理学部図書館と氷の女王

 俺たちは理学部図書館のある南四号館を目指して部室棟を出た。

 キャンパス内の建物はほとんど密集して建てられているとはいえ、南四号館はとうなんとうの端の方の建物で、部室棟は西の端の方の建物だから結構歩くことになる。

「どうせ歩くんなら文系勢の私たちが普段使わない南側の道を通って行こうよ」

 という入間の提案に乗っかり、俺たちは学桜館の自然を残したエリアに面した南側の道を歩いている。

 この辺には雑木林に続く道があり、決して遭難しない森林浴を気軽に楽しむこともできる。さらにだちに隠れるようにしてくにとうろくゆうけいぶんざいの建物があり、歴史的・文化的にも貴重な場所であると言えよう。

 ここらは人通りが少ないのに桜が多く、広場みたいになっているところにはベンチがあり、ちょっとした花見スポットと化している。今日はいないみたいだが、絶対大学関係者ではない親子連れや老夫婦などが花見を楽しんでいることもある。防犯上よくないんじゃないかと思うのだが、これだけ見事に咲いている桜を見たいという気持ちをにするわけにはいかないよな、なんて思っていると、

「いや〜、やっぱりこっちも桜すっごいね〜」と入間。

「そうね。しかも見て、桜でできたピンク色のじゅうたんが、人通りが少ないからまだまだ綺麗だわ」と香子。

 確かに、よく見る桜の絨毯は踏み荒らされてドロドロになっていることも多いが、ここは綺麗なピンク色を保っている。

「あ、そういえば私のおばあちゃん、くさめ職人だったんだけどね」

 ほう、知らなかった。でもそう言われると中学の時、入間はおばあちゃんが染めたっていうハンカチを使ってるみたいな話をしていたような気がするな。うろ覚えだけど。

「桜を使って染めることもあるんだけど、桜の花びらを使えばピンク色に染まるんだろうなって思うじゃん? ところがどっこい。綺麗なピンク色に染めるには開く前のつぼみがついたを使わないといけないんだよ〜」

 そうなのか。意外だ。直観的には花びらを使いそうなものだが、それじゃダメなのか。

「へぇ、知らなかったわ。なんでなの?」

 香子の質問に入間はまごついた。

「それは、私も知らないんですよね……」

 知らねぇのかよ。

「っていうか、おばあちゃんも原理はわからないらしくて。でも、草木の中には次の世代の色が今か今かと出番を待っていて、その活力が布を染めるんだ、とは言ってました」

 へぇ。生命の神秘ってことか。

「なるほど。草木は常に未来を待望して今を夢中で生きている、ということね。草木染め職人ならではの言葉だわ。考えるあしたとえられることのある人間も、そう在りたいものね。ともすると人間は過去に縛られ、未来へのしんあんを生み出し、今を粗末にしてしまうけど、私たちはせっかく桜に囲まれた大学にいるのだから、彼らを見習わないといけないわね」

 香子はもうすでに今を夢中で生きてると思うけどな。他人も巻き込むほどに。



 そんな話をしているうちに理学部図書館に到着した。五か月ぶり二度目の来館だ。

 ここは一階に物理・化学・生命科学の分野の雑誌や書物が、三階に数学の分野の雑誌や書物が、合わせて約十万冊所蔵されている。法学部・経済学部共同図書館は法学や経済学以外の蔵書も多くあるが、ここには関係のない書物はおそらく一切ない。完全に理系のための図書館だ。文系の俺には――たぶん香子や入間にも――基本的にえんのない図書館だ。あのクリアファイルをコンプリートするという目的がなければ俺は一度も来なかっただろう。

 ちなみに二階は読書スペースになっている。長机と椅子がズラズラっと並んでいて、他にも三つのセミナールームという防音の個室ももうけられている。私的な会話はそこでのみ可、となっているらしい。

 入り口のゲートの読み取り機に学生証をかざすと、ちょっと気の抜けたような柔らかいピッという音とともに、ドアがスゥーっと開く。

 三人分のそれを繰り返して、俺たちは無事入館を果たした。

 さて、

「来たはいいものの」と俺。

「ここから」と入間。

「どうしようかしらね」と香子。

 大声での会話はつつしまなくてはならないということで、俺たちは身を寄せ合ってこそこそと作戦会議を始めた。

「とりあえず、バラバラになって各階を見て回ることにする?」

「あのねぇ……。千春以外は対象の顔を把握してないのよ?」

「あっ……。そうでした……」

 そう言って頭をぽりぽりとかく入間は、なんとなくいつもの歩美のようなポジションになっているが、歩美でないところが強い違和感を生んでいる。やはり学生相談所のおとぼけポジションは歩美でなくてはならないのだろうと俺は思った。

「あなたたち、何をしているの?」

 突然真冬に逆戻りしたかのような冷気をまとった女性の言葉が後ろから飛び込んできた。

 俺たちが振り返ると、さっきまで受付カウンターに座って風景の一部と化していた司書が無表情で立っていた。首から提げている名札によるとほんさんという名前らしい。司書の本田さんとは取って付けたような名前だ、なんて冗談も通じなさそうな冷たい雰囲気だ。その眼鏡の奥で光る目ににらまれるだけで体温を奪われていくような気がしてくる。

「えっ、あぁ、いや……」

 別に悪いことをしていたわけでもないのだから正直に言えばいいのだが、無表情が妙な威圧感をかもし出していて言葉が出てこない。

「あ、私たち、人探しをしていまして」

 俺の代わりに入間が答えた。

「人探し、ですか。どんな人を?」

「あ、すっごい背が高くてイケメンの人です」

 入間の返事に、俺と香子は頭を抱えた。この人にはそういう冗談みたいなのは通じ――、

「なるほど、何名か心当たりはありますね」

 嘘だろ⁉︎ 意外過ぎるわ!

 俺と全く同じ反応を示す香子の方を見ると、香子もやはり同じように俺の方へ顔を向けた。その顔に浮かんでいるのは驚きの表情だ。

「本当ですか!」

「大きな声は出さないでください」

 として声をあげた入間を本田さんはぜったいれいの声でたしなめた。

「あ、すみません……。あの、名前とかわかりますかね」

 入間はまたこそこそ話の音量に戻して尋ねた。よく話し続けられるな。結構図太いんだな、入間。

「わかりません」

「そう、ですか。……あの、私、クリスマスイブの夜にケーキの売り子をやってたんですけど、その時にいろいろあって助けていただいた方で、お礼が言いた――」

「なるほど。皆まで言う必要はありません。その心当たりの人がここに訪ねて来た時には私が声をかけておきましょう」

 そう言う本田さんは、無表情のままで親指を立てている。その声には先ほどまでとは違い、温かみが含まれているような気がするようなしないような……いや、表情とサインのいびつさが怖過ぎるわ。

「ま、まあ、そういうことなら、ここは本田さんに任せましょう」

 香子も同じように考えているのだろう。引きつった作り笑いを浮かべている。ここまで香子が苦手そうにしている相手は初めて見た。

「そうだな。そうしよう。何かわかったら、この番号に連絡をください」

 俺はそう言って、自分の手帳のメモページに名前と電話番号を書いて破り取り、本田さんに手渡した。

「それじゃあよろしくお願いします」

 入間は九十度のお辞儀をした。俺と香子もそれにならって会釈をして、無表情で手を振る本田さんから逃げるように理学部図書館を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る