八話 朽ちず、潰えず
夕暮れ空の下。飛羽の目の前で流れているのは、陽の光に当てられ橙に彩られた幅広の河。
その河の向こう岸で、目を瞑った男の子が手を振っていた。
「……行かなきゃ」
ふらふらと、吸い込まれるように河へ足を浸ける。
河の水は冬の気温に当てられたかのように冷たく、身の芯までを凍えさせる程だ。
しかし、飛羽は凍える事を意に介さず進み続ける。
その身体は次第に血の気を失い、顔は白く、唇は青く。河の中を進むにつれ、その瞳は徐々に生気を失っていく。
飛羽の身体が半ば河に浸かった、その時。
『――本当に、行ってしまうのですか?』
聞き覚えのある声が聞こえ、何処か夢現の飛羽は足を止める。
ふわり、と柔らかいものに頬を撫でられた。
河に落ちそうになるそれを掌で受け止める。
「……羽根さん」
白い羽根。先程の慈愛に満ちた声は、この羽根から聞こえた気がした。
でも、何故止めるのだろうか。
僕は、向こう岸に行かなきゃいけない。
「あいつが待ってるんだ。早く追いついて、隣に行って、安心させてやらないと…」
『……あの子を、見捨ててもですか?』
“あの子”……?
「――あ」
ぼやけていた意識が覚醒し、思い出した。
天使。そう、天使だ。
あの子を救うと誓った事を、どうして忘れていたのだろう。
『ふふっ……思い出せましたか? ……全く。本当に世話のかかる子ですね……貴方は』
掌で霧散した羽根は小さな光の集合体となり、飛羽の頬を愛おしそうに撫でながら天に昇っていく。
“今度は、忘れてはいけませんよ?”
反響しながら消えていく優しい声。
光に釣られ、飛羽は顔を上げた。
今は手を降ろし、じっとこちらを見ている誰かに向けて…何かを考える様に俯いた後、口を開いた。
声に出せば伝わる。そう確信を持ちながら、いつも通りの笑顔で。
「ごめん。僕はまだ、そっちには行けないや」
哀愁を漂わせながら続ける。
「全部終わったら、良い感じの土産話持って行くからさ。それまで…もうちょっとだけ待ってて欲しい」
飛羽の言葉が終わった途端。名前を思い出せない誰かは、頷きながら煙となって消えていく。
(……そうだ。これまで耐えてきた痛みを、苦しみを、何一つ……無駄にしちゃいけない)
消える煙を見送った後、感情を落とした飛羽は振り返る。
そこは、暗闇だった。
水の感触も、肌寒さも何もない。何も見えない。誰もいない。唯の暗闇。
ぽっ…と。何の前触れも無く、手が届く程近くに火が灯る。
明るく、暖かく、少し頼りなさげに燃えるその火を掴む様に、飛羽は手を伸ばした。
「――僕には、やる事がある」
◇◆◇
――ドクンッ
背後から響く明瞭な脈動。それを聞いた鎧は足を止め、肩越しに振り返る。
シエラリアも顔を上げ、目前で足を止めた鎧の奥を見る。
両者の目を奪ったのは、紅。
天を貫く紅い旋風が、熱を伴う強風を巻き起こしていた。
――――何だ、あれは。
シエラリアと鎧に共通の疑問が生まれる。
そしてその紅はいつしか炎と化し、旋風の中心で何かが浮き上がった。
目を凝らせば薄っすらと見えるのは、黒い影。
旋風が弾け、灼けた床の上にそれは降り立つ。
目は紅一色。全身を走る罅のような紅い線を脈動させ、四肢は赤熱し、背から体長の二倍はある炎の翼を生やした獣が、紅に包まれた黒大剣を片手に立っていた。
その身体に、先程受けた一切の致命傷は見受けられない。
ゆらり…と、炎を纏うその身体が揺れた。
刹那、吹き荒れる熱風。
