一章 差し伸べられた希望

プロローグ 一枚の祈りに導かれ

 彼女――シエラリア――が目覚めたのは、濁り一つない純白の空間だった。


 一瞬自らの故郷にいるのかと期待し周囲を見渡すが、四方を扉も窓も無い絶壁に囲まれているその空間に残念ながら見覚えは無い。生命の気配は感じず、動いているのは四つの灯台に灯る炎だけ。


 体に不可解な重みを感じ視線を落とすと、禍々しい紋様の浮かぶ枷が付いた首、腕、足が視界に映る。


 それは、自分が捕らえられていると十分に理解させる理解させる材料であり、更に言えば、足の枷から伸びる鎖が地面と繋がっていて、彼女を逃がす気が無い事を雄弁に語っている。


《え……?》


 シエラリアが徐に枷の付いた腕を重々しく持ち上げると、自分の手に違和感を感じた。


 その余りの細さ、小ささ、弱々しさに。


 嫌な汗をかきながら可能な限り首を動かし、自分の身体を見回す。


《――何なの……これ、身体が……縮んでる……?》


 彼女の危惧は的中した。大人びた体はすっかり可愛らしく縮み、天使としての威厳や凛とした雰囲気などどこにもない。胸に触れてもポフッと空気の抜ける音がするのみで、言い難い虚しさが溢れる。


 形容し難い感情と共に意識が覚醒し、徐々に記憶が蘇って来る。


《――どうして私、生きてるの……?》


 生まれるのは、自己の生存に対する疑問。


 天界での戦闘の末、力を使い果たした自分は雲の下に落下し、命を落とした筈だ。


 なのに、こうして生きている。それも――囚われた状態で。


 もし、落ちる自分を誰かが助けてくれたのであれば、これ程頑丈に拘束する必要はないだろう。


 考える程、今置かれている状況が分からない。


 試しに掌を持ち上げ、自らの力である光を発現させようとするが…――


――バチッ‼


「――……っ⁉」


 腕に電流が走るかのように痺れ、それは叶わない。そして――


「――……!――……!」


 声が、出せない。


 呼吸はできるが、どれだけ口を開こうとも空気が漏れるのみ。


 立ち上がることも、声を出すことも、助けを呼ぶこともできない。


 シエラリアは途方に暮れ、体から力を抜いた。


《あの後……どうなったのかしら……》


 ふと、自分が落ちた後の天界を想う。


 異質の鎧や至極色の腕は消えたものの、あの場にはまだ相当数の悪魔がいた筈だ。結界がある限り天界の無事は揺るがないが、それでも心配してしまう。


 何せ自分は、最後まで天界を守り切れなかったのだから。


 憎むのは、己の力不足。力を使い切る事でしか解決策を見出せなかった思慮の浅さ。


 こうして力を失ったのは自らが望んだ事であると同時に、主が与えた報いなのだろう。


《――ベル……》


 力を失ってしまった自分にはもう、会う事は二度と叶わないであろう大切な親友。使命へと飛び立っていった背中が、記憶に残っている彼女の最後の姿。


 彼女(ベルディア)とシエラリアの付き合いは長い。上位天使としての力を持つベルディアとは何度も使命を共にし、数えきれない程話しながら食事をし、幾度となく寄り添って眠った。苦しい時も、辛い時も、未熟だった自分と一緒にいてくれた…家族ともいうべき親友。


 そんな彼女に、もう、会えない。


 寂しさと虚しさ、その他様々な感情がシエラリアの胸から込み上げ、雫となって落ちていく。


 そして、一度流れた涙は止まらない。ある時から今まで溜めてきた感情を全て涙に変えて流し出す。今だけ……と。




 それにはとても、とても長い時間を要した。




 思う存分に涙を流し、心に幾分か余裕のできたシエラリア。彼女は先行く不安に気を向けつつ、記憶の本棚を探る。


少しでも不安を紛らわせようと棚から引っ張り出したのは、ベルディアが何度も話していた数々の創作物語……その中でも、不思議と自分の心に影響を与えた一つの物語。


 それは、自分を犠牲にし続けた天使が一匹の悪魔によって騙され、独り泣いている所へと現れた戦士によって救われる王道物語。


 暇な時や就寝前、一人で思い出してはつい口元を緩めていた思い入りの深いその物語。シエラリアは誰かの為に頑張る天使に自分を重ね、かっこよく天使を救う戦士に憧れを抱いた。


