3.
10月30日、日曜日。ニューヨーク、セントラルパーク。
俺はそこで煙草を吹かしながら目を細めている目の前のオッサンを、唖然として眺めていた。フランケンシュタインのマスクに開いた小さな2つの覗き穴から。
「……まさか本当に仮装してくるとはな」
「あんたがしてこいって言ったんだろうが!」
あまりの衝撃に正常な判断力を失った俺は、そう叫びながらマスクを地面へ叩きつける。剥ぎ取られたフランケンシュタインは口を半開きにした間抜け面のまま、赤い石畳の上で潰れた。
ふーっと満足そうに煙を吐いたFartの頭上には天使。こう言うとこのオッサンが神の祝福でも受けているかのように聞こえるが断じて違う。天使は天使でも、翼を広げた彫刻の天使だ。
Fartが待ち合わせ場所として指定してきたベセスダの噴水。その中央の柱の上で、天使はもう100年以上前からこの公園を訪れる人々を見守っていた。
噴水の背後に広がるのは、紅葉した木々に囲まれた湖。ここより北のJacqueline Kennedy Oassis Reservoir――パークの中心部を占める巨大な貯水湖――に比べたら子供みたいに小さな湖だが、さすがに10月末ともなると湖畔にはキンとした冷たい空気が張り詰めている。
「いや、あれはほんの冗談のつもりだったんだが……そうか。お前、そんなにハロウィンが楽しみだったのか」
「うるせえ! 俺はあんたが仮装してこいっつーから何かあるのかと思って言うとおりにしてきたんだよ! ハロウィンなら仮装して行くのも当たり前かって思うだろうが!」
「だとしても、まさか公園の向こうからフランケンシュタインが歩いてくるとは思わなかったぞ。それ、駅からずっと被ってきたのか? 意外と律儀なやつだな」
「なわけあるか! 公園に入ってから被ったに決まってるだろ! だってほら、周りもみんな仮装してるし!」
俺は今にも地団駄を踏みたい衝動を必死に抑えながら、大勢の来訪者で賑わう噴水広場を指さした。そこには紫の三角帽子を被った魔女や毛むくじゃらの狼男、顔の半分が潰れたゾンビに何故かまぎれているダース・ベイダーと、とかく人ならざる者がうようよしている。
それもそのはず。何せ今日はこのセントラルパークで、毎年恒例のハロウィンイベントが開かれるのだった。それもただのイベントじゃない。いつもなら出店が出たりどっかのバンドの野外ライブがあったりとその程度の催し物なのだが、今年は滅多にない目玉行事がある。
エドワード・ハート。現役民主党議員の街頭演説だった。
ハートは来週の火曜に迫ったアメリカ大統領選挙の超有力候補。現副大統領にして過去にCIA長官も務めた経歴がある共和党議員ボブ・R・ブッシュと並び立ち、今や大接戦を繰り広げているパーソン・イン・ザ・ニュースだ。
そのハートが今日、これからこの公園に最後の追い込みにやってくる。
放っておいてもニューヨーク中から人が集まるハロウィンのセントラルパークで演説を計画するなんて、やはりハートはなかなかのキレ者だ。世論調査でやや押され気味のブッシュがテレビで垂れ流す根も葉もない中傷CMなど歯牙にもかけず、むしろ「私は誹謗中傷ではなく政策で共和党と戦います」なんて微笑んで、今やアメリカ中を沸かせている。
そのハート本人が訪れるとあって、セントラルパークはかつてない賑わいを見せていた。と言っても演説の時間までまだ間があるから、パークに集まりつつある支援者は今のところ出店で買った軽食を食べたり、イベントの1つとして用意されたパンプキン・カービング――ジャック・オ・ランタン作り――に熱中したりしている。どうにも空模様が怪しいのが気になるが、陽気なニューヨーカーたちはそんなものなどお構いなしだ。
「まあ、そうカッカするなよ。せっかくのハロウィンだ。はしゃぎたいなら好きなだけはしゃげばいい」
「俺はあんたに呼ばれたから来ただけであって、ハロウィンなんてほんとはどうだっていいんだよ! で、何なんだ、あんたが言ってた〝面白いもの〟ってのは!?」
「今のお前のことさ」
「帰る!」
「待て、冗談だ。実はお前に見せたいものがあってな……」
息巻いて身を翻し、ずかずかと歩き出そうとした俺を、Fartは笑いながら呼び止めた。が、そのFartがふと何かに気づいたように言葉を切る。つられて振り向けば、視界いっぱいに
「Hello! ハロウィンイベントへようこそ! 本日の記念にポラロイド写真はいかがですか?」
目が痛くなるような黄色のカツラに丸い付け鼻。笑いながら泣いている顔のペイントがちょっと不気味な細身のピエロが、1台のカメラを手ににこにことそこに佇んでいる。
黄緑色のオーバーオールの胸元には『1snap=$5』と書かれたプラカード。
なるほど、写真屋か。しかし1回の撮影につき5ドルって、ぼったくりもいいところじゃないか?
