第六章 直接対決で大変です

第85話 10年ぶりに帰って来たこの街で

 

「へぇ~教師になりたいんだ~。どうしてなの?」


 僕はまた夜の芝生の上でミトセさんと星を見ていた。

 僕達は今、将来の夢を語り合っている。

 今日はとても綺麗な満月が煌々と輝いている為、その光によって星は少し姿を隠しているようだ。

 ふとミトセさんの顔を見ると、月明かりに照らされて、いつも以上の綺麗な顔に見惚れてしまった。

 その顔は少し大人びており、始めて一緒に夜空を見上げた時から少し月日が経っているのが分かる。


「僕はね、小さい頃から体が弱かったから、ずっと部屋で家庭教師に教わって来たんだよ。今は何とか学校に通えているけどね」


 そう僕は、小さい頃から体が弱く、尋常小学校時代は月に数回しか通う事が出来ず、学校生活らしい事の記憶は殆ど無い。

 中学校はさすがにそう言う訳にもいかなので通ってるけど、それでも休みがちだ。


「あ~、そうなんだ。あなたひょろっとしてるもんね」


 ミトセさんがそんな風に笑う。

 一見きつい言葉だけど、今の僕にはわかる。

 彼女がこんなきつい言葉の時は、『そんな小さい事は気にせず、前を向きなさい』と励ましてくれているんだ。


「フフ、君は相変わらずきつい事を言うなぁ。まぁ話を戻すとね、そんな殆ど学校に通った事のない僕だったけど、尋常小学校の先生がとてもいい人でね。同級生達に働きかけてくれて家に遊びに来てくれるようにしてくれたんだ。何人かはおやつ目当ての子もいたけどね。それでも嬉しかった。想いが繋がっている気がしたんだよ」


 とてもいい先生だったんだと思う。

 学校に通えない僕の為に色々と考えてくれて、そして僕と同級生達が仲良くなれるようにと手を尽くしてくれた。

 中学校に進学する際にもそこの先生たちに掛け合ってくれて、同じ境遇になるように努力してくれたんだ。

 だから僕はこの街に引っ越す前の学生生活は寂しくなかった。


「じゃあ、尋常小学校の先生になりたいの?」


「あぁ、そうさ。その恩人の先生の様な立派な先生になりたいと思っているんだ」


「そうなんだ。じゃあ、私も応援するわ」


 ミトセさんは幻想的な月夜の下、相変わらずな太陽の様に素敵な笑顔でそう言ってくれた。



 ―――― ここでの視界は暗くなった。



 気が付くとまたあの木の下に居た。

 先程と違い昼間のようだ。

 何故か体が怠く、熱っぽい。


「ゴホッ、ゴホッ」


 ッ!!


 僕は慌ててハンカチで口元を拭き、そのハンカチをポケットに 仕舞い込んだ。


「大丈夫? 変な咳してたわよ? 風邪でも引いたの?」


 ミトセさんが心配そうに近付いて来た。

 僕は慌てて後ずさる。


「あっ、あぁ先週位に温かくなって来たからってお風呂に入った後、上着も着ずに外に出てたのがダメだったみたいだ。風邪をひいてしまったみたいなんで近付かない方が良いよ」


