第67話
その水の音は次第に膨れ上がると、桶太鼓の連打となって東の空に反響した。すると天地の開闢(かいびゃく)を演出するかのように、明け方の薄暗い上空に、幔幕から垂れた墨汁が大きく渦を巻きながら真ん中でちぎれ飛んでいった。遠く、諏訪の湖底、声が轟く。
「358本の銅剣はどこじゃ!」
「なんとまあ、タケミナカタさま、銅剣など、どうでもいいことです!」
見当違いな尋問に、俺はすぐさま、やり返す。
「あの銅剣は出雲の地か、大和の地か、いずこにあるのかをわしは聞いておるのじゃ!」
358本の銅剣だと?それって、1983年に出雲の地は出雲荒神谷で偶然にも出てきた、4列に並んだ同じ形の大量の銅剣のことをいってるんだろか。そうか、タケミナカタは発掘されたその事実をまだ知らないでいるのだな。しかし、そのことと、今のこの切迫した事態と、どう関係があるというのか。タケミナカタ、まさかおまえ、俺を恫喝してその銅剣を手に入れたいというのかい?見苦しいぞ。
「タケミナカタさま、古事記を塗り替えようとしてるこの差し迫った時に、何をのんきなことを言われるのですか。そのような夥しい数の銅剣のことは古事記には全く出てこないですし、そもそも古事記の世界から飛び出した事象をここに持ち込むこと自体、違反行為の禁じ手ですぞ。それどころか、銅剣をここで飛び入り参加させたら最後、これまでずっと辿ってきた逆上ストーリーの行先を混乱させるだけです!」
俺はきっぱりと言い返す。
「ようこそ、サルタヒコさん!」
おや、タケミナカタとは違う低く澱んだ声。しかし聞き覚えのある声だ。
「サルタヒコさん、夥しい銅剣の行方、古事記が最も知りたかった、大事な隠しごとだったのです」
「そのお声、あなたは、どなただったでしょうか」
「おおそうか、もうお忘れかな、オモイカネじゃよ」
「オモイカネさま、聞いてください!急ぎます!わたしの今のこの状況、空の上からみておられたのなら、おわかりですよね?アメノワカヒコがあまのじゃくにだまされそうなのですよ。あなたのおとうさま、タカミムスビさまとかいうお方はその、そこの諏訪湖に今もまだおられるのですか?それで、もう雉の使いミッションは大空へ飛び出されたのですか?」
「天孫の祖、タカミムスビさまのことですな。あのお方をようやく深い眠りから起こすことに、今日のさっき、成功したばかりじゃよ。古事記編纂されて以来の1300年もの間、安曇族中臣一派のぬるま湯にどっぷりつかわされておられたからなあ、大きな欠伸をして、ここはどこ?と驚いておられたわい。そいでな、さっそく古事記の記述通り、タカミムスビさまはな、鳴女(なきめ)の雉(きぎし)に使いを言い伝えて、いまさっき、雉はその長い見事な羽根を広げて天と雲の間を滑空し、大和葛城の高天原に向かって飛んでいったさ」
・・・な、なんと、雉の使いを、この出雲ではなく、あの葛城に送ったとは・・・
俺は絶句する。雉は、ここ出雲の地に来なくては意味がないんだよ・・・。オモイカネよ、いつの間に老いぼれちまったのだ。
「なんと嘆かわしい、オモイカネさんよう。ここ、出雲こそ、雉の使いの場面だったはず。見当違いも甚だしい・・・」
「サルタヒコよ、おまえがいるそこは、出雲ではないぞ!葛城の地であるぞよ。おまえ、よくまわりを見たまえ!」
・・・はあ?なにとぼけたことをのたまうか。
「オモイカネさん、だってほら、あそこに宍道湖を囲む神奈備山がみえるではないですか」
「ああ、あの美しい山は、三輪山だ」
・・・ええっ?三輪山(みわやま)だと?・・俺は若かりし頃の記憶を懸命にたどる。結婚して間がないころ、行ってきまあすといつものように妻子に言って、出勤の電車でそのまま会社のある名古屋駅を通り越し、はるばる奈良まで来たものだった。真夏の炎天下、帽子も被らずてくてくと天理市の石上神宮から三輪の大神神社までの山の辺の道を、へとへとになりながらもあの時はよく歩いたものだった。しかしあれは・・たしかにあの山、きれいな円錐形と悠然とした裾野のたたずまいを見せてる、ああ、まさしくあの時に見た、あこがれの三輪山ではないか!
