一話 何が為の羽

 何かに強く引っ張られている。薄い意識の中でそう思う事が出来たのは、身に降りかかる尋常ではない慣性の重みを感じたからだ。


 まるで金縛りに掛かっているかのように身体は動かず、目も開けられない。何処かへ向けて吸い込まれるように進んでいく気分は、宛ら釣り上げられる魚の様。


 四肢が千切れそうな程の速度で乱暴に、容赦なく、迷いなく。身動きの取れないまま一直線に釣り上げられていく。


「――ぐえっ!?」


 慣性の重みを流そうと身体の力を抜いていた時、一瞬勢いが緩やかになったかと思えば、突然、直角に曲がった。


 予期せぬ軌道変更。緩んだ紐が伸びる様な勢いある衝撃を受け、脱力していた体が悲鳴を上げる。


「がっ……⁉――は」


 やがて、何かに強く叩き付けられた衝撃を最後に彼――飛羽(あすは)――の意識は途絶えた。


◇◆◇


 背中から感じるコンクリートの様に固い感触が、自分は仰向けに寝ているのだと教えてくれる。


「んぁ……? 良い、夜空……」


 半覚醒のまま目を開けた先に広がっていたのは、星々煌めく一面の夜空。永遠に続いているとさえ思える闇の中、眩く発光する大小の砂粒が海のように広がり所々に見える星雲が砂粒と相まって神秘的な世界を醸し出していた。


「……さむっ……」


 徐々に覚醒していく意識の中、黒髪黒目の少年――飛羽は身を包む寒さに震える。


 仰向けに寝たまま重い腕を持ち上げ、お腹に触れてみると――そこは冷たく、濡れていた。


「なんで……濡れてるんだろ……。この感触は、制服? 制服を着たまま寝たの……?」


 ザラザラと触り心地の悪い布の感触は、間違いなく自分がよく知る中学校の制服だ。しかし何故、自分は濡れた制服なんて身に着けているのだろうか。


「……暖かい……」


 お腹に乗せていた手に、じんわりと熱が灯っていく。集中すれば緩やかに、しかし確かに伝わってくる心臓の鼓動は生きている証と言ってもいいだろう。


 生きていることを実感した後、まるで宇宙に来たのかと勘違いしそうになるほど美しい夜空に感動と違和感を抱きながら上体を起こす。星の明りだけでこれほど明るいのなら周りも見えるだろう、と。


