前を通り過ぎて、奥角のパーティションで区切っただけの応接間へと向かう。

「大変お待たせいたしました、上村様」

 藤代が黒い革張りのソファーに座っている人物へと一礼。続いて理司たちも頭を下げる。

 ソファーには小太りの老年男性が深く腰掛けており、禿頭をハンカチで拭いていた。彼は理司たちを見るや、驚きに目を瞬かせた。

「おお、おお! 君が黒東くんか! 話には聞いとったがこんなに若いとは!」

 ふっくらした顔に人の良さそうな笑みを浮かべて歩み寄ってくる。

「ワシは上村 茂夫。駅からちょっといったとこの総合病院で外科医をやっとる」

 神大賀総合病院――なかなか評判の良い病院だ。特に外科手術では国内に名が知られているらしく、医者にさじを投げられた難病患者たちを救っていると聞いた。

「よろしく頼むよっ!」

 握手を求めて差し出される右手。

「………………」

 反応に困って帽子の位置を直すルキノ。

「――上村様、黒東はこちらです」

 訂正する藤代。上村はルキノと理司とを交互に見比べた。

「おお、すまんすまん! こっちの子はコロポックルの召喚獣だったか」

「…………ボクは見かけに寄らないのにぃ……」

 お客様の手前、ぐっと怒りをかみ殺したルキノは立派だった。

 だが上村の間違いも、わからなくはない。

 召喚獣でありながら仲介士を営んでいる者もいる。彼らは種族柄、高齢であっても外見が若いことは珍しくないからだ。理司が大人びていることもあって誤認してしまったのだろう。

「え~……改めまして、召喚契約仲介士の黒東 理司、十六歳です」

 一歩、前に出た理司が上村へと名刺を手渡す。

「ほぉ~、十六歳! ずいぶんと大人びとるねぇ! ワシが十六の頃などガキだったよ。近所の悪童たちと毎晩のように――」

 上村の昔話を聞くこと少々……藤代がやんわりと軌道を修正し、話はようやく本題へ向いた。

「そうだった、うむ、本題だな。実はいま難しい患者を抱えておってな。召喚獣さんを頼りたくてここに来た。なんとか力を貸してもらえんか!」

 上村は理司の手を両手で握り、真剣な眼差しを向けてくる。

 老年男性のシワが寄った目は、清廉な魂からこみ上げたような若々しい光を湛えている。

「上村様、黒東にも依頼内容を説明しますので、まずはお席に」

「おお、おお! すまんすまん!」

 上村は破顔し、禿頭に手を当てながらソファーへ戻っていった。

 理司はすでにこの依頼を受ける決意を九割方、固めていた。


 一通り依頼内容の説明を受け、理司がうなずいた。

「なるほど、麻酔の代わりが可能な召喚獣……ですか」

「そう。その患者さんは現在は小康状態にあるが、できれば早く手術を行いたい。しかし麻酔との相性がとにかく悪い。深刻なアレルギー症状を起こすと検査でわかっとって手術できん。そこで召喚獣さんの力を借りたい、となったわけだ」

 麻酔の代わり――と聞いて理司は該当しそうな能力を脳内に探す。

 隣では藤代が召喚獣リストのファイルをめくっている。

 召喚獣リストとは、召喚獣たちが人間界へ入る際に提出を義務づけられている書類だ。召喚獣のプロフィールを始め、能力や経歴なども書き込まれている。

「所長――私の記憶では確かセイレーン族が一体、この街に住んでいたかと」

 藤代が目星を上げる前に、理司の記憶に一体の召喚獣が引っかかった。

 藤代は小さく首肯し、再びリストをめくり始めた。

「不勉強ですまなんだ。セイレーン族というのはどういう召喚獣だね?」

「姿はいくつかありますが主に人の身体に鳥の翼と趾を持つ女系種族。能力は歌」

「……歌?」

 上村は怪訝そうにしながらも身を乗り出して説明に聞き入っている。

「彼女らは歌を触媒にした魔法を――歌魔法と呼ばれるものを使います。歌魔法には強力な催眠効果があり、それを聞くと人は昏睡に近い睡眠状態になります」

「昏睡に近い――ほうほう。患者さんを深く眠らせてその間に手術しようということだな。手術後に目覚めたとき、後遺症などは残らないのかね?」

「残りません。セイレーンの歌は相手を眠らせるだけ。ただ眠りがとても深いのです。実際に歌魔法で患者を眠らせて手術を成功させた事例も何件かあります」

 潤沢な知識から理司は即答する。

「ただ睡眠状態の深さはセイレーンの能力に比例します。能力が低ければ歌声で眠らせても執刀できるだけの効果は得られないかもしれません」

「メスを入れたら患者さんが起きて『ギャーッ!』となったら、目も当てられんものなあ」

 上村は太った身体をソファーに深く戻して小さく唸った。

 そのとき藤代が、リストから一枚を取り出して顔の高さへ上げた。

「この街のセイレーン族、召喚契約を引き受けてもらえるかもしれません」

「おお! では!」

 上村はおもむろに立ち上がる。

 藤代は所員一人一人へと意味ありげな視線を向ける。理司とルキノはしっかりうなずく。一子だけはきょとんとしていたが無反応なことから上村の言葉にウソはなかったはずだ。

 それらを受けて藤代は上村へと向き直った。

「――この仲介依頼、当事務所が責任を持ってお引き受けいたします」

 事務所の意志決定者である鬼志別所長の凛然たる宣言が透徹に響いた。


 鬼志別事務所の上階にある休憩室。

 あふれ出る生活感は雑居ビルのワンフロアというよりも、誰かの私室のような有様だ。部屋の隅には古新聞が積まれ、金属のラックには不調のPCやプリンター、ガラクタ、靴が突っ込んである。壁には主に藤代の衣服が釣られており到底、来客には見せられない。

 部屋の中央には膝丈の大きなガラステーブルがあり、平らげられた料理の数々と皿と空になったコップが散乱している。

 パーティションで簡単に区切られた仮眠室のベッドでは満腹で寝ているワン子と、理司の制止を振り切って『ボクくらいダンディになればこれくらい! レッツダンディ!』とワインを舐めひっくり返ったルキノが並んでいる。

 理司は二人に一枚ずつタオルケットをかぶせてやる。幻想的な水色の髪の愛らしい少女と、鮮やかな金髪の美少年が眠る姿はタオルケットのCMのワンシーンのようでさえあった。

 理司は小さく笑ってから簡素な仮眠室を出る。

「ぷぁあ~~……どぉしてお酒ってこう美味しいのかしらねぇ~」

 そしてこちらには日本酒のCMに使えそうな飲みっぷりの女が一人。ただし公共の電波へ流すには、あまりに恰好が見苦しい。

「理司ちゃ~ん、ほら~……上司のおちょこが空いてるぞぉ~」

 ところどころガムテープで補強されたソファーにふんぞり返る藤代。

 漆黒の髪は雑多に結い上げられている。よれよれの黄色いランニングに、着古したホットパンツ。下はどうだか知らないが、長い付き合いからブラはつけていないと知っている。胸の谷間も生足も放り出した藤代が空のおちょこを理司に向ける。

 理司も思春期の少年だ。『年上のお姉さんの油断した姿』などと言われれば、揺れる心がないわけではない。だが藤代のこの有様は見慣れており、まったくときめかない。年の近い姉がいたりするとこんな距離感になるのだろうか、と思う。

「プライベートで上司の強権を振りかざそうとする理不尽なヤツは嫌いだよ」

 テーブルを挟んで藤代の正面のソファーへ腰を下ろすと数切れ残っていたピザを取り、食べる。理司のリクエストで藤代が作ってくれた生地の薄いミラノ風のマルゲリータだ。もう冷めているが、さっくりしており、手製のトマトソースの甘みと酸味のバランスも抜群だ。

「や~だぁ~、理司ちゃん、私のこと嫌っちゃいやぁ~」

 上機嫌の藤代は冗談めかしたあと、おちょこを持ったまま『どて~ん』と呟いてソファーに転がる。理司はピザを飲み込み深々と嘆息する。迅速的確に仕事をこなす才色兼備の女所長が、酒を飲むと、これだ。この落差にだけは未だに慣れない。見ていてたまに悲しくなる。

「はいはい……どうぞ藤代お姉さま……」

 理司はなだめるつもりでとっくりを持つと、藤代はうつぶせになっておちょこを差し出してくる。なみなみ注いでやると藤代は『おっとっとっと』と陽気に呟いて、一息に飲み干す。

「藤代姉、少しは酒を控えたらどうだい?」

「誰かに迷惑かけてるわけでもないし、別にいいしょや」

 うつぶせの藤代は素足をぱたぱたさせ、鼻歌交じりで紙束へ目を通し始めた。

 高校生だてらに仕事柄すっかり新聞を読むクセのついた理司は、広げたままソファーに投げ出してあった新聞をついつい手に取る。

 真っ先に『現金輸送車襲撃事件』の物騒な文言が目につく。二年前に起きた事件に軽く触れる記事だ。立て続けに輸送車が襲われて現金を奪い去られた事件で、当時少し話題になっていた記憶がある。だがほどなく犯人が捕まり事件と話題は収束したのだ。

 真新しい情報もなく理司は一面へと戻る。

 そこには拡大する新振り込め詐欺の被害について書かれていた。

 新振り込め詐欺とは『催眠魔法』と呼ばれる音声で相手を操って現金を特定の口座に振り込ませる詐欺だ。

 貯金をすべて音声に指示された口座へ振り込んでしまうため一度の被害額が大きい。加えて厄介なのが詐欺に遭った人間が催眠を受けているため、自分がおかしな行動を取ったと理解できないのだ。後々になって家族が気づきようやく表沙汰になることもしばしばだ。

 魔法に対する耐性――『魔法抵抗力』と呼ばれるものが多少あれば操られないのだが、根本的な対策はまだない。地方自治体などでは知らない番号からの電話を取らないよう呼びかけているが、そうもいかない人々だった大勢いるのが現状だ。

 この事務所にも、電話応対を主に行っていながら魔法抵抗力の低い人物が……

「なぁに理司ちゃん、じっと見つめて? お酒で上気したお姉さまがそんなに魅力的ぃ?」

 こちらの視線に気づいた藤代は紙束から目を離さずに冗談めかす。理司はきっぱりと失笑してやってから新振り込め詐欺の記事を藤代へ突きつけた。

「あんたのことだから……抜かりはないと思うけど注意してくれよ?」

 幸いにして一子、ルキノ、そして理司も魔法抵抗力は高い。だが召喚獣の血を引きながらも藤代は特性が身体能力に寄っている反動なのか、魔法抵抗力が常人以下なのだ。

「ほーいほい。ほりゃ、よく見ておいて」

 突きつけた新聞紙に、一枚の紙が重ねられた――召喚獣リストだった。データ化したものを使えばかさばらないものを、精密機器が苦手な藤代は基本的に紙媒体を尊ぶ傾向が強い。

「この街に住んでるセイレーンさんの情報。お名前はラレイラ」

「藤代姉……いつの間に?」

 上村医師が帰ったあと、藤代はすぐにパーティーの用意を始めた。つまり料理の合間にも一仕事やっつけたということだ。藤代の仕事の早さに感心しつつ、理司は改めて書類を見る。

「ラレイラさん――ねぇ、名字はオデュッセイア、か。年齢は……十六歳と」

 召喚獣は名字を持たない場合が多く、代わりに出身世界の名を当てはめる場合が多い。このラレイラという女性は『オデュッセイア界』の出身となる。昼間、交渉していたトワイアも名字は出身世界の『ミドルアース』が当てられていた。

「で、このセイレーンさんは……どの、パターン?」

 理司は恐る恐る聞く。

 セイレーン族の姿は大別して三種類あり、知名度が高いのは人の身体に鳥の翼と趾を有するパターンだ。それから小さな翼と尾びれを持つマーメイド族の近縁種に当たるパターン。

 そして全身ほぼ鳥のパターン。全長150センチ前後ある巨大な猛禽類の身体ながら女性の頭部をしている。会話する分には問題ないのだが首をぐるり、と捻ったりする鳥の仕草に交渉中にギョッとすることがあり、表情を隠すために少々の労力を要する。

「あったあった、ほいさ」

 仰向けに寝っ転がったままの藤代がさらに一枚の紙を手渡してくる。

 入界審査の際に取られる全身写真だった。

「おぉっ……」

 姿は人の身体に翼と趾を有するパターン。驚いたのは彼女の容貌だ。

 ――綺麗な少女だ。どこか神秘的な美しさがある。

 夕日のような色の髪は長く、さざ波のように緩くウエーブがかかっている。

 どこか憂いを秘めているようなうつむき加減。だが深い紫色の瞳には強い意力を感じる。やや控えめな性格にも思えるが、しっかり芯の通った人物かもしれない。

 背面の写真はやや刺激が強く、ドキッとする。

 彼女の白いワンピースの背部は大きく開いており、背筋から腰元まで染み一つない美麗な肌が露出している。セイレーン族だけではなく背部に翼を有する種族は普通の貫頭衣が身につけられないため、このような背開きの衣服を身につけがちだ。

 藤代に勘づかれないよう気を取り直し、彼女の特徴を観察する。

 翼は腰元から生えていた。翼上面の羽毛は黒褐色。下面は白色――ミサゴによく似た翼だ。膝から下は、セイレーンの総体に漏れず鳥の趾になっている。白い鱗が膝丈のブーツを履いているようにも見えた。

「なぁにぃ理司ちゃん、いまの反応は。恋しちゃった?」

 寝返りを打った藤代が長い八重歯を見せて意地悪く笑う。結局気取られていた。

「そうじゃないよ、別に。セイレーン族には美人が多い、いちいち恋してたら仕事にならない」

 某ゴシップ雑誌の昨年の『結婚したい召喚獣さん 女性編』でもセイレーン族は四位にランクインしている。ちなみに一位は五年連続、八回目のエルフ族だ。

「ラレイラさんには電話しておいたから明日は学校が終わり次第、ワン子ちゃんと交渉にいってもらうわ。土曜だからって寄り道しないで出勤してちょうだいね?」

「……もう連絡まで入れたの?」

「そうよ……?」

 藤代は不思議そうにする。だからいつそんな時間があったのか……理司は内心舌を巻く。

「それで――今日の交渉はどうだったの?」

 理司は思わず肩をすくめて小さく笑った。

「トワイア様は……女性だった」

「えっ……ウソでしょ? したってリストには男性って書いてあったしょや」

 ドワーフ族との交渉において性別は必ず前もって確認しなくてはならない。

 なぜならミドルアース出身のドワーフ族は女性であってもヒゲが生えるからだ。よって特に老年ドワーフは顔立ちから性別の判断が難しい傾向にある。加えて上背が低く総体として筋肉質なため体型からの推察も容易ではない。

「……ちょっと前にリスト更新したみたいなんだけど酔っ払ったまま記入したみたいで間違って『男』のところに丸をつけたみたいなんだ。怒ってたのもそれが原因でさ……」

 トワイアとの契約を希望した金丸工業は基本、男しか働いていないためトイレも更衣室も男女共用。送付した契約条件や資料も彼女が男性だという前提で書かれていたため、とても働きにくい職場に見えたようだ。賃金や手当ての良さも逆に『金やるから細かいことには目をつぶれ』という酷遇に捉えて怒ってしまったようだ。

 すべてが誤解だと知ったトワイアはそれまでの憮然とした態度を謝罪すべく、土下座でもせん勢いだった。考えてみるとお土産のミスリル鉱石は彼女なりのお詫びだったのだろうか。

「そ……それはお疲れさまだったわね……ワン子ちゃんはどうだったかしら?」

 理司は仮眠室を振り返り、小さく笑った。

「まぁ……悪くはなかったよ。頭が良い方じゃないかもしれないけど、交渉相手の目線に立って話を聞こうとする姿勢がいい。なによりウソ発見の能力が強いね……あれは凄いよ……」

