第73話

踏み出すと同時に高木の枝に、1羽の雉が飛来してきてとまった。雉(きぎし)の段、すぐに始まったな。アジスキノタカヒコがその下で屹立して、地上に下り立ったばかりの雉を見上げている。さあ、あの雉名鳴女(きぎしななきめ)はどのようにして鳴く?古事記ではアマテラスとタカミムスビからの使いとして、天孫ミッションの復命についての伝言をアメノワカヒコに告げるはず。そして彼に寄り添うようにいっしょになって聞き、あの雉の鳴き声は不吉、射抜殺しなさいませ、と言ってそそのかすはずの、・・どうした、あの岩窟からなぜあまのじゃくが姿を出さない?相変わらず雉はとまどったように、下を見、上を見、してばっかりでいるよ。場面設定が台本とは異なっているせいで、あの雉がとまどってるじゃないか。このままじゃあ、古事記の根底ともいえる、「雉の使い」の段が塗り替えられないし。アメノワカヒコ、つまりはアジスキノタカヒコもナガスネヒコも、古事記によって殺されちまうことになる。


「おうい」


どちらに言うともなく、俺は声を出す。石(いわ)の戸はびくともしない。やつもただ雉の動くさまを不思議そうに眺めてるだけ。俺はつま先を蹴り、高らかにジャンプをしながら、やつの目の前に、もんどりうって躍り出る。しかし、やつの目は枝の上を外すことはない。なるほどここは古事記での一場面なのだし、登場しない不要な人物など入り込む余地などなかったのか。


ケン、ケン


雉が鳴く。そして翼を広げ、枝の上で大きく羽ばたきをした。雉は鳴けど、相変わらずあまのじゃくは登場してこない。行き詰った「雉の使い」。まいったなあ、ここまできて、タケミナカタのミッションも寸止めとなりか。


「おうい!アジスキノタカヒコよ!われの命令だ、その雉を射抜いてしまえ!」

俺は耳を疑った。なんとタケミナカタの声だ。しかも中臣らが古事記のあまのじゃくと同じことを言ってるではないか!


なにも聞こえなかったかのように、雉は枝の上でもう一度羽ばたきをして、羽根をそろえる。それをアジスキノタカヒコも茫然と立ち尽くして眺めている。ということは、たとえ諏訪の勇士、タケミナカタであっても、古事記のここの場面に不要な人物は入り込む余地などないようだ。


俺は天に向かって問う。

「タケミナカタよ!あなたがいま言われたゆゆしきお言葉、まさかご乱心されたわけじゃあるまいよな。我らに対するあなたからのミッションをお忘れか!真逆のことを言われてる!」

「な、なんだ?そこにおるのはサルタヒコ役の童貞野郎だな。いまいましいやつめ。まあいい、聞くがよい。状況は変わった。ミッションは取りやめる。諏訪の湖底の神々たちがここにきて騒ぎ出してしまった。これ以上古事記を塗り替えていったら日の本に大乱が起ってしまうからの」

「なるほど。しかしタケミナカタよ、日の本の神々が騒いで何がわるいと言うのだい?それら国津神らが納得できるよう、古事記を最初から塗り替える、それのどこがわるい!」


諏訪湖底の天空にしばらく沈黙が走った。望楼の回廊、その張り出した朱塗りの欄干の内側で、なにやら側近の神たちとああでもないこうでもないと言いあっているよう。

「それはできない!」

神々らの評定を一蹴するかのように、唐突な檄(げき)が澄んだ晩秋の朝空に響き渡った。聞き覚えのある声、ああオモイカネさんの声だ。


「アメノワカヒコがアジスキノタカヒコと同一人物だったことが白日の下にさらされてしまったいま、この雉(きぎし)の使いの段を塗り替えてしまったら、ナガスネヒコ、つまりアジスキノタカヒコ率いる葛城王朝が大和王朝にかわって朝廷をたててしまうことになるんじゃよ」

すかさず俺は打って切り返す。

「葛城の叡智を標榜する葛城王朝。それが大和朝廷にとって代わる、それこそ日の本全ての国津神らが手を打ってよろこぶ顛末ではないのか!」


しばらく間が空く。オモイカネが意を決しここ下界へ、これから長い逸文を投げてこようと意気込んでるのが伝わってくる。

「いやいや、古事記には封印された大きな事件がひとつあった。封印された事件と古事記の記述とに、脈絡はいっさいない。両者は完全に寸断されているのじゃよ。」

「オモイカネさん、それってどういうことなのですか」

「・・おまえさん、日本書記に載ってる、乙巳の変、は知ってるだろうが」

「ああ、学校の教科書で習ったし。この日の本が大化の改新へと大きく舵をきった事変、飛鳥板蓋宮での中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我蝦夷、蘇我入鹿を倒したクーデターのことですね。中学の時に、む、し、こ、ろす、で覚えたから、西暦645年のことだ」


「そうじゃ、あの事変から遡ること400年前にも同じような事変がこの同じ大和で起こったのだよ。だあれも知らんことだ。それはだなあ・・」

その時、横から遮る声がそれを塞いだ。

「オモイカネさん、これ以上は言わんどいてくださいや。長い年月をかけて封印してきた出来事なんだし、弟としても思い出したくない・・」

「弟?」

俺は小さい声で独り言ちた。タカミムスビが、いったい誰の弟だというのか?