「いや、写真はいいよ……興味ないんだ」
「おやおや、そう言わず。せっかくのハロウィンじゃないですか~。お父様と一緒にいらした記念に、素敵な1枚をお撮りしますよ!」
「お父様?」
何言ってんだ、このピエロ? 俺は今日、ここには1人で――
と、そこまで考えてから、俺はようやく気がついた。
思わずバッとFartを振り返る。Fartは明後日の方角を向いていた。
その口角が小刻みに震えている。――あからさまに笑いこらえてんじゃねえか!
「おい、クソジジイ! なに他人のフリしてやがるんだ! このピエロ、あんたのこと〝
「いや、生憎俺にはこんな間の抜けた息子はいない」
「俺だってこんなヤニ臭い親父を持った覚えなんかねーっつーの! ちくしょう、不愉快だ! やっぱり帰る!」
「まあ待てBrat、こちらさんも商売なんだ。そう目くじら立てずに、少しは喜捨の心を持て。――1枚頼むよ」
俺は唖然とした。Fartは自分の普段の言動を棚に上げ、黒いスラックスのポケットからおもむろに財布を取り出すと、そこから抜き出した5ドル札をさも紳士然とピエロに差し出した。
それを受け取ったピエロは
一体何が悲しくてこんなオッサンとのツーショットなんか撮られないといけないんだ? これじゃ親子どころかゲイと勘違いされてしまう。念のために言っておくが、俺にそっちの趣味はない。
いや、けどあるいは、Fartにはそっちの気があったりして?
そう言えばこのオッサン、
ただの行き遅れか、奥さんと死別あるいは逃げられたか、そもそも女に興味がないか。3番目だったらシャレにならない。だから今日も俺をここに呼んだのか? だとしたらこの状況は限りなくヤバい。
そこまで思い至った俺が青い顔をして立ち尽くしていると、ときにFartが身を屈め、足元から何かを拾い上げた。ヤツの手の中でくたりと力なく
「ほら、せっかく持ってきたんだ。何なら被って写ったらどうだ?」
「い、いえ……結構です、Sir」
「何を急に畏まってんだ。もしかして写真は苦手か?」
「いや、苦手なのはゲイ……」
「俺はこれまで誰かに写真を撮ってもらったことがない」
ぼそりと零れかけた俺の本音は聞こえなかったようで、Fartはふと手元のフランケンに目を落としながら言った。
その言葉がちょっと意外で、俺は目を丸くする。Fartの表情には特に何の感慨も浮かんでいないが、これだけ長く生きてきて一度も写真を撮られたことがないなんてことがあるんだろうか?