 当人はまるで自覚していないが、あの能力は怖ろしいほどだ……一子の前で質問を聞いたら最後、その真偽を判定されてしまうのだから。

「もしアイツが本当に召喚仲介業へ興味があるなら――」

 十日前、理司が牛丼屋での騒ぎを収めた一件。あれを傍らで見ていた一子は理司に憧れて事務所に押しかけてきた。だがその実、どこまでこの仕事に興味があるのかやや曖昧だ。

「もしそうなら……すぐ他の事務所を紹介してやってよ」

 理司は笑みを消し、無感情に藤代へ告げた。

「俺たちはただの仲介屋だ。なのに俺たちは『理不尽』を看過できず噛みつく。理不尽への強い怒りや憎しみを固く握って集まったのが俺たちだからね……ただの仲介屋がそんなこと続けていたら危ないに決まっている。ワン子は巻き込めないよ」

 その語調は、後半から藤代を説得せんとする熱と真剣さを帯びていた。

「ワン子にも説明したんだろう? 危険があるかもしれないって」

 藤代はソファーにあぐらをかき、赤い瞳で理司を見据えた。

「もちろん。あの子のご両親にだってしっかり説明したわ」

 なら、話はそれで終わったはずだ。今日のパーティーが一子の送別会を兼ねていてもおかしくない。藤代は突如、両手で顔を覆い『ぶぁっはぁ~』と深いため息を吐いた。

「したら『一子をよろしく頼む』って、ご両親からOKが出ちゃったのよ……」

「正気なのか!?」

「ご両親を攻めておけば解決すると思ったのに、むしろ『お願いする』って……」

「正気なのか……」

「ただ無責任なご両親ではないわ。全部承知した上で、それでも娘のやりたいことをやらせたいという判断を下したの。それにワン子ちゃんの先祖の話は理司ちゃんも知ってるしょ?」

「まぁ……一応」

 一子のミドルネーム『N』の意味を知ったときは、さすがに仰天した。

「ワン子ちゃんのお父さんって警官なんだけど、先祖の血の影響が大きくてわやくちゃ強いのよ。単純な強さでも、あそこまでいけば裏側の連中も簡単には手出ししないわ」

「……ちなみに姿は人間体なの?」

「……どっちかという人間寄りね」

 と、するとおそらく人狼族に近い姿と予測できる。確かにあの種族は運動能力においては多種族を圧倒している。それに加えて『N』の一族で、犬のおまわりさん……なるほど裏側の住人が積極的に揉めたい相手ではない。

「もしまずいことになったら、ワン子ちゃんには自宅待機を命じるわ。あまりに危険そうな場合は辞めてもらう方向で。少し様子を見ましょう」

 藤代は優しい口調で諭す。そう言われてしまうと理司も不承不承、うなずく。

「それに私は理司ちゃんと一子ちゃん、いいコンビになると思うの。もしも理司ちゃんがどうにもできない問題が出てきたら、あの子を頼ってみて。きっと助けになってくれるわ」

 法さえ遵守していれば、交渉にはそれ以上の明確なルールがないためいくらでも工夫できる。おごった考え方になるかもしれないが、交渉で手詰まりの状態を理司はあまり想像できない。

「したら明日はよろしくねぇ~」

 言いたいことだけ言った藤代は、そのままボロいソファーへ横になる。そして五秒と経たずに寝息を漏らし始める。いつものパターンだ。

 嘆息しつつ理司は立ち上がる。パーティー後、食器の片付けは彼の仕事だ。まず食べ残しをまとめてラップし、空いた食器を重ねていく。寝息が漂う休憩所に食器の触れ合う音が淡々と響く。

 そのとき軽やかな足音が響いた。

「お片付けですか!? わたしもお手伝いします!」

 元気良くパーティションの影から飛び出てくる獣耳――理司は鼻白む。

「あぁ……そうか。悪いな」

 藤代との会話、聞かれていただろうか? うしろめたい気持ちが芽生えてくる。

 別に一子をけなしていたわけではないが、本人の知らないところで処遇について論議されるのは気分のいいものではないだろう。

「ワン子……あのさ……」

 謝るべきなのか、鬼志別事務所に所属し続ける危険性を自分からも説明するべきなのか……内容がまとまらないまま理司は声をかけた。

「わん! なんでしょうか!」

 一子は無邪気で元気一杯の笑顔を向けてくる。あまりにも無垢で言葉が詰まる。

「あぁ……いや……助かるよ。いつもパーティーの片付けは俺の仕事なんだ……」

「そうなんですか? じゃあ今度からわたしもお手伝いしますね!」

「食器は流し台に置くだけでいい。明日ルキ兄か藤代姉が洗う。そういう役割分担なんだ」

「わんわん!」

 言葉もまとめられず、すごすご引き下がるような形になってしまう。

 『キャラ』が入っていないとこんなもんか、と理司は自嘲した。『こんな』だからこそ、キャラを入れて誤魔化すようになったのが偽装者・黒東の始まりでもあるのだが。

「理司さん!」

 流し台へと向かう一子が不意に立ち止まった。

「ワン子はがんばります! カッコいい理司さんにちょっとだけでも近づけるように、いっぱいがんばりますよ!」

 振り返り『ぇひひ……』と恥ずかしげに笑いそのまま流し台へと駆けてゆく。

「…………あぁ、期待してるよ」

 一子の気遣いに理司には言葉がない。気づけば小さなうしろめたさも吹っ飛ばされていた。

 情けないような、うれしいようで、理司はまた少し自嘲した。

 

 翌日。学校が終わり次第、出勤した理司。別の高校に通っている一子は先に到着していた。

 昨日の残り物で簡単な昼食を済ませたあと、制服からスーツに着替えた理司と一子は身だしなみを整えて事務所の玄関先に立つ。

「では黒東くん、陽賀美さん――ラレイラ・オデュッセイア様との交渉、よろしく頼みます」

 藤色の和服を着こなした藤代が火打ち石を鳴らし、切り火を切ってくれる。昨夜、下着寸前の有様で転がっていた酔っ払いとは似ても似つかない。

「承知しました。お客様にとって良き盟約になるよう全力で交渉に当たります」

 黒髪を中分けにし、黒縁の伊達眼鏡をかけた理司が精悍な顔つきでうなずく。しっかり締めた幾何学模様の赤いネクタイを締め直し、気合い十分。

 二人をじっと見上げていた一子は、

「理司さんも藤代さんも変わってますよね!」

 今日も元気に放言する。

「そんなことないしょや」

「そんなことありません」

 一子は笑顔のまま首を傾げた。どうも納得いっていない風だ。藤代はそんな一子の前で少しかがむと跳ね気味な水色の髪を丁寧に撫でつけながら語りかける。

「陽賀美さんもしっかりと黒東くんを補佐して下さい」

「わんっ」

 一子は心地よさそうに目を細めて藤代の手に頭を擦りつけてゆく。

「理司、ワン子ちゃん……がんばってね。ボク、こんなだから応援しかできなくてごめん……」

 ドアにもたれかかったルキノは顔面蒼白で声が消え入りそうだ。昨日舐めたワインが効いて昼過ぎのいまも二日酔いらしい。

「クローチェさんは安静にしていて下さい」

「ルキノさん、お水飲みますか? いっぱい冷やしますよ?」

 理司と一子が声をかけるも、ルキノはその場で横に倒れた。

 力尽きた三十二歳児を藤代に任せ、交渉組は鬼志別事務所を出発する。

 快晴の空の元、駅まで歩き、快速電車に乗って二駅移動。下車した彼らはタクシーへと乗り換える。駅から十分ほど走ったタクシーはやがて住宅街の一角に入り、中規模マンションの前で停車した。代金を支払い、しっかり領収書を受け取った理司は車を降りる。

 時計は、十三時四十六分を示していた。到着時刻としては申し分ない。

 見上げたマンションは深いブラウンで五階建て、十五戸ほど。真新しくもなく古びてもいない。築は十五年前後というところだろう。ベランダに干されている洗濯物を見るに人間と召喚獣、どちらも居住可能な建物のようだ。

 ラレイラの自宅はこの三階。エレベーターはなく、理司たちは階段を登った。

 部屋の前へ立つ二人。表札は出ていない。

 理司は手鏡で身だしなみの最終チェック。

 今日は前髪を完全に左右にわけず額の面積を狭く調整してきた。一般的に額を広く見せると年齢の印象が上がる。ラレイラは十六歳の少女、加えて控えめの性格だとすれば緊張しているかもしれない。それを少しでも和らげられれば、と身だしなみを考えてきた。会話にも砕けた部分もあえて作っていくつもりだ。

 伊達眼鏡のブリッジを押し上げ、赤いネクタイを調整。手鏡を閉じ、一呼吸。

 一子は緊張しきった面持ちで軽くぷるぷる震えながら口元を引き結んでいる。その姿に内心、少し笑ってしまった理司は肩の力を抜いてインターフォンを押した。

『――はい?』

 インターフォン越しに応じた少女の声。

 なんの変哲もない一言。だがその一言に理司は聞き入った。

 綺麗で暖かな声。まるで心を毛布で包まれるようだった。

 静かな火、ランプの灯火、それよりも強く……でも穏やかな炎……

 そんな連想させるほど感情を刺激してくる声だ。

「――こんにちは。私、鬼志別召喚仲介事務所から参りました黒東と申します」

 だが『キャラ』の入っている理司は感情のコントロールが上手い。不自然な間をほとんど開けず自己紹介する。一子はそうもいかなかったようで、はっと我に返った様子だ。

『あっ、はい……聞いています。待っていて下さい』

 物静かな印象を受ける語調。感情の起伏はあまりない。

 ほどなく玄関のカギが外され、ドアが開く。

 ほのかな木蓮の芳香とともに現れたのは、ウエーブのかかった夕日色の髪の美少女。背にたたんだ翼は黒褐色と白色のツートン。足は膝下から白い鱗が生じ、趾へと続いている。

 召喚獣リストの写真と相違ない、ラレイラ・オデュッセイア当人だ。

 衣服は白いワンピースに、鮮やかな水色のジャケットを羽織っている。どうやら彼女が振り向くたび丸見えになる白い背筋に思春期の鼓動を押さえる努力は必要ないらしい。

「はじめまして黒東 理司です。本日はよろしくお願いいたします」

「陽賀美・N・一子です! よろしくです!」

 二人そろって深く一礼。

 ラレイラは意外そうに目を瞬かせた。『交渉』などいうから物々しい雰囲気の人物が来ると思っていて、拍子抜けしているのだろう。

「ツマラナイものですが、どうぞ!」

 一子が『ぇひひ!』とはにかみ笑顔を添えて、持参した菓子折を差し出す。

「ええ……中へ、どうぞ」

 受け取ったラレイラは室内を手で示す。表情からはあまり心の動きが見えない。

 理司は木蓮の甘くさわやかな微香が漂う玄関内部を素早く見回す。

 装飾品、調度品はほとんどなく質素。あまり華美を好む性格ではないようだ。こういった部分から滲む人物像も、交渉を進める上でのパーツになる。靴があればもう少し生活ぶりや性格をうかがえるのだがセイレーン族は足の構造上、履くことができない。

 短い廊下を通り、磨かれたシンクの輝くキッチン前を経由してリビングへと招き入れられた理司と一子。ざっと見て間取りは一K、洋間七畳というところだろう。

「そこにどうぞ。いま……コーヒーでも」

「お構いなく」

 理司はリビング中央のテーブル前で正座した。それにならって一子も隣に。

 キッチンへと向かうラレイラ、リビングのドアが静かに閉められる。

 失礼ながらこのタイミングで室内からも情報を得る。相手の要求が明確なことの多い企業間の交渉と違い、召喚獣個人との交渉は前情報が少ないため現地調達は欠かせない。

 七畳のリビングは一人暮らしには過不足のない広さだ。全体的に白色系で整えられた空間は明るく清潔感がある。玄関同様に飾り気は薄く、調度品は最低限しかない。華美を好まない性格もあるようだが、生活そのものがあまり裕福ではないのかもしれない。リストにも召喚獣としての仕事をした経歴は記載がない。人間と同じ仕事で生計を立てているのだろう。

 見回す内に理司は一つ、気づく。

 小さな本棚には音楽――特に声楽の教本が目立つ。他にはピアノの楽譜。テレビの上の小さなイーゼルに飾られているのはCDだ。

「きれ~な表紙ですね」

 理司の視線を辿った一子が、ジャケットの美麗な絵に華やいだ声を上げた。

 赤地のジャケットで白い翼が舞っているデザインだ。

「あの……お待たせしました」

 リビングのドアが開き、ラレイラが左手にトレンチを乗せて戻ってくる。彼女は理司と一子の前へコーヒーと菓子皿を置き、テーブルを挟んで正面へ座る。

 理司と一子はラレイラの隣に回ると用意していた名刺を両手で差し出した。名刺交換はテーブルなどを挟まないのが基本となる。

「改めまして召喚契約仲介士、黒東 理司です」

「アシスタントの陽賀美・N・一子です!」

 ラレイラは恐る恐るといった手つきで受け取った名刺をテーブルへ手前に並べた。名刺を渡し終えると理司たちは再びラレイラの正面に戻り、カバンから一枚の書類を取り出した。

「では召喚契約法に則って、契約術式を発動させていただきます」

 一見してただの書類だが中央には大きな幾何学模様――魔方陣が描かれている。

 理司は魔方陣に触れる。途端、書類の魔方陣が青白い魔法光を発する。青い光は天球状に広がり、瞬く間に部屋へと淡く満ちる。

 交渉の準備は整った。あとは召喚契約を引き受けてもらえるよう熱意、熱誠を尽くすだけだ。

「あの――」

 意外にもラレイラが真っ先に口を開く。うつむくその表情は思い詰めている。

 ……爆弾発言の予感がした。

「ごめんなさい…………私は契約しません」

「わん!? 突然のどうしましたのですか!?」

 混乱も露わに身を乗り出す一子。その勢いに身をすくめるラレイラ。

「陽賀美くぅぅん……」

 一子の頭を両手で掴み、

「黙っていなさいぃっ」

 床へ埋める勢いで座らせる理司。

「あの……ごめんなさい。私……昨日は交渉を受けてもいいって、つい言ってしまったんですけどやっぱり色々と……失礼なのはわかっていますけど……本当に、ごめんなさい」

 ラレイラは夕日色の髪をテーブルに垂らして深く頭を下げた。事情はわからないが、暖かみのあるこの声で深謝されると酷く申し訳ない気持ちになってくる。

 一子は犬がドッグフードで撃たれたような顔になって、理司とラレイラを交互に見ていた。

 だが理司にはラレイラの狙いがおおよそ読めた。

 彼女の胸の内を察するに、こうだ――

 藤代から召喚契約交渉の連絡を受けたラレイラ。流れで了承してはみたが初めての契約交渉に不安を感じ、色々と調べてみたところ召喚獣を不当に扱うブラック業者の存在を知る。

 怖くなり、断らなくてはと思い至った彼女は有効な方法を検索。それが契約術式を仲介士に発動させ、そのあと三時間のタイムオーバーまで逃げる方法だ。

 契約術式は被交渉側を不当に長時間拘束させないため三時間経過でタイムオーバーとなる。タイムオーバーを迎えると契約術式は被交渉者を一週間、保護する結界となる。これは消費者を守る法律が魔力的な効力を得て可視化されたもの、とすればイメージが近い。

 保護されている間は契約術式の対象にならず、同時にこの世すべての仲介士は交渉目的で近づくことが基本的に違法となる、無視すれば厳罰だ。

 あえて居留守を使ったり、玄関先で断らなかったのも、理司に契約術式を発動させてもらう必要があったからだろう。あとは……性格上、門前払いができなかったのもありそうだが。

「まず『召喚契約を結びたくない』というラレイラ様の意向、拝承いたしました。よって契約交渉はここで一旦ストップしようと思いますが――」

 理司は努めて温容に、ラレイラの不安を刺激しないよう告げた。彼女の発言が爆弾になるのか爆竹一本で済むかは、ここからの速度と少々のテクニック次第。

「…………ぇ?」

 頭を下げたままだったラレイラが面を上げた。紫の瞳に困惑を浮かべてこちらへ向ける。彼女がこちらを注視しているタイミングで理司は言葉を連ねる。

「召喚獣の方々に不当な契約を強いる、ブラック業者の記事をネットなどで読みましたか?」

 ラレイラは息を呑んだ。両手を胸の前で重ね、身を引いた。紫の瞳が驚きで揺れている。

 そんな彼女を怖がらせないよう、言葉の温度を保って続ける。

「そこに書かれていた断り方を実践しようとなさっている……違いますか?」

 ラレイラは答えず、気まずそうに視線を落とす。

(よし、なんとかつなぎ止められた……)

