4.

 木枯らしの吹く広場で、1組の男女が揉めている。

 1人は国家にハメられた男。もう1人はハメられた男の元愛人――もとい情報屋。

 2人は目下、自分たちの身に何が起きたのかまるで理解できないでいる。だからNSA――国家安全保障局――に見張られているとも知らず、無防備に会話を続けている。

 何度観ても間抜けなシーンだ。特にウィル・スミス演じる主人公が馬鹿すぎる。

 こいつの短絡的で、頭の悪さをこれでもかと露呈するシーンの連続にはいつもフラストレーションが溜まるものだ。

 だがこの映画はそこがいい。観客のフラストレーションを溜めに溜めさせておいて、最後に用意されたからくりでかつてないカタルシスを味わわせてくれる。

 俺はすっかりそのラストの虜になり、もう何度もこの作品を観るために劇場へ足を運んでいた。

 『Enemy of the State』。やはりトニー・スコットがメガホンを取った作品はいい。圧倒的に外れが少ない。

 俺は座席に置いたフレンチフライを貪りながら、じっとスクリーンの中の2人を見つめた。そう、まるで俺自身、2人を監視するNSAの一員になったような気分で。

 まったく妙な話だ。ティーンエイジャーの頃は殺し屋やマフィアといった裏社会の男たちが活躍する映画ばかり観ていた俺が、最近ではこうしたスパイもののサスペンスばかり観ている。

 主人公は大抵元CIA局員や軍人で、彼らが知恵や技術を駆使して社会の悪と戦う話だ。俗に言う〝勧善懲悪〟ってやつ。

 今回の作品も最終的には元CIAの工作員が主人公の味方について、裏でコソコソ悪事を働いていたNSAの幹部をとっちめる。実に分かりやすい話だ。

 自分の嗜好がいつ、どうしてそういう方向にシフトしたのかは俺にも分からない。ただ、10代の頃に感じていた閉塞感は今も俺の肺を満たしていて、どこにいても息苦しいような、暴れ出したいような、そんな気分をいつも抱えていた。

 まったくクソッタレな気分だ。

 結局俺はどんな選択をしようと、生きている限りこの現実おりからは逃れられないのかもしれない。

 気が遠くなるほど遠い昔、「人間は生まれながらにして死刑囚である」なんて言った哲学者がいたらしいが、まったく言い得て妙なりだ。

 俺たちはこの世に生を受けた瞬間から現実という牢獄につながれ、ただ審判のときが訪れるのを待っている。その真実に気づき、逃げ出そうと足掻いても、俺たちをつなぐ運命の鎖が切れることは決してない。

 なら、俺は一体どうすれば良かったんだ? 不都合な真実からは目を背けて、この世は神の愛で溢れていると盲信すれば良かった?

 だがそんなおめでたい逃避の中へ飛び込むにはもう遅い。俺は知りすぎたんだ。人の醜さも、この世の汚さも、神の無慈悲さも。

 That sucks。こんな世界、とっとと潰れちまえ。

 俺はなおもフレンチフライを貪りながら悪態をつく。

 そのときシアターのど真ん中を占拠した俺の3つ隣の席に、黒いフェドーラ帽を被った壮年の男が着席した。それをちらりと一瞥して、俺は内心舌打ちする。

 まったく空気の読めないやつだ。いよいよこれからジーン・ハックマン扮する元CIA工作員が現れて、話が面白くなるところだってのに。

「ダニー・クレイトン」

 と、男は言った。もちろん俺の名前じゃない。その証拠に、男はスクリーンを見つめたまま俺に向かって1枚の写真を差し出してくる。

 だから俺もスクリーンから視線を切らず、無言でその写真を受け取った。

 シアターが暗いのでよく見えないが、写っているのは見たことのない1人の男だ。髪は白に近い金髪で目は落ち窪み、彫りの深い顔つきをしている。

 その骨格からして、たぶんロシア系の男だろう。だとするとダニー・クレイトンという名前は偽名か。つい最近もうちのシマにちょっかいを出してきたロシアンマフィアを2人殺したところだ。