 決して見返りを求めているわけではないけれど、頑張ればいつか救いはあるのだと、その物語が信じさせてくれた。


 しかし、物語は物語だからこそ、叶わないものだからこそ命を宿し、心に根を張るもの。


 本当は解っている。救いを与える者に、救いは無いと。


 過去、何人もの仲間が救いなく消えていくのを見送ってきた。


 自分は使命を全うしたのだと言い残し、満足した顔で消えていくのを、何度も見送ってきた。


 そんな彼女たちを誇りに思うと共に、自分もそうありたいと使命を全うしてきた。


 しかし、一度心に根を張った夢想は中々消えてくれない。


 現に今も、誰かに救ってほしいと願っている自分がいる。


《弱いわね……私》


 こんな事を思ってしまうのなら、確固たる覚悟がある内に死にたかった。


 強さと弱さがせめぎ合い、血が滲む程強く、唇を噛む。


 その時だ。重い石扉が開くような音と共に、生暖かい風が部屋中に吹く。その風はシエラリアの髪を揺らし、意識を現実へと引き戻した。


 少し赤くなった瞼を上げ、一末の期待を胸に、何が起きたのかを確認する。


 丁度正面、二つの高い灯台の間の壁が扉の様に開いていた。内開きで、白い扉の厚さは三メートル程。


 そしてその奥から、重厚な音を立てて近づいてくる錆びた鉄塊を見たシエラリアは、絶望に目を見開く。


 体長は三メートル程。右肩に身の丈程の黒く光を受け付けない大斧を担ぎ、ボロボロのマントを靡かせる古びた鋼の鎧。


 ゆったりと迫るそれは、シエラリアが天界前で戦った異質の鎧だった。


 金属と石材の床が奏でる明瞭な和音が、宛ら死神の足音の如くシエラリアの鼓膜を揺さぶり、心を刺激する。


 ガシャン、とやや大きな足音を立て、シエラリアの前に鎧が立つ。放たれる強い威圧感と抗えない現実を前に、最早希望は皆無。


《――ああ……やっぱり私、死ぬんだな……》


 鎧が担ぐ大斧を見ながら思う。叶うなら痛み無く、一撃で終わらせてほしいな、と。


 しばらくシエラリアを見下ろしていた鎧は、少しぎこちない動作で大斧を掲げた。灯台の光を映す厚い刃からは切れ味こそ感じないものの、自分を一撃で仕留める威力は十二分にあるだろう。


 近づく死に身体が震え、枯れた筈の涙がまた滲む。


 しかし、シエラリアはその涙を堪え、鎧を睨んだ。


 後悔はある。無いわけがない。それでも最後まで、誰かに誇れる強い自分のままでいたかった。


《――さようなら、皆。後は……お願いね……》


 残る部下たちの成長を願い、共に戦った仲間に後を託し、親友の無事を心から祈る。

 

 鎧が圧を放った。それは、手に掲げるギロチンを振り下ろす無言の合図。


 シエラリアは目を閉じ、体を委ねた。



――ヒュン



 次の瞬間、鋭い風切り音が鳴る。その直後ガキィン!と硬質な、重い金属同士がぶつかる音が部屋中に木霊した。


 それによって離れていく大きな気配が一つと、ペタペタと音を鳴らしながら近づいてくる小さな気配が一つ。


 小さい方の気配は、肌が擦れるような甲高い音を最後にシエラリアの前で止まった。


 何が起きたのか分からず、シエラリアは恐る恐る目を開ける。


 映るのは紺色の服を着た小さな背中と、黒い髪。


《――……だ、れ……?》


 当然、その背中に見覚えは無い。


「やっと、会えた」


 突然現れたその人は、飛来してきた身の丈以上の大剣を易々と掴み、鎧から目を離す事無くそれを中段へ構える。


「もう大丈夫だよ、天使さん」


 そして、柔らかな声で彼は言った。


「――君を……救いに来た‼」


 シエラリアは生涯、その背中と声を忘れないだろう。


 

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