 後先の関係性を無視していいなら、断ることは難しくない。

 相手と目を合わせず質問はすべて無視。話に乗っからず、情報を一つも渡さない。あくび交じりでステホでもいじっていれば良い。

 こうやって逃げの一手を打たれると交渉を仕掛ける側は手がかりがなく、辛い。

 ラレイラが断るための知識を得てきているのを察した理司は、こういった逃げの一手を打たれる前にラレイラの図星をついて、こちらの話に引き込んだのだ。

「契約するかしないかは、貴女が決めることですから。断ること自体はなにも問題ありません。貴女の判断を我々は尊重します。帰れ、と言うのであればすぐにでも立ち去りましょう」

 敵意や害意がないことを伝え、不安な状況の出口を示しておく。

 ラレイラは意外そうな表情を美貌に貼りつけ、理司を見つめた。

 このタイミングを逃さず、理司は彼女が無視できない言葉を放る。

「ですが、貴女を。貴女の声を。貴女の歌を――待っている人がいます」

 『歌』と聞いた瞬間、ラレイラの瞳に意力の光が灯る。

「私の、歌……ですか?」

「そうです。誰でもなく、ラレイラ様の、歌」

 音楽の教本が詰まった棚から察するに効果は高いと読んでいたが、予想以上だ。

(興味は引けた。あとは――)

 ラレイラの美貌にかかった不安の雲はまだ払拭されていない。

 仕事内容への興味と、召喚契約という未知に対する怖れがない交ぜになったラレイラの心をどうやって解きほぐし成約へ繋げるか……理司は頭を回す。

(俺たちを信用してもらわなければ話が始まらない。どの手でいく? 仲介士のことを深く調べてるなら資格の電子証明証明書を見せてブラック業者ではないと示すか? いや、正式な証明書を見せたって疑い始めれば無限に疑える、なら――)

 最適解を求めてフル回転する理司の黙考は、

「安心して下さいラレイラさん! わたしたちは、いい人です!」

 火の出るような一子の剛速球に寸断された。

「いい人って……もう少し言い方はありませんか?」

 一子のペースに巻き込まれ思いがけずツッコむ理司。言いたいことはまさにそれだが根拠も添えずに『我々は善人だ』などと誰が納得できようものか。

「――ふふっ」

 けれどそのやりとりに、ラレイラが慎ましく笑った。

 彼女のまとっていた不安げな空気が和らぐ。

(藤代姉………もしかして、こういうことなのか?)

 自分と一子が良いコンビになる――藤代の言葉が少しわかった気がした。

 一子の生んだこの小さな笑いは、大きな価値がある。お高いアイス一ダースでも足りない。

 ピリついた交渉の場でもほんの小さな笑いが起れば、そこから流れが変わる。この『小さな笑い』が難しく理司も苦手としているのだが……その愛嬌からか一子は天然でやってのけた。

 理詰めで考えすぎず、飾らぬ言葉を真っ直ぐに放つ。それは見習うべき部分かもしれない。

「陽賀美の言い方はどうかと思いますが、我々は悪人ではありません。個人的な話をさせていただきますと理不尽を強いるブラック業者は私が最も嫌う存在です」

 流れに乗って一子の発言が生きる会話を組み立てる。

「そういった輩と当事務所は絶対に違うと誓いますっ」

 ラレイラの紫の瞳をしっかりと見て、理司は宣誓した。

 その言葉にラレイラはなにを思ったか――しばし沈黙したあと深くうなずいた。

「契約の交渉を再開してもよろしいですか?」

「――はい」


 そこから先は堰を切ったようにスムーズだった。

 この仕事に人間一人の命がかかっていると知ったラレイラは、やはり戸惑った。だが理司が背を押すまでもなく『命が救えるのなら』とラレイラは仕事内容を了承してくれた。控えめな言動の目立つ少女だが、心に秘めた強さが垣間見えた。

 また彼女の歌魔法が麻酔の代わりになるのか、という根本的な問題は早々に払拭された。

 ラレイラは人間界に出てくる前、重傷のセイレーンが処置されるまでの数時間、歌魔法で眠らせ続けた実績があるらしい。魔法抵抗力の高いセイレーンをそれだけ眠らせられたなら、人間など造作もない。念のため上村医師にも試験してもらうよう伝えておけば万全だ。

 その他、給与や勤務時間、週の召喚回数について大筋、上村医師の提示してきた条件でラレイラは了承した。理司から見ても好条件だ、不満はないだろう。

 終わってみれば交渉時間を三十分残して、伝えるべき内容はなくなっていた。

「他になにか質問等はありませんか、ラレイラさん」

 交渉の最中、ラレイラ当人から『様づけされるほど偉くはないので……』との提案から彼女への敬称は『様』から『さん』へと変わっていた。会話の距離も縮まった感がある。

「じゃあ…………一つ、だけ」

 するとラレイラはうつむき加減で不安げながらもすぐに口を開いた。その反応の早さから、尋ねようと用意していた質問だろう。

「私の歌は……その……間違った使われ方……しないでしょうか?」

 理司は即応できない。彼女がなにを危惧しているのか意図がやや不鮮明だ。

「間違った使われ方――というのが、どういった使用方法かはわかりませんが今回の契約内容では、医療目的以外で歌魔法の使用を要求すれば、それは契約外の労働であり違法に当たります。『間違った使い方』を強要されていると思ったら私へ遠慮なく連絡を下さい」

 ラレイラの表情は晴れない。彼女が聞きたいのはこういうことではなさそうだ。

「なにか心配事がありますか?」

「……いえ……大丈夫です」

 テーブルの下で、理司の左袖が引かれる。一子がウソを検知した合図だ。

 彼女は未知の仕事への漠然とした不安ではなく、明確な心配事を抱えている。

 時間は……まだある。余計なことかもしれないが不安を少しでも和らげたいと思い、彼女の中のわだかまりへと切り込んでゆく。

「そうですか。世の中にはブラック業者が召喚獣を悪用する出来事も確かにあります。ですが少なくとも今回はそういう心配はありませんよ。歌が間違った使い方を――たとえば悪用などされないか心配ですか?」

 と、言ってはみたものの上村医師の人柄を考えれば、犯罪の片棒を担がされることはない。

 それに歌魔法は、歌という一種の呪文へ当人が魔力を通すことで効果を生ずる。歌魔法を録音などしてもただの歌に過ぎない。どう悪用したものか……

「いえ……その……なんでもありません、本当に」

 再び一子が袖を引っ張る――なんでも、あるようだ。

 だがラレイラはそれっきりうつむいて感情を見せたがらない。

 こちらには知られたくない心配事があるらしい。

 自分はいま一子のウソ検知能力を借りて、ラレイラのデリケートな心情へと踏み込もうとしているのかもしれない。残り時間の少ないいま無用のところまで心を切開しておきながら処置が中途半端になるのは良くない。

 理司は深い逡巡を経て――――

(交渉担当が口をつぐんだら、場所を取るだけ置物以下じゃないか?)

 時間の限界までラレイラの心配事を減らす決意を固めた。だが歌に対し、あまり良くない記憶があることは想像に難くない。直球で原因を尋ねても余計に口が重くなるだけだろう。

 ここは少し変化球か。理司は考えを整理し、口を開く。

「重ね重ねになりますが契約に問題があったなら気兼ねなく私に連絡を下さい」

 この話題を切り上げ、交渉を締めくくるような体で口調を軽くする。

「何曜日でも深夜でも早朝でも構いません。仲介士には召喚者と召喚獣の間で契約がきちんと履行されているか監査する権限もあります。理不尽なことがあれば助けます――必ず」

 社交辞令的に使われる『なにかあったら連絡をくれ』だが理司はいつでも本気だ。温容と言うには少し熱い声色にラレイラは顔を上げた。

「黒東さんは…………なんだか、信用してもいい気がしますね」

 ラレイラは少しはにかむように笑った。この交渉が始まって初めて理司へ向けられた笑みだった。だが表情はどこか曇ったまま……なんとか心のわだかまりを吐き出してもらいたい。

「恐れ入ります――」

 わずかに沈黙し、話題が途切れたような間を空ける。そして視線を何気なく漂わせ本棚で留める。残った時間を雑談に当てるため話題を探し、いま音楽関連の書籍に気づいた風を装う。

「ラレイラさんは、やっぱり歌がお好きなんですか?」

「あ、はい……好きです。人間に歌を聴いてもらいたくて田舎から出てきました」

 心血を注いでいることとなれば口も軽くなる、それは人間でも召喚獣でも共通だ。にこやかにうなずきながらも理司は、一子がつまんだ左袖に集中していた。

「でもなぜ人間に歌を? オデュッセイア界ではダメだったんですか?」

 会話を膨らませてゆく。ラレイラの心を探る狙いは当然あるが、それ以上に幼子のように声を弾ませる彼女をもう少し見ていたい気持ちがあった。

「えと……召喚獣の多くは歌に関心がない……というか鳥がさえずっているほどにしか思わない方々も珍しくないんです。その点、人間は凄いです。あらゆる世界の住人より歌という文化に熱心です。そんな種族にぜひ歌を聴いてもらいたい、歌を指導してもらって、もっと上手に歌えるようになりたい――そう思ったら自分が止められなくて……」

 微笑みながら理司がうなずいていると、急にラレイラは赤面してうつむいた。

「あっ……ごめんなさい……こんな話、興味がありませんよね……」

「いいえ。ラレイラさんの心根を知ることができて大変、うれしかったですよ」

 心からの言葉が温和な声色となって自然と理司の口から出る。

 一生懸命で少し不器用――そんな彼女の力になりたいと強く思った。

「では医療での能力行使ではありますが、歌でのお仕事、楽しみですね」

「えぇ……そう、ですね」

 するとラレイラの笑みが少し軋んだ。一子が迷うようにゆっくり袖を引く。

 彼女は歌が好きなのだ。それは最早、疑う余地などない。

 だが『楽しみか?』と聞かれても、素直に笑って答えられない。

 つまり好きなのに、素直に楽しめない要素が内外にある――彼女が秘めて語らぬ『心配事』に他ならないだろう。さりとてそれを直接尋ねては会話が逆戻りだ。彼女が再び口を閉ざす原因になりかねない。刻一刻と迫る制限時間、手がかりを探して焦る心……二の句を探す理司が困窮に沈黙しかけたそのとき――

「ラレイラさん、歌の仕事あんまり楽しみじゃないんですか?」

 またも放たれる剛速球。一子は口をぽかんと開けたまま不思議顔だ。

(そうやって聞けないから俺は悩んでるんだろう!?)

 それは『心配事』をほんの少し回りくどく尋ねたに過ぎない。

 予想外のところから飛んできた屈託のない質問にラレイラは自嘲した。

「私なんかが……また大手を振って歌っても良いのかと……」

 ――――一子にはバケツサイズのアイスを買ってやる必要がありそうだ。

 自らを卑下する物言い。その裏に罪悪感か、自責の念か……ともかくそれらに類する感情と『歌が好き』という感情が同居し、ぶつかり合ってしまっているのだ。

 だからこその『好きだが、楽しみではない』。

 理司は時計を一瞥する……あと三分……

 『自責』あるいは『罪悪感』という彼女の傷は見えてきた、だが十全な処置する時間がない。この契約に人の命がかかっている以上、交渉を後日に引き延ばす選択肢はあり得ない。

 理司は自らの力不足に歯がゆさと、歯がみするような心を押さえつける。

「ではラレイラさん、そろそろ時間も迫ってきましたので契約の準備を」

 理司はテーブルの中央で術式を発動している書類にペンを添え、彼女の眼前へと置く。

「あ……はい」

「その前に一つだけ――お節介を承知で一つだけ、お伝えしたいことがあります」

 理司は改めてラレイラの紫の瞳を真っ直ぐに見据える。ペンを握ったラレイラは小首を傾げたあと、なにかを察してゆっくりうなずいた。

「貴女の歌を必要としている人がいます。貴女の歌で救われる命があります。貴女がご自身の歌にどんな感情を持っているかはわかりません、ですがそれだけは忘れないで下さいっ」

 彼女と彼女の歌に、どんな過去があったかはわからない。

 だとしてもこの契約で歌うことは、決してやましくもなければ否定されるものでもないと知った上で新たな出発に臨んで欲しかった。

 ラレイラは少し驚いたように目を瞬かせ、それから困ったように微笑んだ。

 彼女にしてみれば吐露したくなかった心中を探られ、しかも抽象的なアドバイスが飛んできたわけだ、気分だって良いはずがない。

「…………私の歌がどれだけお役に立つのかわかりませんけど」

 握ったままのペンが走り出す。一息に、迷わず英字で名を書き記したラレイラは書類を反転させて理司の前へと据えた。

「できるところまで、やってみます」

 ラレイラはしっかりと理司を見つめ返した。アメジストのような瞳には強い意力が――そう、入界審査の写真と同じような芯の強さが宿っていた。

「最高のお返事をいただけた、と上村様に報告いたします」

 理司が書類中央の魔方陣へと手をかざす。

 周囲に淡く満ちていた青の魔法光が収束を始めた。光はラレイラの右手の甲へと集まり、幾何学模様と呪文を刻んでゆく。ほどなくして白い肌に青い魔方陣が刻印された。

 それは召喚契約の証であり、召喚魔法そのものでもある。後日、上村医師にも同様の魔方陣を肉体に所持してもらうことで召喚経路が開通する。

 ラレイラは右手を胸の高さへ上げ、しげしげと見下ろした。

 そして召喚魔法が刻まれた右手へ、愛おしそうに左手を添える。

 彼女は微笑んだ。まるでなにかから救い出されたみたいに、安心したように……

「この新しき契約がいつか良き古き盟約になることを心よりお祈り申し上げます」


 理司は伊達眼鏡をポケットにしまい、幾何学模様の赤いネクタイを緩め、深く息を吐いてキャラを抜く。ラレイラの家をあとにした理司と一子は、駅までの道を歩いていた。

「理司さん」

 いつになく険しい一子の声に、少し驚いて隣を見下ろす。

 琥珀色の瞳が真剣に理司を見上げていた。

「ど……どうしたんだ、ワン子?」

「今日も凄くカッコよかったです、わんわん!」

 招き猫……ではなく犬かきのポーズつきで一子は歓声を上げた。

「そ……それは良かったよ」

 理司は一子の視線から逃げるように、ブラウンのマンションを振り返った。

 召喚魔法が刻印された右手へ、大切そうに左手を添えるラレイラ。

 あの安堵に近い笑顔が忘れられない。

 彼女はどんな痛みを心に秘めていたのだろうか。

「なにか心に魚の骨が刺さった感じですか?」

 心残り、的な意だろうか。理司は小さくうなずく。

 被交渉側の人物像を把握し、要求を細部まで引き出し、可能な限りの選択肢を見せ、納得してもらい成約へ持ち込み、信頼の握手を交わして去る。召喚契約交渉はそのほとんどをたった三時間で行わなくてはいけない。どうしても相手の心情に寄り添いきれないときもある。

