Innocent World

@Hambacker

序ー1:森の村と巨猿(1.5:砂漠の道程)

 薄暗い森の中、樹上で息を潜め気配を殺してじっと待つ。小規模ながら鬱蒼と生い茂った木々が高さを競い合い、饐えた臭気が辺りに充満する。凡そ清浄とは言い難い環境で、一際強烈な臭いを放つ物に視線を合せ、周囲の気配を探りながら目を凝らす。これに惹かれ、獲物がやって来るその時を今か今かと待ち構える。

 事の発端は、この森に近い村からの依頼だ。元より住人は森の恵みを日々の糧として暮らしていたそうだが、つい最近巨大な猿が姿を見せるようになったと言う。そいつは凶暴この上なく、以前のように森へ入っていく事すらも躊躇われるようになったらしい。多少の備蓄がある今はともかく、そのまま野放しにしていては近い内に村が飢えてしまう。かと言って退治しようにも村だけではどうしようもなく、領主の軍も動いてくれない。だから「奴」を何とかして、今迄の様に安心して森の糧を得られるようにして欲しい――それが村長の言い分であった。俺は「砂漠の交易地まで送るならやっても良い」と、吹っ掛け半分で返事してみたのだがその場で了承された。それから猿についての詳しい話を村人から訊き、自分の目でも確かめて「余裕で殺れる」と結論づけた。森の中で使えそうな物や場所を物色しつつ、村人に代わって森の糧もついでに持って帰る。そうして作戦を練った上で俺は今、樹上で獲物を待ち伏せるべくここにいる。

 俺の眼下で一層の臭気と存在感を放つ代物――腐りかけた大玉の瓜果は「奴」を誘い込む為の餌。その下には朽ちた木株を掘り返して作った「落し穴」を用意してある。見た目にも分からないように蔦をぎっちりと編んだ「屋根」を被せ、その中央に餌を据えた。鼻つまみ物の臭気だったが、それだけ強烈な分上手い具合に周囲の違和感を消し飛ばした。そればかりか俺の存在感さえも失わせているようで、事実穴にも落ちない小動物達が幾度となく姿を見せた。

 突如、草木のざわめく音が耳に入る。大型の獣がそれらを掻き分け、近付いて来る音だ。来たな、と口の中で呟いて片腕に抱えた杭に力を込める。高まる緊張に速まる鼓動、それらを気配諸共押し殺すべく深く、しかし静かに息を吸い、ゆっくりと吐き出す。無心に、しかし感覚はより鋭く、姿を見せる時を待つ。

一際派手な音と獣臭を撒き散らし、そいつが姿を現した。草木や土で薄汚れた毛皮に、筋骨隆々とした体格。ナックルウォークを頭上から俯瞰していると分かり難いが、腹はだらしなく出張っている。股間にぶら下がるモノに気が付いていれば、子持ちでないと容易に判別がつく。

おそらくはこうした近隣の緑地を渡りつつ、その場その場を我が物顔で好き放題に暴れ回り、食い散らかしていたのだろう。

またこの手の獣は、自身が狩られるなど思いもしない。連中にとっては全てが脆弱な獲物であり、玩具に過ぎない――そういう認識だからだ。

だがそうした獣ほど、俺にとっては絶好の「獲物カモ」となる。思惑通り何の警戒心もなく瓜果に近寄り――落ちた。派手に引っくり返り、布袋腹を無様に天へと晒し、四肢を千切れた蔦に絡め取られながらもんどりを打つ。大きめに作った筈の落とし穴にすっぽりとはまり込み、最早為す術もないとも分からず手足をばたつかせ、大口を開けて咆哮を繰り返す。足掻けば足掻くほど蔦に四肢の自由を奪われ、吠える行為はそのまま急所を晒す愚行とも知らず。

「悪いな、これも俺の仕事なんでな」

 誰にともなく、ただそれだけを呟き樹上から飛び降りて口内の奥へと渾身の力で杭を突き立てる。全体重と自由落下の衝撃が喉の内側に叩き込まれ、巨猿の延髄を砕き潰す。杭から腕に伝わる手応えから「仕留めた」事を確信し、狼煙を上げて村へと伝えた。