 これは嘘だ。

 本当は半月ぐらい前から体の怠さは感じていた。

 最近はずっと熱っぽい。


「あら本当に大丈夫?」


「あぁ大丈夫だよ。念の為に今から病院に行ってくるよ。ミトセさんにも風邪がうつってるかも知れないから病院で診て貰った方がいい」


 僕の早とちりなら良いんだけど。


「私は大丈夫よ! 元気いっぱいなんだから」


 ミトセさんはいつもの様に太陽のような笑顔でそう言ってくれるのだが―――。


「ダメだ! ちゃんと病院に行く事! 分かった?」


 僕は強めにそう言った。


「わっ分かったわよ。あなたも心配性ね。私もこの後病院に行くわ」


 普段と違う僕の言動に驚いたミトセさんは素直に言う事を聞いてくれた。

 良かった、本当に彼女に伝染うつっていなければいいんだけど……。

 病院に行くと言う彼女の言葉に安心して、僕も病院に向かった。


 ハンカチに付いた血の混じった痰は何かの間違いで有る事を祈りながら。



 ―――― ここでまた世界は暗転した。



 あれから暫く後、僕は今あの街を離れて結核患者用のサナトリウムのベットの上で過ごしている。

 あの後、すぐに結核と診断され、彼女に何も事情を説明出来ないまま、その日の内にあの街から離れ、この施設に来る事となったんだ。

 血痰の段階で気付いたのは運が良いと言われたが、治るかどうかは分からないと言われた。


 この病気はいまだ不治の病と言われる程、死亡率は高いらしい。

 見舞いに来た使用人の話では、ミトセさんは発症しなかったと言う。

 僕はその言葉に心から安堵した。


 そう言えば、実家は弟が継ぐ事が正式に決まった。

 当たり前だ、こんな体の弱く生死を彷徨っている長男より、体の丈夫な弟が継ぐのは当然だと僕も思う。

 僕の家はとある藩の家老を務めていた家系で、現在は祖父が県知事を勤めた事もある代々地元議員の一族として有力らしいのだが、僕は小さい頃からあまりまつりごとに興味が無かった。

 なにより親は身体の弱かった僕より、小さい頃から健康で武芸事も秀でている弟に期待しており、半ば忌み子扱いされていた僕は、あえて家の事には関わらない様に過ごして来たんだ。


 あぁ、ミトセさん。

 今君は何をしているのだろうか、僕の頭の中はミトセさんの事でいっぱいだ。

 でも、もう会う事は出来ないかもしれない。


 いや出来ない。


 こんな姿を見せて悲しませたくはないし、もし彼女を置いて先に死んでしまったとしたら、残された彼女はどれほどの悲しみを背負うと言うのだろう。

 僕はそれを考えただけで身が引き裂かれる思いだ。


 彼女に対する強い想いは心の奥に仕舞い込み、僕は一つの決意を元に手紙を書く事にした。



◇――――――――――――――――――――


 拝啓、ミトセ 様


 急に姿を消してしまい申し訳無く思います。

 私は今、家からの申し出により遠い土地にて

 暮らしている次第です。

 理由はある名家の令嬢との婚姻で、その家に

 婿入りする事となりました。

 その方はとても美しく素晴らしい女性で現在

 私はとても幸せです。

 貴女も私の事など忘れて、素敵な男性と一緒

 になって下さい。

 私はこの土地から、いつまでもあなたの幸せ

 を心から祈って


――――――――――――――――――――◇



 ダメだ……、これ以上は涙が溢れて視界が滲み、筆を進める事が出来そうにない。

 でも、これだけ書けば彼女は僕の事を諦めて、他の誰かと結ばれ幸せになれるだろう。

 僕は使用人にお願いしてこの手紙を彼女の家の郵便受けに入れて欲しいと頼んだ。



 ―――― 強い悲しみを心に残したまま、また世界が暗転した。既になのかなのか分からなくなってきていた。



 また暫く時が流れたようだ。

 僕は九死に一生を得て、この土地で夢だった尋常小学校……、いや今は国民学校初等科か、その教師として暮らしている。

 ミトセさんに会いに行こうかとも何度も思ったのだが、あの手紙の為、今更会いに行ける訳も無いだろう。

 恐らく彼女は今頃は素敵な男性と結婚して、もしかすると子供もいるかもしれない。

 激しく後悔はしたものの、これは仕方の無い運命だと自分に言い聞かせた。

 教師と言う事も有り、幾度か見合いの話も来たが全て断っている。

 僕の心にはミトセさんしか居ないからだ。


 他の誰かを好きになる事なんて出来る訳がない……。


 そんなある朝、いつもの様に出勤前に新聞を読んだ。

 一面には大本営報道による勇ましい言葉が並んでいる。

 僕はその文字達を見送りながらページを読み進めた。

 しかし、有る一点で僕の目は止まった。

 そこに書いてある文字に頭の中は真っ白になる。


『――市 空襲、 焼夷弾による火災発生 被害甚大』


 あの街だ!