 悩み事のすべてをただの仲介士が解決できるなどと思い上がってはいない。それでも心のわだかまりを垣間見ていながら、手を伸ばせなかった口惜しさが募る。

「じゃあ交渉が終わったあとでも、お話してくれば――」

「それはダメな決まりなんだ」

 法律上、交渉術式を展開せずに被交渉者の側に仲介士が居座るわけにはいかない。それをOKしてしまったら術式を展開せずに延々と交渉する悪計が可能になる。

「でもラレイラさんは喜んでくれてました! 絶対なんともありませんよ!」

「そうかい……なら、いいかな。あとはラレイラさんのアフターケアを手厚くやっていこう」

 ラレイラがこの仕事に前向きなのは理司にもわかった。

 それに召喚契約を結んだあとも一週間は無条件での契約撤回が可能だと伝えてある。不安が払拭できなくて苦しむならばすぐ連絡するように、と添えて。

 ふと一子の獣耳がヒクン、と震えた。

「わんっ……雨?」

 空を見上げる一子。釣られて理司も。ぽつぽつと、雨粒が降り注いでくる。

 事務所を出発したときは快晴だった空が鈍色に曇っていた。

「駅まで歩きながらタクシーを拾おう」

「わん!」

 一子は両手を軽く握って招き猫のポーズ――もとい、犬かきのポーズ。

 リクルートスーツでも足の速い一子を、理司が追う形で二人は駅へ急ぐ。

「ひゃあ……これは、たくさん降ってきますよ!」

 赤信号に足止めを喰らった一子が足踏みしながら空を見上げた。

「通り雨かな……スーツ、クリーニングに出さないと……」

 ぼやく理司。横断歩道が青信号に。鳥の鳴き声を模した音響が鳴る。

 空を見上げたまま駆け出した二人は、対面から来た二人組とすれ違った。

 一人は白いパンツスーツの女。身長は高く、肌は褐色。差した傘の下で、ショートボブの淡い金髪が揺れている。くっきりした目鼻立ちからして外国人だろう。

 もう一人は黒いキャリーバッグを引いていた。一子よりも高いくらいの身長。差した黒い傘は蜘蛛の巣を思わせる意匠が施されており、黒いフリルのドレスを身につけている――いわゆるゴスロリ衣装。傘のひさしのせいで容貌は判然としないが幼い印象を受けた。

 横断歩道を渡りきった理司は自然と足を止めて振り返る。なぜ振り返ったか、自分でも良くはわからなかった。だが振り返らなくてはいけない気がした。

 白黒の二人を横断歩道の対岸に探すも、往来を始めた車に阻まれ見当たらない。

 首を傾げ、向き直ると一子もまた足を止めていた。

「いま……すっごく『ウソな女の人たち』とすれ違いませんでしたか?」

 一子は琥珀色の瞳に当惑を浮かべて理司を見上げいる。

「……ウソな女の人たち? 俺にはその感覚がわからないんだけど……」

「そんなことありませんよ! あんなにウソなんですよ!?」

「そんなことあるよ」

 これだから感性で生きている子は、と眉根を寄せて再び振り返る。一子ほど明確になにか感じてはいないが、いまにして思えば不快感に近かったのかもしれない。

 一子の感性を信じるなら『身から漂うほどウソをまとった女二人』となるのだろうか。

 雨の冷たさを感じながら立ち尽くした理司は、遠くに小さく見えるラレイラのマンションへ目をやる。それからスティックフォンを取り出した。

 電話番号を呼び出し、発信…………十コールほどしてようやく持ち主が出る。

「……なに? もう胃液も出ない? ダンディが聞いて呆れる。じゃなくて足の速いのを一体よこして欲しいんだ、そう――」

 

 ステホをしまった黒スーツの少年はタクシーを拾い、水色の髪の少女と共に去っていく。

 降り注ぐ雨を黒い傘で受けながら、ゴスロリ衣装の女が憮然とした表情で見下ろしている。

 黒い長髪をツインテールにし、前髪には蜘蛛の目を思わせる黒い珠の並んだヘアピンを飾っている。顔立ちにはまだあどけなさが残る。だが冷たい眼差しには社会の美醜を味わってきたような鋭さがある。童顔の女性なのか、人生経験豊富な少女なのか、判別が難しい。

 彼女から微妙に距離を取った位置には金色の髪をショートボブにした褐色肌の女が立っていた。長身を包む白いパンツスーツを雨に濡らしながらステホを操作している。空中にいくつかの光ウインドウを浮かべ、なにかを調べていたが――やがて手を止める。

知朱ちあきちゃん、きっと鬼志別召喚仲介事務所の黒東 理司だよ」

 異国風の顔立ちをした褐色肌の女が告げた。知朱より身長も年齢も高く見えるが、その口調はどこか幼くて無邪気だ。

「確かなのデス?」

「さぁ、どうかなぁ? 違うかも?」

 尋ねると女は無責任に言葉を翻した。知朱は不機嫌さを隠さずに舌打ちする。

「……お前はなんデスか?」

「アッハハ! 知朱ちゃんなに言ってるの? バカになっちゃった? ワタシはザンザメーラ・エイリアだよ? そういうアナタはワタシのお友達、戸木島ときしま 知朱ちゃ――」

 無造作に放たれた知朱の蹴り。ブーツの先がザンザメーラの尻に突き刺さる。

「ぃいったいよ、知朱ちゃん! よくわからないけど許して!」

 仰け反って派手に跳ね回るザンザメーラ。

「バカはお前デス、ザジ! 誰が自己紹介しろっつったデスか! 誰が友達デスか! お前は知朱に宛がわれたパシリ兼運転手! いいデスか? 仕事の善し悪しを決めるのは下調べと下準備! 知朱のパシリになったならそれくらいすぐに調べてみせろってんデス! ちなみにさっきの男は黒東 理司デス。ちったぁ業界で知れた顔と名前デスからね」

「パシリじゃないよぉ……アシスタントだよ?」

 黒東のことはどうでもいいらしくザンザメーラは尻をさすりながら己の役職を主張してくる。呆れて小さく頭を振った知朱は再び道路へと視線を投げた。

「で……一緒にいた犬耳は誰デス?」

「データになかったから知らなぁい」

 調べる素振りもないザジに知朱は頬を引きつらせたが、怒りをため息に変えて吐き出した。

 この街での仕事が決まった時点で知朱は、気に入らない企業にやたら噛みついてくると噂の鬼志別事務所のメンバーをチェックしてある。その知朱が知らないあの犬耳は新入りのアシスタントといった辺りだろう。

「そんなことよりワタシも傘に入れて。引き上げられるとき傘壊れちゃった」

 仕事の話をしているのに『そんなこと』――知朱はついさっき吐き出した怒りを吸い込み直そうかと思ったが、それもこの女相手では徒労でしかないと諦めた。

「……勝手に入ればいいデス」

 すると不意にザジは知朱のゴスロリ衣装を指さした。上半身には蜘蛛糸が幾重にもハーネス状に巻き付いている。

「その蜘蛛糸キモいからなんとかして?」

 語尾に音符マークがついていそうなほど無邪気に告げるザジ。

「はぁああ!? なんつったデスかッ!?」

 対して噴火するように怒る知朱。

「ひぃいぃっ! なに!? ワタシ、なにか悪いことした? 謝るから許して!」

露草つゆくさ白絹しらぎぬ――出てらっしゃいデス」

 知朱はスカートの裾を左手でつまんで持ち上げる。すると中から二匹の蜘蛛が這い出てくる。

 どちらも手の平にあまる大きな蜘蛛だ。

 一体はジョロウグモに似ており黄と黒の縞模様、すらりとした細く長い脚だ。

 もう一体はオニグモに似ており全身が灰色。短く太い脚、膨れた腹から剛悍な印象がある。

 蜘蛛たちは脚を蠢かし、瞬く間に知朱の両肩まで這い上がった。知朱は蜘蛛たちの身体を愛おしそうに指先で撫でてから、怯えているザジへと向き直る。

「ねえ聞いたデス露草、白絹。この女、お前たちが編んでくれた糸が気に入らないそうデス」

「違うよぉ……糸が気に入らないんじゃなくて、蜘蛛がキモくてイヤなの……」

 当人は言い訳したつもりらしいが、逆に知朱の怒りに燃料を注ぐ。幼い顔立ちがぐしゃり、と笑み崩れて凶悪な容貌へと変化した。

「蜘蛛じゃなくて『土蜘蛛』。この子たちはれっきとした召喚獣だと何度、言わせるデス? さてどうしてやりましょうか? お前たちたまにはネズミ以外も食べたいデスよねぇ?」

 知朱が両肩に乗った土蜘蛛たちを指でくすぐりながら問いかける。すると右肩に乗っていた露草が、黄と黒の縞模様になった長い脚で知朱の頬を撫でた。

「ん…………そうデスか? 白絹もそれで構わないデスか?」

 左肩の白絹は灰色の身体を微動だにしない。横に並んだオニキスのような綺麗な単眼に主人の姿を映している。しばし白絹と至近距離で見つめ合っていた知朱は、凶悪な笑みを穏やかなものへと変えてザジへと向ける。

「『ザジを許してやって欲しい』デスって。だから今日は勘弁してやるデス」

「そうなんだ、やった」

 胸の前で両手を握りガッツポーズのザジ。そこへすさかず飛んでくる蹴り。

「やった、じゃねえデス! この子たちにお礼はぁっ!」

「は、はひぃ! ありがとうございます! よくわかんないけど!」

 屋上に突っ伏したザジへ舌打ちをくれて知朱は、傍らに立ててあった黒いキャリーバッグの取っ手を掴んだ。その視線は遠くで雨に煙るブラウンのマンションへ。

「じゃあさっさといくデスよ、ザジ」

「ねえ、知朱ちゃん」

 転がったままのザジが無邪気な声で尋ねてくる。

「なんデス?」

 苛立たしさを隠しもせずに応じる知朱。

「そのセイレーンの女、捕まえたらどうするの?」

「んなもの、いつも通り使い潰してポイッ、デス」

「ふ~~~~~~~~~~~~ん…………」

 まるで耳元で蚊が飛ぶような、大きくもないのに妙に耳障りな声。

「セイレーンって声の綺麗なヤツ多いよねぇ?」

「……ええ、それが?」

「やっぱり悲鳴も綺麗なのかなぁ?」

 ザンザメーラは人差し指を噛むと熱っぽく艶然な息を、雨の空へと吐き出した。

「…………お前のそういうとこは」

 知朱の表情がぐにゃりと笑み崩れる。

「買ってやるデスよ、きっしっしし!」

 甲高くい引き笑いが雨音に混ざって響いた。



「あっ、理司さん!」

 放課後、鬼志別召喚仲介事務所へ出勤してきた理司はビル前で声をかけられた。

 淡い水色の髪、揺れる獣耳。制服姿に小さなリュックを背負った一子だ。水たまりをぴょんぴょん越えつつ、飼い主を見つけた子犬みたいに駆け寄ってくる。

「ああ……ワン子。お疲れさま」

 『キャラ』の入っていない理司はどこかぬぼ~っとした調子で応じる。

「はい、疲れてませんけどお疲れさまです!」

 ぺこん、とお辞儀。柔らかそうな長い髪が舞い上がる。

「昨日の雨で風邪とか――引きそうにもないな、君は」

「はい! テストは赤点でもワン子の元気はいつも満点、臨界点です!」

「臨界点はまずいなぁ……」

「今日はどんなお仕事の予定ですか?」

 身長差のある凸凹コンビは並んでビルへと入っていく。

「予定はないよ。上村様とラレイラさんの件で書類を作る……君も覚えるかい?」

「はい! 交渉のことたくさん覚えたいです!」

 真っ直ぐな一子に思わず理司は笑む。彼女が事務所に押しかけてきた当時、理司はその本気を計りかねていた。だがいまとなっては疑う余地はない。

 ならばこそ……一子には危険のない別の事務所を紹介したいのだが……

「ラレイラさんはいつからお仕事始めるんですか?」

 二人は雑居ビルの古びた階段を上りながら談笑を続ける。

「上村医師と日程を調整中だよ。それに……いや……」

 理司は言葉を呑み込んだ。ラレイラが心変わりする可能性もまだ残っている。召喚魔法が刻まれた右手を見下ろす彼女の笑顔を思い返すと、状況が白紙に戻るとは考えにくい。

 三階まで上がると事務所前で佇む人影を見つけた。宅配便の配達員だ。

「どうしましたか!」

 真っ先に一子が声をかける。

「俺たちここの事務所のものなんですけど、荷物ですか?」

「あっ、はい! 鬼志別 藤代さんにお届け物です!」

 人間の若い配達員は手にしていた小包を見せる。

「誰もいませんか? 所長がいると思うんですけど……」

 配達員は事務所のドアを一瞥して、困ったように眉根を寄せる。

「お取り込み中みたいでして……少し話し声はするんですけども」

 そう言われて耳を澄ますと所内からはかすかに藤代の声が漏れてくる。所長のことだ、電話しつつハンコを押すくらいわけもないだろうに――

 理司は伝票にサインし、荷物を受け取って事務所のドアを開く。

「おはようござ――んぐぅ!」

 大声で挨拶しようとした一子の口を手で封じる。ドアのすぐ左手にはパーティションで区切った小さな所長室。中から藤代の話し声がこぼれてくる。

「ええ――ええ――ですから――」

 珍しく声色に余裕がない。かなり逼迫した話か。

「申し上げました通り撤回は可能です、無条件に――そうです」

 『撤回』と聞いて理司は心臓が跳ねた。まさか通話の相手は……

「ラレイラ様」

 藤代が少し声を大きくし、その名をはっきり告げた。

 逡巡し、理司は所長室のドアを開ける。淡い紫の着物を着た藤代がデスクについている。彼女は理司の姿を認めると真剣な表情のままウインクした。

 藤代は電話を替わる旨も伝えずに理司へステホを差し出してくる。赤い瞳には険しい色がある、状況は悪いようだ。理司は小包をデスクへ置き、緩んでいたネクタイを素早く締め直してからステホを受け取る。

「お電話替わりました、黒東です」

『ぇっ! 黒東……さん……?』

 ラレイラにしてみれば前触れもなく通話の相手が替わったのだ、驚くのも無理はない。だがその声は驚き以外の……怖れのような響きを帯びて消え入った。

「はい。昨日はお世話になりました。契約撤回のご連絡ですか?」

 ラレイラは受話器越しに『ぇっと……あのっ……』と落ち着きなく呟いている。そうこうしていると一子が理司の長躯を猫のように軽くよじ登り、受話口の裏側に耳を寄せた。理司と一子、二人の耳でステホを挟む恰好となる。

「ラレイラさん。撤回は期間内なら無条件で可能です。まず落ち着いて下さい」

 相手の名前を穏やかに呼び、努めて優しく、声をかける。

「あの……黒東さん……私……」

 ラレイラの震える吐息が一瞬、遠ざかる。電話から顔が遠ざかった……横を向いたか?

「はい。どうしましたか?」

 問いかける理司。ラレイラは長い沈黙をおいてから、

「ごめんなさい……私、考えたんですけど契約はやっぱり……できません」

 暖かな灯火のよう声は悲哀で満ちていた。

「――――承知しました。ではただちに契約撤回の手続きを進めます。一時間以内にラレイラさんの手に刻印された召喚魔法が変化して一週間、貴女の『保護』を開始します。その間は新たな召喚契約を結べませんので、ご注意下さい」

 ラレイラは答えない。小さく鼻をすすり上げるような音が聞こえた。

「ラレイラさん。またお会いすることがあれば、そのときはぜひ貴女の歌を聴かせ下さい。貴女に良き盟約が訪れることを心からお祈り申し上げます」

「…………あのっ! 黒東さ――」

 決然となにか訴えようとしたラレイラ。だが唐突に通話が切れる。

 理司はステホを見下ろして逡巡。リダイヤルしてみる。

 だが…………一向にラレイラは出ず、留守番電話に切り替わるだけ。

 理司はステホを藤代へ返す。

「どうでしたか?」

 受け取りつつ、OAチェアに座ったままの所長が聞いてくる。

「所長が話を引き延ばしていた理由はわかりました。どうにも不自然です」

 契約撤回は無条件で受け付けなくてはいけない。理由を聞いたり、話を引き延ばすのはグレーな行為だ。その危険性を知りながら藤代が話し込んでいたのは理司同様に、ラレイラの口ぶりになにか違和感を持ったからだろう。

「それに――」

 理司は未だに背中へ張りついている一子を見やる。

 彼女はうなずき理司の言葉を継ぐ。

「『私、考えたんですけど契約はやっぱり』の部分がすっごくウソでした」

 するとラレイラ自身が望んだ契約撤回ではない可能性がある。ラレイラは通話中に顔を背けたような気配があった。傍らに誰かが居てそちらを向いた――というは想像が過ぎるか?