 その関係者かどうかは知らないが、この男の目はどう見てもカタギじゃない。鏡に映った俺と同じ目をしている。

 ……まったく面倒だな。こういう手合いはちょっとやりにくい。相手も手練れだからってのはもちろんだが、何より自分を殺しているような気分になるからだ。

「場所は?」

「イリノイ州トロイ、ノース・パウエル・ストリート217だ」

「イリノイ州? ずいぶんと遠いな。トロイなんて聞いたこともない」

「ミズーリ州との州境にある田舎町だ。セントルイスにほど近い」

「出張手当は出るんだろうな?」

「その男はうちの組織が長年追っていた裏切り者だ。過去に幹部を殺して逃げた。自分の目が黒いうちに必ず殺せと、ボスが直々に懸賞金を懸けている」

「なるほど。その懸賞金を俺とあんたで山分けってわけか。いくらだ?」

「12万」

 ひゅう、と俺は思わず口笛を吹いた。12万と言ったら、ワシントンD.C.あたりで働くエリートサラリーマンの年収よりも上だ。

 こいつと2人で均等に分けたとしてもかなりの額。当分は遊んで暮らせる。

「しかし、あのボスが12万もの大金を叩くなんてよっぽどだな。そんなに因縁のある男なのか?」

「俺も詳しくは知らん。ただ、若い頃にボスが拾って育てた男だったそうだ。恐らく目をかけていたんだろう」

「へえ。なのに手を噛まれた、と」

「そのボスももうそう長くない。支度ができたらすぐに出発しろ。ボスの心臓が止まってから標的の頭を撃ち抜いても、弾代は出ないぞ」

 じろりと横目で俺を睨んでからそう言って、男はほどなく席を立った。

 俺はその黒い背中が扉の向こうに消えるのを見送り、今度こそ本当に舌を打つ。

 腐れ野郎めAsshole。そんなに金と跡目が欲しいなら、ちったぁてめえの足で稼げってんだ。それを毎度毎度体よく俺に押しつけやがって、気に食わねえ。

 俺はそのどうにもならないイライラを、更にフレンチフライを貪り食うことでどうにか消化しようとした。

 だがこの量のフレンチフライはさすがに胃にもたれる。昔はこのくらいの量なら平気で平らげていたのに、今では上映終了後に持て余して捨てる始末だ。

 だったら初めから買わなければいいのだが、どうにも昔からの習慣でこのサイズのものを買ってしまう。

 まったく進歩してるんだかしてないんだか。

 俺は自分で自分に呆れながら、ついに無人のシアターを出た。

 そこはかつて俺が足繁く通った『Cinema Anthony』があった場所。

 現在は『Bleecker Street Movies』というまったくひねりのない名前の映画館が建っている。

 客の入りもそこそこの、小綺麗な外観をした映画館だった。

 そこに『Cinema Anthony』の面影はどこにもない。唯一共通点があるとすれば、チケット売り場の店員がよぼよぼのばあさんだってことだけ。

 この程度の映画館ならブロードウェイにはごろごろしている。ついでに言えば、店員だってもっと若くてセクシーな女が揃っている劇場がたくさん。

 なのに俺が今もこの場所に通い続けているのは、10年前のあの頃に未練があるから――ってわけじゃない。

 単にこの劇場が、俺の所属するピンツォーロ・ファミリーの所有物だからだ。

 10年前のあの事件のあと、俺はクスリに手を出してどっぷりに浸かってしまった。裏社会への憧れがクスリを求めたわけじゃない。当時未熟で繊細なティーンエイジャーだった俺は、アレがないと心の均衡が保てないような状態に追い込まれていた。

 俺の人生の設計図が音を立てて引き裂かれたのはその頃だ。

 高校は中退し、両親からは縁を切られて、つるむべきでない連中とつるんだ。しかしクスリはタダで天から降ってくるわけではなく、気が狂いそうなほどの苦痛と幻覚から逃れるためには、何に手を染めても金を手に入れなければならなかった。

 その当時の俺たちにクスリを回していたのがピンツォーロ・ファミリーだ。

 借金するアテもなくなり、ついに万策尽きた俺が売人の膝に縋って「何でもする」と懇願すると、やつらは俺に1挺の拳銃を手渡した。

 最初に殺せと言われたのは、余所の組織にピンツォーロの情報を売っていた馬鹿な売春婦おんなだ。俺はその女を0.1インチのためらいもなく殺した。そして報酬にクスリをたんまりいただき、晴れて10代の頃の夢も叶った。

 そう、俺は殺し屋になったのだ。

 ファミリーの汚れ仕事をひたすら請け負う殺し屋に。

 まさか自分が本物の殺し屋になってしまうだなんて、あの頃の俺が想像しただろうか?