『――――――グッ!?』
何かに反応した鎧が一瞬で大斧を持ち上げるが、構えるよりも先にその巨体が吹き飛ぶ。
吹き飛んだ鎧は先の飛羽よろしく、罅を入れながら壁に叩き付けられた。
「――――――ハァァァアアア」
大きく息を付きながら、残心。
シエラリアの眼前に現れたのは、炎の翼を広げ、鎧に回し蹴りを放った飛羽だ。
たった一瞬の攻防。炎翼を動力に突貫した飛羽の攻撃を鎧が受け止め、返す大斧を空中で軌道を変えた飛羽が躱し、直後放った回し蹴りが鎧の脇腹に直撃した。
力を失いかけているシエラリアには、本当に一瞬の出来事だった。
《……》
この短時間に一体何があったのか。彼は死んだはずではなかったのか。シエラリアは涙を拭う事も忘れ、戸惑いの眼差しを飛羽に向ける。
自分を凝視するシエラリアに気付いた飛羽は、ほんの少しだけ彼女と視線を交わし、頬を伝う涙を手でジュッと蒸発させた。
振り返った飛羽は再び鎧を前に、シエラリアを背に位置取る。
大剣をゆっくりと下ろしながら思考を沈め、勝つ為、殺す為の方法を思案する。
(……一撃、入った)
初めて入った一撃。だが、今の一撃はまぐれだ。
あれは、鎧の油断を付いた不意打ち。故に、決して慢心してはいけない。
素人上等。当たるとは思わず、常に当てるという意識を切らさず、思考を張り巡らせる。
全ては自らの目的の為、使命の為に。
「…ッ!」
炎の翼を広げ、残像を残しながら駆ける。
「――――――ガァッ‼」
吠えながら叩き付けるように放つのは、速度と力が大幅に強化された大上段。
それを見た鎧は一瞬左腕を動かすも、即座に大斧に切り替え受け止める。
交錯し、拮抗する大剣と大斧。
(押し負けない……!)
「ハァァ――」
『グ……――』
飛羽は高揚の唸りを上げ、鎧は不愉快な呻きを上げる。
『グオァ‼』
不愉快な雄叫びと共に、鎧が踏み込んだ。大剣を力任せに弾き突き出してくるのは、どす黒い力を纏った正拳。
拮抗に負け体制を崩すも、翼の浮力で立て直す飛羽。即座に大剣から左手を離し、赤熱した前腕を正拳にぶつけ――流す。
その勢いを使って後ろへ飛び退った飛羽は、重い衝撃に襲われた左腕を「折れてないか?」と、若干焦りながら確認する。
「――ガ?」
左腕を見た飛羽は、素っ頓狂な声を上げ硬直した。
(――え? 何、これ)
その視線が見つめているのは、衝撃によってボキッと折れた腕でも、昆虫が持つ甲殻の様な腕でも、謎に赤熱した腕でもない。
赤熱する全身の中で目立つのは、やけに冷ややかで硬質な腕。
それは光を吸い込む艶消し黒の、紋様浮き出る鉄材質の腕甲だった。
殻よりも硬質に、より重厚に見えるそれは中々どうして、殻と同じく重みを感じさせない。
「―――――…!」
変化した左腕に目を奪われていると、地面に大斧を滑らせながら接近する鎧が見えた。
咄嗟に左腕が出る。
鞘走りの様に加速させられた斬り上げを左腕甲で受け、半身になることで完全にそれを躱した。
(あっ……ぶなッ!)
顔横を通り過ぎて行った突風に肝を冷やす。
『グォオ!』
だが、鎧は止まらない。次は斬り上げた大斧を、飛羽の脳天目掛けて振り落としてくる。
受けるか、避けるか。一瞬の思考の末、回避は間に合わないと判断した飛羽は踏み込んだ。
身を屈めながら、大剣を真上に向けて振り切る。“ドン!”と衝撃波が波打ち、一瞬の拮抗後、体勢的不利な飛羽が膝を付く。踏ん張る直下が罅割れ凹んだ。
(まだ……まだァ……!)
