第4話 隣人、美人
「えー契約書に不備は無いわね…っと、はい、これが201号室のカギよ。無くさない様にしっかり管理してね」
次の日、書類を揃えて再度大和田不動産にやって来た。
「この後どうする? もう引っ越しするなら今から車出すよ?」
「ありがとうお姉さん。でもあと2~3日は今の家に住むからまだ良いよ」
「そう? する時になったらいつでも言ってね。コーちゃんのお願いならママ何でも聞くから」
「ママじゃないですけどね。でも引っ越しばかりしてたから殆ど自分の物って持ってないんだよね」
食器や炊事道具と言った生活用品は置いといて私物と言うとそれこそ着替えくらいしか無いな。
あとは机とベット位か。教科書なんかは地域が異なると全く違ったりするしね。
小さい頃から引っ越ししてばかりだった俺は物への執着が極端に薄いと思う。
俺の部屋に遊びに来た友人はあまりにも何もなく殺風景な部屋に思わず『囚人部屋?』と呟いたほどだ。
最初の内はそれこそ全て大切な思い出として色々な物を大事に引っ越し先に持って行ったりしていたのだが、その内だんだんと増えて行く思い出達の梱包や開封が煩わしくなり、何回目かの引っ越しの際にとうとう『めんどクセェ!』と逆切れしてからあまり物を持たなった。
広く浅くいつの間にか居て、いつの間にか居なくなると言うぬらりひょんスキルもその頃から身に付いたと思う。
引っ越す時に渡してくれる贈り物等を捨てるのは流石に忍びなく心が痛んだからだ。
出来るだけ何も無く笑いながらさよならと言って別れられるように努めて来た。
それでも何人かは分かれる際に喧嘩したり泣き合ったりと言う事は有ったけどね。
「本当に不憫な子ね。光にぃも光にぃだわ。それもこれもあの女狐が悪いのね! きっとそうよ!」
泣いたり怒ったり本当に忙しい人だよね。
「いやいや、俺は気にしてないし身軽なのは結構気に入ってるしね」
「そう? 本当に偉くなって、昔はこんなに小さかったのに……」
今度は2cm位を指で示してる。
…何かどんどん小さくなってないか? ……ちょっとまてこれどこの大きさの事を言っているんだコラ!
「まぁ流石に一人暮らしするには色々と必要だから今日一日日用品の買い出しでもするよ」
「それが良いかもね。でも! 一つ言っておくけど買物するのなら商店街でしなさいね! 駅前のショッピングモールなんかに行ったら承知しないから!奴らは敵なのよ! いい?」
グググッと顔を近づけて来てそう力説した。お姉さん顔が怖いです……。そして近いです……。
「分かってる分かってる! 最初からそのつもりだから」
「そう?なら良いの」
お姉さんは自分の椅子に戻りにっこりと笑ってそう言った。
「そう言えば明日親父が挨拶に来るって言ってたよ。すぐに来れなくてすまないって謝ってた」
「ほんと! やったぁ! 久し振りに光にぃと会える~。へへっへへへっ……げへへへっ」
満面な笑みのお姉さん。
「勿論母さんも一緒にね」
「…チッ……来なくていいのに…」
……凄く悪い顔したお姉さん。
本当に忙しい人だ。
「一人暮らしと言うと何が必要だ?炊事道具は一応家のが有るからそれを持って行くか、後は―」
不動産屋を出てから俺は一人暮らしに必要な物を考えながら商店街を歩く。
あっ、また白ワンピだ……。
今日もやはり同じ格好で歩いている。
なんで同じ格好なんだ?
もしかして実は俺にしか見えていない幽霊とか妖精とかそんな存在だったりするのか?
―あら香織ちゃん。こんにちは。
あっなんか通りすがりのおばちゃんに挨拶されてる。良かった俺だけにしか見えない訳じゃなかった。
それにやっぱり宮之阪香織で合ってたんだな。
今回は目を合わさず見ない振りをして通り過ぎた。
それから電器屋と家具屋に寄り、照明具や冷蔵庫と言った最低限必要な幾つかの家電や食器棚とかの家具を注文した。
電器屋のおっちゃんは俺の事を覚えていてくれて引っ越し祝いだと言って色々とおまけして貰った。
あとはそうだなぁ…。引っ越しと言ったらご近所さんへの挨拶用のお土産だな。
最近じゃ近所付き合いって言葉も死語だけど一応引っ越しのプロとしては慣習に則ってちゃんと挨拶をしようかね。
俺の引っ越し先のマンションは一つの階に4戸の三階建て全部で12戸の小規模賃貸マンションだ。
築浅でユニットバスじゃない2DKだけど街の中心からは少々離れているので家賃はそれ程高くない。
親父や母さんはもっと高くても良いんだぞとか言っていたが一人暮らしにはこれでも贅沢過ぎる程だ。
一応爺ちゃんやお姉さんが選んでくれていた中でも安い物件を選んでいる。
お姉さんが言うには俺の借りる部屋を入れて12戸中3戸は空いてたとの事なので世帯数は9戸か。
基本は上下左右と言うけれど、この数だったら全戸に配っても良いかな?
