第2話 祝!一人暮らし
「光一! 本当にすまない!」
俺が家に着いてから暫くすると、息を切らせて帰ってきた親父が俺を見るなりこう言って来た。
長身細面のアラフォーな親父は普段物腰も柔らかく、いかにも紳士と言う立ち振る舞いなのだが、今は急いで帰って来た所為で、全身汗だくで髪も少々乱れていた。
こんな親父は滅多に見た事がないが、この後に続く言葉は過去の経験から想像がつく。
「……今度はどこに転勤なんだ?」
俺は呆れ顔でダイニングテーブルに手を付いて頭を下げている親父にそう言った。
「…………ジル」
「え?どこって?」
「ブラジル……」
「ブラジル!? 昔そこ一回行ったよね?」
小学5年の頃だったか1年ほどそこで暮らした。
最初は言葉も通じずかなり苦労した思い出がある。
日本人学校に入れてくれたら良かったのに、現地の人から直接言語を習ういい機会だとか言って、右も左も分からぬまま向うの学校に入学させられたっけ。
苦労する俺を見かねてクラスメート達も片言の日本語を覚えてくれて何とか意思疎通が出来る様になったなぁ。
本当にいい奴らだったと思う。
だがそれとこれとは別なので取り敢えず置いておく。
「ああ、そうなんだがまたピンチらしいんだ」
「いや、もうその支社潰れた方が良いんじゃないか? 親父あの時ここはもう大丈夫だとか言ってたよね? 親父が居なくなって数年でピンチって根本的に需要と供給が合ってないんだと思うんだけど」
「父さんもそう思うんだが、南米進出はわが社の大プロジェクトの一つでも有るから無下に出来なくてね。下手に設立に成功した実績があるものだからまた父さんに白羽の矢が立ったって事なんだ」
立ったって言ってもなぁ……俺は手を額に当ててため息をついた。
「母さんにはもう連絡したの?」
母さんも今日は出社している。
日本支社の管理職異動願の結果の辞令が届くと言うことで朝から出かけていた。
「ああ、帰る途中に電話して伝えてある。美貴ちゃんも帰宅途中だったみたいでもうすぐ帰ってくると思うよ」
親父は母さんのことを『美貴ちゃん』と呼んでいる。
加えて母さんは親父のことを『光也くん』と呼んでいる。
ラブラブ夫婦なのは良いが子供として少し恥ずい。
ガチャ! ドタドタドタ!
あっ噂をすればと言う奴か、丁度母さんが帰ってきたようだ。
廊下を走るなんて珍しいな? まぁこの期に及んで親父がいきなり海外転勤とか言うのはそりゃ慌てるか。
バンッ!
リビングの扉が勢い良く開かれる。
「母さんもなんか言っ―」
「こーちゃんごめん!」
リビングに入ってくるなり俺の言葉を遮り母さんはいきなり頭を下げた。
「えっ? どういうこと?」
あまりの展開に頭が付いてこない。
いや実際は理解しているのだが信じたくないと言うほうが正解か。
「ハァ……いやもう言わなくて良いから、だからと言って高校入学前に他所に転校とか有り得ないし、俺はこの家に残るから」
「こーちゃん……ごめんねぇ、なんかCEOが直々に日本支社にやって来て『君に走り回って貰わないとわが社は大変なんだ』って泣つかれちゃって……。しかも、たどたどしい日本語で、そこまでされると断れなくて」
海外の大会社のCEOがわざわざ母さんに会いに日本まで来て泣つくって……しかも母さん英語ペラペラなのにわざわざ母さんの母国語で?