 ともかく納得のいかないことが多い。

「黒東くん、陽賀美さん。言っておきますがこれから一週間、ラレイラ様は契約術式の保護下に入ります。その間、交渉目的での仲介士の接触は禁止です。わかっていますね?」

 一子は口を開けたまま不思議そうに首を傾げたあと――表情を輝かせた。

「ワン子は仲介士ではないので、おっけーですね! ではいってきます!」

 言うが早いか、一子は制服姿のまま事務所を飛び出していった。

「ちょっと! 陽賀美さん――ワン子ちゃん!」

 女所長の冷静沈着な化粧がはがれて、藤代は叫んだ。

 だが階段を下る音はすでに遠い。

「理司ちゃん……悪いんだけど、連れ帰ってきてくれる?」

 脱力し、デスクに突っ伏した藤代が申し訳なさそうに理司を見上げた。

 だが理司は素知らぬ顔で構えていた。

「いやぁ、陽賀美くんもなかなか頭が回りますね。彼女は仲介士ではありません。交渉の意図はもまるでないでしょう。つまり現段階では法に抵触しませんよ」

 赤い瞳に恨めしそうな感情がこもる。

「……行政から指導を受けたら減給してやるんだから」

 少し長い八重歯を見せて藤代は『フシャー』と威嚇してくる。

「その理不尽な発言は問題ですよ、所長」

 理司は制服のネクタイを緩めてキャラを抜く。

「……藤代姉。ルキ兄は休憩室?」

 藤代はうなずき真上を指さす。

「おおかた夕日の窓をバックにダンディでもしてるんでないの?」

「あの人も好きだなぁ……」

 苦笑しながらも理司は所長室を去ろうとし……立ち止まる。

「荷物、そこに置いたよ」

 デスクの片隅に乗せた小包を指さす。藤代はそれを手に取り、差出人を確認。

「あ~ら、お早いこと。さすがねえ」

 藤代は驚きと喜び半々といった表情を浮かべた。

 理司は事務所を足早に出ると四階への階段を上りながらステホを取り出し、一子へ電話をかける。しばし呼び出しが続いたあと息を弾ませた一子が応じる。

「ワン子、いいかい? これから君には密命を与える――――違う、三ツ目じゃない。君の目を増やしてどうするんだ。誰にも気づかれちゃいけない秘密の命令だ」


 ラレイラは自室の床に力なく座り込んでいた。

 涙を浮かべた紫の瞳。下まぶたに浮かんだくまから憔悴がうかがえた。

「貴女……いまなにを言おうとしたデスか?」

 声はカーテンの締め切られたリビング中央から響いた。

 黒いゴスロリ衣装の女――戸木島 知朱がテーブルに腰掛けて足を組んでいる。

 ソファーでは白いパンツスーツの女――ザンザメーラ・エイリアが剣呑な空気の中、腹立たしいほど呑気に緑茶をすすり、褐色の頬を幸せそうに緩めている。

 不意に知朱の衣服の上を、手の平にあまる大きさの蜘蛛が這い上がってゆく。長い脚を蠢かし土蜘蛛は知朱の肩まで登った。その前脚は器用に赤いスティックフォンをつまんでいる。

「んん~、お利口です露草」

 知朱は露草からステホを受け取ると愛おしそうに細長い腹を一撫で。それからラレイラのステホを顔の高さへつまみ上げて眺める。

「もしや――知朱たちのことを告発しようとでもしたデスかぁ?」

 知朱は通話の切れたステホを眺めたまま無感情に呟いた。それも束の間、ステホを床へ放ると、襲いかかるような勢いでラレイラの眼前まで接近した。

「――自分の立場、おわかりデスか?」

 ラレイラの細い肩を両手で掴むと、知朱はほとんど抱きつく恰好で耳打ちした。

「でも……あの件は……私じゃなくて……」

「はあああっ!? あの一件、『自分は悪くない』とでも言うデスか!?」

 何事か訴えようとしたラレイラを知朱が怒声で竦ませる。

「貴女のせいで何百、何千の罪のない人が酷い目にあったんデスよ? いまさらそんな言い逃れ、認めてくれる人間がいると思いますか? そう思うのならさっきの黒東というヤツにすべて――す・べ・て・話してみるといいのデス」

 ラレイラの苦しげな視線とともに、頬から脂汗が床へと落ちた。

「もう一度聞きたいデスか?」

 知朱は自分のステホでラレイラの頬をペチペチなぶる。

「昨日た~っぷり聞いたあの声を。みんなを不幸にする貴女の――」

「やめて……っ!」

 陰惨なものを突きつけられたかのように、ラレイラは表情を歪めて身を引いた。だが知朱は夕日色の髪を掴んで逃さない。吐息の触れ合う距離で知朱は、恐怖に揺れる紫の瞳を嗜虐的な視線で射貫く。

「貴女の罪は誰にも許してもらえないデス」

 耳朶が凍って落ちそうなほど、そのの囁きは冷たい。

「でも知朱たちなら貴女の罪を薄めて上げられるデス」

 一転して罪を包み、暖めるように。

「どういう…………意味ですか?」

 いぶかしげに眉根を寄せたラレイラが恐る恐る問う。

「――謝りたい人たちがいるのではないデスかぁ?」

「…………居場所を……知ってるんですか? 無事……なんですか?」

「知っているかもしれませんし、知らないかもしれません。無事かもしれませんし、そうでもないかも……すべて貴女次第デス。この意味、優しい優しいラレイラさんにならわかりますよねぇ? きっしし!」

 ラレイラはただ、意志の消えた紫の瞳に床を映した。

 知朱は花畑で遊ぶ少女のような軽い足取りで、ラレイラの背後へと回り込むと再び抱きついた。そして夕日色の髪をかき分けて、耳へ唇を寄せる。

「貴女は罪を犯したデス。ならば償わなくてはいけない。贖罪の機会を知朱たちが与えて上げるデス。だから貴女は知朱たちに力を貸して下さい」

 諭すように、そっと撫でるように、知朱は囁き続ける。

「それに知朱たちは鬼族や魔族と違うデス。ちゃんと罪を償っていけば貴女に歌う場を与えて上げるデス。大罪を犯した貴女でも生きてゆける場所を与えられるのは――知朱たちデス」

 知朱は背後から優しくラレイラを抱きしめる。

 だがその表情は笑み崩れていた、嗜虐的に両目を見開き、唇を歪め、邪悪に。

「ではもう一度、貴女がこれから取るべき行動を、貴女の口から教えて下さい」

 うなだれたラレイラは震える息を吐き出したあと、観念したように瞑目した。

 そして涙が一筋――流れて、落ちた。

「契約っ、します……貴女たちと……『週末殺したちウィークエンド・キラーズ』と」

 知朱は不意にラレイラから身体を離すと極上のワインでも一口、飲んだように多幸感満ちた吐息を天井へと吐き出す。そして黒い髪を振り乱しながら再びラレイラの背に抱きつく。

「まぁ、そうなんデス!? あぁ助かりますぅ! ラレイラさんはいい人デスね!」

 屈辱に唇を噛んだラレイラは床をさまよっていた視線を上げる。けれど振り返ることができない。ささいな反抗の意志さえ現すことなく視線は再び床へと落ちる。

 ――そのとき、投げ捨てられていたラレイラのステホからアラームが鳴った。

「……お仕事……いかないと……」

 ラレイラは熱病で朦朧としているかのように遠くに転がったステホへ手を伸ばした。知朱はそれを制すことなく、彼女を両腕から解放する。這いずるようにステホを目指すラレイラ。それを背後から見下ろす知朱の瞳は冷たい。

「ザジ」

「――ん? なぁに知朱ちゃん」

 お茶を飲みながら二人のやりとりを観覧していたザジが首を傾げた。

「ラレイラさんを仕事場まで送りなさいデス。あの調子で事故にでもあったら大変な損害デス。知朱の評価にも響くデスし」

「え~、面倒くさ――」

「白絹、露草」

「はひぃっ! いってきますぅ!」

 ザジは慌ただしくソファーから立ち上がった。

 知朱はザジの座っていた場所へどっかり腰を落とすと虚ろに、どこか自動的に、身支度を進めるラレイラを嘲るような視線で眺めた。

「ま、歌う場所は八割方、ベッドの上でしょうけどね。きっしししし!」

 喉を痙攣させるような甲高い引き笑いがリビングに響いた。


「ぬぐぐぅっ~」

 一子は電信柱の影から前方を歩く二人組を注視していた。

 一人は夕日色の長い髪、白いワンピースに水色のジャケットを重ねた少女――ラレイラだ。

 ラレイラの隣を歩いているのは短い金髪、白いパンツスーツの女性。

 一子は理司から与えられた『みつめー』を遂行すべくラレイラを尾行していた。

 とりあえずラレイラの家を目指していた一子に当初、下された密命はマンション前での張り込みと、異常の報告だった。だが昨日、すれ違った『ウソの女』の一人がラレイラを連れて外出したところから、任務は尾行へと変化した。

 ラレイラは白スーツの女に他愛もないことを話しかけられていたが、まったく無視していた……と、いうよりも反応する元気がない様子だ。時折、よろめいて白スーツの女に支えられ、笑われていた。

 彼女たちを尾行する一子は、やがて駅に近い居酒屋などが飲食街へと足を踏み入れていた。鬼志別事務所のある神大賀の歓楽通りよりも入り組んでおり店も多く、ちょっとごちゃついている印象だ。夕方ということもあって人通りはまだ少ない。

 ほどなく二人の足が雑居ビルの前で止まる。ラレイラはその一階の店へと入っていった。白スーツの女も続くが追い立てられるような勢いで飛び出してくる。店の前でずっこけた彼女は困った様子で頭をかき、そのままどこかへいってしまった。

 一子は店へと駆け寄り、壁に貼りつけられた電飾看板を見上げる。

「ばー…………ふぇありーてー……る?」

 眉根を寄せて、アルファベットを読み上げる。続いて店先の窓から店内をうかがうが、黒いカラーガラスのせいで中がわからない。『ぬぐぐぅっ!』と目を細め、獣耳を立ててみるが、やはりよくわからない。

 『どうしていいか判断に困ったら即連絡』と理司に指示されていた一子は店先から離れ、ビルの影にしゃがみ込んでステホを取り出した。


 淡い水色の髪は、上空からでもよくわかった。

 高度を下げてもらい、ビルとビルの隙間を降下していく。地面まで四メートルほどのところで、勘の良い一子がこちらを振り仰いだ。不思議そうにぽかんと口を開けている。

 黒いコートをはためかせながら、理司はゆっくり地面へ着地した。

「理司さん、空が飛べるんですか!?」

「期待通りの反応どうも……俺は人間だよ、空なんか飛べやしない」

 言いながら振り仰ぐ。夕と夜の合間の空へと緑の輝きが三つ、踊るように舞い上がっていく。理司はその光へと軽く手を振った。

「……召喚獣さんですか? 理司さんの?」

「いいや、俺のじゃない。借り物さ」

 理司は手鏡を取り出すと上空の強風で乱れた黒いロングコートを正し、同じく黒いハットの角度を整える。サングラスをかけ最後に鏡へ向かってにっ、と笑う。鋭く尖った牙が覗く。

「わぁあ! 吸血鬼の恰好ですか、これ! 知ってますよ! ゆーぶいカットの帽子とコートですよね! でもどうして……?」

 素直な一子が真っ先に吸血鬼族、と認識した。偽装の調子は良いようだ。

「食レポサイトで調べたところフェアリーテイルという店は召喚獣専用らしい。時間がなくて難しい変装が無理だったんでね、扮しやすい吸血鬼の恰好を選んだんだ」

「なるほどー」

 感心している一子の頭から、理司は予備のマントをかぶせた。

「君は召喚獣の血を引いているから入店自体はOKだが髪色と制服姿は目立つ。ラレイラさんにバレないようにそれをかぶるんだ。店内でラレイラさんを見つけても『あっ、ラレイラさんです!』などと声を張り上げるんじゃないぞ?」

「わん! りょーかいの助です!」

 マントをわたわたとかぶりながら一子が声を張り上げた……不安は拭えないが気を揉んでいても仕方ない。

 理司は一子を引き連れて『バー・フェアリーテイル』の前に立った。

 入れていくキャラは当然、吸血鬼。年代は人間で言うところの三十過ぎを想定。声は低めに作っていく。自分から話し出す性分ではないが、話しかけられれば返すのはやぶさかではない、やや控えた性格と設定。

 キャラのイメージを固めた理司は、趣のある木製の扉を押し開けた。

 カラン、と鐘の小気味良い音が響く。

 真っ先に煙草と練り香の混ざった匂いが漂ってくる。

 店内の照明らしい照明は、点々と灯されたキャンドルのみ。薄ぼけた橙色の光芒の中には何十年も昔の喫茶店のような光景が広がっていた。

 テーブルもチェアも年季を感じさせる木製。床は板張り。漆喰の壁には古めかしい異界の絵が飾られている。天井のシーリングファンが軋んだ音を立てながら、揺らめく紫煙をゆっくりとかき混ぜていた。

 吸血鬼に扮した黒ずくめの理司と、頭からマントをかぶった一子へ、数名の客が視線を向けてくる。理司は召喚獣たちの視線に動じず、誰も座っていないカウンター席へと直行。一子がそのうしろをちょこちょこついていく。

 理司はスツールに腰掛けると、仕事終えてきた雰囲気満点の吐息を一つ。

 奥の厨房からマスターと思しき男が姿を現す。

 身の丈二メートルを越える一つ目の巨漢――サイクロプス族だ。肌は土気色、髪は先天的に生えていないのか綺麗なスキンヘッド。バーのマスターらしくタキシードを身につけているが、盛り上がった筋肉でシャツがはち切れそうになっている。

 その偉容に内心、息を呑む。だが緊張はすぐさま氷解した。

「いらっしゃ~い。見ない顔だね初めてかい、バンパイアの兄さん」

 単眼を柔和に細めると、イノシシのような下あごの牙を見せて笑いかけてくる。

 なんとも気さくなマスターのようだ。

「ああ。ミルクの種類が豊富な店があるって聞いたんで寄ってみた」

 血の組成と近いミルクを代用品や嗜好品にしている吸血鬼は多い。堂々とミルクを注文することで吸血鬼をアピールしつつ、年齢的に飲めない酒を頼まない不自然さを薄める作戦だ。

「そりゃ~兄さん良い考えだ。牛乳なら種類は豊富だ。他にも馬、山羊――珍しいとこだとエキドナ族の母乳もある。安くはないがどうだい? 味は保証つきだ」

「いや、牛乳で頼む。ジャージー種のを」

「そっちのお嬢ちゃんは従者かい? ご注文は?」

「は、はい! えっと……」

 慌ててメニュー表を逆さに持つ一子の頭に理司は手を乗っけた。

「こいつにはメロンフロートを頼む。できるかい?」

「バカにしなさんな兄さん。サイクロプスは器用なんだぁ」

「はっは。そりゃ楽しみだ」

 理司は少し大げさに肩を揺すって笑う。

 厨房へ下がってゆくマスターを見届けた理司はカウンターに頬杖をつくと何気なさを装い店内を観察する。こういったとき視線をぼかすサングラスは便利だ。

 席数はカウンター席が五、年季を感じさせる木製のテーブルとチェアのセットが十。こぢんまりした店だ。客数は理司たちを除いて五体。店の雰囲気に馴染みきっているところを見るに、いずれも常連客なのだろう。客同士の会話がよく通る。煙草を吸うためのマッチに火が灯る『ぼっ』という音さえ聞き取れるのはBGMが流れていないためだ。

