トレーニングルームと前歯のない守衛

 トレーニングルームは西二号館の地下一階部分にある、いわゆるスポーツジムだ。ランニングマシンやベンチプレス、その他トレーニングマシンがズラズラと並んでいる、というのを入学ガイダンスで配られたパンフレットで見た。

 西二号館の地下一階とは言っても、西二号館の一階以上と地下部分は直通しておらず、外から行くしかないという不思議な構造だ。まあ西二号館の中から直接トレーニングルームに行く人は少ないから困らないんだろうけどな。

 かく言う俺たちも中央棟から来ている外からの利用者だから、そのまま西二号館の外を回り込んで外階段を下りれば――、

「千春、西二号館には入らないのよ」

 直通していないことを知らなかったらしく、西二号館に入ろうとしていた入間の腕を香子が掴んで引き止めた。

「え、西二ですよね?」

「中で繋がってないから、外から行かなくてはならないのよ」

「あ、そうなんですか」

 トレーニングルームが西二号館の中からは行けないということを知らない入間のような学生は、体育が必修じゃない経済学部にはまあまあいる。エレベーターの中で「え、地下一階無くね?」なんて困惑する学生を過去何度か見かけたことがある。

「まあ、外の施設紹介には一階以上の施設と同列に書いてあるから勘違いしてもしょうがないけどな」

 俺は軽く笑って入間をフォローしておいた。

「だよね! 不親切だよ。中から行けないって注意書きしといてくれればいいのに」

 実はその注意書きもあるんだけど、そんなことを突きつけるほど俺と香子は野暮じゃ――、

「その注意書きもそこの張り紙にされてるわよ。観察力が足りないわね」

 訂正しよう。俺は野暮じゃない。これ本日二度目だな。

「うぐぅ……」

 はぁ……。

 俺はもう本日何度目となるかもわからない溜息をついた。

「俺、今日だけで何回溜息ついた? いくつ幸せが逃げたんだろう……」

「溜息をつくと幸せが逃げるってやつ?」

 香子は片眉を吊り上げ、半笑いで聞いてきた。

 溜息をつくと呼吸が深くなってふくこうかんしんけいが働くようになるから、むしろ身体にはいいというのは聞いたことがある。香子はそういうことを言いたいのだろうが、こういうのは――、

「あのね、溜息なんかと一緒に出て行くような小さい幸せなんかにしゅうする必要はないのよ。もっと大きな幸せをちゃんと握りしめてれば、それで充分でしょ」

 思わず言葉に詰まってしまった。

 全くこいつは、たまにこういうことを言うからな……。

 俺は、ふぅっと一息ついて呼吸を整え、返事をした。

「……なるほどな。覚えておくよ」



 外階段を下り、トレーニングルームと書かれたドアから中に入るとまたさらに階段があり、それを下りるとようやく受付がある。まだパンフレットで見たマシンの並んだ部屋は見えない。

 受付には守衛が座り番をしていて、学生証を提示することで中に入れる。

「はい、こんにちわ〜。学生証出してね〜」

 この守衛は前歯が一本ないせいか、言葉が聞き取りづらいがギリギリ聞き取れた。

 本来ならこの守衛の言う通りに学生証を提示するところだが、今回はトレーニングが目的じゃない。

「あの、ちょっと聞きたいことがあって来たんですが、お時間よろしいですかね?」

 ふと昔怒られた近所のカミナリオヤジを思い出してしまって遠慮がちに尋ねると、前歯のない守衛はニカッと笑って答えた。

「いいよいいよ〜。年齢以外ならなんでも答えるよ〜」

 なんで年齢はダメなんだよ。どうせ六十過ぎのシニアバイトだろ。興味ねぇよ。

 そうは思っても今は敵に回すようなことを言う必要はない。幸いにも思い出してしまったカミナリオヤジの幻影は消え去って接しやすくなった。さっさと本題に入ってしまおう。

「今、俺たち人探しをしていて、ここの利用者で背の高くて、ガッチリした体格の、ハンサムな男に心当たりはありませんかね?」

 俺はなるべく老齢の人間に伝わりやすそうな言葉を選んで尋ねた。

「う〜ん、そうだね〜。あると言えばあるんだけど、ここの利用者ってみんなそういう人たちだからね〜。歳のせいか最近若い子の顔はみんな同じように見えちゃうしね〜」

 あぁ、そう、ですよね……。

 香子と入間も何も言わないが、その顔からは先ほどまでの期待感を感じられなくなっていた。

 俺たちの露骨ながっかり顏にいたたまれなくなったのか、守衛は急に立ち上がって敬礼して、

「申し訳ありません! よしまもる、六十二歳。とくの致すところです!」

 いや、年齢言ってんじゃねぇか。六十二歳って予想通り過ぎるし。酔っ払ってんのか? これが守衛やってていいのかよ。

 俺たち三人は無言のままにドン引きしてしまい、もはや何も聞かなかったことにして吉田衛六十二歳に学生証を提示して中へ入り、自分たちの目で確かめる、いや、入間の目で確かめてもらうことにした。



 受付から先へ進むと、ようやく例のマシンルームに着いた。そこはパンフレットで見るより広く感じられた。種々のトレーニングマシンがいくつも設置され、守衛の言うように何人もの背の高いガッチリした体格の学生たちが体を鍛えていた。

 入間がガラスの壁越しに中を見回すも、

「う〜ん、いないねぇ」

 ダメか。

「もうちょっと、こう、爽やかっていうかさ。そんな感じだったんだよね」

 ほう?

「こんな、ゴリッゴリの気持ち悪いお兄さんたちじゃなかったね」

 気持ち悪いとか言うな。気持ち悪いけど。

「なぁ入間、あのヒョロっとした細長いのとも違うのか?」

「うん。もう少しじゅうこうな感じだったな」

 重厚ときたか。印象が違うと表現も変わるな。

「今日は来ていないのかもしれないわね。とりあえず座って今後について話さない?」

 香子はそう言って背後のベンチを指差した。

「そうだな。当てもなくなったし」

 俺たちは香子の指差したベンチに陣取った。



「尋ね人が現れそうなところで思いつくところは全部回ったよな」

「うんうん。でも今日のところはいなかった、と」

 まあ、いきなり見つかるとはさすがに思ってなかったからな。少しは前進してるってだけで充分な成果だと思うね、俺は。

「今のところ他には当てはないから、ここで二、三日張り込みましょうか」

 ふむ。香子の言うように二、三日張り込んでいればその間に現れる可能性はある。今日がたまたま筋トレのなかだったかもしれないわけだからな。理学部図書館と学生課は本田さんと金内さんに任せてあるから大丈夫として、トレーニングルームは吉田衛六十二歳には到底任せられない。ここには私用もあるし、一石二鳥ってやつだ。俺にはいい意味で反論の余地がなかった。

「そうするか」と俺。

「いいですね。あの方に会う前にたるんだ身体を引き締めて女子力を上げたいですし」と入間。

 こいつの身体がたるんでいるのかはよくわからないが、入間も乗り気のようだ。

「じゃあ、そういうことで。私はちょっと用事があるから帰るけど、あなたたちは講習を受けてきなさい。そうしないとトレーニングルームが使えないからね」

「そうなんですか? 今からトレーニング始める気満々だったんですが……」

「ルールがあるのよ。ちゃんと聞いてきなさい」

「はい……」

 入間が普通のおしゃれ着と裸足でどんなトレーニングをするつもりだったのかはわからないが、とりあえず今日のところは解散とし、香子は帰宅、俺と入間はトレーニングルームの利用規約などの説明を受ける講習に参加することになった。

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