「天涯孤独だったんでな。一緒に写真を撮るような相手がいなかった」
「……」
「かと言って、自分1人で写真を撮る機会なんてのもそうそうあるもんじゃないだろう? それじゃただのナルシストだ」
「そうかい? 俺は正直、あんたは泉に映った自分に恋するタイプだと思ってたぜ」
「ほう。ギリシャ神話を知ってるとは、意外と博識じゃないか」
「何なら今日からナルシッサスって呼んでやろうか?」
「いいや。それならヴィクターと呼べ」
「何だって?」
「こいつの父親の名前さ。――ほら」
「うわっ!?」
ほんの少しばかり油断した、次の瞬間。俺の視界は突然暗転し、その状況を理解するよりも早く腕を引かれてよろめいた。
直後に聞こえたカシャリという小気味良い音。そのときになって俺はようやく2つの覗き穴から視界を取り戻す。
正面にはカメラを構えた赤鼻のピエロ。――くそっ、撮られた!
その事実に気づいた俺はすかさず抗議しようとしたが、まるでマスクの下で口を開いた瞬間を見計らったかのように、Fartが俺の頭へ右腕を乗せてくる。重い!
「もう1枚頼むよ」
マスクごと押さえつけられた俺がその腕をどかそうと奮闘している間に、再びカシャリ。次に覗き穴の向こうに見えたのは、俺を見下ろして満足げに笑うFartのしたり顔だった。
腹が立った俺はありったけのスラングでFartを罵倒してやったが、やつはそんなものどこ吹く風だ。むしろ聞き慣れたBGMのようにそれを聞き流すと、もう1枚の5ドル札と引き替えにピエロから2枚の写真を受け取っている。
「ほら、こっちがお前のだ、クリーチャー」
受け取ったばかりのポラロイド写真は真っ黒で、何が写っているのかサッパリ分からない。しかし時間が経つと切り取られた時間が浮かび出し、そこには
ハッキリ言って、こんなものもらったところで俺はちっとも嬉しくない。
むしろ屈辱のあまり破り捨ててやりたかったが、結局そうしなかったのは、もう1枚の写真を見つめたFartが嬉しそうに目を細めてやがるのが覗き穴の向こうに見えたからだ。……shit。
仕方がないから、破り捨てるのは家に帰ってからにしてやる。
それから俺たちは出店で適当に軽食を食べたり、無難な景品がもらえるというスタンプラリーに参加したりしながら、噴水広場の北にあるThe Great Lawnへと移動した。
〝見せたいもの〟というのが何なのか、Fartは一向に明かそうとしない。本当はそんなのただの口実で、もしかしたら俺を引き留めるためのデマカセなのではとも思ったが、そうするとFartの同性愛者説がにわかに信憑性を増して恐ろしかったので、俺はそれ以上の追及をやめた。
The Great Lawnはその名のとおり、木々が生い茂るセントラルパークの真ん中にぽっかりと開いた芝生広場だ。このパークのシンボルとも言うべき場所で、だだっ広い広場からはニューヨークの摩天楼がよく見える。
その芝生広場の北側にはステージが組まれ、秋の風に星条旗がたなびいていた。
ステージの上には白いスピーチ台。
大統領候補、エドワード・ハートの演説用ステージだ。
「もうすぐ始まるな。聞いていくか」
と、そのたいそうご立派なステージを眺めてFartが言った。
演説の時間まではあと30分以上あるにもかかわらず、ステージの前には早くも大勢の支援者が集まり始めている。中にはただのお祭り気分でやってきた輩もいるのだろうが、まあ、それにしても大した人気だ。
「俺、まだ選挙権ないんだけど?」
「社会勉強だ。来年からはお前も国政に参加するんだろう?」
「政治なんて興味ないよ。あんなのは所詮、金に汚いジジイどもが自分の欲望を満たすために政治家ごっこをしてるだけだろ」