 集まった村人は虚ろに脱力した巨猿を目にして、唖然とした。最早どうすることも出来ないと思っていた害獣のくたばった姿など、考えてもみなかったのだろう。ただそれも事実として目の当たりにし、現実と捉えるに連れて歓喜と安堵の表情へと変わっていく。巨猿も貰って行くと伝えると二つ返事で了承され、気持ちとばかりに結構な額の報酬まで押し付けるように差し出された。交易地まではラクダの荷車で数日かかるそうだが、約束通りそこまで面倒を見てくれるという。村人達はすっかり宴気分で忙しなく準備に取り掛かっているが、ある意味丁度良いかも知れない。巨猿を仕留めた瞬間から考えていた俺自身の段取りを、宴の催しとして提案してみよう。

こいつの血抜きをしたい?」

「ああ、丸のままでも値はつくけれどその方が高く売れる」

「コイツが金になるって!? なんで?」

「どんな物にも使い手はあるのさ。何なら狩り方教えてやるから、糧にしてみたらどうだ?」

 冗談交じりにニヤリと笑って見せながら提案してみたものの、やはりと言うか返事は芳しくなかった。それはそれで当然の話だ、あんなデカブツは滅多に出てくるものじゃないし、専門の狩人でもないと手に負えない。俺自身各地を放浪してきたが、この村のように近場の恵みを糧に暮らす集落は無数にある。そしてその糧を荒らされ、滅んでいった集落もまた――

「まあいい、やってくれるなら手と知恵は貸してやる。どうせなら派手にいこうや!」

 祝いの空気に水を差す思考を切り上げ、早速準備に取り掛かる。即席ながらがっちりとした櫓を村の広場に組み上げ、白目を剥いて虚ろな巨猿を逆さ吊りにする。真下には血を貯めるガロン樽を用意し、念の為に予備を数本控えておく。あとは放血してトドメを刺せば終わりなのだが、すぐにやってしまうのも勿体無い。村は村で待ち切れないのか、とうに宴を始めているようだ。俺にとっても久々の機会だし、折角だからと交じってみる事にする。

「寂しいじゃないか、俺を置いて先におっ始めやがってさ」

「あぁあぁ、悪いな狩人さん。アンタは村の恩人だ、どんどん飲んで食ってくれ!」

 酔いの回った村人から勧められるがままに、酒と料理に手を付ける。森の果実を醸したと言う酒はスッキリと甘く、するりとした喉越しが心地よい。野兎や野鹿のつまみも大小様々な皿に豪快に盛り付けられ、各々の芳しい香りが食欲をそそる。兎と芋の煮物はホクホクとして柔らかく、舌が触れるだけで崩れて優しい味わいが口の中に広がる。対象的に鹿の焼き物は余計な味付けを一切していないのか、野性味が肉汁と共に溢れ出す。歯応えも充分に存在感を主張しており、歯と顎で食の快楽を堪能した。口直しとして勧められたナッツやドライフルーツも、自然で素朴な正しく地元の味だった。罠に使った瓜果も食べ頃の熟れ具合だと言う物があり、そちらも口にしてみる。瑞々しく甘酸っぱく、噛めば噛むほどに果汁が喉へと無意識に流れ込む。その喉越しは癖になる程、気付かぬうちに身体が求める程に清々しい。成程、森の獣達が群がるわけだ。

 村の糧たる森の恵みを存分に堪能し、腹も舌も満足した所で腰を上げる。久々の宴と思いの外美味い飯に忘れかけていたが、猿の血抜きがまだ残っている。酒が回り若干感覚は怪しいが、作業自体には問題ない。ただやろうとしてうっかり忘れていた物を思い出した、尋ねてみよう。そう思ったら村人の一人が先に、俺に声をかけてくる。