 一通り見回したが――

「ラレイラさん……いませんね」

 一子は小さく呟いた。ラレイラに見つかるな、と指示したためか声をかなり潜めている。

「――いや、そのうち現れるさ」

 理司は店の奥角を親指で示す。

「…………ピアノです」

 丹念に磨かれたピアノはキャンドルの薄明かりを受け、奏者の訪れを静かに待ちわびている。

 学校の音楽室にあるような小型のピアノ――アップライトピアノだ。しかしよくある黒塗りではなく、木材の色と質感を生かした造形だ。上前板には茨の装飾が彫り込まれており、その小ささもあってレトロな戸棚やタンスに雰囲気が近い。

「おや~? 兄さん方、あれに興味があるのかい?」

 マスターは理司の前にグラスへ注いだ真っ白なミルクを、一子の前にはチェリーの乗ったメロンフロートを置いた。バニラアイスの乗っかったメロンソーダに一子の瞳が輝いている。

「多少な。女をたらし込むのに使えると聞いて昔、少しな」

「吸血目的での交際はご法度だぜ、兄さん?」

「わかってるさ」

 理司は苦笑しながら肩をすくめてみせる。隣の一子はメロンソーダでとろけたアイスを一口食べ、幸せそうに身震いしていた。

「それで、誰か演奏でもするのか? 清掃は行き届いているようだが」

 おおよそ想像はついていたが尋ねてみる。

「……吸血鬼族って~のは人間と感性が近いんだったかねえ?」

「……まぁな。始祖は人間だって噂もある」

 質問の意図は読み取れないながら理司は答える。

「じゃあ、もし『歌』がいいと思ったら拍手の一つもしてやってくんな」

 そのときピアノの裏手にあるドアが軋みながらゆっくり開く。

 現れたのは女性。長い夕日色の髪は緩やかにウエーブを描いている。白いワンピースに紺色のショールを重ね、胸元には貝殻を繋いだネックレスを飾っている。

 思わずため息の出る美少女――ラレイラだ。

 ラレイラは小さなピアノの前に立つと、客席へ向かって深々とお辞儀する。

 だが客たちの反応は素っ気ない。一瞥をくれたあと再び会話を続ける者や、そもそも彼女の登場に気づいていない様子の者ばかり。ちなみにアイスに夢中な隣の子犬もこの頃ようやくラレイラの登場に気づき、驚いてむせ返っている。

 ラレイラもまたそんな召喚獣たちの反応など知っていたように、虚脱とも諦念とも取れるかすかな笑みを浮かべたあとイスに腰掛けて、丁寧に鍵盤蓋を開ける。

 白と黒の鍵盤がキャンドルの灯を受け、艶めいて光る。

 ラレイラの緊張を現すように腰元でたたまれた黒褐色の翼が小さく震えた。

 彼女は白く細く滑らかな両の指を鍵盤へ添え、小さく息を吸い込む。

 指が鍵盤上で踊り出す。小さなバーに響き出すピアノの旋律。

 紫の瞳は絶対の自信に満ち、鍵盤を操る指先に迷いはない。

 演奏する姿は荘厳。いつもの頼りなく儚げなラレイラはどこにもいない。

 もの悲しい高音で綴られる前奏が終わる。

 歌声が広がる。

 哀愁のメロディーでありながら、未来を信じる強さに彩られた歌詞。

 ラレイラの暖かく柔らかい声が、そこに輪郭を与え、歌の存在感を増す。

 高級とは言いがたい飲み屋街の一角が、最高の歌に彩られた豊潤な空間に変化を遂げていた。

 理司と一子は心を抱きしめられたように、どうしようもなく聞き入っていた。

 いつしか一曲目が終わり、ラレイラが手を止めた。

 理司は拍手できなかった。キャラを入れているはずなのに心が一杯で、どうしようもなかった。隣の一子もロングスプーンを握り締めたまま放心している。

「なぁ、兄さん――どうなんだい、ラレイラちゃんの歌は?」

 その問いで理司は我に返った。

 どう――とは、なんだろうか? 賞賛以外になにかあろうはずもない。それとも理司が声楽に精通した吸血鬼にでも見えるのだろうか?

「俺たちゃ~歌と絵とか――そういう文化的なことと無縁の種族も多い。だからあの子の歌の価値がいまいちわからん。俺はあの子の声はなにか凄い気がする。迫力がある。だから週に二~三回、こうして歌ってもらってる。でも大半の召喚獣に取ってはこの通り――」

 マスターは顎をしゃくって店内の召喚獣たちを示す。

 驚いたことに召喚獣たちは酒を飲みながら何事もないように雑談を続けている。

「『美声の鳥がさえずっている』程度にしか感じちゃいない」

 当然、歌を好む召喚獣はいる。だが全体的に召喚獣たちは歌よりも、ドラムや太鼓など原生的な音を好む種族が多いと聞いていた。だがここまで極端とは思いもよらなかった。

 ラレイラが二曲目の演奏を始める。

 理司はマスターへ片手を挙げ会話を中断すると再びラレイラの歌声を傾聴する。マスターもそれを察し、シルバー類を拭きながら歌に耳を傾ける。

 揺れるキャンドルの灯に照らされ、有翼の美少女が暖かく穏やかな声で歌う幻想的な光景。

 天上の演奏会を垣間見ているかのような幸福感。

 理司と一子は、時間を忘れて聞き入っていた。

 ラレイラは合計五曲を弾き語りし、優しく鍵盤蓋を閉じる。そして登壇したときと同じように客席へ向けて、深く頭を下げた。

 理司は拍手すべきか悩んだ。ラレイラの歌声に心を揺さぶられすぎた。いま自分が雰囲気まで偽装できているか、自信がない。拍手して正体がバレてしまうのは得策では――

「うわああああ~ん! ラレイラさん凄いですぅううっ!」

 隣で号泣し始める一子。

 去ろうとしていたラレイラは立ち止まり、驚いたように振り返った。

「カフェオレです! ラレイラさんの歌声は暖かくて、柔らかくて……ちょっとだけお砂糖の入ったカフェオレみたいです! おじさんカフェオレ一丁です!」

 一子はメロンフロートをアイスも氷も一気に飲み干し『おかわり!』と言わんばかりにマスターへグラスを突き出した。勢いに圧倒されたマスターがたじろぎながらグラスを受け取る。

「さて……どうするかなぁ……」

 理司はまだ口をつけていなかった牛乳を一口飲み――腹をくくった。

 諸手を挙げ、拍手。力の限り、感動への精神的対価として、手が痛むほど拍手。

 釣られて一子も目一杯、両手を打ち合わせ始める。

 二人で響かせる万雷の拍手に、驚いた客たちが何事かと理司たちを注視した。

「…………黒東さんに……陽賀美さん?」

 呟いたラレイラ。途端、荘厳な歌姫の雰囲気は消散し、視線は戸惑いながら床へと落ちる。ラレイラは逃げるようにピアノの裏のドアへと駆け込んでいった。

「……兄ちゃん方、どうしたんだ?」

 戸惑うマスターに、理司は肩をすくめ牙を見せて小さく笑う。

「マスターが言ったんだろう、歌がいいと思ったら拍手しろって。あの歌は凄い。デカいコンサートホールが人間で一杯になる」

 それにこちらの正体はどうせバレてしまったのだ。ならば心のままに動くまで。

「そ……そうか~……」

 マスターは感心したように唸った。

 これからどうしたものか……正体を隠してラレイラの様子を探る作戦はこの通りご破算になった。だがこのまま引き返す手もない。そうすると――

「理司さん! ラレイラさんに会いにいきましょう!」

「……だな」

 契約術式の保護下にある対象へ仲介士が接触するのは法律違反だ。だが『交渉目的』での接触が禁止なのであって、交渉をおくびにも出さなければ問題ないということにもなる。

 屁理屈にも聞こえるが、この法はあえてグレーゾーンを広く取られている。

 例を挙げると父親が仲介士で、子供が召喚獣だったとする。もし子供が交渉を持ちかけられ断った場合、術式の保護を受けるわけだが、仲介士が保護下の対象との接触を厳禁とされた場合、同じ家で生活できなくなってしまう――こういった出来事を防止するためだ。

「マスター。俺たちはすっかり、あの――ラレイラさんという歌手のファンになった。ぜひともサインをもらいたいんだが、会いにいってもいいか?」

 交渉の『こ』の字も出すことなく、どれだけラレイラから事情を引き出せるか……準備なしで挑まなくてはならないのは苦しいが、やるしかない。

「なにとぞ会わせて下さい! お願いします!」

 もう正体を隠すつもりのない一子。カウンターに身を乗り出して声を張り上げた拍子に、マントがずれて水色の髪が露わになる。

「おぉ~……ラレイラちゃんも喜ぶんじゃねえかな。ちょっとあの子に聞いて――」

「感謝するぞマスター」

「トキメキが留まるところを知りません! 早速、会いにいきましょう!」

 理司と一子はスツールを下りて、ピアノの裏側にあるドアへと足早に向かった。

 強引なやり方で心苦しいのだが、ここでラレイラにおうかがいを立てて拒否されてしまえば、状態は悪化しただけになる。なんとか成果を持ち帰りたい。

 心の中でマスターに詫びながら、理司と一子はドアを開けた。

 明滅する蛍光灯に照らし出されたのは短い通路だ。物置をかねているらしく左手の金属製ラックには備品が積んである。通路の奥にはもう一つ、ドアがあった。

 理司はドアの前に立ち、しっかりと二回ノックする。

「…………はい……どうぞ」

 ラレイラの声にはどこか観念したような感情があった。

 理司はドアを開ける。そこは事務所であり、休憩所であり、更衣室も兼ねているようだった。小さな店舗にありがちな『なんでも部屋』だ。鬼志別事務所の休憩所に似ている。

 散らかった部屋の奥で、事務机のイスに座っていたラレイラは怯えた眼差しを理司たちへ向けてくる。その容貌はやつれて見えた……たった一晩の間になにがあったのだろうか……

 理司はゆっくりした歩調でラレイラへと近づき、少し手前で立ち止まった。

「先日はどうも。黒東です。ラレイラさん――歌、とても素晴らしかったです」

 ラレイラの前で吸血鬼のキャラを維持するのもどうかと思い、理司はサングラスを外す。代わりに入れるキャラに迷った理司は、これと決めずに会話を始める。

「ワン子は泣きました! すっごく素敵でした!」

 怒鳴られるとでも思っていたのか、ラレイラはさも意外そうに目を瞬かせる。

「あの……えっと…………ありがとう……ございます」

 戸惑いながらも、イスに座ったまま深く頭を下げるラレイラ。その表情が少しうれしそうに和らいだのが、理司にとってもなんだかうれしかった。

「言葉にできないほど最高の歌でした。セイレーン族というのはみんな、あんな風に歌が上手いんですか? それともラレイラさんは以前、どこかで本格的に――」

 とりあえず世間話の体で会話を切り出す。それは打算抜きで興味を持ったことでもある。だがラレイラは落ち着きなく部屋の中に視線を漂わせている。なにかを探しているような……見えないなにかに怯えているような……

「どうしました、ラレイラさん?」

「すみません、黒東さん……私からお話できることは……なにもありません」

 それっきりラレイラは、うつむいて視線をこちらへ向けようとしない。

 完全に無視の姿勢。交渉が……いや会話が一番辛い状態だ。

(……なるほどぉ……これは『あの連中』になにか吹き込まれたかな? さっきラレイラさんの目線はなにか探してるように動いていた。召喚獣にでも監視されているか? と、すれば盗聴、盗撮をされている可能性を考えておかないとな……)

 一子が事務所を飛び出したあと、理司はルキノから昨日撮影された何枚かの写真を受け取った。そこには黒いゴスロリ衣装の女と、白いパンツスーツの女がラレイラの家に出入りしている姿が映っていた。

 彼女らの正体については目下、調査中だが真っ当な筋の手合いには見えなかった。特に肩に土蜘蛛族の子供を乗せた黒いゴスロリ衣装の女……ヤツがラレイラの家へ入ろうとする瞬間を捉えた写真が理司には忘れられない。

 なにかを妬むような下から見上げるベタついた視線。口元にはいまにも舌なめずりしそうな歪んだ笑み、心の奥底に沈殿した汚泥が染み出たような一枚だった。

 これを写真写りが運命的に悪かっただけ、とは思うまい。

 そしてラレイラの腑に落ちない召喚契約撤回の連絡。

 理司にはすべて無関係と切り分けられない。

「交渉に来たわけではありませんから、そう構えなくても大丈夫ですよ。それにラレイラさんはいま契約術式の保護下にあります。その状態の方に交渉を行うのは法律違反ですから」

 ラレイラは沈黙を貫く。これは時間がかかる……あまり長く居座ればマスターが様子を見に来るかもしれない。そうなると厄介だ。

「ラレイラさん! 昨日、わたしたちが帰ったあとなにかあったんですか!? 契約が決まってラレイラさんすっごくうれしそうでした! わたし、ラレイラさんが契約したくないって連絡をしてきたって、いまでも信じられないんです!」

 一子はラレイラの前に正座して真剣な琥珀色の瞳で彼女の顔をのぞき込む。

「契約の撤回は本当にラレイラさんの考えですか?」

 ラレイラは無言のまま、けれどすがるような表情で一子を見つめ返す。

 判断材料が表情だけだったため難しかったのか一子は少し長い間、ラレイラと見つめ合っていた。やがて立ち上がりわざわざ理司の元まで戻ってきて、コートの袖を力強く引っ張った。

 ――やはり契約撤回はラレイラにとっても不本意なものだった。

 理司は再びラレイラの前へ戻ろうとする一子の肩へ手を置く。一子は不思議そうに見上げてくるが、理司の感情をくみ取ったのか黙って留まった。

 理司は最悪の状況を頭において行動を選び始める。

 この状況はおそらく召喚獣に監視されている。契約撤回が当人の意志ではないにも関わらず、真相をラレイラが話そうとしないことがその可能性を高めている。

 理司がラレイラに質問をし一子にウソを見破ってもらえば情報は手に入る。だがそれは交渉と判定されかねない。『契約術式の保護下にある召喚獣へ交渉を行った仲介士がいる』という情報を流されては事務所ごと身動きを封じられてしまう。

 一子にすべて任せる、という手も苦しい。彼女が仲介士ではないからといって、保護下の召喚獣を質問攻めにするのは黒寄りのグレー。彼女の質問は先ほどの一回に押さえるべきだ。

 ではどうする――一瞬の、深い黙考を経て、理司は一子の肩から手を放す。

「やめるんだワン子。今日は交渉に来たわけじゃないだろう。目的はなんだった?」

 一子の獣耳が困惑したように、へんにょり倒れる。

「ラレイラさんにサインをもらいにきたんだろう?」

 不思議そうにしたままの一子を尻目に、理司は会話を進める。

「ラレイラさん。俺たちは貴女の歌に感動して、サインが欲しくて押しかけてしまったんです。ご迷惑は承知ですが、いただけませんか?」

 ラレイラも状況がよくわからず目を瞬かせたが、

「ぁ……はい……迷惑だなんてそんな。私ので良ければ、喜んで」

 ラレイラははにかんだ微笑でうなずく。『話すことはなにもない』と言っておきながら、ついつい反応してしまうのは打ち込んでいる歌を評価されたのがうれしいのだろう。

「――そうだワン子。ラレイラさんと写真を撮らせてもらったらどうだい?」

 理司はステホを取り出しながら、唐突に提案を繰り出した。

「わん! 写真、いいですね! ラレイラさんと撮りたいです!」

 理司の考えなど読めてはいないであろう一子だが、その提案に凄まじく乗り気だ。単純にラレイラと一緒に写真に写りたい、という本心から出たのだろう。

「いいですか、ラレイラさん?」

「えぇ……構いませんけど」

 一方ラレイラは当惑しきりだ。流されるままうなずいている。

「ん~……そっちだと机が邪魔ですね。ドア側で並んで撮りましょう」

 理司は出入り口付近を指し示す。それに従い一子が飛び跳ねるようにドアの前に移動した。ラレイラは眉根を寄せながらも一子の隣に――遠慮がちに距離を開けて並んだ。

 理司はステホのキーを操作して、カメラモードをセット。青い光のウインドウが浮き上がり、手の平大のファインダーに変化する。

 理司は撮影準備しながら目だけ動かし、部屋の隅々へと視線を配る。

 ――――――いた。天井、蛍光灯の裏側で蠢く一体、積まれたダンボールの隙間に潜む一体、土蜘蛛の子供を発見できた。念のため他にいないかくまなく確かめるが――見つからない。

