第二章

2-1幸せの後片付けと予定変更

 一月二十六日金曜日。

 なぜか朝五時前に目が覚めた俺は、キッチンに広がったすき焼き共が夢の跡を発見し、昨日のうちに片付けなかった俺を恨んだ。

「仕方ねぇな。せっかく早起きしたし、洗い物するか」

 俺は寝癖のついた髪をほぐすように頭を掻き、昨日の片付けを始めた。

 この時期の洗い物は意を決して取り組まなくてはならない。ただでさえ身も凍るような冷気が支配するキッチンで、凍らないのが不思議なくらい冷たい水に触れなくてはならないからだ。俺は覚悟を決め、水に触れる。

「ばぁっはぁぁぁぁぁぁっ! 冷てぇぇぇぇぇぇっ! 無理! やっぱり何回やっても無理!」

 俺は給湯器のスイッチをオンにした。やはり何度試してみてもこの冷たさに慣れることはない。俺は現代っ子の根性のなさを遺憾いかんなく発揮した。

 しばらく待ってから流水にちょびっちょびっと指をつけ、ちゃんとお湯に変わっているのを確認し、俺は今度こそ洗い物を始めた。



 洗い物をしていると、昨日のすき焼きのせいでシンクやその奥の壁に脂やら割下やらが飛んでいるのが目についた。一度目につくと気になってしまってしょうがないのは人の性である。それに、年末の大掃除をしなかった俺の家のキッチンには約一年分の汚れが溜まっていた。いい機会だと思い、俺は洗い物を終えるとキッチン回りの掃除を始めた。結局一時間近くを洗い物と掃除に費やした。しかしその甲斐あって、キッチン回りは見違えるほど綺麗になった。

 ピコン。

 リビングからスマホが鳴る音が聞こえた。

 今の通知音はメッセージアプリのだな。誰からだろう。

 リビングへ行きスマホを手に取る。メッセージは香子から届いたものだったようだ。

『桂介、レポートは提出できたのだけれど、さっき起きたらなんだか体が熱くて、熱を測ったら三十八度あって……。悪いけど、熱が下がるまで調査は一旦お休みにさせて』

「えぇっ⁉︎ 熱⁉︎ 急に⁉︎」

 昨日はあんなに元気にしてたのに。こんなこともあるんだな。

『了解。ゆっくり休めよ』

 俺は香子の急な発熱の報告に驚きつつもとりあえず返事をした。俺の返信に既読がついたのはすぐで、香子からの返事もまたすぐに来た。

『ありがとう。熱が下がったらまた連絡するわ』

 はいはい、お大事に。



 ふむ。香子が熱でダウンか。昨日急に埋まった予定が翌朝には急に消えるなんてな。あ、じゃあイヤホン買いに行くついでに他にもいろいろ買っちゃおうかな。うむ、そうしよう。

 今日を買い物の日に予定変更した俺は、昨夜と今日これから予定されている散財とのバランスをとるため、質素にお茶漬けで腹ごしらえをした。さっき洗い物をしたばかりなのにまた洗い物を出してしまうという痛恨つうこんの二度手間を決めたが、箸と茶碗だけなのでサクッと洗った。そして俺は歯を磨いて早速街へ繰り出した……わけではなく、二度寝することにした。時刻は午前六時を少し過ぎたところ。外は日の出前でまだ暗い。店だって当然開いてない。何より外は寒い。お日様が少しでも地球を暖めてくれるまでは外に出たくない。俺は十二時にアラームをセットして、布団にくるまり二度目の眠りについた。



 アラームをセットすると、アラームが鳴動するより前に起きてしまうというのは往々にあることで、今の俺はまさしくそれだ。

 時刻は午前十一時四十七分。日本という国はとっくに夜明けを迎えていた。

 二度寝したというのに眠気が一層強くなっているように感じるのもまた、往々にあることだが、俺は暖かい布団を出て大きく伸びをした。そしてさっさと着替えを済ませて家を出た。

「はぁ、やっぱり寒いな……。寒シングだな……」

 俺はあまりにもくだらない独り言を呟きながら鍵を閉めた。俺の部屋は階段の目の前にあるから、出かけるときはいつも階段を利用する。もはや体に染み付いた動きで鍵をポケットにしまいつつ階段の方を振り返ると、階段を上がってきた同じ大学に通っていると思われる女学生と目が合った。名前も知らない女の子だが、ご近所さんとして挨拶くらいはするところだろう。

「おはようございます」

「お、おはよう、ございます……」

 名も知らぬ女学生は、若干引きつった愛想笑いを浮かべたがそれでも挨拶を返してくれた。なぜそんな表情をするのかわからなかったが、俺はマンションを出て池袋へ向かって歩き出した。この家からは電車を使わずとも池袋まで歩いて行ける。これは元埼玉県民の俺にとってはかなりのメリットだ。

 しかし、歩いて行けるとはいえ一駅分は結構長い。二十五分程はかかるだろうか。春や秋には気持ちよく歩けるが今は冬。何度も言うが寒い。寒シングだ。

 ここまで考えてようやく俺は気づいた。

 あれ、もしかしてさっき、寒シング聞かれた? だから若干引いてたの? うわぁ、キッツいわ……。いやまあ自分のせいだけど……。

 俺は顔から火が出そうな思いになった。

 しかし、起こってしまったことは仕方ないか。どうせあの人とも長くて四年の付き合いだ。この先も名前すら知らずにお別れする浅い関係の人間にバカにされたって構わないさ。さっさと気持ちを切り替えて買い物にきょうじるとしよう。

 俺は身についた恥をそそぐように歩みを速めて風を切った。

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