「どうした、狩人さん。用なら村の外にイイトコあんぜ」

「いや、お前らも忘れてないか。猿の血抜き」

 一瞬の沈黙の後、そこら中から思い出したように歓声が上がる。どこからともなく飛んできたナタを空中でキャッチし、軽く振り下ろしてみる。ひゅっと空気を切り裂く音が心地よく鳴り、刃の鋭さを実感する。普段から手入れは欠かしていないようで、柄もしっくりと手に馴染む。逆さ吊りにしたまま放置していた猿に改めて歩み寄り、視線を合わせる。白目は充血し、脱力して阿呆の如く開いた口からは、だらしなく舌がはみ出している。それでも尚微かな生命の残滓はあるようで、弱々しい殺気が漂うようにまとわりつく。ただそれがこいつに出来る精一杯の抵抗であることなど、俺にはよく分かっている。奴をこの状態にまで追い込んだのは、俺自身なのだから――さあ、処刑の時間だ。意識の有無など確かめず、ただ殺気として漂う生命の残滓に語りかける。

「今の今まで散々好き勝手やって来たんだろ? こいつは――その報いさ」

 最後の一言とともに一閃、喉笛を切り裂く。濁った朱が瞬く間に溢れ出し、撒き散らされる。同時に村人達からも、どっと歓声が沸き起こる。ただそれらは大地に染み込むことなく、据えておいたガロン樽を満たしていく。案の定一樽では足りず、溢れるより早く予備の樽に交換していく。興奮して躍り出た村人達の手も借りて、手早くかつ慎重に作業を進めていく。結果、三本半もの血が樽詰めされ、干涸らびた猿は今度こそ本当に事切れた。これだけ血が取れれば「足りる」だろうと、固く封をされた樽を満足して一瞥する。村人達はと言うと、酔いと興奮の絶頂に達しはしゃぎ回っている。それはそうだろう、村諸共森を食い潰さんとしていた害獣が始末されたばかりか、滅多に無い見世物にまでなったのだから。彼らも彼らでこの猿に恨みつらみこそあれ、同情の念など抱こうはずもあるまい。歓喜と興奮のままに騒ぎ続ける村人をよそに、俺は一人猿と血の樽に懺悔と感謝の念を捧げ、寝床を借りて横になった。


 早朝、まだ陽も昇らない時間に不快感と軽い吐き気を憶えて目を覚ます。自分の酒量は弁えているのだが、この村の酒は喉越しの軽さと裏腹にかなりの度数があったらしい。その上時間を置いて「来る」類のようで、今になって脳内が掻き混ぜられる錯覚を憶えた。それでも頭を振ってどうにか起き上がり、夜明け空の下で深呼吸する。喉元に迫り上がりかけていた感覚は再び胃の奥へと引っ込んで、少しは気分が楽になる。飛び出しかけたものを飲み込んだところで、村をぐるりと見渡してみた。猿はいつの間にか簀巻きにして荷車に積み込んであり、血を詰めた樽もまた同じ荷車に載せられている。酔っ払いながらも村人達が気を利かせてくれたのだろう、有難い事この上ない。その荷車の周囲に、当の村人達数名が固まって雑魚寝している。くたばっちゃいないかと心配になったものの、そこら中でいびきやら寝言やら歯軋りやら賑やかなのでどうやら平気らしい。

 未だにふらつく足取りで何とか荷車に上がり、樽を改める。封を開けた様子はなく、試しに軽く力を込めて押してみても重量感が手応えとして伝わってくる。次の目的地、砂漠の交易地へ行くにもこれがないと意味がない。こいつを材料に俺の新たな相棒を――商売道具を作ってもらわねばならないのだから。事前に聞いた話では「それ」を作ることが出来る、特殊な鍛冶屋があると言う。最近同業者からそこで得物を新調したと聞いた、信じてみる価値は充分あるだろう。