 しかも夢見ていた孤高の殺し屋とはほど遠い、ケチなマフィアの飼い犬になるなんて。

 きっかけになったクスリは死ぬ思いをしながら自力で抜いたが、それで組織からも抜けられるほど世の中は甘くなかった。かくして俺はずるずると深みにハマり、今もこのアリ地獄から抜け出せずにいるというわけだ。

 おまけに唯一の慰めである映画鑑賞すら、最近ではああして邪魔される。

 まあ、俺が組織とコンタクトを取る場所として『Bleecker Street Movies』を指定したのだから、仕方がないと言ってしまえばそれまでだが。

 この10年でニューヨークの治安は格段に良くなった。それでもまだ好んでレイトショーに足を運ぶような市民は少ない。

 だからこの時間帯の『Bleecker Street Movies』はいつも貸切状態で、その方が俺も組織も都合がいいのだった。そういう思惑があって、俺はあの映画館を組織との連絡所に指定した。

 だが俺はそれを今、少しだけ後悔している。どうやら俺は俺が思っていた以上に映画館という空間を神聖視していたみたいだ。

 あの場所にやつらが現れる度、俺は俺の思い出を土足で踏み荒らされているような気分になる。そんな感傷はお前には無用の長物だと、お前のような男に救いや赦しを求める資格はないのだと、そう言われているような気分に。

 そうするとあの唯一の安らぎの場が、唐突に暗く堅牢な牢獄へと豹変するのだ。

 それはさながら俺を閉じ込めている現実の檻のようで。

 俺は今もその檻の中で、スクリーンの向こうにありもしない夢を見ている。

「Hi,Cool guy。あたしたちと遊ばない?」

 ギラギラとネオンのうるさい大通りを抜け、胸をはだけた女どものお誘いを手を振って軽く躱す。

 本当なら今夜は酒でもかっ喰らって女を抱きまくりたい気分だが、そう悠長なことを言っていられないのが実情だ。

 俺の上司は殺し屋ヒットマンなんて玩具の兵隊グリーン・アーミー・メンと同じだと思ってるから、ヘマをすればすぐに鉛玉が飛んでくる。ちょっとでもやつの意にそぐわない行動を取れば、殺し屋を殺すための殺し屋が送り込まれてくるってわけだ。

 じゃあその殺し屋を殺すための殺し屋がヘマをした場合、殺し屋を殺すための殺し屋を殺すための殺し屋がやってきたりするのだろうか? なんてとりとめもないことを考えながら、俺は咥えた煙草を手で囲って火をつけた。

 季節は冬。あと10日もすればクリスマスがやってきて、あっという間にまた年が明ける。幸い今夜は雪が降る気配はないが、それでも12月のニューヨークはシャレにならないほど寒かった。高層ビルの間を吹き抜けるビル風が容赦なく地上に吹きつけるからだ。俺は革の手袋を嵌めた両手を擦り合わせながら、マフラーを巻いた首を竦めて先を急いだ。

 ブロードウェイを東へ横切り1番街へ。そこにある軽食屋ダイナー入りの安アパート。その3階の角部屋が最近の俺のアジトだ。

「ったく、面倒なことになったな……」

 とひとりごちながら、かじかんだ手で部屋の鍵を開ける。丸いドアノブを軽く引っ張ってドアから浮かせ、右に4回、左に3回、右に2回、左に1回……。

 これでようやくドアが開く。ドアノブの真ん中についているシリンダー錠はフェイクだ。俺はこのアパートに入居したその日に自分でドアを改造し、ドアノブの中にダイヤル式の鍵を仕込んだ。金庫のように番号を振るわけにもいかないので、何十、何百回と練習し、自分の手の感覚だけで開け方を覚えたものだ。

 理由はもちろん侵入者対策のため。これならたとえシリンダー錠の方がフェイクだと気づいても、俺以外の人間はこのドアを開けられない。

 誇っていいものかどうか、この数年で俺はそうした警戒が必要になるだけのキャリアを積んでいた。身元や居場所が割れないよう常に細心の注意を払ってはいるが、それでも完全に安心はできない。

 住む場所はころころ変え、その度に名前も変えた。まだ顔までは変えずに済んでいるものの、今の俺の周りに俺の本名を知る人間がどれだけいるだろうか?