右手を大剣の腹に添え、降りかかる大斧を押し返す。
「――ォオオッ!」
大斧を押し返した飛羽は集中を極限まで高め、乱れ舞う。
「ガ――ァァァアアアアアア!!!!」
炎を撒き散らしながら暴れる飛羽に、鎧も黒い靄を纏いながら大斧を振るう。
『グ――ォォォオオオオオオ!!!!』
空間に響き渡る両者の雄叫び。
《……》
一合毎に突風が吹き荒れる程強烈な剛撃の打ち合いに確かな興奮を覚えながら、シエラリアは言葉も無く見入っていた。
鎧の剛力と技術、そして対応力の異常さと恐ろしさは身を以て知っている。
驚くべくは、一度死んだかのように思った飛羽がその剛力と拮抗し、技術を炎翼による三次元軌道と速度で相殺している事か。
――高熱の風が、シエラリアの髪を激しく靡かせる。
炎翼をジェットの様に噴出しながらのソバットを、鎧が大斧で受け止め、弾き返したのを最後に――両者が距離を置いた。
黒い靄を纏う鎧は所々が凹み、豪奢な装飾には何本もの切り傷が付いている。
対する飛羽は目立った傷こそないものの、肩で息をしており、背中の炎翼の勢いも弱まっている。
距離を置き、にらみ合う両者。
シエラリアは察した。
《次で……決まる》
それは根拠のない、天使としての勘。だが不思議と、疑う気にはなれない。
現に両者の体勢は低く、自らの全力が出せる体制だ。
――その時突然、鎧が声を発した。
『……――
籠るように鈍重な声で、知性ある確かな言葉を発した鎧に、飛羽とシエラリアは驚きに目を剥いた。
鎧が何かを詠唱すると共に溢れるドス黒い粒子が、大斧と鎧を包む。
やがて姿を現したのは、ただ只管に厳つく、際限なく巨大化した斧。
巨大な物を更に巨大に、潰せぬものなど皆無と言いたげなそれは、優に部屋の半分の全長を持ち、放たれる威圧感は山を通り越して大地に等しい。
それを片手で支え肩に担いでいる鎧本体は、果たしてどれ程の力を有しているのか…見当もつかない。
飛羽はデカすぎる巨大斧を前に、身体を押し潰されるような圧迫感、恐怖に襲われた。
そこで既視感。飛羽はこれと同じ感覚を、以前体感したことがあった。
至極色の腕が放った黒い塊。
(――忘れるわけがない)
あれを見た自分は震えあがり、恐怖に身が固まって泣く事すらできなかった。
でも、今は違う。
守るりたいと祈り、願った天使が、直ぐ傍にいる。
そして、燃えていると言っても過言ではない自分の身体。術者と戦う時は朧気だったが、今では確かに感じるもう一つの意識と、自分とその意識を繋いでくれる剣。
(僕は……一人じゃない)
飛羽は天使へと腕を伸ばし、ビッと親指を立てた。
(……絶対に、守る)
拭い去れない恐怖や怯えはあれど、そこに不安や震えは無い。
だから
(今の僕にできる、全力で……!)
強く意志を固めた飛羽は、絶大な信頼を置く繋がりの中へと意識を沈ませた。
◇◆◇
《ああ、ダメよ…あれは―――》
鎧の巨大斧を見たシエラリアも、埒外なその力を前に背筋を凍らせる。
《逃げて……!》
想いを視線に込め、飛羽に送る。
だが
《――!》
ビッ……!と親指の立つ飛羽の左手が、真っ直ぐシエラリアに向けられていた。
それが示す意味は解らないが、鎧から目を離さない飛羽を見て、逃げる意思が無い事は十二分に伝わってくる。
《どうして、逃げないの……?》
怖い筈だ。恐ろしい筈だ。逃げたい筈だ。死にたくない筈だ。
なのにどうして、どうして彼は、逃げようとしないのか。
この場所に宝が眠っているのなら、一度逃げて体制を立て直せばいい。
それとも、鎧を倒すことが目的なのだろうか? でも、それならばあの立てられた指は何の為に…?