 さて、そろそろ出発の準備にかかるとしよう。ただその前に、調子は取り戻しておきたい。酒気で頼りない感覚を自覚しながら、慎重に荷車から降りて再び周囲を見渡す。宴の最中で力尽き、寝入ってしまったらしい呑気な村人が何人か広場に転がっている。彼らの近くに転がっていた果実を幾つか頂戴し、酔い覚ましのため頬張っていく。さっぱりとした甘みと瑞々しさが喉を潤し、それだけでも内腑の酒気は幾分薄れてくれた。一通り食べ終わると呼吸を整えて構えを取り、ゆったりと舞う。全身に回った酒気を爪先、指先から四肢へ、内腑へ、そして丹へと集めていく。入れ替わりに丹から発した生気が徐々に全身へと漲っていく。丹に集まった酒気は腎に固まり、尿意をもよおす。一旦舞を切り上げて村の迷惑にならない、手頃な場所を選んで用を済ませた。舞の続きを始め、全身に意志が伝わっていくことを確かめる。酒気の濁りを出し切った感覚に充足感を得ていると、一人の若い村人に声をかけられる。彼が荷車の御者をやってくれると言い、昨日も宴の合間を縫って可能な限りの準備はしてくれていたそうだ。

「ありがとう、と言うより悪いな。そこまでやって貰って」

「良いって事だよ、狩人さん。俺達だってそれだけの事をして貰ったんだし」

 若々しくはにかんだ笑顔で、彼は言ってのける。照れくさいのか鼻の下をごしごしと拭っているが、律儀で気のいい青年だと素直に思う。彼が中心になって準備したと言う旅の荷物を確認し、不足や不備に感じたことは「お願い」して準備して貰う。昨日までは俺が村の世話を焼いた分、今日は逆に村から世話を焼いて貰う立場だ。偉そうなことは言えない。準備が整うと荷車二台分、連結して二頭のラクダで引いていく事になった。後ろの荷車に乗っているのは勿論、あの大猿と絞り上げた血の樽だ。直接旅に必要な荷物は全て前の荷車に積んであるが、小さめの荷車にも関わらず半分ほどのスペースが開いている。此処から先は砂漠を行くため、対策の一環として即席の避暑地を設けてあるのだ。夜などの休憩中は無論、テントの代用にも使える。御者席の方にも砂漠対策はされており、御者自身も対砂漠用の装備を身に纏っている。言うまでもなく俺も、自前で砂漠対策の服は持っているのでしっかり着込んである。荷車に乗り込む際、御者と目が合う。

「案外様になってるじゃねえか」

「狩人さんこそ、似合ってますよ」

 互いにニヤリと笑い合い、俺が荷車の中に座り込むと同時に御者がラクダを出発させる。色々と準備や確認をしているうちに昼前となっており、燦然たる陽光が砂漠に照りつけている。砂塵避けの幌越しに、見送りに来てくれた村人達から感謝の声が聞こえてくる。やがてそれは荷車の車輪が回る音に取って代わり、ラクダが砂を踏む音へと変わっていく。荷車と砂の無機質な音が、砂漠の寂寥感を漂わせ始めていた。


* * * * *

 さく、さくとラクダが砂を踏む音が響く。同時に荷車の車輪が回り、車軸の軋む音がリズムとも旋律とも言えない音を奏でる。思いの外砂漠の道中は穏やかで、静寂に響く無機質な音が孤独感を強めていく。運が悪いと鬱陶しいほどに出くわす砂嵐もなく、ただ枯れた熱風が穏やかに砂を撫ぜ、地表を霞ませるくらいだ。対象的に陽光は雲一つ無い空から燦々と照りつけ、砂漠の空気を旱天の海に変えていた。風の影は揺らめき、そこかしこで陽炎の噴水が無数に吹き出している。この砂漠に息づく僅かな生命達の影すら、その輪郭を不確かに揺らめき揺蕩わせる。御者もまた砂塵避けに着ているコートのフードを、目深に被り陽光をやり過ごそうとしている。荷車の幌が前に伸ばせることに気付いた俺は、限界ギリギリまで伸ばして御者にも影を落としてやる。ついでに水の瓶も一本渡しておき、無理はするなと声をかけておく。