「――…は?」


 起き上がった飛羽の前方にも、満開の夜空が広がっていた。


「――…」


 口をだらしなく開き、数秒放心した後目を擦る。が、しかし、見える景色は一切変わらない。


 上下左右、前、後ろ、頭の向く範囲を見回すがどこをどの角度で見ても、その夜空は変わらない。否、変わるが、同じような景色が際限無く広がっているだけだった。


「え、ぁ……⁉ 浮いてる⁉」


 そして、下を見た事で床が無い事を知る。両足の隙間から覗くと見える虚無の空間と星々の団欒は、やはり他の景色と差異は無い。眩暈に襲われ、バッと顔を上げる。



 だが、床が無いのはおかしい。何故なら、手や足で今座っている場所を叩けばペタペタと軽快な音が跳ね返ってくるからだ。


 そして、視界に足が映り分かった事が一つ。飛羽は靴を履いていない。思い出すように伝わるのは、右足に巻かれている包帯の感触と濡れた靴下の気持ち悪さ。


「何処だよ……ここ……」


 “宇宙”という二文字が飛羽の脳内を駆け巡り、処理の許容量を越えて突き抜ける。塞ぎ込むと伝わってくるのは、飛羽の焦りを体現するかのように強く、早く脈打つ鼓動。


 まるで訳が分からず、飛羽は無言で頬をつねったり、引っ張ったり、デコピンをしてみたりと、“夢なら覚めてくれ”と願わんばかりの奇行に走る。


「……痛い」


 涙目になりながら痛みがある事を確認した。そして、夢は覚めない。


 しかし夢というものは、覚めるまでそれが夢だとは思わない物。故に、何を基準に夢ではないと判断すれば良いのか飛羽には解らなかった。


 もしかすると突然覚めるかもしれない……そう思いながら、もう一度頬をぺちんと叩く。


「……やっぱり痛い……ぁ?」


 息ができる。呼吸をしている。その事に今気づき、宇宙=真空という常識が脳を過った。


 三角座りのまま静止し、宇宙を感じる。


「いやそもそも、宇宙で座れる事が既におかしいんだよ……」


 混乱が混乱を招き、自分を保つ自信がなくなった飛羽は極めて現実的に思考を纏め始めた。


 少しでも気を逸らさなければ、今にも泡を吹いて倒れてしまいそうだからだ。


「まず、僕は飛羽。男、歳は14、四人家族――」


 塞ぎ込みながら自分の名前、年齢、性別、家族、経歴をぶつぶつと、思い出せるだけ口に出す。


「着てるのはビッチョビチョの制服。で、河に浸かったみたいに生臭い。脱ぎたいけど、着替えが無いから無理」


 スンスンと臭いを嗅げば、遺憾なく鼻を襲う刺激臭。それは強い吐き気を誘う程で、正直、今すぐにでも脱ぎ捨てたい。


「ネックレスは……大丈夫。ちゃんとある」


 服のボタンを幾つか外し、首に掛けている物をぎゅっと握る。上胸辺りでキラリと星の光を反射しているのは、ヘ音記号を模した鉄細工の中心に、大粒のブルートパーズがはめられているネックレスだ。


「んで、目の前にあるのは重力と酸素のある非現実濃度最高潮のユニバース……」


 顔を上げ、最大の問題である現在位置を遠く眺める。視界に映る景色は、理科の本や図鑑で見た事のある宇宙そのもの。


「これが夢じゃなかったら何なんだよ……」


 もし、仮に、ここが宇宙だとしても太陽が無い。月も無い。地球も無い。見える範囲の星に、図鑑や本で見知った星座は皆無なのだ。


 それ以前に、自分が此処にいる事に対する説明がつかない。


「憶えてるのは……河辺で夕日を見た事? ……って、あれ、何で河辺なんだろう。起きる前……何が……あったっけ……」


 思い出した自分の居場所に違和感を覚え、両手で頭を抱える。


 そもそも、どうして河辺なのだろうか。何だろう、さっきまで憶えていた気がするのに、手を伸ばす度に記憶へ霧がかかり遠ざかっていく。


(この期に及んで、まだ寝ぼけてるのか……?)


「僕は…何をしてたんだっけ…。何、何を……――い゛っ!?」


 必死に思い出そうと頭を捻るが、ズキンと響くような頭痛に思考が中断される。


「ダメだぁ……思い出せない……」


 今憶えているのは、不思議な天使の夢を見た事くらいだ。何故か、あの夢の事だけは鮮明に思い出せる。


「……は――」

 

 ため息を吐きながら大の字に寝転がる。


 明るく、素晴らしい星空。皮肉と眺めだけは最高だった。


 しばらくそうしていると、濡れた制服が肌に張り付き、濁った河特有の生臭さに包まれながら冷えていく。


「帰りたい……」


 目を閉じ瞼に映すのは、暖かい布団、美味しい食事、趣味であるゲームや読書といった楽しい記憶の数々。


 帰る方法を探そうにも、どうすればいいのか見当も付かない。進まなければ始まらないのは知っている。だが、正気を保つことが精一杯で進む勇気が湧いてこないのだ。


 そろそろ精神的にも、肉体的にも限界が近い。


「誰か、誰でもいいから、説明してくれないかな……」


 半分自棄になりながら星空へと希うが、当然、それに応える者は誰一人としていない。


 だが、その代わりに――ふと、飛羽の視界に映るものがあった。


「ん、何これ……羽根?」


 ちらり、と。一枚の羽根が、何処か見覚えのある純白の羽根がカッターシャツに張り付いている。


 とりあえず起き上がってその羽根を掴み取り、じーっと眺める。


――ピクッ…


 一瞬、本当に僅かな時間、羽根が動いた――様に見えた。


「うわっ!?」


 それに対し、警戒心全開だった飛羽は電光石火の反応を見せる。羽根が動いた瞬間に手を振り、投げる様に羽根を手放した後、ズザザッと手足を蜘蛛の様に使って後ずさった。


「っは――、っは――、っは――びっくりした……」


 とても条件反射とは思えない程に鮮やかな一連の動作を終え、飛羽の顔に浮かぶのは驚きによる滝のような冷や汗。


(やっぱり、ドッキリは無理……)


 ドクンドクンと煩い胸を押さえながら、飛羽はそれを再認識した。


 ハラリ…と、不可視の地面に落ちた羽根を睨む飛羽。そして始まる睨めっこ。


 しかし、飛羽が手放してからというもの、三分以上の時間が経っても羽根が再び動く気配はない。


(動いた……さっき、動いた…よな?)


「……」


 時間が経つにつれ起き上がってくる疑心。本当に動いたのか?見間違いではないか?