天上の彼方、欄干の向こう側、しばらく両者の沈黙が走る。しかしオモイカネが口火を切る。これ聞こえよがしに、下天にまで聞こえてくる。


「タカミムスビさま、いま、アメノウズメさまがあまのじゃくになって出て来られないのは、なぜだかおわかりですか?」

「アメノウズメだと?それがなにか?」

「収穫した葛城の水稲樅(もみ)を大地の大御神さまに捧げんと、あなたの姉上様は纏向の磐座にお立ちなられる手筈でしたよね。弟のあなたが葛城は長柄(ながら)の高楼から無理矢理、姉上様を纏向の高楼にお連れに来られたのですよね。しかしそれは、大和の急進勢力だった安曇一派による罠でした。それをあなたは知っていましたよね、違いますか?5か所にそれぞれ隠した358本もの銅剣の場所を結局聞き出すことにあなたは成功しなかった。それが故の殺害だったわけですよね。姉上様が神嘗祭を執り行われようとしたあの日、高楼の梯子段から降りて、高床式の地面におりたったところを、四隅の柱の陰に隠れてた安曇の者らによって胸を一刺し、もう一つの剣が姉上様の首をとばしました。その首は遠く、葛城の高天原の蜘蛛窟まで飛んで行ってしまいましたが」


「・・でも姉上さまの首級なき亡骸(なきがら)、安曇さまは大きな墓で葬ってくだされました。五斗米道は蓬莱の、壺中の天を成して・・」

「それは、この大和の民に慕われてた姉上様のこと、土蜘蛛らが怨霊の集団となって襲ってこられないようにと、丁重に葬り去られたのだよ。・・タカミムスビさま、まだあなたは気づかれてみえないようですね。・・・いま岩戸の向こうで一人っきり隠れておられるのは古事記に登場されてるところのアメノウズメさまですよね。その方がほんとは誰だったのかを、まだあなたは知らないでいる。名前こそ変わってしまってますが、アメノウズメさまこそ、実はあなたのお姉さまだったのですぞ」

「なんと・・なんとこれはまたどうしたものやら・・」

「で、わたしはな、だまし討ちで殺されたあなたの姉上様をあまりに忍びなく思い、その後の大化の勅のあとで、中臣らが古事記編纂当局にかけあっての、古事記の登場人物の誰かにして残してくださいと頼んだのじゃ。国津神ではなく、できることならば栄(は)えある天津神として懇願しまいsた。甲斐あってな、アメノウズメノミコトという神の名をもらい、とりたててもらったのでした」

「知らなかった」

「ここは古事記の世界。あなたさまの姉上様の名前を口にできないことが、ただただ、無念です・・・」


天空に静寂が訪れる。

「・・・なあ、サルタヒコ役をまかされたそこのあなたさん」

「はい?」

俺は見えない空の端に目を合せる。

「これでよくおわかりですじゃろ。これ以上遡って古事記を塗り替えてしまうと、ひっきょう、アメノウズメさまが消えてしまうことになるわけです。そうすると、古事記の中身は、唐の大陸での殺戮王朝興亡と何ら変わりない、武闘一色だらけとなってしまいますがな。日の本はいつの世になっても、戦闘にあけくれた国、それはわしら国津神たちの本意ではない。それはあなたの本意でもなければまた、アメノウズメさまの本意でもありません。アメノウズメさまは古事記のなかでしか、ご活躍できない宿命だったのです。そんな宿命のなかでも、辛うじて葛城の叡智の、微かなりともその片りんを携えて、アメノウズメさまは古事記におられるのですぞ」


「なるほど、だから天の岩戸のまえで、オモイカネさんのアイディアをアメノウズメさんは受け入れたわけだったのだな。あのようなエキセントリックないで立ちと、猥雑な雰囲気を醸し出す踊り・・・」


俺は初めてアメノウズメさんと出会った時のことを思い出す。俺にとって初めてのキャバクラで、初めてのキャバ嬢だった。いかがわしい質問に対して、あの場面には大人の事情があったのよと、意味深気にもさらりと答えてくれたものだった。


オモイカネさんが、天空からあらん限りの勢いで、言霊のつぶてをとばす、岩窟の石(いわ)戸に向けて。


アメノウズメさま

雉の使い

出て下さい

雉の使い

途中で終わったら

古事記も消えてしまう

のです



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