「お気遣いありがとう御座います。でも大丈夫ですよ」

 それでも返ってきた返事は掠れており、今までかなり辛抱していた様子が伺えた。本人の言葉を一旦は信じるとして、俺は自分の個人的な荷物を荷車の日陰で改めて行く。森の村で貰った報酬も含めた、懐の様子を先ずは確かめる。無為無謀な出費は旅の足を止める事になりかねないので、普段から懐の中身は把握して頭に叩き込んでいる。旅の予算や計画を立てていく際、一々中身を改める訳にも行かないからだ。直前に確かめた額と村で貰った報酬、その合算と懐の中身はちゃんと合致した。一先ず安心して記憶を上書きし、次は消耗品の類を確かめる。火打ち石や火口(ほくち)、その他諸々も当分買い足す必要は無さそうだ。一方で篭手や具足はそこら中傷だらけになっている上、細かい凹みや裂け目が目に付く。ただ現状でも使えないことはないので、一応は気にしないでおく。それよりも、一番気になっているのは己の命とも言える「相棒」だ。

 腰元に帯びていたそいつを外し、鞘から抜いて改める。二振りの濁りくすんだ、俺の肘から先くらいの刃渡りを持った短剣だ。相当に長く使い込んだ故に、柄は掌にこれ以上なくしっくりと馴染む。刀身を光にかざすと、鈍い輝きが辛うじて跳ね返ってひび割れと見紛うばかりに無数の傷跡が目に入る。細かな刃こぼれもまた、刃の凹凸として白日に晒された。厚みもまた砥を幾度となく繰り返してきたせいか、薄羽のように頼りない。切先に軽く指を触れ、柄の方からじわじわと力を込めてたわませる。みしり、きしりと痛々しい悲鳴が刀身から微かに聞こえ、それ以上に危なっかしい感覚が柄を握る手に伝わってくる。これはもう、いつ折れたっておかしくないな。己が寿命を訴える刃の声に懺悔の念を抱き、負担をかけないようゆっくりと力を抜いて傷み切った二振りを鞘に納める。ご苦労さん、お前ら本当によくやってくれたよ。今まで俺の命を預かってくれて、ありがとうな。自然と湧き上がる感謝と労いの念を胸に二振りを軽く掲げ、黙祷するとそっと傍らに置いておく。せめて交易地までは、何事もなく辿り着いてくれる事を祈ろう。これ以上お前たちを酷使するわけにも行かないし、何より俺がそうしたくない。


 夜の帳が訪れるに従い、風は急速に熱を失っていく。冷たい月の光と星の輝きが新たな道標となり、凍える程に冷え込む世界を導く。対砂漠用のコートは分厚く出来ており、砂塵だけでなく夜の冷気も防いでくれる。陽光の熱波と旱天、夜天の冷気と相反する環境が各々の時間を支配する世界、それが砂漠だ。そして陸地の――少なくともこの大陸の――大部分を占める砂漠を生きて渡るために、先人達から受け継いだ知恵と工夫がこのコートを織り上げた。砂漠を渡り、あるいは砂漠で暮らす者にとって、欠かせない物の一つと言って良い。それでも尚凍てつく空気と乾いた風は、容赦なく体温と体力を削いでいく。ただ悪い事ばかりでもなく、フードを脱げば日中の熱波で茹だった頭を瞬く間に、しかし心地よく冷やしてくれる。日中は状況確認で精一杯だった頭も、この冷たさなら今後を見据えて方針を決めていける。天上で澄み切った空に浮かぶ満天の星を見定めるように、交易地での行動指針を考えていく。とは言えこう寒いとそれもそれで考え事どころじゃない、荷車の中でも使える火釜があった筈だからそいつで暖を取ろう。

 荷物の中から鉄製の火釜を取り出し、数本の小枝を置く。懐から火口と火打ち石を取り出し、小枝の上で火花を散らし種火を作る。種火は徐々に小枝へと燃え移り、仄明るい小さな灯火となった。火持ちを求めて炭と薪を放り込んだ所で荷車が止まり、御者が中に入って来る。