若い独身者向けとの事だが、洗剤はやめておこう。
洗剤は定番だけどあれ実は結構個人の好みや拘りが凄く出やすい。
普段使っていない洗剤って貰っても使わない、使いたくないっていう人が結構多いんだよな。
となるとタオルか食べ物か……。
若い独身者向けと言うし無難に焼き菓子系が良いかもしれない。
高年齢やファミリー向けだったら別の選択肢が出て来るけど若い独身者ならお菓子で問題無いだろ。
んじゃ昔よく行ってたケーキ屋に買いに行くか。
「光一君、また来なよー」
ケーキ屋の店長の挨拶と共に店を出た。
やはり俺の事を覚えていてくれたようだ。
ここでもまたおまけして貰った。
10年ぶりなのにここまで俺の事を覚えてくれていたのは正直嬉しい。
まぁ半分以上は中学生で天涯孤独になった親父の子供ってのもあるのかもしれないな。
お姉さんが言うにはそれだけじゃなくこの街に数々の伝説を残しているとか言ってたし。
そんなこんなで両手に買い込んだ荷物を持ってマンションまでやって来た。
「よし、念願の一人暮らし! ここが俺の、俺一人の城だ!」
マンションを見上げながらこれから始まる新しい生活に思いをはせ気合を入れた。
オートロックの玄関を通り階段を昇る。
「えーと俺の部屋は201号だから2階のこっち側の端だな」
俺の部屋に向かい歩き出すと俺の部屋の手前、202号の扉が開いた。
そこから現れたのは一言で言うと「美人」。
すらっとした細身の姿に黒のレディーススーツとハイヒールを着こなし颯爽とした振る舞いで部屋から出てきた。
歳は24、5位か。
髪は長髪で少し茶色がかっているが艶々のサラサラで体の動きに合わせ風にふわっと靡いていた。
顔は最初の印象通り凄く整っており凛とした雰囲気を纏っている。
顔の方向性は違うけどまるでビジネスモード時の母さんみたいだ。
その佇まいに思わず見惚れてしまった。
「あら? こんにちは。君見ない顔ね? どなたかしら?」
彼女は俺を見ると微笑みながら挨拶をしてきた。
「あっ俺、いやぼ、僕は今度201号室に引っ越す事になった牧野光一と言います。」
外見と変わらず澄んだ声に少しドキマギしながらこう返した。
あちゃー失敗したー。こんなんじゃ不審がられたかもしれない。
「そうなの? 私の名前は墨染って言うの。これからよろしくね?」
「はい! あっこれ引っ越しのお土産です」
慌てて荷物を床に置き、ケーキ屋の袋から焼き菓子の箱を取り出そうと頭を下げた。
「うおぅっ!」
…うおぅ?
あれ?いまこの人の方からなんか喜びの雄たけびの様な物が聞こえたぞ?
空耳か? こんな美人が出すような声では無かったのだが?
恐る恐る顔を上げ墨染さんを見た。
彼女は顔を赤くしながらヒューヒューと口笛を吹いてあからさまに誤魔化そうとしていた。
その口笛……空気切っているだけで鳴ってませんよ……。
「ななな、なんでもないの! ただそのケーキ屋さんのお菓子好きなんでちょっと嬉しくなって」
「そ、そうですか。喜んで貰えてうれしいです」
恥ずかしそうに言い訳している彼女に気を取り直してお土産を手渡した。
彼女は嬉しそうに受け取り「ありがとー」言いながら自分の部屋に小走りで持って入った。
暫くすると出て来て、
「ごめんなさいこれから出かける所なの。このお礼はまた今度ね」
そう言うと彼女は階段を下りて行った。
どことなくお姉さんの匂いを感じながらも第一印象とちょっと違うけどいい人そうだなと思った。
それに美人だし。
これは幸先良さそうだ。
あまり恋愛と言うのには距離を置いているけど別に女性が嫌いな訳でもない。
女性と話すのも楽しいと思っている。
特に綺麗な人と話す時は今の様に普通にドキドキする。
その後、取り敢えず部屋に荷物を置き、残りの部屋へ引っ越しの挨拶をしに回ったが、流石に春休みとは言え社会人にとっては普通に平日の昼間なので留守宅は多く後日改めて回る事にしよう。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
次の日家族で大和田不動産に出向き爺ちゃん達に今までなかなか顔を出せなかった謝罪を兼ねた近況報告を行った。
会った途端に泣きながら親父に抱き付くお姉さんとそれを引き剥がそうとする母さんのバトルや、その後の二人の壮絶な口撃合戦等々色々あったがそれをここで語るのは止めておこう。
親父はキリキリと痛む胃を摩りながら疲れ切った顔をしていた。
その夜、爺ちゃんはいまだ続く母さんとお姉さんのやり取りを困った顔で眺めながら俺に、
「ああ見えても二人実は結構仲が良いんだよ」
と衝撃な事実を口にした。
あぁなるほど、改めて思うとこれがマジの喧嘩なら洒落にならないだろう。
それこそ家庭崩壊や刃傷沙汰のような大惨事になってもおかしくないと思う。
「それでも最初の頃は殴り合いとか日常茶飯事だったんだがな」
爺ちゃんそれ大惨事じゃん!
「ある日光也をかけて河川敷で果し合いを行ってな」
いつの時代の青春マンガだよ!
「あまりの迫力に警官も止められないような大立ち回りだったんだが結局最後は引き分けとなり、それからお互いを認め合って親友同士になったんだよ」
だからいつの時代の青春マンガだよ!
普段の母さんからは信じられない…あ、でもお姉さんならそんなノリもおかしくないか。
二人共似てる所が有るから案外母さんの素はお姉さんと同じなのかもな。
初めて知った事実にショックを受けながら二人を見ると確かに嫌味を言い合うその顔には嫌悪以外の感情が有る事が分かった。
その後母さんとお姉さんの口撃合戦は親父の自慢合戦へと内容がシフトして行き、最後は笑いながら一緒に酒を飲んでいた。
それからトントンと日が進み、親父と母さんはそれぞれ新しい赴任先へと旅立って行き、俺の一人暮らしの日々が本格的に始まるのだった。
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