「そいつは映画の観すぎだな。政治家が本当にそんな連中ばかりなら、この国はとっくに潰れてる。まあ、中には本当にどうしようもない馬鹿も確かにいるが」
煙草を咥え、黒い外套のポケットに手を入れて歩きながらFartは皮肉げに笑った。風が吹いて、黄色や橙色に染まった木の葉がブワッと舞い上がる。この時期のセントラルパークは落ち葉がすごいのだ。
俺は潰れたフランケンシュタインを小脇に抱えたまま、革のジャケットの前を掻き合わせた。そうしながら、ちょっと口の端を上げて言う。
「意外だね。あんたにも人並みの愛国心があったなんて」
「最近芽生えたんだ。歳を喰ったせいかな。アメリカもまだまだ捨てたもんじゃないと、この歳になってようやく思えたのさ」
「じゃあ、それまではどう思ってたんだよ?」
「こんな国とっとと潰れちまえと、そう思ってた」
「ひでえオヤジだ」
「若気の至りってやつだな。若いうちは誰でも一度は考えるだろう?」
「どうかな。映画の観すぎなんじゃない?」
「なに、お前もすぐに分かるさ」
Fartは低く笑いながらそう言って、ステージの方へ足を向けた。
やっぱり俺は未来の大統領――になるかもしれない男――の演説なんてまったく興味がなかったけれど、仕方がない。皮肉屋の愛国者のために今日は特別に付き合ってやる。これで1年前に食わされたステーキの件はチャラだ。
俺とFartはステージ前に集まった群衆の中に加わり、そのままハートが現れるのを待った。周りは仮装したニューヨーカーだらけ。未来の大統領の応援にカボチャ頭や血を垂らした吸血鬼が集まっている光景は何ともシュールだ。むしろまったく仮装していないFartが異様に見える。
俺はと言えば、この状況でFartと一緒にすましているのも何だったので、途中から再びフランケンを被って場の空気に溶け込んだ。
そうこうしている間にも支援者は更に続々と集まってくる。さっきまで群がる聴衆の最後列にいたはずの俺たちは、気づけばサラダボールの真ん中あたりに押し込まれる形になっていた。Oh,Jesus……帰りはえらいことになるぞ、こりゃ。
「Ladies and Gentlemen! 大変お待たせ致しました。これより現役民主党議員、エドワード・ハートによる大統領候補演説を開始致します!」
やがて俺の腕時計の針が午後1時を指した頃。ステージ上部に設けられたスピーカーから
星条旗がはためくステージに、すらりとしたスーツ姿の男が登場する。最近テレビでその顔を見ない日はないと言ってもいいほどの有名人。本物のエドワード・ハートだ。
「皆さん、本日はようこそお集まり下さいました。魔女も怪人も、天使も悪魔も、あらゆる方々が時空と種族の壁を超えて応援に駆けつけて下さったこと、誠に光栄に思います」
スピーチ台に立って開口一番、支援者を見渡したハートの言葉にどっと会場が沸く。生のハートはテレビのブラウン管を通して見るよりほんの少しだけ若く見えた。まるでハリウッドスターのようにバッチリ決めた髪型はなかなか様になっているし、笑うと浮かぶ目尻の皺が見る側に誠実そうな印象を与える。
ただ、思っていたよりもちょっとばかし背が低い。たぶん並んだら俺とFartの中間くらいの身長だ。笑いながら手を振るハートの顔に、お決まりのフラッシュの嵐が叩きつける。
「おい、Brat」
「うん?」
「耳を塞いでおけ」
そのときFartが、隣で何か意味深なことを言った。……〝耳を塞いでおけ〟だって? おいおい。それじゃあ何のためにここに来たのか分からないじゃないか。最初に演説を聞こうと言い出したのはあんただろ?