 監視の召喚獣は他にいないと決め打つ。

「二人とももう少し寄って下さい――ラレイラさん、表情が硬いですよ」

 写真屋の気さくな店員の体で理司は声をかける。

 ラレイラは笑顔を作ろうとして、余計に表情がぎこちなくなる。隣の一子はそんなラレイラを見上げていたがぴょんと隣に飛び跳ねて、黒褐色と白色ツートンの翼の内側へと入った。

「ぇひひ……」

 一子が照れた笑みを向けるとラレイラの表情もほぐれる。彼女は一子の肩へ手を乗せると自らも少し距離を縮めた。

「いい絵ですよ。いただきます」

 完全にカメラマン気分の理司は、光ウインドウのシャッターボタンに触れた。

 パシャリ、と軽快な音が鳴りウインドウには自然な笑顔の二人が写る。我知らず撮れた素晴らしい写真に理司は満足する。

「それではサインを――」

 そのときラレイラが控えめに、胸の前へ手を挙げた。

「あの…………黒東さんとは、撮っていただけないのですか?」

「え……っ?」

 キャラをしっかり定めていなかった理司、思わず素の声が出る。

「あ、いえ……その……ご迷惑でしたか……」

「あ、いえ……そんな……とんでもない……」

 なんだか似たようなはっきりしない応酬があり、

「撮りますよー! はーい、チーズです!」

 パシャリ――理司とラレイラが遠くなく、近くもない微妙な距離感の写真ができあがった。しかも一子が勢い込んでシャッターボタンを押したため、写真がブレてしまっている。

「ぶれぶれじゃないか」

 一子のおでこをちょん、と突く理司。

 続いてラレイラに事務机へと戻ってもらい、サインをもらう準備を始める。

「色紙を持参していなくて……申し訳ないのですが名刺にいただけますか?」

 失礼千万は万も承知で理司は尋ねる。だがラレイラはたおやかな笑みで首肯してくれた。

「ありがとうございます、では――」

 理司は事務机の真横、間近に立つと名刺を取り出す。同時に内ポケットからペンを取り出し、指先だけ使うような極力小さい動きで素早く文字を書く。

「ここに、お願いします」

 理司が事務机に名刺とペンを置く。普通にサインをする気でいたであろうラレイラはペンを取り、その下に隠れていた文字に小さく息を呑んだ。

『再交渉 可 否』

 ラレイラは理司を見上げる。すべての合点がいった、という表情だ。

 理司は小さくうなずき背後の気配に全神経を集中する。土蜘蛛たちの位置は写真を撮った際に把握した。長身の理司が彼らの視線を遮ってしまえば筆談は可能だ。

 ラレイラはペン先を名刺へ添え…………だが手を止めてしまう。

(……ラレイラさん?)

 赤い唇を浅く噛み、眉をしかめる、その横顔。

 吐息の震えには、押し殺した恐怖が滲んでいる。たった一晩の内にラレイラはやつれた。それほどの責め苦を受けた彼女の心が、いま恐怖心と戦っていた。

 ここでラレイラが長く戸惑っては土蜘蛛たちに気取られてしまう。

 固唾を呑んで見守る中……ラレイラの握るペンは意を決したように走り始めた。

「…………これで……いいですか?」

 頬に汗を浮かべたラレイラが名刺の上にペンを重ねて差し出してくる。

 『可』の部分に○がつき、彼女の署名サインも英字で入っている。意思表示としては申し分ない。

「完璧です、ありがとうございます!」

「あのあの! ワン子も名刺にサインもらっていいですか?」

 一子も名刺を持参しており、それをずばっ、とラレイラへ差し出した。

「ええ、喜んで」

 ラレイラは汗を指で拭うと微笑みながら一子の名刺裏にもサインを始めた。その間に理司は別の名刺の裏に、再び文字を書き始める。やがて手を止めたラレイラが一子へ名刺を返した。

「わん! わたしサインをもらったの初めてです!」

 無邪気に喜んでいる一子。その高まりに反して、理司は静かにラレイラと視線を結んでいた。理司は手の中に握っていた新しい名刺の裏面をラレイラへ見せる。

『助けます 必ず』

 ラレイラの唇が震えた。紫の瞳に涙を浮かべた彼女は、ただ小さくうなずいた。

「では今日はここで。素晴らしい歌とサイン、ありがとうございました」

「ましたー!」

 頭を深く下げる理司と一子。二人はラレイラに見送られて部屋をあとにした。

 蛍光灯の明滅する通路で吸血鬼のキャラを入れ直した理司は残していた牛乳を飲み、マスターに感謝と謝罪をし、会計。未成年で人間、という身がバレるのを怖れて領収書を切ってもらうことはできずドリンク二つとチャージ料〆て二千百十六円……自腹をかっさばいた。

 バー・フェアリーテイルを出た二人。帰路についた足取りが速まる。

 再交渉への道は開けた。

 ここからが正念場。ラレイラをあの不穏な連中から助けるため準備が必要だ。

 

 ――鬼志別召喚仲介事務所。藤代は窓から神大賀の歓楽通りを見下ろしていた。

「……間違いないのね?」

 藤代は窓にうっすら映る着物姿の自分から視線を横へ逸らす。そこにはグレーのスリーピーススーツをまとったルキノが映っていた。

「ああ、間違いないよ。戸木島 知朱、ザンザメーラ・エイリア、ともに召喚獣たちに理不尽な契約を強いるブラック業者――」

 藤代の後方にいたルキノがかすかな笑む。どこか楽しげで、好戦的だ。

「『週末殺したちウィークエンド・キラーズ』の所属員さ」

 藤代は目を閉じる。しばしの沈黙があり、彼女は口を開く。

「キラーズ――聞いたことがあるわね。どんな汚らしい手を使っても召喚獣との契約を結んでくる裏の仲介士集団。その代価として法外な仲介料を要求する…………ラレイラさんには法外な仲介料に値する能力がある、ということなのかしら?」

 目を閉じたまま淡々と問う藤代。その口調は吹雪のごとく酷烈に冷たい。

「そうなるね。ボクらにはラレイラさんが莫大な仲介料に値する能力を持っているかどうか見えていない。キラーズの情報と合わせてその件も調べてるけど――」

 ルキノは不敵に鼻を鳴らした。

「とりあえずボクらはいまブラック業者と対面してるってことさ」

「そうね…………そぉう……」

 冷たいまま狂喜を含んだ藤代の声は、歪な響きだった。

 見開くまぶた。殺気を灯した炯々たる赤い瞳が窓に映る。

 釣り上がった口端からは長い八重歯が覗いていた。

 そのとき事務所のドアの開く音が響く。二人は咄嗟に振り返って身構えた。


「ただいま戻りましたー!」

 一子の元気な声が夜の事務所内に響き渡る。

「君はいつでも元気だなぁ……」

 理司は黒いハットを取りながら微苦笑し、所長室のドアをノック。営業時間を過ぎていたこともあって返事を待たずに開いた。

「…………どうした、あんたたち?」

 どこか身構えるような物腰の藤代とルキノ。二人は理司らの姿を認めるなり小さく、力なく笑った。窓際に立っていた藤代はデスクにつくと、組んだ両手を口元に添えた。

「――陽賀美・N・一子さん」

 一呼吸おくと、改まった口調で切り出す。

「はい、なんでしょうか!」

 飼い主に呼ばれた子犬のように、とてとてデスクに歩み寄る一子。

「本日よりしばらく出勤を禁止します」

「……………………ふぉぇ?」

 片足を挙げ、歩く最中の姿で一子は固まった。

 理司も思考が一瞬、固まっていた。藤代の言葉を何度も吟味したがどう考えても他に捉えようがない。理司は一子の隣を抜けてデスクに詰め寄った。

「ちょっと待ってくれよ、藤代姉っ。唐突にそりゃ理不尽じゃないのか?」

 つい先ほどだって一子はラレイラとの再交渉への道を切り開くため一役買ってくれた。一体なんの理由があって……

「理司……ラレイラさんにつきまとっている二人は『週末殺したち』というブラック業者さ」

 横からルキノが乾いた口調で告げた。

「…………『週末殺したち』……ねぇ。ずいぶんと舐めた組織名だな」

 その組織と事を構えたら休日はないものと思え、と。

「あのあの……キラーズって前に説明してもらった……ブラック業者、ですか?」

 不安げな一子の声に、理司は振り返る。

「そうよ。そして私たち三人はそれぞれがブラック業者の被害者なの」

 藤代もルキノも、そして理司自身も……ブラック業者を強く憎んでいる。

 藤代の父親――そして理司へ交渉を教えてくれた師匠、鬼志別 敬一郎けいいちろうはブラック業者と敵対したため仕事に様々な妨害を受け長期間の不休を余儀なくされた。

 結果、病に倒れ……年若い藤代が事務所を継がざるを得なくなった。

「ボクらにはブラック業者とやりあう理由がある。でもワン子ちゃんにはないよね? 悪いことは言わないから、しばらく家で大人しくしておいて欲しいんだ」

 諭すようにルキノが告げる。

 召喚契約書は魔法的な加工が施された特殊なもので正規の手続きを踏まなければ入手できない。だが彼の一族はブラック業者にだまされて違法契約書の作成と量産化を行ってしまった。その契約書の優秀さから、違法召喚仲介業者の使用する九割がそれだという。

 家族も含め、ルキノの一族は離散した……中には自殺者もいる。

「……そういうことなら俺も賛成だ。一子……君にはもっと色々と教えて上げたかったけど……ここまでだ。良い事務所を紹介するからそちらで腕を磨いて欲しい」

 そして理司自身も七歳のとき親友の、人と召喚獣のハーフを理不尽な契約によって誘拐同然で連れ去られている。理司がこの業界に足を踏み入れるきっかけとなった事件だ。

「前にも説明した通りここからは半分、私闘なの。私たち三人の私闘。ご両親から許可が出ているとはいえやっぱりワン子ちゃんは巻き込めない。だから――」

「待って下さいっ!」

 藤代の言葉を一子が鋭く遮り、なぜか理司を毅然と見上げてくる。

「え~~っ、と……う~ん……」

 なにを言われるのだろうか? 事務所にとどまるため抗議してくるのだろうか。それとも恨み言をぶつけられるのか。素直に別れを言う――性格ではないだろう。

「そう! わたしと理司さんは、わんわんです!」

「君はそうだが、俺は違う」

「間違えました、Win―Winです!」

 琥珀色の瞳が真っ直ぐに理司を見つめてくる。その気迫に思わず目を逸らしかけ、気づく。

 もしかして一子は――

「トワイアさんのときも、ラレイラさんのときも、わたしの力は役に立ったはずです! 今日もお役に立てたと思います!」

 互いがWin―Winになるよう妥結可能な範囲を探ってゆく作業――一子は自分の有用性を訴えることで、理司と交渉する気だ。

「それに怖い人たちとケンカになっても一子は強いので負けません! 理司さんが一人でお仕事するよりも、上手くいくはずなんです! だからわたしも連れて行って下さい!」

 理司は無言で一子の瞳を威圧的に見つめ返す。一子も負けじと理司を見上げていたが……

「ぅぅっ……違い……ますか?」

 気圧されたように顎を引いて一子は肩をすくめた。

「う~ん……惜しいなぁ。『自分が間違ってるかも?』なんて感情はおくびにも出しちゃいけない。自信を持って『なにか違いますか?』と突きつけて相手から言葉を引き出す場面だ」

 理司は目から力を抜いて、微笑んだ。

「それに君にどんなWinがあるのかも明確にするべきだった。なんの利得があって俺たちについてこようとする? なんとなく乗りかかった船から下りたくないだけではないかい? 自分は危ない目に遭わない、とでも思っていないかい?」

 一子は小さく、苦しげに呻いた。

 理司はかがむと一子と視線の高さをそろえ、その細い肩へ手を添えた。

「俺のこと『カッコイイ』って言ってくれて、とてもうれしかったよ。その素直さや優しさを持ったままでいてくれ……業界に残るとしても別の道にいくとしても」

 ブラック業者と揉める可能性を考えて生きてきた理司は、弱点にならぬよう意識的に友達を減らしてきた。それはやはり、少し寂しい決断だった。だから理司の心の壁の内にあっさり滑り込んできた一子に驚きと――感謝があった。

 理司は万感の思いを込めて、一子の水色の髪を撫でた。そして彼女から離れようとしたとき一子は理司の懐に突っ込んできた。

「わたしのお父さんは『困ってしまったとき泣く犬のおまわりさんは三流だが、困った人を見捨てるヤツは人間でも召喚獣でも、三流以下だ』って言ってます!」

 一子は理司の腰元にしがみついて、声を大きくした。彼女の言いたいことがいまいちわからず理司は逡巡する。犬のおまわりさん……童謡……確か一子の父は警官だと記憶している。

「要するに…………困っているラレイラさんの力になりたい……と?」

 腰にしがみつく一子の腕には決して離れまいとする懸命さがあった。

「ワン子はそのキラーズに恨みがあるわけではないです! でもラレイラさんに、あのうれしそうな顔を返して上げたいです! それじゃワン子のWinわんになりませんか!?」

 理司の腹に顔を埋めていた一子が、上を向く。

「なりませんかっ!?」

 琥珀色の瞳に宿った強い意力が回答を求めてくる。今度は理司はたじろぐ。

 理司だって『ラレイラを助けたい』という気持ちは誓って本物だ。なら自分はいま一子と利害を一部共有しているとも言えるのだ……困ったことに利害を共有してしまった。

「理司――ボクらは確かにブラック業者への怒りを握り締めて集まった。でも召喚獣さんたちの役に立ちたい、という純然たる人の心だってある。一子ちゃんの言葉を否定したら召喚獣さんを利用しているだけの復讐鬼に、君はなる」

 このタイミングでルキノの助け船が一子の元へと流れ着く。三十二歳相応の落ち着きで説諭するルキノ、内容の鋭さに素面の理司では即応できなかった。

 理司は藤代を一瞥したが、彼女は長い八重歯をかすかに見せて笑い首を振った。こちらに助け船は流れてこないようだ。

「身の危険があったら――誰を見捨ててもいい、逃げるんだぞ? それが俺の譲れない争点だ」

「いーやです! でも……藤代さんとそういう約束をしたので……わかりました」

 『ぬぐぐっ』と勢い込んだ声が聞こえてきそうな雰囲気で唇を引き結んだ一子。

 理司は深々とため息を吐いて降参の合図とした。

「まとまったようね」

 藤代が手をぽんっ、と打ち鳴らした。

「では、これより鬼志別召喚仲介事務所はラレイラ・オデュッセイア様保護のため、総力を挙げて情報を収集! 『週末殺したち』を妨害します!」

 藤代が敏腕女所長の声で告げた。空気が引き締まる。さすが理司がキャラ着脱のお手本にした藤代の変わり身だ。三人はデスクの前で整然と横に並んだ。

「現在、幸いなことにラレイラ様は契約術式の保護下にあります。これは何者であろうと突破はできません。術式の保護が働いている残り六日間で可能な限りの情報を集めて、どうすればラレイラ様を救えるのか見極めて実行に移します」

 キラーズは裏世界の召喚仲介士集団。それを利用するのは正規の仲介士を使えない理由のある後ろ暗い連中だ。その後ろ暗い誰かがラレイラと契約を結ぶためにキラーズへ莫大な仲介料を払ったはずだが……現状、ラレイラはとてつもなく歌の上手いセイレーンでしかない。

 なにか情報が足りていない……ラレイラの保護、そしてキラーズ妨害への道はその情報を橋にした先にある、理司はそんな予感がした。

「あちらが不用意な行動に出ないように、こちらも少し前にラレイラ様へ見張りと護衛をつけています。そうですね、クローチェくん?」

 藤代の視線を受け、ルキノが目深に被ったボルサリーノ帽を指で押し上げる。

「そうさ――アイツらなら術式の保護が終わる六日後までラレイラさんを監禁、なんてこともやりかねないからね。ウチの子にしっかりガードさせてるよ。万が一、わかりやすい違法行為に出たなら、それを証拠にノックアウトだ」