 ミトセさんが居るあの街だ!


  僕らが出会ったあの街だっ!


 被害甚大? なんと言う事だ!

 ミトセさんは無事なのだろうか?


 気が付くと僕は汽車に乗りあの街に向かっていた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 僕は懐かしいあの街を歩く。

 けど、見た事が無い景色が広がっていた。

 そこは辺り一面の焼け野原。

 そこかしこでまだ火の手が上がっている。

 誰かを探しているのか、大きな声で名前を叫びながら走っている人が一人や二人じゃない。

 既に報道から一日以上は経っている。

 それなのに空襲の傷跡はいまだ熱と臭気によって、まざまざと僕にその牙の恐ろしさを突き立てていた。


 僕は見知らぬ景色となったこの街を当時の感覚を頼りにミトセさんの家へと向かった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「なっ……!」


 ここには大きな屋敷が有った筈だ。

 しかし、僕の目の前には焼け焦げた瓦礫しか存在していない。

 辺りを見回しても誰の姿も見当たらない。


 僕は初めて体の奥底から声を振り絞り、大声で泣き叫んだ。

 ……しかし、誰もそれに応えない。


 僕は日が落ちて辺りが茜色に染まるまでその場で泣き続けた。

 やがて、涙も枯れ果て何も出なくなった僕は、おもむろに顔を上げもう一度瓦礫となった屋敷を見上げる。

 それは夕日に照らされ、まるで燃え盛る火の中に居る錯覚に囚われた。

 周りを見渡しても同じ様に真っ赤に染まる夕日が、街の廃墟を火の海に変えていた。

 悲しみの渦が、僕の心の中をまるで濁流のように渦巻いている。

 僕は何の為に生きて来たのだろう。

 最愛の人と離れ、そしてもう二度と会えなくなった。

 生きていて、そして幸せであってくれれば良い。

 そう思っていた。……けど、もうそれも叶わない。

 その絶望から、空を仰ぎ見て僕は自らの命を絶とうと思った。


 ふと、視線の隅に何かが映る。


 それは山の上、麓からでも目が付く、僕らが出会ったあの木だった。


 僕は弾かれたように立ち上がり、その木に向かって走り出した。

 何故だか分からない、けどもしかしてと言う想いが一縷の光、いや希望として胸に湧き上がってくるのを感じる。

 この空襲でもあの山は、あの思い出の木は無事だった。


「もしかしたら、あそこには……。あの人が……」



 ―――『十鬼乃坂峠』

 昔、この山の峠には十人の鬼が住んでおり、峠を通る旅人達を襲って食べていたらしい。

 ある時、高名なお坊様がその噂を聞き付け、退治の為にこの峠にやって来た。

 鬼達はそのお坊様を捕って食おうとしたが、その強い法力に手が出せず、百日に渡る戦いの後、とうとう折伏されたとの事だ。

 そして、改心した鬼達は仏の従者として今もこの山を守っていると言う逸話がこの地名として残っている。

 この山、あの木が無事だったのはその仏の従者となった鬼達のお陰なのだろうか?



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 元より身体の強くない僕なので、勇ましく走り出したはいいのだが、結局木の近くに着く頃には辺りはすっかり暗くなっていた。

 今日は満月の筈だけど、いつからかあらわれた厚い雲により覆い隠されて、周囲は闇に包まれている。

 しかし、通い慣れたこの道は10年の月日が流れても体が覚えて迷う事は無かった。

 息も絶え絶えで山道を進む、あそこの道を曲がれば木は目の前だ。

 最後の力を振り絞り足に力を込めて踏み出した。


 僕の目に闇の中でも薄っすらとあの懐かしい木の姿が映る。

 僕は懐かしさのあまり、今の今までの疲れも忘れ走り出した。


 その時、ふと満月を覆っていた雲が流れ、月明かりが辺りを照らす。

 闇から急に視界が広がり、まるで幻想的な青白い世界が現れた。


 ん? 木の側に誰かが居る?