そう言ってやろうと俺が顔を上げた先で、Fartはまっすぐにステージの上のハートを見つめている。
「さて、明日はハロウィンですが――」
と、その視線の先でハートがスピーチ台に身を乗り出した、そのときだった。
視界が暗転――ならぬ明転。シャレにならない強烈なフラッシュ。
ほんの一瞬、世界から音が消え――直後に轟き渡ったのは、体を粉々にするような爆音だった。
空を割るような悲鳴が上がる。マスクの内側で見開かれた俺の目に、炎上するステージが見えた。
会場は大パニック。1000を超える来場者が恐慌を来して思い思いに逃げ始める。
その大混乱の間に、見えた。
ステージの前で血塗れになって倒れている人。
燃え上がり、悲鳴を上げて芝生の上を転げ回っている人。
その火を消そうと必死の形相で駆け寄っていく人。
置き去りにされて泣き叫んでいる子供。
慌ててステージの上へ駆け上がっていく関係者。
木っ端微塵になったスピーチ台。
そのスピーチ台の傍に落ちた、誰かの左腕。
「て、テロだ!!」
逃げゆく群衆の中で誰かが叫んだ。
そんなの言われなくても見りゃ分かるよ、
問題はこのテロを起こしたのがどこのどいつかってことだ。すべての音が遠く、今まで経験したこともないような耳鳴りが容赦なく鳴り響く中。
俺は隣に立つFartを、茫然と仰ぎ見た。
Fartはまだハートのいたステージを見つめている。
それからゆっくりと俺の方を見て、何か言った。
耳鳴りがひどくて何も聞こえない。
だけど口の動きだけで何となく分かる。
「だから」
「耳を塞げと」
「言ったろう?」
ドッと、心臓を蹴飛ばされたような衝撃が走った。
次に気がついたとき、俺は叫び声を上げて逃げ出していた。
恐慌状態に陥った群衆に紛れて逃げる。逃げる。逃げる。
俺はとんでもない男と知り合ってしまった。
あのテロの犯人が誰かなんて、もう考える必要もなかった。
あいつは殺し屋だ。あいつがハートを殺した。
だけどどうして? 何のために?
あのオッサンは愛国者に鞍替えしたんじゃなかったのかよ?
嘘だった?
これまで俺の前で見せていた顔は、並べられた言葉は、全部、全部、全部――
ユダに裏切られたキリストは、こんな気持ちだったんだろうか?
がむしゃらに走って公園を出た。どこをどう走ったのか、俺の体の一体どこにそんな持久力が眠っていたのか、まるで分からないことばかりだ。
気づけば俺は知らない裏路地にいて、フランケンシュタインのマスクを馬鹿みたいに被ったまま、なおも走り続けていた。
視界が狭い。息苦しい。
だけどこのマスクを外したら最後、俺は警察に捕まってしまうような気がする。
だって俺は殺し屋とずっと一緒にいたのだ。今日に限ったことじゃない。この1年、暇さえあればあの殺し屋とつるんでいた。
そんな俺を警察がマークしていたとしたら?
俺もハート殺しの共犯だと容疑をかけられていたら?
フランケンのマスクの中は、汗と涙と鼻水でグショグショだった。
なんで? どうしてこうなった?
確かに俺は殺し屋になりたいと夢見てたけど、こんな結末を望んだわけじゃない。手酷い裏切りや、未来の大統領が粉々になる瞬間を見たかったわけじゃない。俺はただ力が欲しかった。俺を押さえつけ、閉じ込める
だけどその力の行く先がアレだってのか?