 ルキノはサムズダウンしながら、目一杯に低く作った高い声で得意げに告げる。

「そして情報収集と来れば、だ」

 ルキノはいそいそ所長室の外へと駆け出してゆく。パチッというスイッチの音とともに照明がOFFに。所長室は窓から入り込む歓楽通りの薄明かりだけになる。

 なにがしたいのか呆れて待っていると、開け放たれた所長室の扉前にゆらりと現れる小さな人影。暗闇に煙草の赤い残光を引いて入室してきたルキノが理司たちの手前で止まる。

「お呼びかな――このルキノ・クローチェを?」

 ぶっきらぼうな口ぶり(高音)で名乗りを上げた。

 暗闇に栄える煙草の火を交えたダンディな演出を試みたかったのだろう。

「吸えもしないのにまたこんなもんを。何回、警官に没収されたら気が済むんだ?」

 理司は素早くルキノの口から煙草を取り上げた。

「ボクは三十二歳だ! 吸ってなにが悪いのさ!」

「はいはい、冗談はその背格好だけにしてくれよ」

「子供扱いしたな!? この伊達男を子供扱いしたな!?」

 理司は取り合わず灰皿――はないので一子に『頼む』と詫びてから手渡す。

「ボクは見かけに寄らないんだぞぉ……」

 ルキノは頬を膨らませ、理司たちに背を向けた。

「おいルキ兄、これでむくれるのはさすがに幼すぎるんじゃないのかい?」

「そうじゃないさ。時間がないんだ、早く仕事に取りかからないと」

 振り返ったルキノは淡い緑の光に照らされていた。

 幼い顔立ちには絶対の自信が宿っている。そして頼もしさを裏打ちするのは彼のボルサリーノ帽のひさしに留まる『彼ら』の存在だ。身長十五センチほど。背には幻想的な緑光を放つ昆虫に似た羽を持つ小人たち――妖精族が複数種、混在してそこにいた。

「キラーズが直接的な手段に訴えた場合はボクの召喚獣が阻止してくれる。でもラレイラさんがきっといまも感じてる精神的な苦しみは取り除けない。六日後に絶対、彼女を助けて上げなくちゃいけない――そのための情報収集はこの『魔法使い』におまかせさ」

 ルキノは微笑とともに言い残して静かに所長室を去ってゆく。帽子に留まる妖精族たちは、各々に理司たちへ手を振っていた。

 ――召喚魔法のプロフェッショナル。使役した数多の召喚獣による人海戦術ならぬ獣海戦術で世界の隅々から情報を集めてくる鬼志別召喚仲介事務所の情報担当。それがルキノだ。

「……いまのルキノさん、お兄さん感があってカッコよかったです」

 火の消えた煙草と開け放たれた所長室のドアとを見比べながら一子が呟いた。

「そうなんだよなぁ……無理にダンディぶろうとしなけりゃ、たま~に年齢相応のカッコよさが出てくるんだけど……」


 

 鬼志別召喚仲介事務所がラレイラの保護と、キラーズの妨害を決めた翌日、夜。

 事務所内にはキーボードを叩く音が、淡々と鳴っている。

 子供用学習机を改修したデスクについたルキノ・クローチェは膝に置いたキーボードを素早く叩いてゆく。時折手を止めては、なにがしかを考え、そしてまた黙々と手を動かしてゆく。

「ルキ兄。お疲れさま」

 理司はカップを二つ持って、ルキノのデスクの隣に立った。

「ああ……理司。お疲れさま」

 ルキノは画面を見たまま返事をした。理司はルキノのデスクの邪魔にならない場所を選んで湯気の昇るマグカップを置く。

「……飲んでくれよ」

「おっ、いいね、ありがとう」

 ルキノは少女のような容貌に笑みを浮かべると、カップを手に取り一口。

「かぁ~~! 効くなぁ!」

 きつい酒でも煽ったような反応だが、中身は牛乳九:コーヒー一で作った極薄カフェオレだ。ちなみにコーヒーの比率が二まで上がるとルキノは寝られなくなる。

「で、調子はどうだい電子の魔法使い殿」

 理司はルキノのデスクの隣にある自分の席のイスへと腰を下ろした。

「おっ、その言い回しダンディだね」

「使っていいよ。契約書も使用料も求めない。それで進捗は?」

「ん~~……大見得切っておいてなんだけど、あんまり情報が集まってないよ」

 ルキノは不満げに鼻を鳴らし、無造作に置いてあったファイルを手渡してくる。

「なぜラレイラさんはキラーズに狙われることになったのか? これを知るために、まずボクはラレイラさんが何者なのかという部分を重点的に精査し始めた。キラーズは理不尽だが、非合理じゃない。狙われる重要な理由があるはずなんだ……その理由を消すことができれば、連中も手を出す意味がなくなるからね」

 受け取ったファイルを開く理司。そこには新聞の切り抜きや、印刷されたネット記事の断片が数十ページ収められていた。荒く目を通してゆくだけでも、理司の知らなかったラレイラの経歴について触れる情報が数多くある。

「……これ……ラレイラさんが入界してから、いままでの足跡……ほとんど埋まってないか?」

 ルキノはカフェオレを一口飲むと、イスに深くもたれかかり帽子のひさし越しに理司へ揶揄するような視線を向けてくる。

「あめぇなぁ、ボウズ……」

 あざ笑うルキノ。だが理司は理司で彼の目一杯作った低音(高音)に失笑する。

 ルキノは床を蹴り、イスのキャスターでこちらまで滑ってくる。そして理司が開いていたファイルをめくって指を差した

「足跡が飛んでいるとでもいうのかな。まずこれ、人間界への入界審査書類」

 それは理司も目にしたことがある。正規の召喚仲介士ならば誰でも閲覧できる召喚獣リストの情報だ。

「ラレイラさんはおおよそ四年前、人間界に来た。そして次にこれ――」

 続いてルキノが見せた資料に理司は目を見張る。

 赤地に白い翼が舞い散っているデザイン……CDの写真だ。

「――もしかしてラレイラさんの部屋で見た?」

「ああ、確かこんなジャケットだった」

「ミニライブで発売された、三十枚限定のCDらしいよ。人間界に来たラレイラさんは歌のアルバイトを続けたあと、小さな芸能プロダクションに入ったみたい。卓越した歌唱力の話を聞くに歌手としてスカウトでもされたのかな?」

 大いにあり得る話だ。歌声によって魔法を生じさせるセイレーン族は総体として高い歌唱力を有している。だが人間の曲を心揺さぶるレベルで歌えるのは、本格的なレッスンを積んだからではないかと読んでいた理司の考えに合致する。

「もっともそのCDは後々、ほとんど回収されちゃったんだけどねぇ~。『歌詞に不適切な部分があった』って理由で……彼女の部屋にあったのが現存する最後のCDなのかもね」

 多種族が入り交じったこの世界では、なにが差別に当たり、不敬に当たるのか、法律を学んだ仲介士でさえもわからなくなるときがある。ラレイラの性格を考えるに、あからさまに差別的な表現や……なんというか、淫靡な歌詞でお上にとがめられたわけではないと思うが。

「んで、そこから先――現在に至るまで二年間の足跡がわからないんだ」

「その芸能プロを当たってみるというのはどうなんだい?」

 ルキノがそんな初歩的な調査を怠っているはずはないが、一応提言してみる。

「ダメさ。二年前に閉所してるんだ」

「閉所……? 経営難か?」

「う~ん……どうだろうね」

 ルキノの言葉には含みがある。断定するだけの情報がないのか別の理由が濃厚なのか……

「と、ここまでは誰でも入手できる情報を繋いだだけ。空白の二年にたどり着くための手がかりがいまのところないのさ。これじゃダンディな仕事とは言いがたいんだよねぇ……」

 ルキノは口を尖らせると、床を蹴って今度は座面を回転させる。

「だから~空白の期間に~たどり着くきっかけがとなる情報が欲しいんだ~。目下、ウチの子たちに~芸能プロが閉所になった理由を追ってもらってるんだ~」

 その場でくるくる回りながらルキノが間延びした声でぼやいたが『さてっ!』と勢い込んで両足をつき、回転を止めた。

「よしっ、と! ボクはもう一仕事しようかな。理司は明日も学校だろ? こんな夜遅くまでボクに付き合うことないよ。ボクは大人だから夜更かしも平気なんだ、コーヒーもあるし!」

 そう言ってデスクに戻ったルキノは九割方牛乳でできたカフェオレを一口飲んでみせる。

「――恩に着るよ。あんたが頼りなんだ、よろしくな」

 いまはルキノに任せるしかない。理司は彼に軽く頭を下げ、事務所をあとにする。雑居ビルの階段を下りながら理司は、腕時計へ目を落とした。

「ルキ兄……二〇時は夜遅く、とは言わないんじゃないか?」

 ルキノ・クローチェ三十二歳、頼りになるがコーヒーがなければ二十二時を突破できない男。

 

 ルキノの作業は翌日も続いた。

 昨夜は事務所の休憩所に泊まったのだが、同じく事務所に泊まった藤代に抱き枕代わりにされ窒息気味に寝たせいか、どうにも頭の回転がよろしくない。炭酸水で割ったエナジードリンクを飲みつつ、今日もPCに向かう。

 作業の最中にも入れ替わり立ち替わりルキノの元へ小型の召喚獣たちが帰還し、古い雑誌や新聞、ポスターの断片などを置いてゆく。ルキノは彼らをねぎらい好物のお菓子や豆、ミルクなどを与え再び情報収集に送り出す。

 増えてゆく情報量に反し、ルキノの表情は険しい。

 ラレイラの所属していた芸能プロが閉所した理由が判明した。

 ……社長が過労で長期入院を余儀なくされたからだ。小さなプロダクションだったため社長が経理やプロデュースを兼任しており、彼のダウンはそのまま運営の麻痺に繋がった。

 そこまでならば、不審な点はない。藤代の父で前所長、敬一郎のことが思い起こされ一抹の哀感がルキノの胸をよぎるだけで終わる。

 問題は、なぜ社長が忙殺されたのか……だ。

 ルキノは一枚の報告書へ目を落として困ったように小さく唸る。

 そこには芸能プロに近かった消息筋の証言がまとめられている。

 証言によると、当時そこに所属していた召喚獣がある重大事件に荷担した疑いが出たという。その疑いが一部、週刊誌などに嗅ぎつけられ社長は対応に奔走……ついに身体を壊してしまったようだ。

 その重大事件というのは――二年前に起こった現金輸送車襲撃事件だ。

 犯人たちが連続して現金輸送車からの強奪を成功させた事件で、召喚獣を使った犯行という噂もあり魔法使いという立場上、ルキノはこの件を覚えている。だが具体的にどんな召喚獣が関わったかの報道はなく結局、噂の真偽が特定されないまま犯人たちが捕まって収束した。

 ラレイラがキラーズに狙われている理由と、現金輸送車襲撃事件への関与が疑われた召喚獣の存在――ここに因果関係があるのかどうかはっきりさせるため、召喚獣たちに駆け回ってもらっているが……ルキノは経験則から来る胸騒ぎに童顔を険しくする。

「ご主人さまぁ~」

 ふと、窓際で響いた少女の声にルキノは顔を上げた。

 振り返ると、三体のピクシーたちが開けておいた窓の隙間から入ってこようとしている。だが彼女らは小柄な身体にあまる荷物を持っているせいで難儀していた。

「わぁ……気づかなくってゴメンね」

 ルキノが窓を大きく開け三体のピクシーを招き入れてやると、まず重たそうに掴んでいる雑誌を受け取った。重荷から解放された彼女たちは口々に疲労の声を上げながら、デスクやルキノのイスに不時着していった。

「おかえり。お疲れさま」

 情報を求めて様々な場所を探し回ってきてくれたのだろう、身体の汚れている三体へとルキノはウェットティッシュを抜いてそれぞれに渡す。彼女たちは『きゃっきゃ』と、かしましくしながら互いの身体を拭き合う。

 ルキノはお菓子を好きに食べるよう促してから受け取った雑誌へ目を向けた。

「少し古そうだね…………二年くらい前の雑誌か」

 有名人の風評や不祥事が載っているゴシップ誌の類いだ。

「例の芸能プロの記事が載ってる週刊誌だよ~。ページに折り目つけておいた~」

 一体が自分の顔ほどあるグミを両手で抱え、かぶりつきながら答える。

「それはお手柄だね」

 ルキノは早速、雑誌を開く。あまり正視したくないような醜聞、そんなこともあったなという時事ネタ……そして目当てのページを見つける。

『現金輸送車連続襲撃事件、その背後に見え隠れする召喚獣の影』

 低俗なタイトルにルキノは眉を潜めた。召喚獣が表立って人間と接触するようになったのがおおよそ百年前。召喚獣はずいぶん人間界に溶け込んだが、やはり軋轢も残る。その軋轢を助長する書き方はルキノにとって不機嫌の種だった。

 だが真っ当な筋からの情報はあらかた集めてしまったので、こういうものにも頼らざるを得ない。それにこの手の雑誌は『叩かれて上等』的な気概を発揮して、法を怖れぬ突っ込んだ情報を提供してくれることもあるのだ。

 気を取り直してルキノは記事を読み始める。

 記事は見出し通り、二年前に起きた現金輸送車の連続襲撃事件を掘り下げたものだった。

 記事は犯人たちの素性などに触れたのち、犯行手口の主軸となった魔法に言及してゆく。やれプロフェイリングの権威だ、魔法の識者だの、信用できそうもない文言に辟易しながら記事を読み進めてゆくルキノ。

『輸送車に乗る人間たちにステホを使った特殊な魔法をかけ、現金を渡すように指示し――』

 特殊でない魔法などない。平凡な魔法があるとするなら、すべての魔法が平凡になる。具体性もなにもあったものではない。

 いい加減、うんざりしてきたルキノはページを閉じかける。だが懸命にこの本を探してきてくれたピクシーたちの前でそういう態度をしてはいけないと思い直す。

 雑誌を持ち、興味深げなポーズでページを凝視。

「ふぅむ、特殊な魔法で指示……か」

 ダンディズム溢れる呟きを一つ。

「魔法で……指示?」

 ――妙な引っかかりを覚えてルキノは目を閉じる。

 疲労と寝不足の頭で黙考すること六十秒ほど。

 悪寒に似た直感。繋がった…………いや、繋がってしまった。

 ルキノの小さな手が、キーボードを高速で滑走する。必要なデータを探し当て、ダウンロード開始。その間に所長室へ飛び込む。

 ややあって……

「そんなに急かすことないしょや。私は逃げないってば」

「ボクは彼女の声を聞いたことはないんだ、藤代の力がすぐ必要なのっ!」

 藤代の手を引いて、ルキノがデスクに戻ってくる。くつろいでいたピクシーたちがその勢いに驚いて空中へ飛び立つ。

 藤代は口を尖らせつつ乱れた和装を整える。ルキノはダウンロードの終わった圧縮データを解凍、それを音楽再生ソフトに放り込むとPCに繋がったイヤホンを藤代に突きつけた。

 藤代は首を傾げながらもイヤホンを受け取る。長い髪をかき上げると左耳で銀色のイヤリングが揺れた。イヤホンをつけた途端、顔色が怪訝なものへと急変する。

「……えぇっ、これ……加工なしの原版じゃない……大丈夫なの?」

「大丈夫。魔力を流さなければ問題ないよ。聞いて欲しいのは内容じゃなくて、声そのもの」

 藤代は柳眉を寄せながら、それに聞き入る。すると徐々に顔が青ざめてゆく。

「これは…………とんでもないことになったわね」

 藤代は口元を手で覆ってルキノを横目に見つめた。

「催眠魔法は…………新振り込め詐欺の音声は……」

 その返答でルキノはすべて理解した。

「ラレイラさんの声……なんだね?」

 藤代は深く息を吐き――軋んだ音が聞こえそうなほど、ぎこちなくうなずいた。


~前編 終わり~

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