《一体……何が目的なの……?》
目の前で飛羽が殺され、一度は罪悪感に押し潰されたシエラリア。
だが、生き返り大きく変貌した今の飛羽に向けられている感情は奇異と少しの畏怖。
彼女の天使としての勘は、炎を纏う飛羽を危険だと言っている。
冷静に考えたシエラリアにとって、鎧と互角に渡り合う飛羽の素性が分からない以上、脅威度はほとんど変わらないのだ。
《……?》
思考に耽る彼女の許に、ひらり……と一枚の羽根が舞い落ちてくる。
《これは……私の羽根?》
何故羽根が宙から?と首を傾げながらも、視線を向かい合う者達に戻した。
蒼い瞳に映る景色の中で、飛羽が動き出す。
◇◆◇
意識の淵に沈んだ飛羽は、黒い背景の中を燦々と照らす火を見つめていた。
この場所に来たのは二度目だ。根拠はないけど、そんな気がした。
飛羽の身長と同じ位の高さがあるその火に映っているのは、飛羽という一人の人間が歩いてきた道。
思い出せばつい口元の緩んでしまう記憶や、思い出したくない記憶。飛羽本人でさえ忘れていた記憶、何故かモザイクのかかっている記憶の全てが、非情な程赤裸にスライドされている。
飛羽の向かいで火を見下ろしているのは、黒く大きな龍。
龍は流れる記憶に興味津々といった様子で、紅の瞳を火から一切逸らさない。
「面白い?」
食い入るように火を見ている龍へ、複雑な表情で飛羽が問う。
【――】
声こそ帰ってこないものの、龍はゆっくりと頷いてくれた。
「そっか……なら良かった」
つまらない等と思われていなかった事に安堵しつつ、“面白い”と肯定を示された事が無性に嬉しく感じた飛羽ははにかむ。
「僕が進んできた道も、少しは価値があったって事だね」
熱さを感じない火に三歩近づき、その一部を手に乗せた。
「……」
数秒だけ火を見つめた後、ゆっくりとそれを頭上に掲げる。
掲げられたその火を――龍が喰らった。
「悪いけど、すっごく頼りにしてるからね。――相棒」
龍というのは飛羽の主観だ。故に、飛羽は彼を“相棒”と呼ぶ。
飛羽は目を開け、頭に浮かぶ新たな文字を心で紡ぐ。
【この身に遍く全てを薪炭と焚べ、道を照らすは天地開闢の導灯】
【灯を点すこの身は決して朽ちず、潰えず】
【今、紅き陽は龍と昇る】
人の身で体現するのは、人智を超えた本来あるべき龍の力だ。
【―――
――――――ドクンッ…!
強い脈動と共に、いつもの如く溢れ出た熱が剣に伝う。
紅い旋風など比にならない猛烈な規模で炎が巻き上がり、大きな竜巻を作った。
そして、その全てが剣、鎧に纏わり形を成していく。
猛々しく、壮麗な紅を纏う大剣は余りにも美しく、鎧が担ぐ斧には及ばないがその刀身は巨大化し、それを持つ飛羽は炎の羽衣を纏っているかのようだ。
巨大化した炎翼を大きく広げ、炎の尾を生やしたその姿は、とても人とは呼べない。
――だが、それがどうした。
力強く羽ばたいた飛羽は、炎を引きながら宙を昇る。
高く、高く。本能に従い天井付近まで飛び上がり、急降下。
全身を炎と化しながら翼を広げるその姿は、宛ら不死鳥の如く。けれど、長い尾を引き剣を構えるその姿は、宛ら龍の如く。
『グォ――ォォォォォオオオオオ!!!!』
上空から迫る炎を叩き落とす為に、鎧が巨大斧を真っ直ぐ振り下ろした。
天井を破壊しながら振り下ろされる。否、降ってくるそれは、最早斧に非ず。
「ォォォ――ォォォオアアアアア!!!!!!」
それに対し、飛羽は一歩も引かず、臆さず、裂帛の気合を以て炎の大剣を突き出す。
空中で衝突した漆黒の巨大斧と、紅炎纏う特大剣。
接触部分がバチバチと強く反発し、発生した衝撃波が純白の部屋を破壊していく。
(ぐぅぅ……!)
――――――ミシッ
軋んだ腕が、再生する。
腕に亀裂が走り血が噴き出るが、再生する。
この力を、ようやく理解し始めていた。
飛羽は更に力を込め、破裂しそうになる腕を必死に形留める。
(耐えろ、耐えろ、耐えろ、耐えろ――――――‼)
「――ァァァアアアアアアアアア!!!!!」
悲鳴じみたその叫びは痛みに対してか、将(はた)又(また)気合の雄叫びか。
負けない。負けられない。その一心で己を傷つけ続けた。
ピシッ……バキン…!
ふと耳に届いたのは、何かに罅が入り、折れたような音。
混濁する意識の中、飛羽は突き進んだ。
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