「なんとまあ・・・ここが葛城になっていたとはな」
「まだ東雲(しののめ)も見えぬ明け方、おまえが夢の中にいたとき、シタテルヒメはその合掌の館を飛び出し、稲佐の浜で寒さに震えながらたったひとり立ちん坊してるアメノワカヒコに、袖紬と陣羽織、革袴を着させ、十拳剣、弓矢を持たせたのじゃ」
「・・・そうだったのか。知らんかった」
「そして漆黒の帳の向こうで夜明の鬨(とき)の声が鳴り渡ったのと同時に、出雲での雉の使いの場面が、がらがら音をたてて葛城の地へと反転しちまったんだよ」
「なぜ場面が変わる?」
「これもどれも、あの大和葛城蜘蛛塚での土蜘蛛成敗において、アジスキノタカヒコが息をふきかえしたからじゃよ。昔から伝わる能楽の筋書きが、あれを境にして、まるっきりひっくりかえってしまったからのう。桓武帝の独武者が十拳剣で殺られてしもうて、もう一方の土蜘蛛のナガスネヒコ、つまりアジスキノタカヒコの怨霊の方が生き残った。そうして出雲までの虹の架け橋を渡ってる間に、これまで中臣らの古事記によってアメノワカヒコとふたつに分断されてたアジスキノタカヒコの身体が、もとのアメノワカヒコの身体ひとつに合体して戻ったんじゃ。考えてみれば、理にかなった古事記への報復顛末だった。それを今朝の鬨の声で場面がひっくり返るのを見て、諏訪j湖から鳥瞰してたわたしらは声を出して驚いたものさ。いまごろ、戸隠神社でおみくじをひいていった、あの教授さんもさぞかしびっくりしてるじゃろて」
「・・そうだったのですか。で、アメノワカヒコは今どこに?シタテルヒメであるアメノウズメといっしょなのですか」
「サルタヒコよ、そもそも古事記をつぶさに読んでみればわかることだったのさ。言霊(ことだま)をおまえの目ん玉にまで飛ばしてやる」
・・・鳴女(なきめ)天(あめ)自(よ)り降(お)り到り、天若日子之(が)門(と)の湯津楓(ゆつかつら)の上に居りて、天(あま)つ神(の)詔命(みことのり)の如(ごと)委曲(ぐばら)を言ひき・・
「葛城という高木のあるところ、タカミムスビをまつる葛城の高天原こそ、アメノワカヒコの家の門があり、そこに桂(かつら)の木があるのだ」
「ということは、葛城古道の上り切った高台の、あの高天彦神社のあったところですか・・」
「天空のここ、諏訪湖底からおまえのいるはるか下界の大和葛城まではずいぶんと距離がありそうだが、じゃがのう、あと半時(約1時間)もすればあの雉も、高木の桂の枝にとまるだろうて」
俺は縄で縛った梯子を下り、忘れていったのであろう市女笠と虫垂絹(むしのたれぎぬ)を垂木にまで蹴り上げ、合掌造りの館を飛び出た。そして西側から押し寄せてくるなだらかで深い山を見上げる。ちょうど右に葛城山、左に金剛山、俺は今、その中間点にいる。この山と山が入り合わさった景色、写真で撮ったことがあるぞ。今年の初詣で足を棒にして歩いた13キロもの葛城古道、そうだ思い出したぞ、ちょうどここはシタテルヒメをまつってあるという、長柄(ながえ)神社あたりだ!
俺は屹(き)っとからだを南向きにした。急げ!この曲がりくねった葛城古道をどんどん南に行って、極楽寺のところを西にのぼっていけば高天彦神社のあった葛城氏発祥の地、つまり古代神話の、雉(きぎし)の使いの場面に出会えるはず。急ぐのだ!
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