「狩人さん、中で焚き火は勘弁してくれよ」

「ああ、済まん。こう寒いとつい、な。これからは声をかけてからやるようにするさ」

「いやいやそうじゃなくて……」

「心配になるのは分かる。だがこいつはこういう使い方をするための物なんだ」

 どこか釈然としない表情の御者に、釜の蓋を掲げて說明する。この窯は元々荷車の中で使う為に作られており、多少揺れた所で火が荷車に燃え移ることはない。何かあった時も上から蓋を被せてやれば、一瞬で火は消えてしまうため簡単に対応してしまえる。勿体無い気もしたが実演してみせると、御者は感嘆の息を漏らし目を丸くした。

 改めて火を焚べ直し、二人して暖を取りながら夕餉を取る。俺は熱いスープを啜りつつ、脱線しかけた今後の指針を練っていた。日中に確かめた様子だと、二振りは新造してもらうべきだろう。打ち直すよりも確実だし、何より却って安くつく。職人の腕次第では篭手や具足の打ち直しに、二振りを使ってもらうのも悪くない。永く使い込んだ相棒だ、使えなくなったからと放り出してしまうのも悪い気がした。それにその用途でなら、まだまだ活躍してもらえそうだしな。新たな相棒の目処はそれで良いとして、問題はそのための予算だ。何しろ人の世はどんな事にも銭勘定が絡んでくる。故に人は様々な手段で糧を得て銭に替え、営みを繋いでいく。商人然り、職人然り、傭兵もまた然り。俺自身も例外ではなく、己が命を銭にして旅路を往く。ただその時々の「身代り」が違うだけ、今回は偶々この猿だっただけの事だ。

 そしてこの猿を卸にかければ、今の懐と合わせて充分な額は用意できるだろう。しかしその先に進む路銀まで考えると、いささか心許ない。何かしら稼げる手段があれば良いのだが、最悪の場合商人キャラバンの護衛でも志願してみるしかない。手頃な期間で程よく稼げる仕事でもあれば、それに越したことはないのだが。

「ありゃ、狩人さん。もう良いのかい?」

 御者の声にハッとして、顔を上げる。口周りはスープと食材塗れで、口元もモゴモゴと動かしながらじっと俺を見つめている。砂漠で、それも荷車の中で温かい食事にありつけるとは、思っていなかったのだろう。テントの用意も出来ない小規模なキャラバンでは、冷たく固い保存食が旅路の主食なのだから。行儀の悪さは無視することにして、考えていたことを簡潔に話す。

「交易地までは良いんだが、その先の路銀が不安でね」

「ああー、それなら心配ないよ。荒っぽいのもよく来る場所だし、傭兵や盗賊退治の仕事くらいは普通にあるよ」

「マジか」

 驚きこそすれ、改めて考えれば自然な話でもある。物が集まる場所には、自然と人も集まってくるものだ。村も街も、何かしら糧になるものがあって、それを求めた者たちが集まっていくうちに「いつの間にか」出来ている事が多い。況してや交易地だ、俺のような血生臭い生業の者達が各々の目当てを求め、行き着く事に不思議はない。逆に連中自体を求める需要なんかがどこかにあっても、別段驚くような話でもないだろう。形態は種々あれど、手頃な仕事にありつける可能性も充分に見込めそうだ。何にせよ新たな相棒との対面には相応の日数が必要だろうし、丁度良い。少なくとも一週間を目処として交易地で仕事を探し、路銀を稼いでから旅路を再開するとしよう。結論が出ると程よく身体も暖まったらしく、気怠い眠気を自覚する。窯に蓋をして火を消し、御者共々そのままコートを毛布にして横になる。交易地にしても逃げるわけじゃないので、急ぐに越したことはないが慌てる必要もない。マイペースに旅路を進んでいけば良い。何事もなければ数日のうちに着くだろう。少なくとも村を発つ時に、御者はそう言っていた。

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