 月明かりに照らされた木の下に誰かがうずくまっていた。

 誰だろう……、いや僕にはそれが誰か分かった。


「ミトセさん!」


 大声で10年振りにはなるであろう、その愛しい人の名を叫んだ。

 その声にその人影……、ミトセさんは顔を上げる。

 月明かりに照らされたその顔は、別れたあの日のままとても美しかった。


「……ちさん?」


 ミトセさんは泣きつかれたのか、掠れてはいるが今でも耳に残る懐かしい声で僕の名前を呼んだ。


「ミトセさん! 無事だったんですね!」


 僕は急いで近付こうとした所で、体が金縛りにかかったかのように動かなくなってしまった。


『どの面を下げて会おうとしているんだ?』

『彼女には今、なんかよりこの場に相応しい人がいるんじゃないか?』


 そんな言葉が頭に響く。

 ? 誰の言葉だろう?


 しかし、彼女は立ち上がり僕の元に走って来て、事も有ろうに抱き付いて来た。

 あぁ、懐かしいこのミトセさんの感触。

 その感触により金縛りは解けたようだ。

 僕は先程の言葉を忘れて、ミトセさんの体を抱き締める。

 彼女は僕の胸で一頻り泣いた。


「会いたかった! どこへ行ってたの? ずっと待っていたんだから! あなたが死ぬ筈も無いって信じていた!」


 え? どういう事だ! 僕は手紙で居もしない女性と結婚するとしか伝えていない。

 もしかして手紙が届かなかったのだろうか?

 使用人は確かに郵便受けに入れたと言っていたが?


「え? 手紙を見たんじゃないの?」


 僕は訳も分からずミトセさんに尋ねた。

 するとミトセさんは笑い出す。


「あはははは、バカね。あんな手紙信じる訳無いじゃないの。なによ、あの所々涙の跡で文字が滲んでる下手な文章は。本当に誰かいい人と結婚するんなら、昔の女宛てにそんな手紙出さないわ。それに最後も書きかけの崩れた文字で終わってるし。 あなたって頭は良いのに詰めは甘いのよね。……本当にずっと、……ずっと待ってたんだからね……ぐすっぐすっ」


 笑いながら手紙の事を説明するミトセさんだけど、最後の方は溢れる思いが堪えられなかったのか、またもや泣き出した。


 そうなのか、僕は涙が滲んで手紙を確認せずに出してしまっていた。


 そうなのか、僕の涙で手紙が滲んで嘘だと言う事がバレていたのか。


 なんて事だ、ミトセさんの言う通り僕は詰めが甘いな。


「皆、あの炎に飲まれて死んでしまったの。御父様も御母様も……。皆……」


 そうなのか、だからここに一人で居たのか。


 僕はミトセさんが語った言葉からいくつもの納得を噛締めて、この胸の中で泣いて震えているミトセさんを強く抱き締めた。



 僕は10年ぶりに帰って来たこの街で、ミトセさんと再会を果たした……。




「……で、私はあなたが迎えに来るのを信じて縁談を断り続けてこんな歳になっちゃったんだけど、もしかしてあなたは誰かと結婚したとかなんて事は無いでしょうね?」


 暫く抱き合った後、泣き止んだミトセさんは、突然少しドスの効いた声でこんな事を聞いて来た。

 ミトセさんはずっと僕を待ってくれていたのか!

 なんて事だ! もっと早く会いに来ればよかった!


「そんな事無いよ! 僕もずっと独り身だった。僕はずっと君だけを想って生きるつもりだったんだ」


「本当? うれしい……」


 神秘的な輝きに包まれた満月の下、一度は別れた僕達の道はまた交わり、一つの大きな道となった。



 ―――― 幸せな気持ちに包まれながら、また世界は暗転する。

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