何者なんだ母さんって……。
「大丈夫よ! 1年後くらいには希望通りの人事異動の検討をするって言ってくれてるから、来年こそゆっくり一緒に暮らせるわ」
満面の笑みでガッツポーズをする母さんを見ながら、『絶対騙されてるよ、多分一年後も同じセリフで説得されてるよ』と深いため息をつく。
母さんって仕事は出来る癖にそれ以外では何処か抜けているんだよぁ。
「なんだ美貴ちゃんもか、あー有る意味丁度良かったと言うべきか……」
「なんだ親父? なんかその言い方気になるんだけど?」
「うん、今回光一の高校の事も有るし美貴ちゃんと一緒に残って貰おうと思っていたんだけど、一つ問題が有ったんだ」
おー親父、ちゃんと俺のこと考えてくれてたんだな。ちょっと感動した。ただ――、
「問題ってなんだ?」
「この家って、我が社所有の物件で要するに社宅なんだよ。ここに赴任するにあたり落ち着くまで取り敢えず貸し与えられていただけなんだよ」
そう言えばこの家って最初から家具家電付きでおかしいと思ってたんだ。
え~、という事はそれってつまり?
「親父が転勤という事はすぐにでも出て行かなきゃダメってことか?」
「そうなんだよ。ただ今日明日って訳でも無く父さんのブラジル行は一週間後なんでそれまで時間は有るよ」
一週間って時間が有るとは言えるのかな?
「美貴ちゃんの事情を知らなかったからちょっと慌てたけど光一だけなら住まい探しも引っ越しも楽だよね」
なるほどね。
母さんと一緒ならそれなりの家を探す必要が有るし引っ越しも大変だったろう、その点俺一人なら最悪雨露さえ凌げる場所であればどうとでもなる。
「父さんは暫くブラジル行の準備で家になかなか戻れないと思うから、光一の家探しは……あ~光一は覚えてるかな? 昔住んでた近所に有った大和田不動産屋のところのさっちゃん。彼女に頼んでおくから明日にでも行って貰えるかな」
大和田?さっちゃん? あーあの強烈な個性の持ち主の「お姉さん」か。
確か親父が中学校くらいの時にその両親つまり俺の祖父母が死んで天涯孤独になったのを祖父と親友だった大和田の爺ちゃんが暫く引き取っていたんだっけか。
そこの娘さんの名前が幸子、通称さっちゃんだ。
俺は『お姉さん』と呼ばされている。
昔『おばちゃん』と呼んでしまって大変怖い思いをしたのはいまだにトラウマになっていた。
本人は『ママと呼んでもいいのよ?』とか言っていたが、小さいながらも何か黒い思惑を察して『お姉さん』を選択しんだよね。
歳が10以上離れていたから親父は妹みたいなものとしか思ってなかった様だけど、お姉さん本人は出会った時から将来のダンナ様と心に決めていた様で、親父が結婚した時にはかなりの騒動が有ったそうだ。
暫くして何とか落ち着いたらしく、俺が小さい時は両親が仕事で居ない時など大和田の爺ちゃん共々よく面倒を見て貰っていた。
ただ母さんとは流石に折り合いが悪く、一見表面では和やかにしつつも端々に嫌味を交えつつ、会話をする様は子供ながらに肝が冷えたのを覚えている。
母さんは嫌だったのだと思うけど、俺を面倒見て貰っている負い目でしぶしぶ付き合っていたんだろう。
でもこれって、親父地雷踏んだんじゃ…。
母さんをちらりと見ると、顔は微笑んでいる様に見えるけど、よく見ると笑っていない目と、額に浮かぶ青筋見て早々とリビングから抜け出した。
「光也くん? どう言う事? もしかしてあの女狐と連絡取り合ったりしてるの?」
「女狐ってそんな……。それに違うよ、まだ連絡していないよ」
「まだ? これからするんだ? へぇー」
「だから誤解だって、こんな急な住居探しなんて他の所無理だし……ちょっ光一! たすけ……」
背後から母さんに攻め立てられている迂闊な親父に『ガンバレ』と心でエールを送りながら自分の部屋に戻った。
ベッドに横になりながら今日の出来事を整理してみる。
「取り敢えず高校卒業まではこの街に居れるって事か。それに一人暮らしなんだがそれはいつもの事だよな」
そう両親は家を空けている事が多い為、基本的に家事全般は俺の仕事で一通りこなせる。
「他に問題は……? いや問題なんて無いな! 念願の一人暮らしじゃないか! 祝!一人暮らし! やったぜ!」
俺は思わぬ独り立ちの機会の訪れに、両手を上げてガッツポーズをして、これから始まる一人暮らしに心を躍らせた。
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