「あぁっ! もう! 気になる!!」


 どうしても拭えない不安と恐ろしさがある反面、何の手掛かりも無い中現れた未知の羽根に、飛羽の興味は釘付けだった。


 細心の注意を払いつつ立ち上がり、いつでも走り出せる体制で近づいてみる。抜き足差し足でそろり…そろりと。


――ツン……ツンツン。


 突然襲い掛かってくるかもしれない羽根にビクビクしつつ、抗えない好奇心に従って恐る恐るつついてみる。


 ふんわりとしている羽毛は肌触りが良く、中心を通る芯はなだらかでスベスベ。試しに人の背骨をなぞる様に、芯を指先でツーっと擽ってみる。


――……ピクッ


 少し反応があった瞬間、ビクッと手を引いてしまう。


「やっぱり動いた……!」


 羽根が動く事を確信した飛羽は、その場で数秒硬直し息を整える。


 考えているのは、今自分が羽根に対してするべき事。


 何が最善か。


 やがて思い立ったのか、飛羽は膝を折り――正座した。


「……えっと、さっきは急に落としてごめんなさい」


 手で三角を作り、腰を折る。それは、日本国に代々伝わる座礼式の最敬礼…土下座だ。


 何故羽根に対して土下座しているのか。咄嗟に思いついたことを行動に移しただけの飛羽は理解していない。


 ただ一つ、飛羽にも解っている事があるとすれば…羽根に土下座で謝っても、意味が無いという事。


 それでも飛羽は、孤独なこの空間で見つけた動く物と、どうしても友好的な関係を築きたかったのだ。平伏しての謝罪は、その心の顕れである。


 すると――……


――クルリ


「……あ」


 尺取虫の様にニョキニョキと近づいた羽根が、左手の人差し指に巻き付いた。意外としっかりしている芯を針金のように曲げ、器用に指へ巻き付いている。


 今更警戒はしていないが、円滑に動く羽根に驚と感動を隠せない飛羽。試しに腕を持ち上げてみるが、羽根は巻き付いた指から離れない。


 それどころか、羽根は最早動けることを隠す気がないらしく、羽柄をクネクネと尻尾のように振っている。


 この上なく、元気に。


「……可愛い」


 その動きが、飛羽の心に火を付けた。

 

 ◇◆◇


「……ふぅ」


 弄ぶ事体感で数十分。星の明かりのみが照らす空間には、溜まっていた鬱憤を思う存分発散した少年と、弄られ続け力無く地面に倒れている(様に見える)一枚の羽根があった。


「で……この羽根、結局なんなんだろ」


 思い出したように羽根へと視線を向ける。


 ピク…ピクピクッと痙攣している羽根にはまるで、命が宿っているかのようだ。


 しかし、隅々まで触りつくした飛羽だからこそ分かるのは、他の羽根と差異はない事。


「……まぁ、いっか」


 飛羽は考えるのを辞めた。


「そんな事よりも、これからどうするのか決めないと……」


 止まらない独り言を続けながら飛羽はネックレスを外し、不可視の床にそれを立てるように置く。


(ここに居ても何も始まらないしな……)


 頂点を摘み、手首を捻った。


「せーのっ――」


 時計回りに遠心力を加えられたネックレスは、案外良いバランス感覚でくるくると、鎖を振り乱しながら回る。


「これが倒れたほうに歩こうかな」


 回るネックレスを見ながらつぶやく飛羽。


 それは優柔不断な飛羽が編み出したルーレットのようなもので、普段は紙に円グラフのようなものを書き、その上で回転させてヘ音記号の尻尾が向いた選択肢に決める…といったもの。正直愚策だとは解ってはいるが、東西南北は愚か上か下かもわからないこの空間を進むには、何かしらの自己暗示が必要だった。


 回転は既に勢いを失っており、もうすぐ方向が決まる――と、その時。


「あっ」


 ベシッと――羽根が独りでに動いたと思えば、その薄っぺらい体で圧し掛かり、ネックレスを倒してしまった。


 倒した後、思っていた方向と違ったのだろうか……せっせと忙しなく、羽毛を器用に使ってネックレスの位置を微調整している。


 正直飛羽にとってはどの方向に進んでも同じなわけで、羽根の行動に驚きはしたものの、邪魔することなく傍観を続ける。


 やがてネックレスの向く方角に満足したのか、羽根がその場でへたり込み力を失った。調整されたヘ音記号の先、その先に目を凝らしても、飛羽には他方向との違いが一切分からない。


「あっちに進めばいいの?」


 飛羽が羽根を手に取り、ネックレスの倒れた方向を指さして問うと


『――コクリ』


 羽根の上部が、首肯するかのように折り曲がった。


「……うん、わかった」


 ネックレスをしっかり着け直した後、羽根をブレザーの胸ポケットに入れた飛羽は、示された方向へ進んでいく。


 少し軽くなった心と、不思議な羽根と共に。


 

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