無関係の人間まで巻き込んで何もかも焼き尽くす、あの炎が――
「――Oops!」
そのとき全身に強い衝撃を感じて、俺は思わずよろめいた。
何とか踏み留まろうとしたものの、勢いがつきすぎて止まれない。そのまま前のめりに倒れ、地面の上を転がった。
……
「おい、お前! どこ見て歩いてんだ!」
品のない怒声が聞こえた。立ち上がれないまま振り向くと、背後に見知らぬ2人の男がいる。どちらもスーツに黒い外套姿の男だった。そのうちの1人がおもむろに腰を屈め、地面から何か拾い上げている。
隣の若い男が被っているのと同じ、黒の中折れ帽だった。どうやら俺はそちらの男と激突してしまったようだ。その拍子に帽子が落ちたのだろうが、しかしそのとき、俺は猛烈に気が立っていた。
そう、何故か猛烈に気が立っていたんだ。
制御できない核ミサイルを腕の中に抱いている気分だった。
そしてその核ミサイルは、若い方の男が上げたヒステリックな声で起爆した。
あのとき爆発した感情を何と呼べばいいのか、俺は今もその名前を見つけられずにいる。
「うるせえ! そっちこそちんたら歩いてんじゃねえよ、
地面に腰を抜かしたまま――なおかつフランケンのマスクを被ったままというあまりにもお間抜けな格好で、腹の底から俺は叫んだ。
とにかく叫んで、叫んで、叫び倒して、腹の中で暴れ回っている正体不明の感情をぶちまけてしまいたかったんだ。
だがその欲求に素直に従ったのがまずかった。俺の放った〝ホモ野郎〟という侮辱語を聞いた若い男が、帽子の下で顔色を変えた。
その
ほんの一刹那の動作で俺に向けられたそれは――
俺が目を見開いたそのときにはもう、男の指は引き金にかけられていた。
乾いた銃声が2発。
いや、それは〝銃声〟と呼べるほどたいそうなものじゃなかった。
プシュッ、プシュッと、気の抜けるような音が2回響いただけ。
直後に目の前の男が2人、胸から血を噴いて倒れた。男のオートマチックがアスファルトの上を滑り、ざらついた音を立てて俺の前で止まる。
その銃に一瞬目を落として、それから茫然と顔を上げた。
倒れた2人の男の背後、約30フィート。
そこにやたらと
Fartだった。
Fartはじっと銃を構えたまま、何も言わずに俺を見ていた。
パタッと小さな音がして、地面に転がった銃に水滴が落ちる。
更に1つ、2つ、3つ、4つと降ってきた水滴は、やがて数え切れないほど足早になり、俺たちへと降り注いだ。
乾いたアスファルトが瞬く間に塗り潰され、真っ黒に変色していく。
冷たい雨はニューヨーク中に降り注ぎ、遠いサイレンの音も、街中を包む喧騒も、何もかもを呑み込んでいく。
そうして雨に打たれた俺たちの間に、一体どれほどの沈黙が積もっただろう。
やがて俺は腰を上げ、よろよろと数歩あとずさってから身を翻して逃げ出した。
あのとき無我夢中で駆け去った俺の背中を、Fartがどんな顔で見つめていたのかは分からない。
それからほどなくエドワード・ハートを殺した犯人としてセオドア・ヒンクリーという男が逮捕され、大統領選挙は予定どおり実施された。
本来なら選挙は延期されてもおかしくない状況だったが、犯人が即座に逮捕されたことと、その犯人の動機が倒錯的で選挙戦の対抗馬であるブッシュの陰謀説が否定されたこと、そして何よりそのブッシュがハートの葬儀で涙を流し、アメリカの未来について熱弁を振るった姿が全国民の心を打ったことからそうした判断になったらしい。
その選挙の結果については、敢えて俺の口から語るまでもないだろう。
ただ1つ特筆すべきことがあるとすれば、ハートに続いて一躍時の人となったヒンクリーという男は完全にイッちまったヤク中みたいな顔のやつで、あの日俺の隣で爆弾の起爆スイッチを押した男とはまるで別人だったってことだ。
それから年明けを待たずに『Cinema Anthony』は潰れた。
雪が舞うニューヨークの片隅で、俺は残骸になった『Cinema Anthony』の前に立ち尽くし、しばらくそこを動くことができなかった。
エドワード・ハートが死んだあの日以来、俺はFartと会っていない。
ニューヨーク中どこを探しても、あの男を見つけることはできなかった。
Fartは俺の前から完全に姿を消した。
そして、10年の月日が流れた。
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