 仕事によっても名前を使い分けているから、自分でも時々今の名前が分からなくなったりする。いや、名前だけじゃない。最近ではそもそも自分が何者なのか、それさえも見失っているような気がする。

 ……らしくねえ。

 塗装の剥げたドアを潜って部屋に入り、暗闇の中を歩いた。窓際の机に置いた中古のスタンドランプをつけて、適当に荷造りを始める。

 とは言え着替えやなんかは全部現地調達だ。絶対に必要なものはと言えば、金と煙草と免許証くらい。

 ここからイリノイ州まで最短で移動するには、やはり飛行機に乗るのが一番だろう。確か上司は、標的のいる町はセントルイスにほど近いと言っていた。

 だとすればまずは明日の朝一番でジョン・F・ケネディ国際空港へ行き、そこからランバート・セントルイス国際空港まで飛ぶ。トロイまでの道を調べるのは向こうに着いてからだ。

 最近はニューヨーク周辺でしか仕事をしていなかったからこういう手間のかかる仕事は面倒で仕方ないが、これも6万ドルのためだと自分に言い聞かせる。

 問題は、今回はで仕事をするかだ。

 立てつけが悪い机の引き出しをガタガタと開けて、乱雑にぶち込まれた書類をあさる。中には数種類のパスポートと免許証。どれも貼られた顔写真は確かに俺のものだが、横に記された名前がそれぞれ違う。

 ブライアン・H・キャクストン。

 イサンドロ・グルレ。

 オスカー・レイナー。

 チェーザレ・オズヴァルド・ポッリ。

 どれもこれもファミリーから与えられた偽造品だ。既に使えなくなった古いものはその都度こまめに破棄しているから、今ここにあるものならどれでも好きなものを使っていい。

 そういや今回の相手はロシア系だったな。だとしたら俺もロシア系の名前でいくか。そんな遊び半分の感覚で引き出しをあさり、お目当ての免許証を探し当てようとする。

 だがそのとき、スタンドランプの明かりが1枚の写真を照らし出した。

 その写真が目に入った刹那、俺は乱暴に書類を引っかき回していた手を止める。途端に塗り潰したような沈黙が訪れて、咥えた煙草の火がジリジリと鳴る音だけが聞こえた。

 半分ゴミに埋もれるようにして現れたその写真には、憎たらしい顔で笑った1人の男と、その男の肘置きと化したフランケンシュタインが写っている。

 俺はほとんど無意識にその写真を手に取り、無言で眺めた。

 あれからもう10年が経つ。Fartの消息はその後も知れず、俺は何度もこの写真を燃やしてしまおうと思った。

 だけど結局そうすることができなくて、いつもこうして引き出しの奥、誰にも探られたくない秘密の場所にこいつを封印することになる。

 あのジジイも今頃はいい歳だし、とっくにどこかでくたばってるかな。

 本当はもう一度会って言いたいことが山ほどあった。

 今も俺の中でわだかまっているFartに対するこの感情は憎しみなのか親愛なのか、自分でもよく分からない。

 だがあの日のことを思い出そうとすると未だに胸が潰れるようで、俺は小さく舌打ちをした。正常な思考を奪うこの感情が忌々しく、衝動的に写真の角を煙草の先へ持っていく。ジリッと紙の焼ける臭いがして、俺はそこで手を止めた。

 ……。

 やっぱりこの写真は燃やせない。

 同じように何度も燃やそうとした形跡が、写真の四隅に残っている。

 俺は苛立ちと共に煙草を灰皿へ押しつけ、写真は再び秘密の場所へと封印した。

 もういい。余計なことは忘れろ。

 俺は今日からイヴァン・ゼレンスキーだ。

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